生活のかんじょう -9ページ目

もっと伝えられる方法があるかも。おにぎり的考察

先週の日曜日に続き本日も勝浦の海へ。


砂浜で食べようと、大きなおにぎりを二個作り持って行きました。


ぎゅうぎゅうに結んだので、二合近くになるでしょうか、結構な量のご飯を使いました。


さて、ふと思ったのですが、ご飯二合をお茶碗に盛って、おにぎりの材料である海苔二枚と実(梅干しと藤っこです)で食べようとしたら、おかずが少ないと感じると思います。(少なくとも私は…)


しかし、これがおにぎりになると、そんなことは思わずに、ぱくぱくと食べてしまえるのです。(おなかが減っていたという事情もありますが)


文章や会話での表現においても、材料の使い方次第でより伝えたいことがきちんと伝わったり、又その逆もあるでしょう。願わくば旨いおにぎりを目指したいものです。


以上、もしどこかで似たたとえ話をお聞きになったとしたらあしからずです。
その場合はこの考察(それほどでもないですが)は結構あたっていることなのだと思っていただければと。


今日の勝浦の海は先週より水が少しだけ温かくなっていたように思います。
風が少し強く吹いていましたが、気持ちいい日差しでした。

今風を目指している訳ではありませんが、少しだけ説明を…

本日は仕事は休み。前回編集プロダクションの方と打ち合わせた原稿の補正作業、今週のウイークデーは残業続きでできなかったことを、ようやく行うことができました。


まとまった時間がとれればそれほど長くかかる作業でもなく、だいたい2時間くらいで終えました。


少し気分を変えようとスタバに出かけたのですが、このスマートフォンやタブレットPC全盛の時代にスタバでノートパソコンを開く私は、なにか「一昔前の人」みたいな感じがして、自分のことながら少しおかしかったです。


言い訳(?)をさせていただくと、私もタブレットPCを欲しかったのですが原稿の編集作業に必要なワードソフトは普通のパソコンでないと使えないということが分かったので、あえてノートパソコンを購入したのです!(それほど力んで言うほどのことでもありませんが…)


…さて駄文をここまで続けてきましたが、結論らしきものは用意できておりません。

少しオーバーな言い方ですが、つらつらと何かを書くこと自体で救われるという気分でこの記事を書いてきました。


今日もお付き合いくださいまして有難うございます。皆様の週末が平穏なものでありますように!





少し距離を置くと見えてくる、こともあるかな?

本日も遅くまで仕事。帰宅途中の電車の中でこの記事を書いています。


今週はこうした日が多く、なかなか父の遺した原稿の補正作業に手をつけることは出来ませんでした。
そろそろ遅れを取り返さないと、と思いながら、原稿のページを(パソコン上で)めくっています。
すると、先週までは毎日のように眺めていた原稿ですが、意外にも新鮮に思えてくるのです。


いや面白いなと素直に楽しんだり、ほほう、この表現はいいな、と感心したり。
この原稿はもともと自分で書いたものではありませんが、「父の仕事を引き継ぐんだ」と少し気負っていたせいか、客観的に原稿を眺めることが(特に最近は)出来ていなかったようです。


自分が取り組んでいる対象を、少し離れて見てみると、新たな発見があったり、たとえそのようなものがなくても、新鮮な気持ちで接することが出来ることがある、ということでしょうか。

軽口で行こう

さて今日も仕事が遅くなり、まだ帰宅途中です。
昨日から、また面白そうな雑俳集を読み始めました。「軽口頓作」という句集で、江戸時代に京都で作られました。

ちなみに雑俳とは、機知、ユーモアを旨とする短詩句(五七五や七七)で、江戸時代に流行したものです。

「軽口頓作」は江戸川柳に通じるところもありますが、よりおおらかで素朴な句が多いようです。

またこのブログでも、面白い句をご紹介しますね。
ではまた!

頑張れば頑張るほど遠ざかることも、茶の湯 続き

まずは落語「茶の湯」のあらすじから。


隠居した男が根岸に家を見つけ、手伝いの小僧とともに移り住むが、ひまでやることがない。
何か風流なことをといって茶の湯を始めるが、誰かに習えばいいのものを、そんなこともせず、知ったかぶりの自己流で始めるから始末に負えない。


お茶は青黄粉をお湯で割ったもの。これでは泡がたたないといって、椋の木の皮(当時の洗剤)を入れる。

こんなものを「風流だねぇ」といいながら小僧と繰り返し飲んでいる。当然下痢になり青い顔をしながらも「風流だねぇ」


自分だけが被害に遭うのがいやな小僧は、次々と何も知らない長屋の住人を客に招く。最初は旨い茶菓子を買っていたが、経費節約のため隠居は自家製の菓子作りに乗り出す。

茶菓子は薩摩芋をすりつぶして、灯し油を塗ったお椀でくり抜く。確かに外観は黒くてかっていて旨そうだが…

青黄粉の茶と灯し油の菓子を出す茶の湯、日々惨劇はを繰り返されるのだった…


風流を気取りながらも、「茶の湯」をやればやるほど風流から遠ざかってしまったこの男。もはや狂気といってもいいでしょう。


なにかを目指すときに、変に頑張ってしまったため、かえってその本質から遠ざかる、そんな経験はありませんか?


たとえば私が行っている出版プロジェクト。これなんて言葉の持つ美しさやおもしろさを感じ取れるゆとりがなければ、いいものはできません。


しかし最近は変に肩に力がはいり過ぎていたように思います。いつしか本質を見失い、勝手な思いこみだけで進めるようになったとしたら嫌ですね。
もっと自然に対象に向き合えるようにしたいと思います。


ちなみに茶の湯、おすすめの落語家は物故者では三代目三遊亭金馬。現役では立川志らくです。