1914.5.8 西野氏二十五年祭(告知)
もっと下って1914年の記事を見てみましょう。
事件から25年後、ですね。
事件後、つまり西野が死亡してから25年経過したので、それを記念した式典を開催しますよ、という告知記事です。もう西野は犯人扱いされていないので、このような式典を開催しても「その筋」からの差し止めはありません。
発起人の名前が列挙してあります。
1人目は三浦梧楼。
彼は長州出身のアウトロー陸軍軍人。明治28年には駐韓全権公使となり、同年、閔妃殺害事件を教唆したことで著名です。
2人目は犬養毅。
犬養毅といえば「憲政の神様」との異名を持ち、1931年に総理大臣となり、翌年、5.15事件で青年将校に暗殺された人物として著名です。こんな所に名前が出てくるなんて、驚きです。
3人目は児玉恕忠。長州出身の陸軍中将。日露戦争に従軍していますが、それ以上は不明。
4人目は頭山満。
彼は、元祖右翼である玄洋社をつくった人ですが、意外なことに、頭山と犬養はかなり交流があったようです。自由民権運動や、孫文と支援するなどアジア主義との関わりだと思います。しかしアナキストの大杉栄にもポンと大金を貸してますから、一言で説明できる人物ではなさそうです。
5人目は三宅雄二郎、つまり三宅雪嶺。国粋主義者で、雑誌『日本人』を作ったことで有名です。この雑誌は、1889年3月14日の記事で発行停止処分をくらっていることを「森有礼暗殺事件とその後(9)」で見ました。第二の犯行を促すような記事を書いたのはこの人でしょうか。
6人目は黒岩周六、つまり黒岩涙香。翻訳小説も書くジャーナリストで、『万朝報』というゴシップ新聞をつくりました。事件当時は『絵入自由新聞』の記者だったようです(『日本人』と同時に発行停止になった『絵入朝野』とは異なります)。日露戦争について、当初は非戦論を唱えていましたが、1901年以降、発行部数を伸ばすため開戦論に転じました。
7人目は松井広吉。詳細不明。雑誌『日本人』に寄稿することが多かったようです。
8人目は伊東知也。犬養や頭山らの知遇を得て明治45年の衆議院議員総選挙に立候補し、当選した人。雑誌『日本人』に寄稿してる。中国・朝鮮・満州などにもしょっちゅう出かけていて孫文と会談したこともあるらしい。いわゆる大陸浪人でしょうか。ちなみに4人目に名を挙げた頭山満は孫文とも親しい。
9人目は早川龍介。愛知の県会議員からスタートして明治23年以降は国会議員。
10人目は大竹貫一。新潟出身。村会議員や県会議員からスタートして明治27年以降は国会議員。1905年、ポーツマス条約に反対する集会を日比谷公園で開き、のちに日比谷焼討事件に発展したという廉で、謙虚・起訴された人です(のちに不起訴無罪)。
おおむね国粋的で、大アジア主義の傾向のある方々によって企画されたと考えてよいかと思います。
記事の末尾を見てみると、
参拝者には「遺墨」と「写真」の印刷物をプレゼントする、と書いてありますが、
この件については次の「森有礼殺害事件とその後(15)」でまとめます。