世界の歪みを肯定していること。作品が作品である条件は一言でいうとそれだと思う。
もちろん世の中にある作品(を名乗るもの)の大半は歪みを是正しようとしたり、もっとひどいことに歪みなど初めからないような顔をして、人々をその錯覚に巻き込んで安心させるためにつくられている。
けれどそうした憂鬱に思える現実もまた作品が肯定すべき世界の歪みの一部である。
作品は、それらを真っ向から否定する身振りをとる時でさえ、どこかで最後には肯定している。
どこかにバファリンか今治水一年分が当たる懸賞はないでしょうか。
私は詩のことがよくわからないのだが、短歌というのは短い詩のようなものだとは何となく思っている。ちょっとそれを詩だと言い張るには必ず何かが不足する短さ(理由は短さだけじゃないけどおもに短さ)、だと思うのだけど、でも短歌が「歌」だとはやっぱり思えないという消去法もあってのどちらかというと詩、という判断である。
現代詩に私が苦手意識をもつ理由の一つは現代詩がどれも長すぎるように感じるからで、できれば見開き二ページ以内、本当は一ページで収まるくらいの長さだったらもっと読みたくなるのにと思う。ページをどんどんめくって詩の続きを読む、というのは凡人にはハードだと思う。ついつい早く終わらないかなと考えてしまう。短歌は逆に短すぎるのだが、この短さがルールなんだからと早々に諦めてしまえるために、世の中の映画の上映時間やマンガの連載期間などをついつい長くしてしまう力の影響から短歌だけは断ち切られていられるのだろう。やはり短いものは何か物足りない、十分ではない、欠けている、と作り手側も受け手側もみんな感じているのであって、それは小説ならみな長編ばかり読みたがって短編は不人気、ということであり、私たちは短いものがあまり好きではないのだ。
だがこの「私たち」には私は入っていない。私はなるべくなら何でも短いほうがいいと思う。もちろんみっしり充実してゆがんだ短さであることが望ましいが。
画家の玉野大介さんのサイトにはたくさんの作品がアップされていてそれらすべてに詩のような短いテキストが添えられている。このテキストが私が詩に望む理想的な長さ、というか短さであるばかりか、どの絵についたテキストも一つ残らずすごくいいので、私が何か言語的な刺激が今すぐ脳にほしい、と思ったときに読みにいくサイトの筆頭的なひとつです。
あと、絵とセットになっていることもいいんだと思います。詩は短くて絵とセットになっていることが望ましい、と私は感じているかもしれない。短歌もそのようなものであるべきだと、本当は感じているのかもしれません。
私は詩のことがよくわからないのだが、短歌というのは短い詩のようなものだとは何となく思っている。ちょっとそれを詩だと言い張るには必ず何かが不足する短さ(理由は短さだけじゃないけどおもに短さ)、だと思うのだけど、でも短歌が「歌」だとはやっぱり思えないという消去法もあってのどちらかというと詩、という判断である。
現代詩に私が苦手意識をもつ理由の一つは現代詩がどれも長すぎるように感じるからで、できれば見開き二ページ以内、本当は一ページで収まるくらいの長さだったらもっと読みたくなるのにと思う。ページをどんどんめくって詩の続きを読む、というのは凡人にはハードだと思う。ついつい早く終わらないかなと考えてしまう。短歌は逆に短すぎるのだが、この短さがルールなんだからと早々に諦めてしまえるために、世の中の映画の上映時間やマンガの連載期間などをついつい長くしてしまう力の影響から短歌だけは断ち切られていられるのだろう。やはり短いものは何か物足りない、十分ではない、欠けている、と作り手側も受け手側もみんな感じているのであって、それは小説ならみな長編ばかり読みたがって短編は不人気、ということであり、私たちは短いものがあまり好きではないのだ。
だがこの「私たち」には私は入っていない。私はなるべくなら何でも短いほうがいいと思う。もちろんみっしり充実してゆがんだ短さであることが望ましいが。
画家の玉野大介さんのサイトにはたくさんの作品がアップされていてそれらすべてに詩のような短いテキストが添えられている。このテキストが私が詩に望む理想的な長さ、というか短さであるばかりか、どの絵についたテキストも一つ残らずすごくいいので、私が何か言語的な刺激が今すぐ脳にほしい、と思ったときに読みにいくサイトの筆頭的なひとつです。
あと、絵とセットになっていることもいいんだと思います。詩は短くて絵とセットになっていることが望ましい、と私は感じているかもしれない。短歌もそのようなものであるべきだと、本当は感じているのかもしれません。
最近たびたび痛んでいた虫歯が、なぜだか昨日から急激に悪化した。歯痛がぐんと伸びてくると目玉を貫いてこめかみに達してくる。だが歯医者へ行く金はないのでアスピリンでごまかす。アスピリンも歯医者ほどじゃないが高いからなるべく飲まずに我慢する。
ものを食べると特に痛くなる気がするので、食が細って食費が抑えられついでにダイエットにもなればいい。そしたら虫歯をいまいましく思う気持ちが軽減するかもしれない。
保坂和志『カンバセイション・ピース』を少し読む。二年以上前に買って、最近また少しずつ読むのを再開した。私の読書はそんなのばっかりだ。
小説書かないといけない。脳味噌のすぐ近くでずきずきいってるという状態は物書くのにどういう影響を与えるのか。なんかエネルギー源にはなりそう。私は気が散りやすい性格だから、ここは虫歯という「ひとつのものに気が散っている」状態っていうのはそれはもうほとんど「集中してる」のと同じなのでは? というこの錯覚を利用したい。ブンガクというのはそういうもの(ひとつのものに気が散っている状態)だ、って気もしないでもない。
ものを食べると特に痛くなる気がするので、食が細って食費が抑えられついでにダイエットにもなればいい。そしたら虫歯をいまいましく思う気持ちが軽減するかもしれない。
保坂和志『カンバセイション・ピース』を少し読む。二年以上前に買って、最近また少しずつ読むのを再開した。私の読書はそんなのばっかりだ。
小説書かないといけない。脳味噌のすぐ近くでずきずきいってるという状態は物書くのにどういう影響を与えるのか。なんかエネルギー源にはなりそう。私は気が散りやすい性格だから、ここは虫歯という「ひとつのものに気が散っている」状態っていうのはそれはもうほとんど「集中してる」のと同じなのでは? というこの錯覚を利用したい。ブンガクというのはそういうもの(ひとつのものに気が散っている状態)だ、って気もしないでもない。
短歌と関係ないことも書くことにします。
短歌のことはミクシィとか、メインのブログとかでは原則何も書かないことにしてるんだけど、それは短歌に興味のない人に短歌の話を普通にしても全然通じないだけでなく、心によくない距離が生じる(つまり引かれる)という実感があるからですが、べつに逆はありじゃないかと急に気づいたので。
つまり誰にしてもいい話なら短歌のブログでしてもいいのです。
ミクシィの日記というのは完全に誰に読まれてるか分かる(し、コントロールも出来る)ものであって、それはそれゆえの気安さもあるんですが、いったん息苦しく感じ出すとこんなに息苦しいものはないともいえる。そこにいくと毎日同じ人たちがいる職場みたいなものなので。
それがブログになると、ほとんどどこの誰が読んでるかなんてわからない。でも長くやっているとそれなりの数の人に読まれていることは何となくわかってきて、それは顔の区別がない影のかたまりのようなものとして把握してるわけです。で、これはこれで何かべつの圧迫感ようなものがあります。
その点ここは短歌専用のブログだと断っているので、そもそも読む可能性のある母集団がかなり狭く限られてくるわけです。短歌ってだけでかなり狭い世界だし、それもあってネットでも短歌周辺はかなり匿名度が低いですよね。具体的に誰が読んでるかは分からないけど、何となくそのあたりの人たちのうちの誰かが読んでいるのだろう、くらいの見当のつけ方が可能になる。それは上記二通りの息苦しさや圧迫感とくらべると相対的に気楽な感じがする、と思ったのでした。こういう実感はあるうちに利用したい。
昨日は図書館で借りた「ディア・ハンター」(マイケル・チミノ)のDVDを見た。
1978年の映画で、ヴェトナム戦争の話です。
三時間あるかなり長い映画なんだけど、ある「現実」の手触りとか気配みたいなものを劇的なかたちでなく伝えるには、これくらい尺がいるということなのかと思った。
もちろん劇的な部分はあるんだけど、その劇的なものがいきわたって薄まって解消するぐらいのところまで、描写を引き伸ばしていく感じ。ちょっと飽きるというか、もういいよってくらい、もうそれはわかってるからという描写を単調に続けていく。そういう何でもない描写が映画として実は豊かだとかいうこともおそらく別になくて、でもそこがかえって「現実」の手触りが顔を出してくる素地になってるのかなという気がしました。
やりきれない、空虚な気分になる映画というのは私は好きですね。
短歌のことはミクシィとか、メインのブログとかでは原則何も書かないことにしてるんだけど、それは短歌に興味のない人に短歌の話を普通にしても全然通じないだけでなく、心によくない距離が生じる(つまり引かれる)という実感があるからですが、べつに逆はありじゃないかと急に気づいたので。
つまり誰にしてもいい話なら短歌のブログでしてもいいのです。
ミクシィの日記というのは完全に誰に読まれてるか分かる(し、コントロールも出来る)ものであって、それはそれゆえの気安さもあるんですが、いったん息苦しく感じ出すとこんなに息苦しいものはないともいえる。そこにいくと毎日同じ人たちがいる職場みたいなものなので。
それがブログになると、ほとんどどこの誰が読んでるかなんてわからない。でも長くやっているとそれなりの数の人に読まれていることは何となくわかってきて、それは顔の区別がない影のかたまりのようなものとして把握してるわけです。で、これはこれで何かべつの圧迫感ようなものがあります。
その点ここは短歌専用のブログだと断っているので、そもそも読む可能性のある母集団がかなり狭く限られてくるわけです。短歌ってだけでかなり狭い世界だし、それもあってネットでも短歌周辺はかなり匿名度が低いですよね。具体的に誰が読んでるかは分からないけど、何となくそのあたりの人たちのうちの誰かが読んでいるのだろう、くらいの見当のつけ方が可能になる。それは上記二通りの息苦しさや圧迫感とくらべると相対的に気楽な感じがする、と思ったのでした。こういう実感はあるうちに利用したい。
昨日は図書館で借りた「ディア・ハンター」(マイケル・チミノ)のDVDを見た。
1978年の映画で、ヴェトナム戦争の話です。
三時間あるかなり長い映画なんだけど、ある「現実」の手触りとか気配みたいなものを劇的なかたちでなく伝えるには、これくらい尺がいるということなのかと思った。
もちろん劇的な部分はあるんだけど、その劇的なものがいきわたって薄まって解消するぐらいのところまで、描写を引き伸ばしていく感じ。ちょっと飽きるというか、もういいよってくらい、もうそれはわかってるからという描写を単調に続けていく。そういう何でもない描写が映画として実は豊かだとかいうこともおそらく別になくて、でもそこがかえって「現実」の手触りが顔を出してくる素地になってるのかなという気がしました。
やりきれない、空虚な気分になる映画というのは私は好きですね。