爺さんの徒然日記

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ご報告

このブログに来て下さっているみなさまへ

 

主の娘です。このたび父が永眠いたしました事をご報告します。

 

2008年から始めたブログも、気が付けば18年お世話になりました。

 

みなさまからの応援やコメントを励みに、ここまで続けてこられたのだと思います。

 

突然のお別れでしたので、まだ少しブログは閉鎖せず、読み返してみようと思います。

 

長い間、お世話になりました。ありがとうございました。

 

 

江戸の「ことわざ」面白講座(182)

『江戸の自然』

 

◆百菊作るによって花変ず

 

 

いろいろな菊の花を咲かせているからこそ

思いもかけない新種の花を咲かせることができる 

たくさん作る中から始めて変わり種が生ずるということ 

 

 

徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍は花を好んで名花を集め

改良を加え「寛永の椿」を生んだ 

その後も将軍・大名から旗本・町人も

ツツジ・サツキ・アサガオなどの新種作りに熱中した 

 

将軍綱吉のころには菊の栽培技術が進歩し

次の将軍家宣・家継のときにはブームとなり

菊合」という菊花のコンクールが始まった 

「勝ち菊」になるとその花芽は一つ一両から三両で売買されている

 

 

このころ幕政の中枢にいた新井白石も菊作りに熱中していて

水戸・彰考館総裁 安積澹泊(あかたんぱく)ほかの同好の士と

情報交換をしている

 

一攫千金を夢見て菊作りをしている人は

江戸や京都の菊合カタログ集をいち早く取り寄せて参考にした 

 

 

菊マニア向けの『草木育種』(1818年刊)には

「珍花を秘蔵するには植えた所に人を近寄せるな 

葉を盗まれて挿し木される」

とあり花泥棒の見張りまでしなければならない 

 

品種改良は花木だけではなく大和郡山藩では金魚が

将軍吉宗はオシドリの新種「白鴛鴦」を生み出した

 

(^。^)y-.。o○

 

bye-bye  (; ・`д・´)

遠州入門ー浜松市 御馬ケ池

◆「何 信玄軍が大井川を渡ったというのか 

力強い味方だと思っていたのにまるで戦いを仕掛けるような仕打ちだ」

今川氏の力が衰えると 徳川家康と武田信玄は大井川を境に

西を家康が東を信玄が治めるという密約を結んでいた 

「多くの家臣を引き連れています 

遠江の地を我が物にしようと思っているに違いありません」

「大変です 信玄軍の勢いは止まらず

中東遠の諸城が次々と落とされました」

物見に出した家臣から次々と報告が届いた 

 

 

あっという間に天竜川に迫った信玄軍は進路を北に向けると二俣城を目指した 

二俣城まで落とされては浜松城も安心できない 

信玄軍は二俣城をすぐに取り囲んだが中々落とすことはできなかった 

城は天竜川と二俣川が合流する地点にあり

川が天然の堀の役目を果していたのである 

 

 

二俣城の危機を知った家康軍は家臣を引き連れ救援に駆けだした 

浜松城と二俣城は20kmほど離れていてすぐに着くことはできない 

途中何度か物見の家臣が様子を伝えて来たが

最後の一人が悲報を伝えた

「残念ながら二俣城が信玄の手に落ちたそうです」 

信玄軍が川に大量のいかだを流し

二俣城の水の取り入れ口としていたやぐらを破壊したというのである 

 

 

家康はどうしたものかと考えたが

このまま二俣城に向かうと返り討ちに遭う危険がある 

「無念ではあるがここはひとまず浜松城に戻ることにしよう」 

家康の言葉に家臣もうなづいたものの

20kmを駆け戻る体力は残っていなかった 

乗っていた馬もびっしょり汗をかき疲れ果てていた

「この辺りに池があったはず まずはそこに行き一息入れることにしよう」 

 

家康軍は於呂神社の近くの池まで馬を引いていた 

池に着くとすぐに馬を洗って汗を流してやった 

水を飲ませると馬に生気が戻った来た 

家康も家臣も折れかかった気持ちを持ち直すことができた 

「信玄軍と戦う時は必ず来る 

二俣城を守ろうとした者の無念を晴らすためにも浜松城に戻り態勢を立て直そう」 

 

 

この時家康軍が馬を洗った池を「御馬ケ池」と呼ぶようになったそうである

 

(^。^)y-.。o○

 

bye-bye  (; ・`д・´)  

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