喜劇 眼の前旅館 -34ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

というわけで歯医者に行ってきた。レントゲン撮ると虫歯は神経に達していたので、削って神経抜いた穴を何回か洗浄したあと、金属の土台をつけてその上に歯をのっけるという説明。四、五回通うことになる。
今は飴みたいな触感のものが仮に穴に詰まっている状態。舌でさわると柔らかいのがちょっと不安。一回目の会計は四千円弱。鎮痛剤としてロキソニンが出た。

しかし大物の虫歯がひとつ失われてみると、その他まだいくつもある小物の虫歯が口の中でそれぞれかすかに疼いているのが感じられてくる。気のせいかもしれないが。


「ファンタスティック・プラネット」(ローラン・トポール)という73年のアニメ映画を見た。人物の顔やポーズが諸星大二郎の絵にそっくりで、諸星は絵といくつかのアイデアの点であきらかに本作を参考にしていると思う(諸星のデビューはこの作品の制作年より早いけど、現在の作風が確立するのはたしか74年頃)。実際好きな映画のベストテンのような中に本作を挙げてもいるようだ。もちろん好きな作品だから影響を(少なくとも表面上は)受けるとは限らないし、好きでもない作品から影響を受けることもあるわけだが。
先行する作家の模倣から創作をはじめ、やがてその影響を脱して個性を確立していく…というのはよく聞かれる創作観・作家誕生のストーリーであるが、私はこれは部分的にしか正しくないと思う。強度の高い作家性というのはかなり早い時点からある者にはあって、ない者にはないのであり、模倣の経験は作家性をけしかける刺激や、作家性を目に見えるものにする画材のようなものだと思う。結果、模倣をやめる場合もあるだろうけど、そのまま作家性を具体的にするアイテムとして取り込んでしまう場合もある。何か先行する作家や作品とそっくりな部分を残していても強靭な作家性、というのはありうるし、逆に一見何にも似ていないんだけどひ弱な作家性もあるのだ。
最近別な健康不安が出てきたので、虫歯治療は後回しだなと考えた。虫歯はどう悪化しても虫歯でしかないので、不安のほうを先に検査しないといけない。
検査のためには下剤を二リットルくらい飲むらしい。そりゃあ大変そうだなくらいに思っていた。だが大変という以前に、そもそも私は水分をストローで、しかも人肌の温度にしたものしか飲めない(歯に沁みるから)という特殊な状態にあることを、しばらく経ってから急に思い出した。
二リットルをストローで飲み干すのは無理だろうし、下剤の温度も調節できないだろうから、やはり歯を先に治療しなければならないのだ。どんな水分でも沁みない状態にしてからでないと検査すら受けられない。この二つはセットになってしまった。出費が当初の(虫歯だけの)予定より前倒しかつ倍増しそうで困ったものだが、とりあえず保険証が取り上げられてなくてよかった、ということを喜んでおく。

ここで払わないと取り上げられる、というタイミングは自分なりに掴んでいるが、本当にそのタイミングなのかは分からない。まだ取り上げられたことは一度もないからだ。


昨日は塩田明彦「カナリア」を見た。こういう現在の日本でつくられた(公開は2005年くらい)、がゆえに危うさをいろんな意味で含んでもいる傑作を見てしまうと、単に普通に感想を書く言葉すら自分は全然持っていないのだと思い知る。
撫で肩で、睨みつけるような大きな目と弱弱しく笑いかけつつ何か話そうとしている口元をした関西弁の少女・谷村美月が、饒舌だと思ったら寡黙だったり、いたりいなかったりする周りにひろがっていた景色がひたすら頭の中をぐるぐると回っている。
ひとつの映画を見るということは、フィルムの終わりが出口ではないような長いトンネルに入ることでもあるのだと思う。


関連URLメモ。
http://www.shirous.com/canary/topics.html
http://www.mube.jp/pages/critique_20.html
http://bataaji.blog53.fc2.com/blog-entry-183.html


追記。
上記一番目のURLは元「カナリア」公式サイトなんだけどTOPページはなくなっているみたい(上記URLからコンテンツは読める)。そこにある監督インタビューを読んで思ったのは、映画というのは監督が演出意図とか主題とかを饒舌に語っても、それが観客の観かたを束縛するものではないのだということ。それはおもに映画が実在する物や景色や人間を撮影することで世界に“開かれている”ことへの信頼が、作り手にも受け手にも共有されているからだろう。
短歌などは(おもに短さによって)そういう意味での信頼がきわめて成立しづらいに違いないが、作歌意図とか主題や解釈を作者自身がためらいなく全部語ってしまっても、読者はそれに堂々と反論できるようなものになればいいなと思う。
今日は朝、小津安二郎の「母を恋はずや」を見た。フィルムの最初と最後の巻が欠けているので、その部分は字幕であらすじを説明していた。これは勿論やむをえずそうしているわけだが、使えるやり方だと思った。小説で、書きたい場面だけをくわしく書いて前後をあらすじで挟んでしまうということに使えそう。物語として成立するには不十分なものを強引に成立させるやり方として。
夕方、大島渚の「日本春歌考」。それ自体は魅力的とはいえないむき出しの言葉の世界に正直きついなと思いつつ、いいとこ探しな気分で観ていたが、残り三十分ちょいくらいで突然離陸。それからはひたすら映画。傑作。小山明子と荒木一郎が歩くシーンほか、終盤何度も鳥肌が立った。
愛すべき存在を愛さないという自由もある。



ガムを噛む私にガムの立場からできるのは味が薄れてゆくこと   我妻俊樹