安倍晋三殺害事件と似てる?

2022年7月8日、安倍晋三元総理が殺害されました。
私は当時、友人とランチ中でした。テレビが設置してあるお店だったので、友人と一緒にずー-っとその速報を見ていました。
私は安倍さんの政治信条には共感できないタイプでしたが、それでも、次々と緊張感漂う速報を見ていて、心臓がバクバクして、漠然とした恐怖に襲われたことを覚えています。
 

このたびの安倍晋三殺害事件とその後の動向を見ていて、明治22年(1889)に起こった森有礼殺害事件を想起しました。

 

事件そのものというよりも、むしろその後の世の中の動きが似てるんです。

以下、似てる部分も、似てない部分もひっくるめて、森有礼暗殺事件とその後の動向を新聞記事などを通じて、追ってみたいな~と思います。

 

まずは前提となる事件について確認してみましょう。

 

  1889.2.11 暗殺

1889年(明治22)2月11日の朝、文部大臣だった森有礼が殺害されました。
 

2月11日は、大日本帝国憲法の発布の日。
森有礼も閣僚として、まさに式典に出かけようとするところを襲われたのでした。
 

犯人は西野文太郎という神道を信じる若者。
以下、新聞記事に基づいて、脚本風にアレンジしてみました。

2月11日 朝8時30分ごろ。場所は永田町にある森大臣邸
袴姿の書生風の男、西野文太郎が玄関にやってくる。


西野「自分は山口県出身の西野文太郎と申しまして、帝国大学の学生です。大臣に面会して密告したいことがありますので、至急、大臣にお取次ぎをお願いします。」

秘書官である中川は、言葉遣いが丁寧で、礼儀正しく、落ち着いた風貌の西野を怪しみもせず、応接室に通した。

秘書「大臣に何か密告したい件があるということですが、大臣は、まもなく憲法発布の式典に向かわねばならないので時間がありません。必ず大臣にお伝えしますので、密告の詳細は遠慮なく私にお話ください。どのような内容でしょうか。」

西野「(少し声を低くして)密告というのは大臣暗殺計画についてです。本日、式典のために参内するその途中を襲うと聞きました。あまりに大それた話なので密告しに来た次第です。しかし詳細は直接大臣にお話ししたいので、ぜひ、お取次ぎをお願いします。」


秘書「(大いに驚きつつ)密告についてはわかりました。確かに、大臣にお伝えせねばならないことだが、もう本当に(宮中に)出かける時間なので、面会はできません。」

そこへ大臣が、式典に出向くため正装して階段を降りてきて、ふっと応接室を覗き込む。


大臣を見るやいなや、西野は所持していた出刃包丁を取り出しながら大臣に近づき、その下腹部を深く突き刺した。


秘書官および玄関付近にいた護衛は、驚き慌てつつも西野を捕えようと格闘する。
追って、大臣の護衛のなかでも撃剣の達人と噂される雑賀重秀氏がやってきて、一刀斬りつけ、さらにもう一刀のもと、西野の首を斬り落とした。

重症を負った大臣は、翌12日の早朝、死亡。

以上が森有礼暗殺事件のあらましです。

西野は帝国大学の学生ではありません。ではなぜ帝大生になりすましたかというと、大臣と帝大の学生との間には、現在進行中のトラブルがあったからです。

東京大学構内にある学生寮で火災が起き、学生が1名焼死していたのですが、文部省はろくな調査もせずに、その死亡した学生の失火が原因と決めつけ、事態を収拾したのでした。


森文部大臣の指示に基づくものとみられ、学生たちは大臣に対して激しく抗議していたし、大学で教鞭をとっていた医者ベルツも、日記のなかで、大臣への不満を露わにしています。


犯人西野は、学生たちとのもめ事を利用し、いかにも学生たちが殺害を計画しているかのように装って、大臣との接近を謀ったのでした。

さて、犯人西野の動機は何かというと…
事件を遡ること1年前、大臣が伊勢神宮を訪れた際に不敬な振る舞いに及んだという噂を聞き、神道および皇室を重んじるこの若者は、義憤にかられて凶行に及んだのでした。
(この伊勢神宮での出来事については別記事で)

安倍元総理殺害事件と森有礼暗殺事件は、両方とも、犯人は無名の一般人、単独犯、殺害されたのが有名政治家、という共通項はあるものの、異なる点もあります。


とりわけ西野の場合は、神道や皇室への思いが高じて凶行に及んだもので、いわば義憤が動機となっていますが、一方、山上容疑者の動機は家庭を壊されたという被害を受けての恨み、いわば私憤なので、その点がまったく違うと思います。
(だから安倍晋三元総理「殺害」事件と呼び、他方を、森有礼「暗殺」事件と呼びたいと思っています。)

 

では次から、新聞記事を読みつつ、世間の動向をたどってみましょう。

 

森有礼暗殺事件とその後(2)