断片と空白 | 喜劇 眼の前旅館

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短歌のブログ

短歌というのは一首で「作品」として十全なものではなく、やはり何か断片のようなものなのだと思う。
つまりその一首をしかるべき文脈の上に乗せることで、初めて機能するというか。現在の短歌が多く連作志向なのは、作者や読者のあいだであらかじめ共有されている文脈(価値観とか人生観とか)が希薄なので、歌という断片をそこに乗せていくことは期待できないということがひとつはあるのだろう(もちろん口語の情報量不足(というか定型とのサイズの合わなさ)、切断力の弱さなども一方では大きいけれど)。だから歌が機能するために必要な文脈を、作品自身が用意しなければならなくなる。それで連作という形式が必要になるのであり、いったん連作という文脈を外すと、いわゆる一首の独立性を保った歌であっても読者側の価値観で(連作的な文脈からいえば)曲げられ、簡単に誤読されるのだと思う。

行間を読む、なんてことを言うけれど、それは行間の空白にわれわれが共有する文脈の支配があるからこそできることに違いない。とくに短歌というのはほとんど行間でできているようなジャンルで、行間の空白が本当の空白(あらかじめそこにうっすらと答えが書き込まれていない)になってしまうと、どう読んでいいのかさっぱり分からないものになる。そのことが短歌をめぐるグループ間(行間の文脈を共有するグループ間)の苛立ち合いや無関心の一因になるのだろう。

最近の斉藤斎藤による膨大な詞書のある連作は、かつて行間の空白を埋めていた透明な文脈の支配が失われたのちに、いわば本当の空白になってしまった行間をかわりに目に見える言葉で埋めている状態だとも考えられる。
それは行間に文脈が今や機能していないにも関わらず、あたかも「正しい行間の文脈」があるかのごとくふるまう横暴な読みを、予め封じるやり方かもしれない。あるいは空白で途方に暮れる読者へのナビゲーションでもあるのか。もちろんどんなに言葉がみっちり書き込まれても行間が消滅することはないが、斉藤の作品にある行間のサイズはもはや短歌のそれではない。短歌の行間は(たとえ連作という一時的な文脈がつくられていたとしても)すでに行間としての機能を失っているという判断がそこには感じられる。

私はここで反対側に行きたいというか、行間が本当に誰も何ひとつ読み取れない空白であることを前提にしつつ、短歌がいびつな断片として意味ならぬ意味を波紋のように広げる空間として、その空白を利用したいという気分がある。そうなるとしかし連作の行間でさえ窮屈すぎるという体感があり、かといって短歌が一首でぽつんと成立できる場所などどこにもあるはずがないと感じる。あるとすれば歌会とか何か短歌が安心して「作品」じゃなくていられる場、だけなんじゃないかと思うのだが、「作品」であることを断念して何かよく見ると無視できない断片のようなものをぽろぽろ落としていけばいい、と思い込めるところにはまだ行かない。やはり「作品」として成立させたい、させる手はないかと思ってしまう。