爺さんの徒然日記 -4ページ目

江戸の「ことわざ」面白講座(101)

《江戸っ子の文化》

 

◆博打打ちのちぎれ草履

 

 

博打打ちは賭け事には有り金を投じるが

その他のものには金を惜しむ 

 

これは博打に負けて金が無いということもあるが

金があっても博打以外で金を使うのが惜しいという

ギャンブラーの心情によるところが大きい 

そして 結局ちぎれた草履を履き続けることになる 

 

 

江戸時代には武家・町人から丁稚・下女まで

それぞれが身丈に合った賭け事をしている 

 

 

幕府は開帳している者や賭博常習者は

遠島(島流し)という重刑にした 

八丈島に送られた罪人の第一位は賭博犯で

1823年(文政6年)から30年間で137人もおり

第二位の女犯僧(66人)の2倍以上である 

 

 

賭け事は大儲けすることが時にありその快感が忘れられず

「濡れ手で粟」

を願ってギャンブルの魔力に引き込まれる 

儲ければ「もっと」と思い 

損すれば「このままでは帰れない」と

どちらにしても勝負を続けることになる 

結局 「取ろう取ろうで取られる」とか

「負け博打のしこり打ち」となる 

 

 

文化期(1800年代初め) 

『服用すれば必ず博打に勝てる』をうたい文句にした

「開帳勝利散」という粉薬を製造・販売した武家が江戸にいて 

一日 多い時で40両前後売り上げたが

早々に姿をくらましたということがあった 

 

こうしたことからも賭博の蔓延ぶりが推測できる

 

(^。^)y-.。o○

 

bye-bye  (>_<)

  

餃子の砂子

餃子の砂子は昔から浜松市の有玉北町にある

中華料理店である

 

 

そしてその名前からわらるように

餃子が安くて美味しいと評判の店でもある

 

 

数年前行った時は混んでいて入れなかったため

その存在を忘れていたが カミさんが急に行ってみたいと言いだし

少々早めに行ってみると今日はすんなり入ることができた 

店内は昔懐かし 昭和レトロな雰囲気でパイプ椅子にテーブル

 

 

これが安くて美味しいと評判の餃子

一皿6ケでなんと200円

他のメニューを見てみても全てが安い

ランチメニューなど台湾ラーメン店にも引けを取らない

 

 

そして二人で頼んだのが餃子とライス

ラーメンでもと思ったがまずは餃子ライス

ライスが150円で主家にスープ迄ついて

これで締めて1人分350円と驚きの安さ 

そしていよいよ餃子の実食

皮がパリッとしていてニンニクが程よく効いて

評判通り抜群の美味しさ ライスも旨い

 

「これから餃子はここだね!」とカミさん

自宅からチョット遠いが味と値段を考えれば

十分アリアリの餃子屋である

 

(^。^)y-.。o○

 

bye-bye  (*^^)v

遠州入門ー磐田市 桶ケ谷沼と家康

◆「何?武田信玄軍が大井川を越えて責めて来たとは 本当か? 

今川義元公亡き後 大井川を境に駿河は信玄の領分 

遠江はわが徳川家康の領分と定めたではないか 

信玄が約束を破るとは まずは確かめ次第によっては追い払う」

家康が送った見張りの家臣から次々に知らせが入った 

 

 

「旅支度をした信玄軍が大井川を渡り終えました」

「信玄軍は一万人 いや二万人を超えているようです」 

浜松城を出て天竜川を渡った家康軍は信玄軍を迎え撃つことにした

 

 

 

東に軍を進めて磐田原の台地を下ると水面が光り輝く沼が見えて来た 

「甲斐の虎や信玄を打ち破るのは至難の業だ 

皆の者 戦勝を祈願しいよいよ軍を進めるぞ」 

家康が戦勝を祈願して武具と赤飯を詰めた桶を沈めた沼が 

後に「桶ケ谷沼」と名付けられたと伝わっている

桶は馬に水を飲ませるための物だったとも言われている 

 

 

家康軍と信玄軍の戦いと言えば三方ヶ原の戦いが有名であるが

家康が桶を沈めて勝利を願った後の戦いはどうだったのであろうか

大井川を越えた信玄軍は瞬く間に諸城を落とし西に軍を進めていった 

それに対し見付(磐田市見付)に陣を設けた家康軍は

三千人程であったといわれている 

見張りの家臣が次々と討たれ大軍が迫ってくる 

戦国最強と恐れられた信玄軍に襲い掛かれては万事休す 

家康は浜松城に戻ることとした 

信玄軍の勢いは増すばかりで家臣から見付に迫っているとの報告が入った

「攻め寄せる敵の勢いを何としても食い止めろ 

このままでは全滅してしまう」

 

 

するとどうしたことは見付宿から火の手が上がり追

っ手を防ぐことができた 

 

信玄軍は戸惑ったものの迂回路を見つけて逃げる家康軍を追いかけた 

その絶体絶命の窮地を救ったのが本多忠勝であった

通称平八郎と呼ばれた忠勝は家康軍の最後尾 

殿(しんがり)を務めて信玄軍斬りかかっている間に

家康軍は無事浜松城に戻ることができた 

 

 

「家康に過ぎたるもの二つあり 唐の頭に本多平八」

と敵であった信玄軍が褒めたと伝えられている 

 

戦勝祈願の願いは叶わなかったものの 

忠勝の持つ蜻蛉切の槍が信玄軍の追撃を食い止め家康軍を助けた 

 

桶ケ谷沼と言えば今も昔も日本有数のトンボの楽園である

桶に託した思いが蜻蛉切の槍の活躍に力を与えたのであろうか

 

(^。^)y-.。o○

 

bye^bye  (*'▽')