いま『人生問題集』という春日武彦と穂村弘の対談本を読んでるんだけど、穂村さんはいうまでもなく多才な人なんだけど対談とか座談会における穂村弘が中でももっとも最強で天才的だなあと思うのは、話がどんな方向に進もうともつねに的確かつ面白いたとえ話やエピソードを瞬時に出してくる頭の冴えとエピソード埋蔵量みたいなものの圧倒的なところが、相手がいることできわだつからだ。つまりエッセイにもその凄みは見えるんだけど相手がいると自分では予測不能な話がふられた瞬間の反射神経、およびどんな「お題」にも反応できる持ち駒の豊富さがいっそうきわだつし、他の人との一種の「身体能力」の圧倒的な差というのも一目瞭然で、そうしたガチな実力の見せつけ方にくらべるとエッセイに見られる穂村弘の冴えは格闘家のやるプロレスみたいな余裕のあるものに見えてくる。
穂村弘にはまた批評家という顔もある。穂村さんの批評もまたそのたとえ話の圧倒的に的確で面白いところが最大の武器だと思うし、作品というものが何らかの先入観や悪意や盲信や誤解や無視といった不当な文脈に覆われている(普通はどんな作品もデフォルトでそういう状態にある)ときに、それらの一様にどんよりとした澱の溜まったみたいな景色を圧倒する冴えたたとえ話が一瞬で作品をすくい出すというか、正しく読まれるために必要な文脈のリセットをかける。そのときに新しく形成される文脈が、そのたとえ話の説得力がありすぎるために今度は強固なスタンダードになってしまう、という問題があるけどそれはたとえ問題だとしても別の誰かが何とかすべき問題だろう。(あとスタンダードになりつつも周囲への抑圧感がないというのは穂村さん自身のキャラクターにも通じるその批評の美質だと思う。対立意見を抑圧することなしに伝染する魅力だけで成し遂げているスタンダード化。)
ところで批評には作品というものの本質的な不透明さについて語る、不透明さに付き合うというところがあって、そのために評者は作品を澱のようによどんだ不透明な環境からいったん切断したのち、あらためて作品そのものの持つ不透明さに向き合うという二重の身振りが必要になる。穂村弘の前者の身振りにおける圧倒的な冴えは、今度は後者の身振りからその批評を遠ざけるところがあって、つまりまるでX線のようにある作品をあざやかに切り取ってみせたたとえ話が、今度は取り出した作品そのものの不透明さに向かう段になってもあくまで透明化しようとするということ。対象を何かべつのものに喩えることで両者に共通する骨格を指摘する、というX線的な機能を遂行し続けようとするのだが、あくまで聡明な穂村弘は作品というものの本質的な不透明さのことも当然承知しているために、最後にはどこか据わりの悪い結語とともにX線の照射が突然切り上げられ、作品に残された不透明さについては何となく中途半端な保留をしたまま(つまり「最後に不透明さが残る」ということを明示も黙示もしないまま)論が閉じられる。……というのが私が穂村さんの批評を読んだときに感じるその圧倒的な面白さとともにある違和感の印象をなぞった下手な「たとえ話」であり、なんだか今なら書けそうだと思って勢いでここまで言語化してみたものです。