器と中身 | 喜劇 眼の前旅館

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短歌のブログ

小説のことについてちょっと補足すると、たぶん私の頭の中で起きたのは「器から中身への意識の移動」みたいなことだと思う。具体物としての小説は器としてしか存在できないのだが、そこには中身が入っていると信じられるから小説の存在も信じられるわけだ。いい器をつくればおのずと中身もついてくる、という倒錯が「まず小説ありき」的な見方からは真実になるけど、小説を書くというのはそういうことじゃない。なんと、書き手にとっては小説は物語なのである! それはどんなに反物語的、非物語的な小説でさえそうなのだ。書くべき物語があるかどうかではなく、自分が物語の世界の住人になることで、小説は書けるのだと思う。ただしここでいう物語はかなり繊細で微妙な使い方を要する単語だ。もしかしたら「現実」という言葉で置き換えられたり、そっちのほうがふさわしいかもしれないくらいに。

もっとぐっと個人的な話に落とすと、私は私と同じくらい頭が悪くて私の分身みたいなナレーターを、うまくいってる自作の小説の中から発見して連れてくるべきかもしれない。そうすることで私自身がふだん生きている物語を、これから書く小説と地続きにして無意識にひろげていくことができると思う。



たとえばカフカの小説にはあきらかに物語が先にある。ただしその物語は無限の広さがあるため小説は絶対に追いつかないのだ。この場合の物語は現実といいかえることができる。つまりはじめに全体があるということを前提に、部分を積み重ねていくのが普通の意味での小説だ。そして「全体」が有限なものであれば「部分」はやがて追いついていわゆる物語的な小説ができあがる。
また、「全体」がないという前提から書かれる小説もたしかにあるはずだが、そうした前衛的な小説の困難さとカフカは別なものだということだ。読んでないけどベケットなどはたぶんそう(「全体」がないという前提から書かれる小説)なのかもしれない。カフカはそうではなくて、無限の広さがある物語=現実を書きとろうしているのであり、関心は器ではなく中身にあるはずだ。