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  1889.2.19 西野文太郎の遺骸埋葬

 

講談が西野を称揚したかは不明ですが、西野に共感し、彼を称賛する人がちらほら現れ始めたことが、次の朝日新聞の記事から推測できます。以下、断りがない限り、朝日新聞からの引用です。



西野の友人たちが、遺骸を引き取って、谷中の天王寺で遺骸埋葬を行ったという記事です。


参列者は100人ほどで、涙を流していした人もいたということですが、参列者の8~9割が西野とは無関係な人々だったということです。


また、谷中に向かう棺の行列に偶然出会った人のなかには、旗で西野の棺と知るや、脱帽して礼をする人が少なからずいたこともわかります。

ちなみに、彼の遺体は入棺のうえ、彼の下宿からまっすぐ谷中墓地に運び込まれており、火葬場に行った形跡はありません。つまり土葬ですね。


まだこのころは、火葬はあまり普及していなかったでしょう。逆に、神道的観点から明治6年には火葬禁止令が出されましたし、神道なら土葬が理想かと。


ただし、同8年には火葬禁止令は廃止されました。理由は土地確保の問題です。地方なら余裕がありますが、都市部では土地確保の面で行き詰まるのは明らかです。


一方、仏教徒なら火葬が理想ですが、燃料費び時間がかかるので、たとえ仏教徒でも庶民はあまり火葬していないと思います。火葬率が60%を超えたのは1960年代といいますから、火葬が一般化したのは高度経済成長期以後とみてよいでしょう。

話を新聞記事に戻しましょう。
葬儀には女手が必要だから遠慮なく自分を頼ってほしいと、見知らぬ女性が、西野が住んでいた家を訪問しています。

このように西野とは無関係な人が多く埋葬に立ち会い、たまたま棺の行列に行き合った人は丁寧に礼をし、かつ、ボランティアも出現していることから、彼の凶行に共感、敬意を抱いていた人が少なからずいたことが窺えます。

 

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