アクションプロデューサーHARUのブログ

アクションプロデューサーHARUのブログ

日本のアクション映画で世界進出を目指す、アクションプロデューサーの夢を掴むまでの道程です。

最近フジテレビで毎週土曜日の深夜に始まった「オールナイトフジコ」を見て、1980年代~1990年代に放送していた「オールナイトフジ」を思い出しました。(もちろん「オールナイトフジ」の後継番組ということで企画された番組だそうです。)

 

その「オールナイトフジ」で1987年から日本でも人気の高かった香港の女優ムーン・リーさんが隔週で司会者となり、彼女のコーナーとして「ムーン・リーのカンフー教室」が始まることになりました。そのコーナーのアクションコーディネーターとして私も参加していました。懐かしいですね!スタジオで初めてお会いしたムーン・リーさんが本当に可愛いかったことを覚えています。

 

1980年代の日本ではブルース・リーに継ぐジャッキー・チェンの登場による第二次香港映画ブームの真っ只中でした。当時の香港映画にはアクションをする女優さんが沢山登場しましたが、「だれが一番アクションが上手ですか?」と聞かれたら私は間違えなく「ムーン・リーさん!」と答えますね。

 

香港映画の格闘シーンの一番の特徴はカットの短さにあります。特に女優さんの格闘シーンの場合は通常ワンカットに1動作、多くても1.5動作で2動作動ける女優さんは少ないと思います。例えば右手で殴って左手で殴るアクションシーンだとすると、最初の撮影では右手で殴る一動作でカットになります。長くても右手で殴り左手が少し動くまでの1.5動作でカットになります。ほとんど格闘シーンの撮影は1回1動作になります。長い動きの格闘シーンはほとんど吹き替えの男性スタントマンが演じています。しかし映画の中では女優さんが凄いアクションシーンを演じている様に見えるのです。香港映画マジックですね!!

 

そのこともあり、香港映画での彼女のアクションの上手さも知っていましたし、幼い頃から中国武術を習っていたことも聞いていましたが、私はムーン・リーさんを少々あまく見ていました。

 

当日、フジテレビに5人のスタントマンとムーン・リーさんの代役としてスタントウーマンを1人連れて行きました。リハーサル室でムーン・リーさんとのご挨拶もそこそこにアクションのリハーサルを開始。事前に準備したアクションを代役のスタントウーマンと5人のスタントマンでまずは実演。アクションが終わると番組スタッフから拍手が起きひと安心、ムーン・リーさんを見ると少し戸惑った様子だったので、やっぱり少し難しかっったかなと思いながらも彼女に対5人のアクションの動きを教え、いよいよ今度はムーン・リーさんのアクションです。

 

スタートの合図で動き出す彼女は見事に5人を倒しスタッフは歓声と拍手!こちらのスタントウーマンよりも華麗な動きで私も驚き拍手、始めからムーン・リーさんでリハーサルで良かったかなと少し反省。細かいアクションのタイミングを調整してリハーサルは40分ほどで無事終了。

 

19時入りでフジテレビに呼ばれた私たちですが、深夜の1時過ぎに出演予定で5時間以上控室で待機、待ち時間が長いので途中何度かアクションの確認リハーサルをして本番に備えていましたが、生放送のため1時間近く遅れ始め、緊張が切れた頃に急にスタッフからの呼出し、全員衣装のカンフー着に着替え慌ててスタジオへ移動。

 

スタジオでは他のレギュラー陣とムーン・リーさんが司会席に座り番組を進行中、しばらくすると『次はムーン・リーさんのカンフー教室です。』とコーナーが紹介されムーン・リーさんが立ち上がりスタジオ中央へ、アクション用のテーマ曲が流れカンフー着の男たちが取り囲む、ゆっくりと身構える彼女。最初の男が声をあげて殴りかかった瞬間、ムーン・リーさんの形相が一転、私は心の中で「しまった本物だ!」と叫びました。、リハーサルで見た動きとは全く別次元の動きで男たちを次々と倒すムーン・リーさん。そのパワー、スピード、気迫に少し気の緩んでいたスタントマンたちも圧倒され、彼女に押され気味でアクションは終了。スタジオも一瞬沈黙、そして歓声と拍手。「凄い!』の一言です。

 

あの小柄な細い体のどこにあのパワーが有るのか?

私たちと同じアクションリハーサルから5時間以上も経ち、更に先程まで司会者として生放送をこなしてからのアクションコーナー、私たちの様に本番前に何度かアクションのリハーサルも出来ずにいきなり本番で、動きを忘れることも無くあのスピードとパワー、言葉がありません。恐ろしい集中力です。

 

それまでもプロとしてアクションの仕事をして来た私でしたが、ムーン・リーさんと初めて仕事をして彼女の中にプロの姿を見た思いでした。

 

「ムーン・リー最強!!」

 



先日、俳優の宝田明さんが87歳でお亡くなりになりました。残念ながら私は宝田明さんと映画でご一緒する機会はありませんでしたが、今から30年近く前ですが、宝田明さんのトークショーで、宝田さんのマネージャーとして1日だけ御一緒させていただいた事がありました。今思うと本当に貴重な経験でした。


新幹線で移動する、ある地方都市でのトークショーでした。東京駅での宝田明さんとのお待ち合わせ、ドキドキの初対面!遥か向こうからトレンチコートの襟を立て、こちらへ歩いて来る長身の男性、誰が見ても「スター宝田明」・・・もろバレじゃん!!また運悪く場所が東京駅だったため、地方から来たおば様たちに見つかり、あっと言う間に囲まれミニ握手会に、やはり当時を知るおば様たちには、更に大のつく大スター宝田明さんでした。


出発時間もあり、早々にミニ握手会を切り上げ新幹線に乗り込む私たち、そのため私はろくな挨拶も出来ないまま、・・・キチンと挨拶したかったな〜。新幹線車内でも、グリーン車と自由席と離れ離れでお話する機会も無く残念。そしてタクシーで会場入り、大きめの会場も満員で、宝田さんの幼少期の満州時代の話から始まり、戦後ハルピンからの帰国、そして映画界デビューからのお話と会場は大盛り上がりでトークショーは終了、やや時間オーバーのままサイン会へ。


事前に打合せをする時間も無く、サイン会はサラサラっとマジックで色紙にサインして終わりだと思っていたのですが、宝田さんはバックから太さの違う5本の筆と墨と硯をテーブルの上に置き、おもむろに墨をすり始めたのです。それから書道家の様に1枚1枚に心を込め書き始めたのです。ファンの方たちは驚き、大喜びして色紙を受け取っていました。(私も何故か嬉しくなりました。)


そして新幹線の時間も迫り、そろそろ終わりの時間と思いつつ、私は嬉しそうに並ぶファンたちを途中で切ることが出来ずに続行を決め、最後の一人が終わったところで「そろそろお時間が・・・。」と宝田さんの耳元で「お、そうかね。」と宝田さん、上機嫌のまま別れを惜しむファンたちをあとに退席、私たちはタクシーを飛ばし新幹線乗り場へ。しかし予定の新幹線にギリ間に合わず、次の新幹線で帰ることに。


予定の新幹線には乗れず初めて不機嫌になった宝田さんに平謝りの私。サイン会を途中で止めれなかったことを謝罪すると「君が止めなくて誰が止めるんだね!」と一喝。私はその瞬間、映画の中で悪の組織に加担してしまった博士を止めれなかった助手になった気分で、少し嬉しかったのを覚えています。(すみません宝田さん、反省もチャンとしました。)


無事に新幹線は東京駅に、ひと安心の私。新幹線が一本遅れたせいか早足で改札へ向う宝田さん、後ろから必死にあとを追う私。一つ目の自動改札を出た時に宝田さんの右手に新幹線の切符が無いことに気付き、慌てて宝田さんに駆け寄り、次の改札を出るのに乗車券が必要ですと私が説明すると、大きな声で「大丈夫、大丈夫!」と左手を上げ、そのまま改札を抜けようとするので、改札に宝田さんを挟ませる事は出来ないと、咄嗟に私の乗車券を改札に差し込み宝田さんは改札を通過、そして私は乗車券の無いまま赤く点滅し閉じた改札を乗り越え、更に私を睨む改札の駅員に、前を歩く宝田さんを指差し苦笑いしながら無事通過!? 宝田さんを追い駐車場へ。


愛車キャデラックの前で、少し遅れた私を待つ宝田さんが私に「君、自宅は?・・・近くまで乗せてあげたいんだけど、人と会う約束してるのでここで、悪いね!」と運転席へ、最後にもったいないお言葉をいただきお別れでした。東京の夜の街へ消えていく青いキャデラックの、テールランプの灯りが見えなくなるまで見送る私でした。宝田明さん本当にありがとうございました。


私がこれまでお会いした俳優さんの中でも、別格な存在感をお持ちで、優しい瞳の中にも厳しさとプライドを感じ取ることが出来ました。私が改めて言う必要も無いのですが、やはり宝田明さんは日本映画界の大スターですね!


心よりご冥福お祈り申し上げます。










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今回は正確に言うと、あの「燃えよドラゴン」のボロ・ヤン!?なのですが、実は怒らせたことがあります。(なんと恐ろしいタイトルでしょう。)この話のパート1から続く、私が初めてプロデュースしましたアクション映画の日本ロケでのお話です。

 

ご機嫌で夜の街を歩く私の携帯に、この映画の製作会社の社長から電話が掛かってきました。

とても慌てた声で、少し興奮気味にこう言いました。「お前ヤン・スーさんのホテルを変えたなー!」 (ヤン・スー=ボロ・ヤン)

「はい!」と私は答えました。実は数時間前にボロ・ヤンさんに、来日から宿泊していたホテルを移動していただいていたのです。

「何か・・・?」と聞き返す私に、社長はさらに声を荒げこう言いました。「今ヤン・スーさんから、明日香港へ帰ると電話が来たんだよ。新しい部屋が気に入らないとな、お前どんなホテルに変えたんだ!とにかくヤン・スーさんに謝って来い!撮影はまだ残ってるんだ、何とかしろ!」「あ、はい。」の私の返事を待たずに電話は切れ、私は夜の街を再びボロ・ヤンさんのもとへ。

 

私も初めての映画のプロデューサーで、右も左もわからないまま勢いだけでやってきた感があり、このホテルの変更の件も、ボロ・ヤンさんの日本での撮影予定の日数しかホテルを予約していなかったという、今では考えられない私のミスが原因だったのです。撮影スケジュールは大小様々なトラブルや天候の影響で伸びるのが当たり前で、最低でも数日間は多めに予約するのが常識なのです。

(・・・してませんでした、私。)

 

そしてこの作品も当然撮影の遅れが出てしまい、私のせいでボロ・ヤンさんは泊まっていたホテルを追い出される結果になってしまったのです。また、さらに運悪く観光シーズンで近くに空いているホテルが一軒もなく、私はボロ・ヤンさんを古びた旅館に押し込んでしまったのです。(ひどい!)


祈る思いでボロ・ヤンさんのもとへ急ぐ私。

 

ボロ・ヤンさんの部屋の前に着いた私は扉の前で大きく深呼吸し扉をノック、扉が開くまでのわずかな時間にも私はボロ・ヤンさんに

何と言ってお詫びしようか・・・?、どうやって止めようか?・・・凄い顔で怒って出てくるだろうな・・・とか考えていました。(怖っ!)

 

そして扉がゆっくりと開き、扉の前に立つ私は声も出ないほど驚いてしまいました。(テレビならCMが入るタイミングですね。)

扉を開け私の前に立っていたのはボロ・ヤンではなく、ドレッドヘアで目のパッチリした3歳位の男の子でした。その髪型から「息子!?」だとすぐに気付きました。チビ•ヤンの登場に思わず「かわいい!」と油断した瞬間にその後ろからパパ・ヤンが登場、息子を部屋の奥へ促すと、私が来たことに少し驚いた様子だったので、私は咄嗟に「ホテルチェンジ!」と言うとその顔がニコッと微笑んだ。それでも必死に謝り続ける私に気をつかい「無問題」と再び微笑んだ。


実はボロ・ヤンさんはそれほど怒ってはいなかったのです。ただ社長には、少しかました様ですね。


話が前後しますが、ボロ・ヤンさんの旅館へ行く前に、私は前のホテルへ寄り、必死に宿泊延長をお願いしていたのです。前回あれだけ部屋は空いていませんと言っていた支配人が、それじゃ~と部屋を空けてくれました。「最初から貸せー!」


翌日、何事も無かったかの様に撮影は順調に進んだ。


※少し前ですが、チビ・ヤン(ジェフリー・ヤン)は、アメリカでボディビルダーとして活躍していると聞きました。(頑張れ~!!)ところで、いま何歳なんだろ~!?



 

 

 

安室奈美恵さんが今日引退されます。
多くのファンに惜しまれ、25年間の音楽活動に終止符を打ちます。

あらゆるメディアで取り上げられているこのニュースですが、私はドラマや映画など、映像の分野を中心に活動していますので、歌手の方など音楽関係の人達との接点が殆んど有りません。

それで、今回の安室奈美恵さんの引退のニュースも少し客観的に報道を見ていたのですが、なんと、安室奈美恵さんとの接点があったのです。・・・と言ってスタジオの廊下ですれ違っただけなのですが・・・。

「そんなもんかい!」と思わないで下さいね。今思うと、今日の日の引退が本当に「お疲れ様でした!」と心から思える思い出でした。

20年以上前の話ですが、私が緑山スタジオにドラマの収録で入っていた時の事です。メイクさんとの打合せが終わり、控室に戻ろうとメイク室から廊下に出た瞬間 、細長い廊下の遥か向こうに、ロングヘアーの細身の女性が立っていました。両手を肘の高さで前に出し、手首は下に垂れ下がったままの姿で!!!???

「で・出た~!」薄暗く、ひとけの無いスタジオの廊下で、一瞬ドキッとしました。

良く見ると、ステージ衣装を身に付けたその女性は、ゆっくりとですがこちらに歩いて来ていました。垂れ下がったその両手には、厚底のショートブーツが人差し指に引っ掛けた状態でぶら下がっていました。

私もゆっくりと歩き始めていましたので、廊下の途中で、彼女をハッキリ認識する事が出来ました。

「ア、ア、安室奈美恵!?」

本当に驚きました。彼女は驚いて立ち止まった私の横を 、まるで夢遊病者の様にゆっくりと通り過ぎ、メイク室に消えて行きました。

私を無視すると言うよりも、私の存在にすら気付いていませんでした。私はその霊の無い脱け殻の様な姿に驚き、「お疲れ様です。」の言葉さえも掛けることが出来ませんでした。

この時すでにテレビでは、大ヒット曲を立て続けに出し、時代を動かし、誰もが認めるスーパースターの「安室奈美恵」さん!

私はこの安室奈美恵さんの姿を見るまでは、彼女は人気も有り、スターだし、お金も名誉も手に入れ 、それこそ夜は、仲間たちと面白おかしく遊んで過ごしているだろうと思っていました。(・・・恥ずかしい発想ですね。)

安室奈美恵さんの、この姿を目の当たりにして、これだけの時代を動かす為の代償は、こんなにも大きいのだと感じました。

本当に彼女は自分の命を削って 、ファンのみなさんに歌を届けているのだと。

そして今、この出来事を思い出し、彼女は本当にこの25年間を全力で駆け抜けて来たのだと、あらためて感じることが出来ました。

このタイミングでしかこの思い出は語れないと思い、綴ってみました。

あの時は言えませんでしたが、安室奈美恵さん、本当にホントに「お疲れ様でした!」












先日、トム・クルーズ主演の「ミッション:インポシブル/フォールアウト」を観て来ました。



シリーズ6作目になると思うのですが、私の中では一番原作のテレビシリーズ「スパイ大作戦」を彷彿させ、間違えなくシリーズ最高傑作だと思いました。

今回トム・クルーズ演じる主人公イーサン・ハントの「一人の仲間を救うためには、多くの人間の犠牲も厭わない優しさが、最大の欠点であり、長所でもある。」という内容の長官のセリフの通り、冒頭から「えっ!」と思うイーサンのミスの連続でストーリーが展開していきます。

このミスの連続、急な作戦の変更を余儀なくされる主人公たち、またまたミスだと思っていた作戦が敵を騙す為の罠で、観客も一緒に騙され、その後の展開にホッと胸を撫で下ろします。ここがテレビシリーズ世代の私が「スパイ大作戦」を一番感じたポイントだと思います。



それから、毎回話題となるトムのアクションシーンも更にパワーアップしています。

メイキング映像で話題となったビルからビルへの骨折ジャンプや高度7000mを越える高さからのパラシュート降下。そして自らが操縦するヘリコプターでのスカイスタント。・・・凄いとしか言い様がありません。「凄い!」

また、恒例のカースタントやバイクスタントも見事で、ボディスタントではトイレでの格闘シーンは必見です!


 
そして、この作品で私が一番印象に残ったシーンが、ヘリコプターから吊るされた積み荷の上に落ちて行くトムのスタントです。ぶら下がったヘリから3度落ちて行くNGシーンは、まさにジャッキー・チェンの「プロジェクトA」そのものです。


ハリウッド最強のアクションスターとアジアが生んだ最強のアクションスターの共演・・・観たいですね!

最新テクノロジーを駆使したトム・クルーズのアクションと、香港映画の肉体アナログアクションのジャッキー・チェンが融合した時 、世界最強のアクション映画が完成する事でしょう!











今年でブルース・リーさんが亡くなって45年になります。早いですね!

ブルース・リーさんは32歳で亡くなったのですが、当時、私はリーさんと同じ歳になったら、シアトルのリーさんのお墓参りをするぞ!と心に誓っていたのですが、約束を果たせぬまま時間だけが過ぎてしまいました・・・(ハー)。

小学生のころから「ジュリアーノ・ジェンマ」「ジャンポール・ベルモンド」に憧れて、スタントマンを目指していた私ですが、「ブルース・リー」の出現で一気に香港アクションの世界に身を投じる事になってしまいます。

その後、幸運にもジャッキー・チェンさん、ユン・ピョウさん、サモ・ハン・キンポーさん、そして、ボロ・ヤンさん達とお仕事する機会を頂きます。

本当にブルース・リーさんのおかげで私のアクション人生がスタートしました。

「燃えよドラゴン」を越える作品を作る事は出来ないかも知れませんが、「燃えよドラゴン」に並ぶ作品を作る事が今の私の夢です!


変なタイトルでブログ書き始めましたが、大杉漣さんが今月21日に突然お亡くなりになり、とてもショックを受けこのブログを書きたくなりました。

1990年前後だと思いますが、私がアクションの出来る俳優たちのマネージメントをしていた時期があるのですが、色々な映画製作会社に次回作の台本を読みに行き、マネージメントしている俳優たちに合う役を探して、出演依頼をするのですが、無名の新人たちには中々良い役は決まらず、大抵は「殺し屋A」とか「チンピラB」で、名前があっても「山田」とか「佐藤」とか名字だけの小さな役しか決まりませんでした。

そんな中、必ず台本の「殺し屋A」や「チンピラB」のアニキ的な存在でフルネームの役があります。「この役をうちの○○に!」とお願いすると、必ず返ってくる言葉が「この役は大杉漣さんに決まっています。」「大杉漣さんご存知ですよね?」「お仕事したこと有りますよねー。」と矢継ぎ早に。

当時、私はアクションコーディネーターもしていましたので、プロデューサーにすれば、当然どこかで仕事をしているだろうという前提で話してくるのですが、私が「知らないですけど・・・。」と答えると、一瞬不思議そうな顔をした後、必ず「良い俳優さんですよ。」と笑顔で大杉漣さんの話をしてくれました。

この「大杉漣さんご存知ですよね?」現象は 、このあと数年続くのですが、そして1993年の北野武監督作品「ソナチネ」に繋がって行きます。

しかし、結局この後も御本人とお会いする機会はありませんでした。

いまはお会いできなくて良かったのかなって思っています。もし大杉漣さんとお仕事でご一緒していたら、今回のショックの大きさは想像もつきません。

ご冥福を心よりお祈り申し上げます。









本日から「ブレードランナー2049」が劇場公開されます。私が好きな映画のベスト3に入る「ブレードランナー」の続編です。

前作の「ブレードランナー」は、今から35年前の1982年に劇場公開され、当時、私は「燃えよドラゴン」以来の衝撃を受けた事を覚えています。

酸性雨の降る荒廃した近未来都市 。アジアの裏路地を思わせる雑踏にネオン。ビルの谷間に浮かぶ飛行船と巨大マルチビジョンに映し出された芸者風の女性・・・。とにかく見たこともない近未来観に圧倒されました。

それ以来 私は、SF映画を「ブレードランナー以前」と「ブレードランナー以降」と区別、「紀元前」・「紀元後」の様に、・・・それほどSF映画の世界に影響を与えた作品だと思います。

しかし、公開当時はそれほど話題にならず、「なぜ?」と不安に感じた事を覚えています。今ではSF映画の金字塔となった作品です。まだご覧になっていないみなさんは、是非ご覧になって下さい!

そんな「ブレードランナー」の新作だけに、「ブレードランナー2049」には期待と不安が・・・。しかし、前作の主人公を演じたハリソン・フォードさんの出演と、あの「LA LA LAND」のライアン・ゴスリングさんが主演と聞いて、その心配は必要なさそうです。

実は35年前に「ブレードランナー」を観て、日本人もハリウッドで活躍出来ると確信しました。それは、リドリー・スコット監督が近未来を表現する為に、日本人と日本のテイストを映像に取り入れていたからです。まだ見た事のない近未来の世界は、欧米人の目に摩訶不思議に映る日本人の文化風習、そして日本の都市空間と同じなんだと!!

欧米人にとって日本人は、近未来を感じさせるほどミステリアスな存在であると確信しました。・・・必ずハリウッド映画に日本人俳優が必要になる日が来ると。

そして今、日本の俳優さん達もハリウッドで活躍を始めました。








 

 

随分ブログをお休みしてしまいました。

忙しすぎて気持ちに余裕が無いと書けませんね、ブログって。
 
先日、仕事で出会った30代前半の男性に、こんな事を言われました。「ブルース・リーに似てますよね!」「若い頃ブルース・リーに似てるって言われませんでしたか?」別れ際に思わぬ言葉。
 
「ブルース・リーに似ている?」何とも言えぬ心地良い言葉の響きが私の心に届いたのですが、その時、少し違和感を感じました。
 
「若い頃・・・。」って、若い頃!? ブルース・リーに憧れ 、少しでもブルース・リ-に近づきたくて、今日までアクションを続けて来た私が、ブルース・リーに若い頃似ているって・・・・。
ブルース・リーが年下!!!!
 
時の流れは分かっていても 、頭では分かっていても、やっぱりダメ!!
一瞬タイムスリップしたかの様な不思議な感覚におそわれました。
 
誰かに聞いて欲しくて、ブログアップしました。・・・また、ブログ再開しようかな?
 
 
 
 
 
私がアクションコーディネートを担当しました「くノ一狩り  女地獄の刑」が4月25日レンタル開始になりました!

「片腕マシンガール」で一躍世界的に人気のアクション女優となった亜紗美さん主演で、敵役のGARAHI さんとのウーマンバトルは必見です!!是非ご覧になって下さい。