遠州入門ー磐田市 桶ケ谷沼と家康
◆「何?武田信玄軍が大井川を越えて責めて来たとは 本当か?
今川義元公亡き後 大井川を境に駿河は信玄の領分
遠江はわが徳川家康の領分と定めたではないか
信玄が約束を破るとは まずは確かめ次第によっては追い払う」
家康が送った見張りの家臣から次々に知らせが入った
「旅支度をした信玄軍が大井川を渡り終えました」
「信玄軍は一万人 いや二万人を超えているようです」
浜松城を出て天竜川を渡った家康軍は信玄軍を迎え撃つことにした
東に軍を進めて磐田原の台地を下ると水面が光り輝く沼が見えて来た
「甲斐の虎や信玄を打ち破るのは至難の業だ
皆の者 戦勝を祈願しいよいよ軍を進めるぞ」
家康が戦勝を祈願して武具と赤飯を詰めた桶を沈めた沼が
後に「桶ケ谷沼」と名付けられたと伝わっている
桶は馬に水を飲ませるための物だったとも言われている
家康軍と信玄軍の戦いと言えば三方ヶ原の戦いが有名であるが
家康が桶を沈めて勝利を願った後の戦いはどうだったのであろうか
大井川を越えた信玄軍は瞬く間に諸城を落とし西に軍を進めていった
それに対し見付(磐田市見付)に陣を設けた家康軍は
三千人程であったといわれている
見張りの家臣が次々と討たれ大軍が迫ってくる
戦国最強と恐れられた信玄軍に襲い掛かれては万事休す
家康は浜松城に戻ることとした
信玄軍の勢いは増すばかりで家臣から見付に迫っているとの報告が入った
「攻め寄せる敵の勢いを何としても食い止めろ
このままでは全滅してしまう」
するとどうしたことは見付宿から火の手が上がり追
っ手を防ぐことができた
その絶体絶命の窮地を救ったのが本多忠勝であった
通称平八郎と呼ばれた忠勝は家康軍の最後尾
殿(しんがり)を務めて信玄軍斬りかかっている間に
家康軍は無事浜松城に戻ることができた
「家康に過ぎたるもの二つあり 唐の頭に本多平八」
と敵であった信玄軍が褒めたと伝えられている
戦勝祈願の願いは叶わなかったものの
忠勝の持つ蜻蛉切の槍が信玄軍の追撃を食い止め家康軍を助けた
桶ケ谷沼と言えば今も昔も日本有数のトンボの楽園である
桶に託した思いが蜻蛉切の槍の活躍に力を与えたのであろうか
(^。^)y-.。o○
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