ディア・ハンターとか | 喜劇 眼の前旅館

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短歌のブログ

短歌と関係ないことも書くことにします。
短歌のことはミクシィとか、メインのブログとかでは原則何も書かないことにしてるんだけど、それは短歌に興味のない人に短歌の話を普通にしても全然通じないだけでなく、心によくない距離が生じる(つまり引かれる)という実感があるからですが、べつに逆はありじゃないかと急に気づいたので。
つまり誰にしてもいい話なら短歌のブログでしてもいいのです。

ミクシィの日記というのは完全に誰に読まれてるか分かる(し、コントロールも出来る)ものであって、それはそれゆえの気安さもあるんですが、いったん息苦しく感じ出すとこんなに息苦しいものはないともいえる。そこにいくと毎日同じ人たちがいる職場みたいなものなので。
それがブログになると、ほとんどどこの誰が読んでるかなんてわからない。でも長くやっているとそれなりの数の人に読まれていることは何となくわかってきて、それは顔の区別がない影のかたまりのようなものとして把握してるわけです。で、これはこれで何かべつの圧迫感ようなものがあります。
その点ここは短歌専用のブログだと断っているので、そもそも読む可能性のある母集団がかなり狭く限られてくるわけです。短歌ってだけでかなり狭い世界だし、それもあってネットでも短歌周辺はかなり匿名度が低いですよね。具体的に誰が読んでるかは分からないけど、何となくそのあたりの人たちのうちの誰かが読んでいるのだろう、くらいの見当のつけ方が可能になる。それは上記二通りの息苦しさや圧迫感とくらべると相対的に気楽な感じがする、と思ったのでした。こういう実感はあるうちに利用したい。

昨日は図書館で借りた「ディア・ハンター」(マイケル・チミノ)のDVDを見た。
1978年の映画で、ヴェトナム戦争の話です。
三時間あるかなり長い映画なんだけど、ある「現実」の手触りとか気配みたいなものを劇的なかたちでなく伝えるには、これくらい尺がいるということなのかと思った。
もちろん劇的な部分はあるんだけど、その劇的なものがいきわたって薄まって解消するぐらいのところまで、描写を引き伸ばしていく感じ。ちょっと飽きるというか、もういいよってくらい、もうそれはわかってるからという描写を単調に続けていく。そういう何でもない描写が映画として実は豊かだとかいうこともおそらく別になくて、でもそこがかえって「現実」の手触りが顔を出してくる素地になってるのかなという気がしました。
やりきれない、空虚な気分になる映画というのは私は好きですね。