前に某所で劣悪な状態で見た(にもかかわらず激しく心を揺さぶられた)スピルバーグの大傑作「宇宙戦争」を、DVDで見直そうと図書館から借りてきたのだが見れなくてショック。いちおう再生はできるものの、ナレーションや登場人物のセリフがまったく聞こえない。前にもほかのDVDで同様のことがあり、その時は日本語吹替なら音が出たので試してみたが、今回はそっちも駄目だった。
ネットで調べるとどうやら5.1chというのに問題がありそうだというのはわかった。というか5.1chのことを今はじめて知った。というぐらいなんで当然うちの再生環境は5.1chに対応しておらず、たぶんセリフの音声にあてられたチャンネルが切り捨てられてしまうのだろう。そしてこの「宇宙戦争」のディスクには5.1ch以外のバージョンは収録されてないようだ…。金は一円も払ってないとはいえがっかりだ。最悪。
『人生問題集』読了。これは両者の数多い著書の中でも(とはいえ穂村さんの本で何冊か読んでないのはあるし、春日さんの本は少ししか読んでないが)最高レベルに面白い本なのではないか。もともと二人が知己であるせいか、それとも長期間にわたる対談だったからか、穂村弘はすごくリラックスしてあらゆる瞬間に楽しんでるように見えるし、冴えまくってるし、春日武彦はいつもと違って「先生」扱いされないことによってその意外な魅力が引き出されてると思った。
穂村さんのちょっとからかうような、弄ぶようないじり方によって防御が崩されていくところには、こういう組み合わせ(つまり、いじられキャラみたいな人とのカップリング)による穂村さんの対談がもっと読んでみたい(あるいは聞きたい)と思わせるものがある。かつて聴いたことのある穂村さんの対談相手の中では、加藤治郎さんと組み合わせにその片鱗がうかがえたように思う。唐突だが穂村さんの「いじり」を誘発する春日さんや加藤さんは穂村さんにとって一種の“異性”なのではないか、という直感があるがそれはとりあえず措いておく。これから穂村さんの対談企画を立ち上げる方々は、是非穂村さんがいじられキャラの人とじっくり長時間にわたって二人きりで相手を弄びながら進むような企画をお願いしたい。絶対また面白くなるはずなので。
この本の最後に二人の「煩悩108コンテンツ」というノンジャンルの“好きなものリスト”みたいなものがそれぞれ書き出されている。本や映画のリストをつくろうとしては数不足やラインナップの平凡さに絶望して中断してばかりいる私は、なんかいいなあと思ったのでこのリストを今度まねしたい。
穂村さんのちょっとからかうような、弄ぶようないじり方によって防御が崩されていくところには、こういう組み合わせ(つまり、いじられキャラみたいな人とのカップリング)による穂村さんの対談がもっと読んでみたい(あるいは聞きたい)と思わせるものがある。かつて聴いたことのある穂村さんの対談相手の中では、加藤治郎さんと組み合わせにその片鱗がうかがえたように思う。唐突だが穂村さんの「いじり」を誘発する春日さんや加藤さんは穂村さんにとって一種の“異性”なのではないか、という直感があるがそれはとりあえず措いておく。これから穂村さんの対談企画を立ち上げる方々は、是非穂村さんがいじられキャラの人とじっくり長時間にわたって二人きりで相手を弄びながら進むような企画をお願いしたい。絶対また面白くなるはずなので。
この本の最後に二人の「煩悩108コンテンツ」というノンジャンルの“好きなものリスト”みたいなものがそれぞれ書き出されている。本や映画のリストをつくろうとしては数不足やラインナップの平凡さに絶望して中断してばかりいる私は、なんかいいなあと思ったのでこのリストを今度まねしたい。
小説のことについてちょっと補足すると、たぶん私の頭の中で起きたのは「器から中身への意識の移動」みたいなことだと思う。具体物としての小説は器としてしか存在できないのだが、そこには中身が入っていると信じられるから小説の存在も信じられるわけだ。いい器をつくればおのずと中身もついてくる、という倒錯が「まず小説ありき」的な見方からは真実になるけど、小説を書くというのはそういうことじゃない。なんと、書き手にとっては小説は物語なのである! それはどんなに反物語的、非物語的な小説でさえそうなのだ。書くべき物語があるかどうかではなく、自分が物語の世界の住人になることで、小説は書けるのだと思う。ただしここでいう物語はかなり繊細で微妙な使い方を要する単語だ。もしかしたら「現実」という言葉で置き換えられたり、そっちのほうがふさわしいかもしれないくらいに。
もっとぐっと個人的な話に落とすと、私は私と同じくらい頭が悪くて私の分身みたいなナレーターを、うまくいってる自作の小説の中から発見して連れてくるべきかもしれない。そうすることで私自身がふだん生きている物語を、これから書く小説と地続きにして無意識にひろげていくことができると思う。
たとえばカフカの小説にはあきらかに物語が先にある。ただしその物語は無限の広さがあるため小説は絶対に追いつかないのだ。この場合の物語は現実といいかえることができる。つまりはじめに全体があるということを前提に、部分を積み重ねていくのが普通の意味での小説だ。そして「全体」が有限なものであれば「部分」はやがて追いついていわゆる物語的な小説ができあがる。
また、「全体」がないという前提から書かれる小説もたしかにあるはずだが、そうした前衛的な小説の困難さとカフカは別なものだということだ。読んでないけどベケットなどはたぶんそう(「全体」がないという前提から書かれる小説)なのかもしれない。カフカはそうではなくて、無限の広さがある物語=現実を書きとろうしているのであり、関心は器ではなく中身にあるはずだ。
もっとぐっと個人的な話に落とすと、私は私と同じくらい頭が悪くて私の分身みたいなナレーターを、うまくいってる自作の小説の中から発見して連れてくるべきかもしれない。そうすることで私自身がふだん生きている物語を、これから書く小説と地続きにして無意識にひろげていくことができると思う。
たとえばカフカの小説にはあきらかに物語が先にある。ただしその物語は無限の広さがあるため小説は絶対に追いつかないのだ。この場合の物語は現実といいかえることができる。つまりはじめに全体があるということを前提に、部分を積み重ねていくのが普通の意味での小説だ。そして「全体」が有限なものであれば「部分」はやがて追いついていわゆる物語的な小説ができあがる。
また、「全体」がないという前提から書かれる小説もたしかにあるはずだが、そうした前衛的な小説の困難さとカフカは別なものだということだ。読んでないけどベケットなどはたぶんそう(「全体」がないという前提から書かれる小説)なのかもしれない。カフカはそうではなくて、無限の広さがある物語=現実を書きとろうしているのであり、関心は器ではなく中身にあるはずだ。
書きかけの日記を消してしまったので手短に書き直すと、金に困ったら売ろうと思ってたテレカが見つからなくてがっかり、という話だ。あと、数日前から「小説ってこういうふうに書くんだった」ということを思い出した、という実感のもてる文章が書けてる。でもそれを言葉ではいえない。なんで急にそうなったのかもわからない。その頃に見た映画が関係あるのかな?と思ってバインダーとか見に行こうとしてブラウザの変なところを押して、日記が消えたのだ。やっと追いついた。追い抜いてしまうと、とくにもう書くことはない。
いま『人生問題集』という春日武彦と穂村弘の対談本を読んでるんだけど、穂村さんはいうまでもなく多才な人なんだけど対談とか座談会における穂村弘が中でももっとも最強で天才的だなあと思うのは、話がどんな方向に進もうともつねに的確かつ面白いたとえ話やエピソードを瞬時に出してくる頭の冴えとエピソード埋蔵量みたいなものの圧倒的なところが、相手がいることできわだつからだ。つまりエッセイにもその凄みは見えるんだけど相手がいると自分では予測不能な話がふられた瞬間の反射神経、およびどんな「お題」にも反応できる持ち駒の豊富さがいっそうきわだつし、他の人との一種の「身体能力」の圧倒的な差というのも一目瞭然で、そうしたガチな実力の見せつけ方にくらべるとエッセイに見られる穂村弘の冴えは格闘家のやるプロレスみたいな余裕のあるものに見えてくる。
穂村弘にはまた批評家という顔もある。穂村さんの批評もまたそのたとえ話の圧倒的に的確で面白いところが最大の武器だと思うし、作品というものが何らかの先入観や悪意や盲信や誤解や無視といった不当な文脈に覆われている(普通はどんな作品もデフォルトでそういう状態にある)ときに、それらの一様にどんよりとした澱の溜まったみたいな景色を圧倒する冴えたたとえ話が一瞬で作品をすくい出すというか、正しく読まれるために必要な文脈のリセットをかける。そのときに新しく形成される文脈が、そのたとえ話の説得力がありすぎるために今度は強固なスタンダードになってしまう、という問題があるけどそれはたとえ問題だとしても別の誰かが何とかすべき問題だろう。(あとスタンダードになりつつも周囲への抑圧感がないというのは穂村さん自身のキャラクターにも通じるその批評の美質だと思う。対立意見を抑圧することなしに伝染する魅力だけで成し遂げているスタンダード化。)
ところで批評には作品というものの本質的な不透明さについて語る、不透明さに付き合うというところがあって、そのために評者は作品を澱のようによどんだ不透明な環境からいったん切断したのち、あらためて作品そのものの持つ不透明さに向き合うという二重の身振りが必要になる。穂村弘の前者の身振りにおける圧倒的な冴えは、今度は後者の身振りからその批評を遠ざけるところがあって、つまりまるでX線のようにある作品をあざやかに切り取ってみせたたとえ話が、今度は取り出した作品そのものの不透明さに向かう段になってもあくまで透明化しようとするということ。対象を何かべつのものに喩えることで両者に共通する骨格を指摘する、というX線的な機能を遂行し続けようとするのだが、あくまで聡明な穂村弘は作品というものの本質的な不透明さのことも当然承知しているために、最後にはどこか据わりの悪い結語とともにX線の照射が突然切り上げられ、作品に残された不透明さについては何となく中途半端な保留をしたまま(つまり「最後に不透明さが残る」ということを明示も黙示もしないまま)論が閉じられる。……というのが私が穂村さんの批評を読んだときに感じるその圧倒的な面白さとともにある違和感の印象をなぞった下手な「たとえ話」であり、なんだか今なら書けそうだと思って勢いでここまで言語化してみたものです。
穂村弘にはまた批評家という顔もある。穂村さんの批評もまたそのたとえ話の圧倒的に的確で面白いところが最大の武器だと思うし、作品というものが何らかの先入観や悪意や盲信や誤解や無視といった不当な文脈に覆われている(普通はどんな作品もデフォルトでそういう状態にある)ときに、それらの一様にどんよりとした澱の溜まったみたいな景色を圧倒する冴えたたとえ話が一瞬で作品をすくい出すというか、正しく読まれるために必要な文脈のリセットをかける。そのときに新しく形成される文脈が、そのたとえ話の説得力がありすぎるために今度は強固なスタンダードになってしまう、という問題があるけどそれはたとえ問題だとしても別の誰かが何とかすべき問題だろう。(あとスタンダードになりつつも周囲への抑圧感がないというのは穂村さん自身のキャラクターにも通じるその批評の美質だと思う。対立意見を抑圧することなしに伝染する魅力だけで成し遂げているスタンダード化。)
ところで批評には作品というものの本質的な不透明さについて語る、不透明さに付き合うというところがあって、そのために評者は作品を澱のようによどんだ不透明な環境からいったん切断したのち、あらためて作品そのものの持つ不透明さに向き合うという二重の身振りが必要になる。穂村弘の前者の身振りにおける圧倒的な冴えは、今度は後者の身振りからその批評を遠ざけるところがあって、つまりまるでX線のようにある作品をあざやかに切り取ってみせたたとえ話が、今度は取り出した作品そのものの不透明さに向かう段になってもあくまで透明化しようとするということ。対象を何かべつのものに喩えることで両者に共通する骨格を指摘する、というX線的な機能を遂行し続けようとするのだが、あくまで聡明な穂村弘は作品というものの本質的な不透明さのことも当然承知しているために、最後にはどこか据わりの悪い結語とともにX線の照射が突然切り上げられ、作品に残された不透明さについては何となく中途半端な保留をしたまま(つまり「最後に不透明さが残る」ということを明示も黙示もしないまま)論が閉じられる。……というのが私が穂村さんの批評を読んだときに感じるその圧倒的な面白さとともにある違和感の印象をなぞった下手な「たとえ話」であり、なんだか今なら書けそうだと思って勢いでここまで言語化してみたものです。