333と57577 | 喜劇 眼の前旅館

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

たった今変な夢、というか妙に疲れる夢を見ていた。
財布から小銭を出して、そこから三百三十三円を誰かに払おうとしている。ところがいったん数えて取り除けた硬貨がよく見ると、百円玉のつもりが十円玉だったり、十円玉が五円玉だったりして微妙に足りなくなってる。それでまた財布をさらうのだが、銀色に見えた硬貨がテーブルに置いたとたん銅色になったりして、何度数えてもちっとも金額が定まらない。最初財布を覗いたときは百円玉が五枚以上まじっているように見えたのに、最後にはどう数えても二枚しか見当たらなくなっていた。

金額へのせこいこだわりは実生活の経済状態を単に反映しているにすぎない。払おうとしていた相手は弟のようだが、ほかの誰かも混じっていた気がする。夢の中ではよく複数の知人が混じったような人が出てくるが、それは自分にとって意味的に重なる部分をもった人たちが、その重なった部分でひとつのキャラクターとなって登場するからだろう。それは人だけでなく場所でもそうだ。記憶というのはたしか意味的な重複部分を省略して圧縮かけて保存されてるはずなので、夢の中ではそれら記憶の解凍が十分に行われないということかもしれない。
つまり夢というのは保存用に圧縮のかかった情報の倉庫を、そのままひとつの世界としてじかに体験することだとも考えられる。普通は解凍してこっち側に取り出すことでよみがえらせる記憶を、圧縮された状態のまま自分の方があっち側へ行って直接体験するというわけ。

そのつもりがなかったが、なんか短歌の話っぽくなってきたので意識的にそっちへ持っていってみる。つまりこういうのはどうか。短歌的に圧縮のかかった言葉を解凍してこちら側で鑑賞するのではなく、圧縮のかかった状態のまま読み手があちら側へ行ってそのままの言葉のかたまりを体験する。ある種の短歌はそのように夢のアナロジーで考えることができるように思う。つまり短歌が一種の記憶の保管庫だとすれば、覚醒している読者がそこから記憶を回復させて取り出すのではなく、読者の方から夢を見るように向こうに降りていって保管庫という環境そのものを体験する。そもそも圧縮→解凍といってもいったん短歌にされてしまった以上、元の状態(というものが仮にあるとして)が十全に再現されることはありえないはずで、つまり詩といっても文学といってもいいと思うけど、そういうものになってしまった言葉は何らかの致命的な損傷があって回復不能なものだと思う。それが正しく回復されると信じられるのは、作品の外で共有される解凍キーをやりとりするグループが(おおっぴらにであれ、ひそかにであれ)成立してる時だけではなかろうか。