早起きしちゃいました。


 バイトまで時間があるので、日記の更新しちゃおう。


 ところで、夏にイタリア旅行に出る。


 3週間弱の日程です。


 飛行機は評判が実に悪いアエロフロート(ロシア)だが、安いのだから文句は言えまい。


 彼女の留学時代の友人が、逆に日本に留学するとかで、その子が住んでいるミラノのアパートをその間ずっと貸してくれるそうだ。ありがたいっす。


 という訳で、ミラノを拠点に他の都市にも行ってみようと画策しています。


 ちなみに、お見合い13回の末に僕の母と結婚したモテナイ男の父は、母との新婚旅行の際にイタリアに寄ったらしいが、父は昼間はホテルで寝てるだけだったらしい。「親戚や会社の人へのお土産を買っておいて」とベッドから母に指示し、彼がやる気を出すのは、夕飯の外食だけだったらしい。


 「さっそく離婚してやろうか」と母は考えたらしい。


 今回の旅行は、それよりかはアクティブでありたい。


 と言っても、バタバタとせずにイタリアを味わいたいので、そこそこアクティブをモットーにしようと思う。

 

 とりあえず決まったのが、ヴェローナへの小旅行。


 夏の野外オペラで「アイーダ」を観劇しつつ、ヴェローナ観光もして来ようと思います。


 このヴェローナのオペラを、音楽好きの母に自慢したところ、非常に羨ましがられさっそく旅行社のパンフレットを持って帰ってきた。8日間のツアーで、ヴェローナの野外オペラがメインの。ヴェネツィアとミラノに寄るツアーだ。オペラの演目は「アイーダ」である。


 これが実に高い。


 夏は45万円くらいもするのだ。


 そう考えると、このヴェローナ小旅行の企画は値段の点から考えても大正解だ。


 しかも、既に観劇経験のある彼女の話によれば、舞台はローマ時代のアレーナで雰囲気もよろしいそうで、


 さらに、照明は配られるキャンドルだけとかで。その灯が夏の夜を美しく演出するらしい。


 ユラユラと。


 想像するだけでも惚れ惚れする光景だ。


 ところで、今のところの計画では僕らが観劇を予定しているのも「アイーダ」なのである。


 「アイーダ」はストーリーは知っているのだが、エジプトを舞台にした壮大なロマンスが展開される話だった気がする。


 ほとんどのオペラの例に漏れず、恋敵も出てきて、次から次へと起きる事件が原因で色々な葛藤が生じるが、最後は恋愛成就するみたいな話だったと思う。


 どうせ言葉が分からないのだから、それくらい壮大な演目の方が、きっと衣装や音楽もパワフルでいいのではないかのぅ。


 とにかく雰囲気を楽しんできたいと思っちょります。


  


 と、楽しみで仕方ないのだが、一つ心配なことがある。


 正直、僕はイタリア語を「グラッツェ(ありがとう)」くらいしか知らない。


 固有名詞なら、サッカー選手・イタリア人騎手・政治家・思想家・かつての王様くらいか。しかし、こんな知識は糞の役にも立たん。


 そこで、、、、


 イタリアで最も必要になろう単語を覚えてみました。


・Vincente(ヴィンチェンテ):単勝

・Piazzato(ピアッツァート):複勝 

・Accoppiata(アコピアータ):馬連

・Scommessa Trio(スコンメッサ トリオ):3連単

・Scommessa Tris(スコンメッサ トリス):指定レースの3連単

・Scommessa Quarte(スコンメッサ クアルテ):指定レースの4連単


はい、全部競馬用語で、馬券の式別の名称です。


拠点にするミラノにもサンシーロ競馬場なるものがあるらしく、俄然やる気に。


4連単(4着まで順番に当てる馬券)などは日本ではまだ導入されていない馬券だし、これは当てたら大富豪になれるでしょう。




「これで一発当てて、豪華な旅にしたいもんだ!!!!」


「すべての道は、競馬場に通ず」



などと大興奮。。。




しかし、夏は開催していないんですね。。。


開催してるのか、一向に主催者HPでは分からないので(いい加減すぎだろ!)、

わざわざイタリア語の掲示板に英語で「夏は、ミラノで競馬、開催してますか?」と質問したところ、

親切なイタリア人男性(複数人)が、



「7月~9月はやってねーぜ。」


「ローマではやってた気がするな。」


と教えてくれました。


さらには、、、



「デットーリ(イタリア人の名騎手)が飛行機で怪我したの、お前、知ってたか?」


「トニービン(イタリアの名馬で、現在は日本で種馬)は日本にいるらしいな。」


などと関係ないことまで教えてくれました。。。


親切には感謝しつつも、、、無念、、、、実に無念であります。


こうなったら、カジノかドッグレースにでも参戦するか。


いや、それはなんか違う。


あくまで馬じゃなきゃ意味が無いのだ。


どうやら、イタリアでは夏は競馬のみならず、色んなものが休みに入るらしい。


サッカーしかり、スカラ座しかり。



うん、普通の観光を楽しむか。



どなたか、


「あそこは行っておけ」

 

「あそこの○○は美味しいぞ」


とかの耳寄りな情報がありましたら、是非ご教授ください。


有用な情報提供者には、お土産を買って参りまする。


そういえば、彼女によれば「ローマ某所のアイスクリームは激ウマ」と聞いたので、夏にもやってる競馬ともどもローマにも遠征しようかな。


また、フィレンツェのステーキも美味いらしいとの友人談。


日本語で「いらっしゃい」と書いてある看板が目印なそうな。



個人的には、ミラノ近郊のクレスピ・ダッタという街に行ってみたい。


産業世界遺産という聞き慣れない世界遺産の街だそうだが、「資本主義の理想郷」だとか。


ニューラナークのような「社会主義の理想郷」は聞いたことがあるが、資本主義バージョンとはなんぞや。


これはキニナル。










 最近、疲れてるなぁ。



 朝7時に駅に行って、


 休憩室で「腕立て×50&腹筋×50」の日課をこなし、


 意外と硬いドアをこじ開け、


 二日に一度プールに通っている。


 これじゃー疲労するのも当たり前なんですが、とりあえず今日は筋肉痛でもう何もする気が起きないので、久しぶりに日記を更新します。


 今日は、駅のアルバイトの話を書いてみます。


 昨日も小田急線で指を挟まれた乗客が40メートル引きずられ怪我を負ったとか。


 駅員アルバイト(通称は「押し屋」)をやるようになってから電車事故のニュースに目が行くようになったのですが、結構な頻度で事故が起きてるようですね。


 先月は、山手線でベビーカーが挟まれたまま列車が進行したのがニュースになっていましたね。


 昨日の小田急の事故については、車掌(19歳)が目視確認を怠ったというのが直接の原因らしいですが、指が挟まったっていう被害者の女性(57歳)はどういうことなんすかね?まったく意味不明です。


 駆け込み乗車で指だけ挟まれたのでしょうか?そうだとしたら、とてつもない駆け込み乗車ですねー。


 どういう訳だか知りませんが、駆け込み乗車するのは圧倒的に女性が多いように思います。


 電車が遅れた場合にイライラしてるのは圧倒的に男性の方が多いのですが、駆け込み乗車に関しては女性が9割くらいと圧倒的に多い気がします。


 ちなみに私の場合は、あまりに酷いタイミングの場合は、手で制して乗せないようにします。


 ポイントは、毅然とやることです。「だめっ」とハッキリ手で制することです。


 これで乗れなかった場合は、意外と素直に諦めてくれます。


 逆に「駆け込み乗車はおやめ下さい」と掛け声をかけただけでは、お客さんは駆け込み乗車をやめようとしないし、その結果電車に乗れなかった場合は、かなりの確率で不快感を露にされます。「おい~、乗れなかったじゃねーかよ」と言わんばかり。


 こういう時、少しウンザリします。


 それでも私が勤務する目黒線は乗客がわりと上品なようで、揉め事になることは今のところはありません。


 ただ、最近この目黒線はラッシュがひどくなりつつある路線らしい。


 駅員室に貼ってあった報告書によると、目黒線の一日の平均乗客数は、2006年は2005年の4%増。


 それにも関わらず、電車は相変わらず6車両しかない。


 なるほど、混むはずです。


 また、目黒線では、昨年から急行列車が運行されるようになったのですが、そのおかげで急行列車は異様な混み方をしています。


 目黒線は、白金高輪から先は、都営三田線とメ東京メトロ南北線の双方に直通列車となっており、相互乗り入れしています。


 問題は、相互乗り入れの各社間の交渉の際に、都営三田線が強行に6両編成を維持しようとしたために、本来は10両編成の列車を投入することもできた東急も6車両編成にしてしまったことにあるようです。


 そして駅ホームも6両編成用に作ってしまったのです。


 それが目黒線の始発駅である武蔵小杉の開発(数年後に南武線と直通になる)と、日吉に相鉄線が乗り入れるかもしれないという噂もあって、一気に沿線の住民が増えているんです。


 乗客が増えているのに、電車は相変わらず6両編成のまま。その結果のラッシュなんです。


 だから、至るとこで荷物や体がはみ出すのです。


 このとき私はドアをこじ開け、押し込みます。


 押し込むといっても、ドアをこじ開け、自力で荷物を引き入れてもらうのが基本です。


 アルバイトが強く押し込みすぎて、某駅では数ヶ月前に乗客が肋骨を負ったらしい。


 挟まりそうなドアに近づき声を掛けておくと、乗客も協力してくれるらしく、挟まらなくて済むことが多いので、腕の見せ所は「挟まらせない」です。


 しかし、乗客は「一旦このドア」と決め込んだらなかなか隣りのドアに移動しないので、場合によっては体の80%くらいがはみ出たままドアが閉まることがある。


 こういう非常事態のときは、近くの駅員もしくはバイト君が走って手伝いにきてくれ、なんとか押し込むのですが、ドアを開けてる時間が長くなるため、非常に筋力が要ります。


 しかも働いているM駅では、電車とホームの間に「ホームドア」なる柵のようなものがあるため、このホームドア越しに手を伸ばすので、ちょっと背伸びしながらドアを開けるのです。


 ちなみに、この作業をやってる間にもホームドアは閉まるのですが、センサーで3回障害物を感知すると、電車の電源が自動的に落ちる仕組みになっている。これをやってしまうと、安全確認かドアの再兵開閉を行った後に、電源を入れなおす必要がある。


 そうするとおよそ1分は余計な時間が掛かってしまう。


 ダイヤ通りの運行を心がけている東急では、やはりこれは好ましいことではないらしい。


 三田線と南北線に分岐する白金高輪では、始発列車が待っていることが多い。


 「この列車なら白金高輪で始発列車に間に合い、座れる」と計算している乗客もたくさんいらっしゃるようで、この数分の遅れのせいで始発列車が先に出てしまうということも頻繁に起きています。先日もその件で、ものすごい勢いでお客さんに「どうしてくれんだ」とすごまれました。


 相互乗り入れを行っているとはいえ、南北線や三田線にもそれぞれのダイヤがあるので、乗り換えの乗客にに配慮して、いつまでも始発列車を待たせておく訳にもいかないようなのです。


 それは仕方ないのですが、信号機の故障などが原因で東京メトロ南北線が遅れ、巡り巡って東急線のダイヤを狂わせられることが日常茶飯事になっているのには、さすがに文句が言いたい。


 東急のせいではないのに、目黒線を利用している乗客は、「また遅れやがって」となる訳です。


 あまりの度重なる東京メトロの失態っぷりに、我々の間では「ダメトロ」なる造語まで発生しています。


 誇張でもなんでもなく、電車が遅れていると放送が入ると、ホームでは舌打ちorホームドアを神経質に叩く音が聞こえてきます。


 また、そういう日は、ラッシュ終了後の掃除の際に、いつもより多いゴミを拾う羽目になります。


 ムカついたからゴミを捨てていく、、、らしいのだ。


 ちなみにゴミの話に触れさせていただこう。


 このアルバイトを4年勤めた先輩にが引退する時にしてくれた話では「人糞が落ちていた」ことさえあったそうだが、私が今のところ一番衝撃的だったゴミは、木製の将棋板。っていうかゴミなのか、それとも落し物なのか……。


 入れ歯もありました。


 メガネを線路に落としたから拾ってくれだとかも2週間に一度くらいはあるし、今日も乗客が線路に落とした本を拾いました。


 いや実際に拾ったのは社員さんなんですが、事情を伝えた社員さんがちょっと高性能なマジックハンドで拾ってくれました。


 


 というように、いちおーこれでも


 ①安全な輸送

 ②遅延なき運行


 という二大使命を両立させるべく、そこそこ楽しみながらラッシュ時にアルバイトしています。


 時に相反する二つの使命ですが、両立できるように尽力したいと思っています。


 しかし、今回の小田急の事故のために、今朝社員さんには「とにかく安全の確保を最優先に。小田急が『やった』ばかりだからな」と指示を受けました。


 だから、これからは多少は電車が遅れることになっても、絶対に事故がないように細心の注意を払おうと思います。


 ちなみに、1.5cm以上の障害物が挟まっている場合は列車側面のランプが消えないようになっているのですが、1.5cm以下の物が挟まった場合はランプが消えてしまい、そのままだと列車は発車してしまいます。


 その場合は、両手を頭の上で交差させる「再開閉」の合図をすると、順次伝達されて再開閉される約束になっています。


 今回の小田急の事故のように指や、もしくは傘の先や薄手のコートなどは、1.5cm以下の厚みなのでしょう、再開閉するしかありません。しかし、それくらいの軽いはみ出し具合だと、かなり注意していないと目視で確認できません。


 以上のようなことを考えて、最近慣れてきた私ですが、また明日からは初心に帰ってがんばろうと思います。


 しっかし、電車が来るたびに女性のスカートが風でたくし上がるのですが、そういう時に視線と表情を微動だにさせないのは未だに慣れないなぁ。


 別にイヤラシイ目で見ている訳ではないんです。しかし、反応ゼロはなかなか難しいもんです。



 なお、目の前に立ってらっしゃるスカートの女性は、なるべく風を防ぐように立つようにしております。


 

 ともかく筋肉痛を直そう。


 ドアの硬さは、都営線→メトロ線→東急の順に硬いので、とりわけ都営線が来た時はこじ開けなくて済むように、声だしを張り切ろう。都営線、本気で硬い・・・。


 電車で筋トレ、名づけてトレイン・トレインニング、さらに略してトレトレ。トレトレは、できたらやりたくないっす。

 


 




 

 









 最近の日本語の乱れの代表例として、レストランなどでしばしば耳にする「よろしかったでしょうか?」が槍玉にあがる。いや、これが乱れなのかは自分には分からないので、「あるらしい」というに留めておこう。


 この「よろしかったでしょうか?」については、否定派の意見の方が多いような気がするが、実際、私もこの言葉を初めて聞いたときはなんだかビックリしました。


 それはもちろん、今まで聞いたこともなかったからなのです。


 しかし、ビックリすると同時に少しイラッとしました。


 「正しい日本語を使え」などと、どこぞやの頭の固いジイサンのようにイラッとしたのではありません。


 そうではなくて、メニューを繰り返したあとに「よろしかったでしょうか?」と聞かれると、「えっ、だから今言ったじゃんよ」みたいな気分になるからである。もしよく聞き取れなかったのならば、「すいません、もう一度お願いします」と言ってくれた方が自然な感じがするので、「Pardon me?」の新バージョンに店員の投げやりな雰囲気を感じてしまったのである。


 つまり、最初にメニューを注文するところから最後にメニューの確認をするまでの間は、一連の継続したコミュニケーションが成立しているはずであり、その一対一のやり取りも重要な「食事」を構成する要素なのに、まるで継続したコミュニケーションが成立していなかったように感じてしまったのだ。


 実際に、自分のことや頼んだメニューをよく覚えてくれたりすると、やはり気持ち良い食事ができたりする。もちろん、そこまでの接客を常に求めるほど私もサービスの良さを重視しているわけではないが、一対一の人間同士のやりとりとしての継続したコミュニケーションが成立していないように感じると……


「あっ、おれ、人間としてではなくて、一様に「お客」と思われてるんだな」

 

と思ってしまうのである。


 

しかし、しかしである。



最近思ったのだが、自分の経験上、「よろしかったでしょうか?」と言う店員さんは接客態度のよい人が多いように思う。



そういえば、英語でも丁寧語の際には、「could」や「would」を用いる。


敢えて時制をずらすことによって「差別化」を図るという丁寧語の用法は、日本語には従来ないらしいが(自信はない)、


どうやら英語を筆頭に他の言語ではよくある用法のようだ。


この敢えて過去形を用いる用法を、かりにここでは「現在過去丁寧」と命名する。


では、この「現在過去丁寧」が丁寧語として成立する思想とは何であろうか。


これは推測するしかないので、仮説を考えてみた。


先に私ははじめて「よろしかったでしょうか?」を聞いたときに、コミュニケーションの継続性の不足から苛立ちを感じたと述べた。


つまり、コミュニケーションの継続性が重要だという前提がそこにはあったのである。


しかし、「現在過去丁寧」はこの前提が逆なのではないのかと思う。


「現在過去丁寧」は、コミュニケーションの継続を前提としていないことによって成立する丁寧語なのではないか。


たとえば、英語で


"Could you V ? ”


 とか 


“ Would you mind Ving ? ”


聞く場合、質問する時点では、過去の相手の傾向や決定がその瞬間も変わっていないままであるとは限らないことを想定して、そんな配慮を踏まえつつ、恭しく以前のままなのかどうか伺いを立てているのではないか。


 たとえば、レストランでの「よろしかったでしょうか?」も、お客さんは最初に注文を取った時とは違うメニューを頼みたくなっているかもしれない。そこで、もしかしたら心変わりしているかもしれないので、過去のお客さんの注文の意志を尊重しつつも、改めて聞き直すのではないか。


 この点で、コミュニケーションの継続性よりもむしろその度のコミュニケーションを大切にしてくれてるように感じるのが「現在過去丁寧」である。


 たとえば、おばあちゃんの家に毎年夏に遊びに行くとする。


 去年「おばあちゃんの筑前煮はおいしい」と言ったとして、そのことを覚えてくれたおばあちゃんは今年も筑前煮を出してくれたとする。


 もちろん、うれしい。覚えてくれたからだ。コミュニケーションの継続性がそこにある。


 しかし、「去年は筑前煮がおいしいって言ってくれたけど、今年も筑前煮でいいかい?他のメニューでもいいのよ」とおばあちゃんが言ってくれたとすると、これもやっぱりウレシイ。去年からのコミュニケーションの継続性を尊重しつつも、筑前煮より食べたいものがあったら言ってね、と新たなコミュニケーションを創始するからだ。そしてこのとき、「ああ、おばあちゃんはその度その度ごとに新たなコミュニケーションを取ろうとしてくれてるんだな」と思うのだ。


 だから、どちらも丁寧語として十分に成立しているのではないか。


 仮にこの「現在過去丁寧」が従来の国語の用法にないものであれ、上のように考えると、それはそれで立派な丁寧語のような気がしなくもない。あっ、あくまで僕の仮説が当たっていればの話ですが。


 と、評判の悪い「よろしかったでしょうか?」をちょっと見直してみる気になりましたー。




 余談:


 先日飲み屋で「フードはよろしかったでしょうか?」と、奇抜な合わせ技を掛けられたのにはさすがにその場でズッコケそうになりました。







S 「おっす、久しぶり。」

  

  「明日、府中競馬行かんか?(なぜか不機嫌気味に)」



私 「無理っす。勉強しないといけないっす。」



S 「じゃあ聞くけど、95年の朝日杯3歳Sの2着馬がなんだか分かるか?」



私 「……」



S 「武が乗ってた馬だぞ。」



私 「……」



S 「エイシンガイモンに決まってるだろ。」 


  「勉強してるって、全然勉強してないじゃんよ。こんな常識だよっ。」



S 「君には本当に失望したよ。」


 ガチャッ。プープー。



 (20分後、再度Sから電話。)



S 「明日、競馬に行かないか?」



私 「えっ、さっき行けないって言ったじゃんよ。」



S 「まー、そう焦るなって」



私 「えっ?」



S 「じゃー聞くが、95年の朝日杯の勝ち馬は知ってるか?」



私 「あっ、それなら分かるぞ。エイシンガイモンが2着だったってことは、うん、バブルガムフェローだな。」



S 「おっ、よく分かってるじゃないか。という訳だから明日一緒に競馬に行こう。」


 

私 「……」



S 「とにかく着いたら電話くれよな。」



ガチャ、プープー。



……なんじゃそりゃ。 笑




アル中の人なんて、まともに付き合っちゃだめですね。



 雨でした。


 青葉を駆け抜ける爽やかな風が心地よい日々が続きましたが、今日はしっとり雨です。


 5月も後半になると梅雨に入ってしまうわけですが、梅雨の雨はジットリ。


 私はこの梅雨のジットリ感がわりと苦手なのですが、今日みたいな雨ならそれもまた心地よく感じられるのです。


 

 シューマンの歌曲に「美しい五月に」という曲があります。高校生のときの音楽の授業で習った記憶のある曲です。


 これが実に美しい曲なんですが、詩もまた美しい。それもそのはず、あのハイネの詩なんです。ドイツの詩人ではヘルダーリンが好きな方が多いようですが、私は断然ハイネ派で、この「美しい五月に」の歌詞も美しい。


 高校のときは、フィッシャー・ディスカウが歌っているビデオを見せてくれたのですが、その声の美しさも手伝って、ひたすら感動した覚えがあります。


 いま、その五月なのです。


 世界が美しく感じられます。


 しかし、風邪を引いてしまいました。だから、この3日間ほどは本来は心地よいはずの天候なのに、そよ風ですら体を冷やす。


 これは残念だ。


 勿体ない。


 そして、こんな季節に風邪を引いたことが悔やまれる。


 

 と、そんなこんなで家で大人しくしている。


 また時宜の悪いことに両親が別荘に行ってしまっており、せっかくの「一人暮らし的な自由感」も満喫できず。


 ベッドで大人しくしているのです。


 


 それでも良いことはあるもんで、テレビを見ることができるのです。


 我が家では両親がテレビを独占するので、昔からテレビというものに私は興味を持っていない。


 というか、興味を持つ機会さえなかったという方が正確でしょう。


 だから、ここ数年はテレビを見ている時間よりも、レンタルしてきた映画を見ている時間の方が確実に長いというマレビトっぷりを発揮してきたのです。


 そんなテレビに無垢で、そしてテレビ禁欲的な私にとって、たまにテレビを見るとどうしても背徳感と新鮮さを感じてしまうのです。


 たまに見るから楽しいのであって、基本的にはテレビを見るのは嫌いです。


 しかし、両親が居ない今回のように、コソコソ隠れた気分で見るのがたまらない。


 そんなわけで、この数日は食事を摂っている間だけはテレビを見ました。(それでも時間にすると短いので、やはり禁欲的なとこは抜け切れていない。)


 テレビの良いところは、やはり目で見ることができるところ。


 だから、やはり目で見て美しい番組を選択しました。



 気に入った番組が2つあった。「その1」では、このうちまず1つの番組を見て思ったことを書こうと思う。


 わりと危険思想の匂いがする日記になろうかと思います。

 



 1、 スーパーピアノレッスン (NHK教育:土曜日14:35~15:00)


 再放送らしいのですが、超有名ピアニストと生徒の二人が出演し、二台のピアノを並べてレッスンするという番組でした。

今週は、ジャン・マルク・ルイサダとかいうピアニストが先生で、練習曲はショパンでした。


 演奏会ではなくレッスン風景なので、ルイサダ先生と生徒の音の違いがすぐに分かりました。


 しかし興味深かったのは、音の違いではなく、体の使い方の違いです。


 ルイサダ先生の体の使い方が、実に柔らかい。


 曲の情熱的なところになると生徒はいかにも気持ちのこもった仕草で弾く。


 しかし先生に比べると音が響かない。情熱的なようで、昂揚感がない。


 同じ平面の中を巡ってる感じなんですね。


 それに比べると、ルイサダ先生の音は、立体的なんです。


 空間です。


 実際、音がもっと遠いところから響いてくる感じなのですが、生徒の音は鍵盤だけで鳴ってる感じなんです。


 この音の質の違いにあまりにヒドイので、逆に「この生徒はそんな音でよくそんな昂揚したような気分になれるな」と怒りたくなるほどです。


 生徒は体だけは実に感動したような仕草するのですが、まるでそれが「とってつけたような嘘くささ」を醸し出していて、興ざめな感じです。


 もちろん、生徒さんの立場になれば、ただでさえ大先生の前で弾くのに緊張しているのに、さらにテレビで放映されるのですから、緊張の極みにあるのでしょう。だから、生徒の演奏に腹立たしくなってしまったのは私が素人だからこそ言えちゃうことなのでしょう。


 


 ところで、この腹立ちは昔どこかで感じたことがあるような気がして、しばし思い出してみました。



 それは、小学校のときの跳び箱の授業でした。


 クラスに居たオデブさんが、低く設定された跳び箱の特別コースで、一人練習をさせられていたのです。


 ある意味では見せしめでしたが、私が腹が立ったのはそんな生徒への配慮のない教師にではありませんでした。


 そうではなくて、このオデブが嘘のやる気を見せていたことでした。

 


 いや、このオデブにやる気がなかった訳ではない。


 むしろ、何とか飛べるようになろうと必死でした。


 その姿には当時の私も、そして他のクラスメイトも、それなりに「あいつ頑張ってるな」と思ったではなかったでしょうか。


 だから、オデブが醜態を晒しているとは思わなかった。


 しかし、オデブにとっては、今この跳び箱こそがすべてであり、そして周りがどんなに暖かい目でそれを見守ろうとも、この事態はやはり屈辱だったに違いない。


 「子供にはそれぞれ良いところがある」などという発言をよく聞くが、少なくとも、その時オデブにとっては「所詮が跳び箱。こんなの出来なくたって恥ずかしくない」などとは言えなかったのではないか。


 やはり彼にとっては屈辱だったのだ。


 だから私も、「見守る」ような態度を取ることが逆に彼にとって屈辱になるような気がしたから、あまり彼の練習風景を見たくないような気がしていた。


 しかし彼は、スーパーピアノレッスンの生徒のような「とってつけたような」嘘くささを漂わせ始めた。


 つまり、彼が頑張っていたのはそれが「もう屈辱的な姿を晒したくない」という願望からであり、「跳び箱を飛べるようになりたい」というのは、あくまでこの願望に付随的な動機でしかなかったのに、それをオデブは価値転倒したのだ。


 どういうことかと言うと、


 まるで心から「跳び箱を飛べるようになりたくて仕方ない」かのような仕草をするようになり、何かにだかが分からないものの、何かに媚びていた。


 しかも、現在の屈辱的な姿を認めるのが怖くなり、逆にこの屈辱的な姿をプラスの価値に転倒させようとしていた。


 相変わらずダメなのに、それでも必死な自分。


 この「必死さ」は、本当に飛べるようになりたいという気持ちから来る必死さではない。


 いや、私としては本当に必死だから偉いと思うわけではないが、このオデブの場合、本当に必死ではないのに、「必死」なふりをするのを覚えたのだ。


 では、なんでこのオデブがそんな嘘臭い必死さを繰り出したのか。


 それは、


 1つには、それで体育教師を騙せると思ったから。実際、この教師はアホだったから、この手の必死さにはコロッと引っかかるタイプだった。


 2つ目には、そうでもしないと余りに屈辱的で自尊心を保てなかったから。なるほど、これは同情できる。


 3つ目には、2つ目の自尊心の維持と関係があるのだが、「飛べない自分」が「飛べる彼ら」を相対化することができたから。


 

 この3つ目の点が重要だ。


 というのは、「僕はこんなに頑張ってても飛べないのだから、僕は悪くないし、最初から飛べる『彼ら』はどこも偉くないんだ。」と飛べる「彼ら」のことを相対化しようという戦略である。


 しかもこの戦略には、万が一にも後日に飛べるようになれば、「教師とクラス中の喝采を浴びられるぞ」という副次的な戦略を伴っている。


 これは、弱者の中の弱者の発想だ。


 「飛べる・飛べない」ということを単純に「優・劣」や「強・弱」で考えるのには当然反対だ。


 しかし、飛べるのと飛べないのでは、どう考えても飛べる方が良いに決まっている。


 だから、跳び箱を飛べないオデブは、ここでは単純に「弱者」である。


 しかし、このオデブが「弱者の中の弱者」なのは、弱者であることむしろ積極的に用いてを強者になろうとしていることにある。


 そう、本当はブドウが食べたくて仕方なかったキツネが、「あのブドウは酸っぱいから、あんなもの食べたくない」と言って価値転倒をはかり、ブドウまでジャンプしても届かなかったことを相対化した「酸っぱいブドウの話」と同じ構造である。


 (ちなみに、ニーチェはこの「弱者の弱者」の論理をユダヤ人世界とキリス教世界に見出し、それゆえにこそキリスト教道徳を批判したのである。有名な「神は死んだ」も、この点からの発言だったりするのだが、これはあまり知っている人が少ない。ファッションで思想を「消費」する日本の思想界の軽薄さの象徴だと思います。)


 オデブが「跳び箱を飛べることの価値」までをも相対化までしたいと思ったのは、単純に「飛べる彼ら」へのライバル心である。


 ここに腹が立った。


 つまり、私(と、おそらくクラスメイト)はオデブのことを「劣った奴」とか「惨めな奴」という風に思っていなかったのに、オデブは「くそっ、俺のこと馬鹿にしやがって」と思い、それゆえ相対化(=価値転倒)を図ったのだ。


 こうなると、「ああ、そうなんだ。おまえ、俺たちのことそういう風に見てたんだ。」という気分になる。


 そして、それまで跳び箱を飛べることを大したことと考えていなかった私も、この瞬間に「なんでデブ。跳び箱も飛べないくせによ」となるのである。


 この時点で私は「このデブが。醜いぞ!」と罵りたかったが、この頃の私は質が悪く、罵る機会を温めておいた。


 私の通った小学校はどこか抜けた奴が多く(というか鈍い)、この「弱者の中の弱者」の演技と敵意に気付かず、オデブに騙されて、素直にも「がんばれー」とか声援を送っていたのだ。


 そして、それからしばらく経って、オデブがついに飛べるようになりました。この時、アホなクラスメイトと教師は拍手喝采。


 質の悪い私はこのタイミングを待っていたのです。


 拍手喝采の中、オデブに近づき蹴りを一発。ついでに「醜いぞ!」と。


 場が一瞬で凍った後に、教師のビンタを食らう。


 さらに授業後に体育教師に呼ばれた。


 蹴ったことは反省したが、一応までにどうして蹴るに至ったかを説明したら、まったく理解されなかった。


 「まーそうだろうなー」と思いつつ、「キリストの教えを学んでいるのに(ミッションスクールだった)、なにを学んでいるのか」という教師の叱責には心の中で爆笑を禁じえなかった。


 ちなみに、このオデブは実は賢い奴で、私はそのことに気付いていた。


 他のアホなクラスメイトなんかより、オデブの方が話すのに楽しい相手と思っていたのだ。


 だから、この賢いオデブはその後どうやら「浅沼にはばれていたのか」と思ったらしく、急接近してきた。


 しかし、その接近の仕方がまた媚びていて、自分から子分のように振舞うので、


 「何にも分かってないじゃないか。俺はその卑屈さに腹が立ったんだぞ」と指摘。


 すべてを悟った彼は普通に接するようになり、その後オデブとは普通に親しくなった。


 余談を言えば、このオデブと仲良くしだしたのを件のアホ教師が見て、


 「浅沼君も反省したのね」と褒めきた。


 どこまでアホなのか、と思った。


 

 この手の価値転倒によって復讐を遂げるというドロドロした戦略(=ルサンチマン。単なる怨念とは違う点に注意。)は、実は結構世の中に溢れている。


 DVを受けている女性が、本音では殴る男にむかついているのに、怖い。そこで、「そんなヒドイ男でも許容する私」という転倒した価値を作り出し、そのことによって復讐を果たす方法。このとき、殴られる女性は、心の中で男性の優位に立つ。しかし、それはあまりに卑屈で、力を持たない、不健全なあり方だ。DVの問題の本質はここにある。結局、殴られる女性は殴る男性に依存しているのだ。


 2ちゃんねるの「必死だな」もルサンチマンの発露形態の一つである。

ある事柄について書かれた意見があって、それに腹立たしい奴がいるとする。

しかし、それに正面から「君の意見は○○な点で間違っている」と言うことができそうもないし、言えたところで水掛け論にしかならないことが予想できるとき、「必死だな」とコメントするのである。

その掲示板はある特定の問題についての語り合う場なのだが、その問題について語ること自体が「汗臭い、気持ち悪い」という別の価値空間を持ちだして、そのことで復讐を実行するのだ。


 元名選手の野球解説者が、成績は良いが素行の悪い現役野球選手などに対して「渇!」を入れたりするが、これも「野球が巧いかどうか」だけが問題になる本当の意味でのプロフェッナルの価値とは関係ない素行・マナー・心構えの価値を持ち出して、批判していることになる。今は動かなくなった自らの身体を自覚するがゆえの嫉妬ゆえなのか。


 先日も、古田監督兼選手が退場になった際に、このようなルサンチマンを発していた。大負けしている展開で相手チームは盗塁したことに対して「アホかー」みたいな暴言を吐いたことが原因で退場処分になったらしい。敗者への配慮がないと言いたかったらしい。試合時間が長引きファンに悪いじゃないか、と後で言い訳していたが、これはどう見ても取ってつけた感じがする。


 ルールで盗塁はどんな状況でも認められている以上、それを尊重するのがプロだと思うし、そんなにこのケースの盗塁が問題だと思うならば、日本プロ野球のルール改正を求めて運動すればいい。そういう運動もせずに、弱者であることを逆に武器にするような「弱者の中の弱者の論理」を古田に感じてしまった。



 ああ、どうも日記を書くと長くなる。


 「その2」をメインに書く予定だったのに、面倒になってきた。


 そのうち「その2」も書きます。


ちなみに、オデブの不健全な態度に悪態をついたこの日記を読んで、「ああー浅沼君も不健全だな」と思った方がいたら、そう貴方こそが最も健全です。自分でも書いてて、「あ、僕も不健全だなー」と思っていたんです。笑


 でも告白すると、私は小学校のときの教育を激しく憎んでいます。


 先生にはお世話になったと思うし、友達もまー悪い奴はいなかった。

 

 が、キリスト教の教育ってやつ(他の学校のキリスト教の教育は良く知らないが、私がA学院初等で受けたそれ)は、その後も悪い意味で私を拘束したからである。


 これについては積年の恨みがある(言いすぎだな。笑)があるので、絶対にいつか文章に起こそうと思う。


 この怒りは実は「法学」に対する気持ちと共通する点が多いのだが、「法学は神学である」という法学批判と同じ理論上にあったりする。


 いや、この時点で開陳するのはやめておこう。


 質悪く、罵りの機会を温めておこう。


 あっ、これはさっきのオデブのときと同じ……。


 成長していないなぁ。


 

 (以下はメモ。)


 オルセー美術館

 解放と光

 モンパルナス

 ヘミングウェイ購入

 アジェ

 二人の美の旅人  

 感覚の共有×

 





 

 





 



  





   

 このブログを開設してから1年が経ったらしい。アメーバからのメールで知った。


 1年が経った今となっては現行のブログタイトルが恥ずかしいような気がするんですが、かといって良い代案も浮かばないので放置します。


 最近ほとんど日記を更新してなかったんですが、「こんなこと俺、考えてたのかぁ」という後日の驚きのために、本当は毎日日記を付けたいと思ってるんです。


 「ああ、こんなことしてたんだぁ」じゃなくて、「ああ、こんなこと考えてたんだぁ」です。


 他にやらないといけないことがあったりして、最近はほとんど日記を更新できていないのがちょっと残念です。


 でも、今日は久しぶりに文章に起こす気になりました。


 

 (以下の青色の部分については、面倒な人は飛ばしてくださいな)


 ところで、以前は「俺ならこう思う」とか「俺はこう感じた」という意見について考えるのが好きでした。


 というか、自然とそんなことばかり考えていました。


 自分・他人・周囲・社会で起きる出来事やことがらについて、それをどう思うのか突き詰めて、最終的にはその意見を自分・他人・周囲・社会にフィードバックさせようという意志が働いていました。


 専攻していた政治思想も、簡単にいえば「社会をどうするか」についての学問だったので、「社会(出来事)→自分(思考)→社会」というフィードバックの学問だったと言えそうです。


 (もちろん、政治思想を勉強すればするほど、現実の自分が社会に対して行使できる影響力の小ささに気付き、時折は空しい気分にもなりました。)


 これは……


 1、自分の力(思考力)で自分を含めた外部世界を変えてやろうという信念のようなものが最初にあり、 


 2、そうする力(思考力)が自分にはあるだろうという、ある程度の自信があった。


 ということでしょう。


 しかし最近は、なんだか自信も薄れ、そしてそれに応じて外部世界を変えてやろうという信念も後景に退却していっているのを感じます。(2が×になって、1も×になっていったということ)


 

 いや、何かしらの挫折があって自信がなくなったとかじゃないんです。


 なんていうか、自分自身の不思議さみたいなのを感じることが多くなったのです。


 それゆえ、「社会→自分→社会」というサイクルで、現実の社会と未来の社会を媒介していた(orしようとしていた)真ん中の「自分」が揺らいだのです。


 このことをもう少し丁寧に言わせてください。


 メルロ・ポンティが、あるところで


 「哲学と実践は、同じ実存の両極である」と述べています。


 磁石の両極のように、哲学と実践は正反対のものであるということです。相容れないのです。


 哲学者ソクラテスが、実践の場である社会から「反社会的」であると指弾され死刑に処せられたように、哲学と実践は古代ギリシャ時代から対立的なのです。同じことをたとえばレオ・シュトラウスも「哲学者は都市を転覆する」などと述べています。


 しかし、重要なのはこの相性の悪い哲学と実践が、「同じ」実存の両極にあることです。


 これはよく考えてみれば当たり前のことで、私たちもみんな、真理を目指す哲学的側面とともかくも生きていく知恵を身につけようとする実践的側面を、その両面を持っているのではないでしょうか。どっちに偏ってるかは人によるのでしょうが。


 メルロ・ポンティによれば、政治思想というのは、この両極の対立的な両義性を自らに引き受け、両者の架け橋となる学問であり、この難題を解決しようとする高貴な意志を持つものが従事すべき性質の学問領域だそうです。


 それゆえ、メルロ・ポンティの思想は「両義性の思想」とか呼ばれています。


 なんだか偉そうでむかつきますね。笑


 でも、これが結構つらい立場なんです。


 というのは、実践の側から「あれこれ頭でっかちなこと言うなよ」と批判されるだろうし、


 哲学の側からは「真理を目指すという姿勢において中途半端だ。おまえらのは学問でもなんでもない」と批判されるのです。


 重武装の準備もない中立国が、対立する2つの大国の間に挟まれて、どちらからも叩かれるのに似ています。


 (ちなみに、戦後のアホ日本左翼は、このタイプの中立国を目指そうとしていたのです。スイスだって重武装じゃないですか、社民党さん。選択肢はアメリカに寄り添うか、重武装中立かの2つしかないんです。)



 話を元に戻すと、最近の私はこの中立の立場(政治思想の立場)に疲れたのか、どうも哲学的な側面が強くなっています。


 といっても、哲学を勉強してるという訳ではない。資格試験の勉強の方で手一杯なのです。


 ただ、ふとした時に自分の奇妙さだとか、不思議さに気付いて、なんだか呆然とするんです。


 この感触こそが哲学だと思います。


 以前読んだ本に永井均さんという哲学者の本があるんですが、そこに……


 そういう不思議な感じこそが哲学的空間の入口だと書いてありました。


 もちろん、哲学というのは(永井氏も述べているように)、その不思議に思ったことを徹底的に考え抜く頑強さがなければできない学問のようです。


 しかし、そもそもこの不思議な感じがしない人には哲学はまったくのチンプンカンプンだそうです。


 簡単に言うと、センスがないと哲学は無理らしい。


 ちょっと自慢めいて聞こえるかもしれないけれども、自分にはセンスはあると思う。しかし、それを考え抜くだけの忍耐力はないように思う。


 どうやら、このセンスというのは子供の頃に、そのような不思議な感覚を経験をしたことがあるかどうか、で決まるらしい。


 自分自身、覚えている不思議な感じがいくつかある。列挙してみよう。説明しきれないものだが、感覚的になんとなく分かる人もいるのではないか。


・影の方が本当の私であって、本体とされる私の方が実在してる感じがしない、と感じたことがある。


・空間的な閉所恐怖症ではなくて、時間的な閉所恐怖症という感覚を持ったことがある。


・他人には心がないんじゃないのか、となんとなく感じ、他人を私にしか見えない幻影のように感じたことがある。


・運が良いという意味での「ついてる」ということと、何でも物事には原因があると考えることは、結局同じなんじゃないかということが感覚的に分かる。


・ベッドの淵などで頭を逆さにしても、よく聞くように「世界が逆さまになった」とは感じなかったことがある。


・「今思えばアレは幽体離脱だったんじゃねーのか」と思うようなや体と心の乖離や、もしくは無重力感を、好きな時にいつでも味わうことができた。

 (自分の場合、部屋の壁紙の模様を思い出すと、いつでも作動した)


・悲しい時に胸が苦しいというのはまったく感じたことはないが、悲しい時には、特定の味を舌の先で感じた。


・起きたら違う人間になってるのに、そのことにも自分は気付かないのではないかと感じ、寝る前に怖くなったことがある。


・黒鍵だけで適当にピアノを弾いて、その音色に眩暈を覚えたことがある。


・親類のお葬式の際に、少し離れたところから母親の姿を眺めていたら、「この人は宇宙人なんじゃないのか」と思ったことがある。


・「それで相手に怒ったら、貴方もその相手と同じ馬鹿なのよ」みたいなことを言う奴が一番卑怯だと感じてしまうが、なぜそれを卑怯と感じてしまったのかについては自分でも「え、なんで?」と思ったことがある。



 以上に上げたリストは、私が子供の頃に感じたことで、これがそのまま哲学的センスの有無の判定基準にはならないでしょう。


 しかも、それぞれがどういう共通点があるのかも全然分かりません。


 ただ、上に挙げたすべてのケースでは、いつも同じ不思議さを感じ取っていました。


 少なくともこの不思議な感触は、どこぞやの小学校の先生が言いそうな「植物や動物を観察して不思議に思う心」みたいなのとはまったく違う感覚です。不思議さの種類が全然違う気がします。


 ともかくも、そんな不思議な感じの出来事を子供の頃によく感じていた気がします。


 そして、最近また、この不思議な感じを味わうような機会があるのです。


 とりわけ、「あっ、これは子供の頃のアレじゃないか」と思うのは、寝入る寸前のときです。


 就寝時はたいてい本を読んでいるのですが、ほぼ毎日、本を読んだまま寝てしまいます。


 しかし、なんだか夢にしてはあまりにリアルな感じで、私は本を読み続けてます。(夢遊病では絶対にない)

 

 ちゃんと頁もめくったりしてるんです。ひどい時なんかは、ペンで線まで引いてるんです。


 しかも恐るべきことに、ちゃんと本の内容を勝手に先まで頭の中で捏造してるんです。


 たとえば小説を読んでるのであれば、まるで最初の15分だけテレビドラマを見て先の展開を予測するように、筋を捏造することはできそうです。


 しかし、読んでる本が小説じゃなくても捏造しちゃってるんです。


 そして、ある瞬間に「あれれ、なんかおかしいな」と気付き、例の不思議な感じがするんです。そこでようやく目が完全に覚めます。


 すると、本を読んでたはずなのに、ベッドの脇に落ちてたりする。ペンで書き込んでたはずなのに、本はきれいなまんま。


 その時には捏造してたストーリーはもう完全に忘却しているので、実際に起きてその先を読み進めても、さっきまで読んでた内容と一致しているのかも確かめられくなっている。


 


 また、音となって現れることもあります。


 まるで作曲家にでもなったのか、楽曲が聞こえてくるんです。


 しかもかなり複雑な和音の曲で、ジャンルは必ずクラシックです。しかし、まったく聴いたこともない曲です。


 メロディーだけでなく、時には複数の楽器の音が混じっています。


 しかし、なぜかピアノかパイプオルガンの音が一番大きく聞こえてきます。


 本の先読みの場合と比べて違うの点は、音楽の場合は完全に起きた状態であることにあります。


 ベッドで横になったまま、その曲を聴いているんです。


 そして、「あれ、なんだこの曲?」とか思って例の不思議な感覚に囚われると、その瞬間にまったくいつもの現実に戻り、さっきまで聞こえていた曲はそこで止まる。そして、さっきまで聴いていた曲をまったく思い出せないのです。


 本・曲のどちらに出るかは予測なんてつかないんですが、最近はほぼ毎晩、どちらかを体験しています。


 そしてこの体験は、まさしくあの子供の頃の不思議な感覚と同じなんです。


 どう同じなのか分からないけれども、同じだと感じるのです。


 「ああ、あれだな」と。


 そして、目が覚めるとどんな体験だったか克明に思い出せもしないくせに、なぜか一気に目が覚めて、眠れなくなります。


 このせいで、最近は寝不足です。 


 

 心理学では、起きている時は意識が働き、寝ているときは夢において無意識が働くと言いますよね。


 そして、起きている時の意識が抑圧したものが無意識として蓄積し、それが夢の中で紡ぎ合わせられる、と。


 この心理学の前提を受け入れるならば、眠りかけてる時ってのは、ちょうど意識と無意識の間にいるのでしょう。


 もしくは、意識と無意識が同時に作動しているのでしょう。


 「だから、変なことが起きるんだ」と自分を納得させたいところですが、なんだか自分でもまったく納得できてない。


 なんなんだこりゃ。


 皆さんも同じような体験をしたことがあったら是非とも教えてください。


 



 ところで、最後に余談を。


 このところ、睡眠というものに対しての認識が変わってきました。


 というのは、睡眠というのは体を休めるという側面もあるが、それより精神を休めるものなのではないかと思うようになったのです。


 個人的には「寝てないときほど悲観的なことを考えるものだ」とは思ってきましたが、やはり睡眠によって精神状態はリセットされるのではないかという考えを強く抱くようになってきました。


 現実世界での意識では認めたくない不快な気持ちは、その意識によって無意識に追いやられる。


 しかし、これは単にゴミ箱に捨てたというようなことではなく、夢を見ることによって、その間にその不快な気持ちを(意識に代わって)無意識が対処してくれるのではないのか、と思うのです。そこでようやく、その不快な気持ちがなくなるのではないか。


 だから、精神の安定のためには夢を見なければならないし、逆に言えば、夢を見るような時ほど精神が疲れているのではないだろうか。


 また、肉体が疲れているから体が眠いと感じるのではなく、いやそれもあるだろうが、むしろ無意識に不快な気持ちが溜まりすぎて容量の限界を迎えたときに眠くなるんじゃないかなー。それはまるで、精神が「もう無理~。肉体さんよ、ヌマ君をそろそろ眠くしてあげてくれないかなー」と肉体さんに連絡し、それを「ああ、分かった」と肉体さんが了承してくれた時に眠くなる、そんな感じでしょうか。


 この仮説が正しいならば、眠いときは寝ないとヤバイんじゃないでしょうか。


 それを無理して起き続けていると、精神が容量を超え、なにかしら病的なことを考えるようになってしまうのではないだろうか。


 なんでこんなことを言うかというと……


 よく寝る人と、ほとんど寝ない知り合いをそれぞれ思い出すと、(寝れない人は対象外)


 よく寝る人の方が、 無意識に負荷を掛けてるような人間関係をしているように思うからです。


 負荷を掛けてるというのは、単純に不快な思いをよくしているというのではない点が重要です。


 不快であるとハッキリと感じれる人はむしろ無意識に負荷が掛かっていないように思います。


 深層では不快なのに、それを明るく振舞って気付かないようにしている人や、落ち込んでる暇はないと自分に鞭打っているタイプの人こそが、無意識に負荷を掛けているように思われるのです。


 寝ることによってリセットするにも、無意識にたまってる負荷が大きい人ほど去するのに時間がかかり、リセットするまでの作業時間がかかり、その分だけ睡眠時間が長くなる。


 この仮説は、「ほとんど寝ない人は、それだけ精神的にはキツイ」という一般的な常識と正反対の意見です。


 もちろん、リセットするのにもっと時間が必要なのに、諸般の事情(たとえば仕事があるから睡眠時間を削らざると得ないという理由など)によって、それだけの睡眠時間を取れていない人は、精神的にキツイ思いをしているでしょう。


 でもそれは「寝れない」人に関することであって、ここで考えているのは「寝ない」人なのです。


 そう考えると、ナポレオンがほとんど寝なかったというのは、単純にそういう人だったのではないかとも解釈できる。


 実際、「実務家タイプの職業の人はあまり寝ない人が多くて、芸術家はよく寝る」と聞いたことがありますが、ナポレオンは典型的な実務家ですよね。


 実務家タイプの人には、わりと生真面目な性格の人が多く、「嘘は言わない」みたいな人が多い気がします。飲み会の会計係を任されちゃうような人は、どうもこの手の性格の人が多い。彼らは、良く言えば現実が不快なものであってもそれと向き合える強さがあり、悪く言えば、現実をもう一度内省的に捉え返す審級が欠如しているのではないだろうか。簡単に言うと、「強いが浅い」。


 逆に芸術家タイプの人は、良く言えば内省的なので感情をそのまま受け入れるほど浅くないと言えるが、悪く言えば現実と向き合う強さに欠く。


 この場合、無意識に負荷が掛かるのは後者であることは言うまでもないでしょう。


 だから芸術家タイプの人はよく寝るんだ、と思う。


 

 ああ、眠くなった。なので尻切れトンボにここで寝よっと。リセットです。





 








 驚くことがありました。


 「本当かよー」と言いたくなるような、嘘みたいで本当の話です。(だから自分でも驚いたんだけどね。)


 先日、ジーンズのリーバイス(Levi-Strauss)の広告を見て・・・


 「おおー、(構造主義人類学者の)レヴィ・ストロースかー。広告に載るとは、いやはや時代も知的になったもんよ~」


 と思ったのです。


 学者のレヴィ・ストロースもスペルがLevi-Straussで同じなんですね。


 もちろん、すぐに勘違いに気付いて、「ああ、ジーンズの・・・」と納得しました。



 驚くべきなのは、この勘違い自体ではなく、同じ勘違いをした人を、たまたま本を読んでて発見したんです。


 橋爪大三郎という学者の本なんですが、彼も同じ勘違いを、数十年前に、犯していたのです。



 同じ馬鹿な勘違いをしたことよりも、勘違いした数日後、たまたま読んだ本に同じ勘違いをした他人の話が載っていたことに驚いたんです。


 ただ、さっき調べて分かったんだけれども、


 実は、ジーンズのリーバイス社の創設者と、構造人類学者のレヴィ・ストロースは、遠縁の親戚関係にあるらしい。


 読み方が異なるのは、おそらく学者のレヴィ・ストロースが、自分の名前のユダヤ性を剥ぎ取って、英語風に発音していたからなのでしょう。


 


 (ここからは余談です)


 レヴィ・ストロースで思い出すのは、


 以前読んだ桜井哲夫さんの・・・・



 『戦争の世紀ー第一次世界大戦と精神の危機』


 『戦間期の思想家たち-レヴィ・ストロース、ブルトン、バタイユ』


 『占領下パリの思想家たち-収容所と亡命の時代』 (これは先月に出版されたばかりだが、発売日にすぐ読んだ)



 の3部作です。


 これがメチャクチャ面白い。


 第一次大戦から第二次大戦直後くらいまでのフランス知識人の人間関係を、時代順に3つに区分して、それぞれ一冊ずつになっているのです。


 これがおもしろかったのです。


 既に登場したレヴィ・シュトラウスのほか、


 アンドレ・ブルトン(シュール・レアリスムの「帝王」)


 ジャン・ポール・サルトル


 ポール・ニーザン


 レイモン・アロン


 シモーヌ・ヴェイユ


 アンドレ・マルロー


 マルセル・モース


 ジョルジュ・バタイユ


 ジャック・ラカン


 シモーヌ・ド・ボーヴォワール


 アンリ・ルフェーブル


 

 などなどの、あの時代に百花繚乱のごとく活躍したフランス知識人の交友関係が、克明に描かれているんです。


 しかも、驚きなのは、彼らがみんなお互い知り合いなんです。


 実に狭~い空間に、後に名を残す偉大な思想家たちがビッシリと肩を寄せ合ってるんです。


 しかも、そのほとんどがフランス社会党に入党している。


 フランスでは「社会党」と呼んでいるけれども、実際には共産党です。


 だから実際には、ロシアのボリシェビキのフランス支部です。


 これに、みーんな入党してるんです。



 切磋琢磨しながらお互いを研鑽しあった、ということなのかもしれません。


 でも、この本に書いてあるのは、お互いが、



 恋人・妻を奪いあったり、


 お互いをクソのように馬鹿にしあったり、


 と思ったら急にくっついたり、


 

 で、はっきり言って、やりたい放題です。


 アグレカシオンというのは、大学教師資格のための試験みたいなもんですが、これに受かるのはフランスでも超・超エリート。


 というか、世界一むずかしい試験でしょう。


 そもそも受験資格を持っていることだけでも、東大法学部よりはるかに敷居が高いようだ。


 いちおう、国家のための高級官僚を育てるはずの試験なんですが、


 実際には反国家的な知識人を量産しまくっている。


 本に描かれているように、フランス社会党に入党しまくりです。


 それを黙認するフランスという国の懐に広さには脱帽ですね。


 それはさておき、このアグレカシオンに合格したスーパー・エリートの面々が、お互いやりたい放題に批判したり、異性関係でドロドロしてるのが面白かったです。


 個人的には、もっとも過激なシモーヌ・ヴェイユの人生に爆笑しました。賢いはずなのに、狂犬そのもの。すぐに、誰にでも噛み付きます。そして、貧乏生活ゆえに夭折。かわいそうに。


 次に好きなのが、バタイユ。こいつの放蕩っぷりは尋常じゃないっす。


 第一次大戦と第二次大戦の間の期間、いわゆる戦間期の歴史については、もっぱらヴェルサイユ体制とその崩壊の過程として、外交史ばかりが語られてきましたが、この時代の知識人の精神史に言及した本はそう多くない。


 だから、彼らに共通する精神的風土(タリーマ)を知ることができて、とても面白かったです。


 それぞれの思想については知っていても、このタリーマばかりは個人史とかを丹念に拾ってくるしかない。


 でもそれは非常に骨の折れることだから、桜井さんの本で簡潔に読めて、彼に大感謝です。


 桜井哲夫氏というと、大学一年のときに「知の教科書 フーコー」を読んで、政治思想の面白さを(おそらくはじめて)意識しました。


 その日、なぜか母親に誘われて、はとバスの一日観光に行ったのですが、バスの中でとり憑かれたように読んだ記憶があります。千葉の方に行ったんだっけな。


 いま思うと、「知の教科書 フーコー」は、フーコーの概説書としてはそう出来のいいものではないですが、当時は衝撃的な読書体験でした。


 はとバスのバスガイドの説明が耳に入らないくらいでした。


 あれからもう5年も経つのかぁ。


 


 ああ、お腹空いてきたぞな。


 いまとってもオムレツが食べたい。


 バターたっぷりの濃厚なオムレツ。


 よし、これから人生初のオムレツ作りに挑戦しよう。


 上手になったら、そのうち彼女に食べてもらおう。


 上手になったら・・・・。


 そしてジーンズを買うときは、リーバイスにしよう。


 なんかの縁だ。


 

 


 









 


















 監視権力のセキュリティ・レベルが上昇していることは皆さんお気づきでしょう。


 監視権力というと、対象は治安だけを対象にしているように思われるので、ポリス・パワーと言った方が良いでしょうか。


 治安のみならず、福祉・食品の安全・入管・労働環境・公衆衛生などのあらゆる生活事象を取締る権力のことを政治学ではポリス・パワーと呼んでいるのですが、これが肥大化する傾向にある。


 食品だけをとっても、雪印や不二家の摘発、納豆の捏造報道など。それぞれには怒りを感じますが、あまりに不寛容な国民の風潮には少し異議を感じます。しかも、そういう衛生や環境の問題に消費者がやけに騒ぐのはいいが、それが逆に、企業が「ISOさえ取得しとけば良い企業に見えるだろ」という安易な態度決定に寄与してしまっている。


 ま、それくらいにしておこう。


 ともかくも、行政などの公的権力だけでなく、民間レベルでのポリス・パワー的取り締まりも増してきている点に注目です。





 ざっと思い出しただけでも、



・繁華街やコンビニ、高級マンションなどに設置される監視カメラ


・オービスだけでなく、高速道路の速度超過を入口と出口の時間から「推測」して取り締まるNシステム


・性犯罪者の住所公開の論議が出てきたこと


・ウェブサイトの暗号認証制度の重層化


・PTAなどによる街の安全取締り(大抵の場合が地元警察の許可を得ている)


・保護者たち主導の集団登校


・渋谷などで、未成年の家出や深夜徘徊を取り締まる自称「熱血先生」と、それを賛美するマスコミ


・CD・DVDなどのコピー・コントロール


・新宿などで路上喫煙者に注意するボランティアの警告員(去年、こっぴどく怒られた経験あり)


・車の内部にさりげなく取り付けられている運転データ計測器(中古で売るときにそのデータが使われている)


・通信傍受法の成立


・電車でよく流れる「不審者・不審物を発見されましたら、ただちに駅係員に・・・」のアナウンス


・ビルの警備員の実質「警察化」。間違えて私有地に入っただけで、奴らは飛び掛ってくる。大学の警備員も、最近ものすごくウルサイ。門の入り口で「おはようございます」などと礼儀はいいが、やってることは大学権力の犬以外の何者でもない。


 などなど。


 挙げた例の中には不適切な例もあったかもしれません。


 また、私もこれらのすべてが「完全に間違っている」と思っているわけではないことをご了解いただきたい。


 ただ全体的な傾向として、監視権力もしくはポリスパワーが拡大傾向にあり、また、それを許す雰囲気が社会全体に蔓延していることに、多少の違和感を感じているのです。


 


 そこでビックリしてしまったのが、ゲート・キーパー法です。


 いま、このゲート・キーパー法なるものが国会の審議に入ろうとしていると知り、ビックリしました。


 これは凄い法律ですよ。

 


 ゲート・キーパー法とは・・・・



 弁護士・公認会計士・行政書士などの約20の職業に就く者が、


 依頼人の資金繰りが法に抵触するかもしれないことに気付いたら、


 警察に報告しないといけないという義務規定


 を盛り込んだ法律のことです。



 日本ではまだ制定されていないので、したがって、まだ正式名称が決定されたわけではない。


 しかし、この法律の母国であるイギリスではゲート・キーパー法と名づけられています。


 この法律が、今週国会の審議に掛けられているそうなのです。


 日弁連はこれに反対していますが、もしかすると来週には成立するかもしれないです。


 ちなみに、マスコミにはこのゲート・キーパー法のことをまったく報じていません。


 この法案を通そうとしている警察庁が怖いのでしょうか。




 そもそも、このゲート・キーパー法は、テロ組織のマネーロンダリングを防止するための法律とのことでした。


 「なーんだ、俺、テロなんかしないから関係ないやー」と、そう皆さんも思うのではないでしょうか。


 しかし、蓋を開けてみたら、その内容がテロ活動なんて大それた話だけに限定されていないのです。(共謀罪の場合と同じ)


 

 たとえば、遺産相続でビル財産の分割をする際に、その遺族たちが弁護士を雇ったとします。


 しかし、そのビルのテナントに違法の風俗店だとか、ワシントン条約に違反する動物を売っているようなペット・ショップがテナントに入っていて、それを弁護士が気付いた場合、弁護士は警察に報告しないといけないのです。


 (違法行為を犯しているのはテナントの人であってビルのオーナーではない。しかし、その違法行為をしているテナントから家賃収益を得ているということで、ビルのオーナーも罰せられるのです。)


 税理士が、依頼人の会社が軽~い脱税をしていたとして、それに気付いた税理士は警察に報告しないといけない。


 

 さらに驚いてしまうのは、


 第一に、主観的な判断で良いということ。


 弁護士は、確信がなくても、「怪しいな」というだけで報告して良いのだ、ということ。


 

 第二に、報告しないと、「過失報告懈怠罪」に違反したことになり、弁護士資格や税理士資格を剥奪される。

 

 これは弁護士にとってはとてつもなく重い罰則なのではないでしょうか。


 

 第三に、警察に報告した弁護士は、その旨を依頼人に話してはいけないということ。


 弁護士は依頼人を騙す形で依頼人を警察に「売る」ことになるのです。


 そんなのでは弁護士と依頼人の間の信頼関係なんか生まれるはずもなくなるでしょう。


 いわゆる「守秘義務」は、このゲート・キーパー法の前では無力です。 


たとえば、ちょっぴり違法行為をして(もしくは。違法行為をしたかもしれないと思って)、その相談で弁護士のとこに行ったとします。


 そしたら、その違法行為を弁護士は私に黙って警察に報告するのです。


 もし、弁護士が勝手に話したことを私が知ったら、私ならその弁護士に復讐すると思います。


 ちなみに、イギリスではこの「復讐」を恐れて、弁護士が縮みあがっているらしい。


 たとえば、イギリスでは実際に弁護士の報告によって、依頼者は銀行口座を凍結され、その会社は倒産したらしい。


 その依頼人である会社オーナーは、裁判で弁護士を訴えたが、弁護士は「ゲート・キーパー法を守っただけだ」と主張し、弁護士側が勝訴したそうです。


 この会社オーナーの場合は、裁判に訴えたが、私だったら確実にこの弁護士に復讐を遂げようとすると思います。

 


 また同じくイギリスでは、警察への報告を怠った弁護士が、なんと一審で懲役15ヶ月の実刑判決(執行猶予なし)。


 二審では6ヶ月になったそうですが、あまりに重い実刑処分です。


 そんな危険な事態が起きているイギリスのゲート・キーパー法を、いま、日本でも導入しうようとしているのです。


 これはホワイトカラー・エグゼンプションどころの騒ぎではないですねー。


 この法律を通したがっているのは、法務省ではなく、警察庁です。


 法案の提出をしたのは警察庁でした。


 警察庁は何を考えているんですかね。


 よほどの馬鹿なのか。


 それとも、「自分たちは治安を守っているんだ」と勝手に思い上がっているのでしょうか。


 いずれにしても、あまりにヒドイぞ、ゲート・キーパー法。


 こりゃデモでもすっべかー。(逮捕はごめんだから、実際にはしないけど。笑)


 

 しかーし、実はこのゲート・キーパー(門番)的な役割を、銀行は既に実行しています。


 莫大なお金を取引している怪しい顧客。(貧しい服装してたりなど)


 海外との取引が多い顧客。


 これらの顧客のことを、銀行はすでに警察に密告しています。


 なんと国内で年間約10万件もの密告が行われているのだそうです。


 しかも、そのほとんどが冤罪。


 振り込め詐欺だとかを取り締まるのに銀行が協力(口座凍結など)するのは賛成です。


 しかし、勝手に密告されているのには腹が立ちますね。


 たとえば、私が宝くじで2億円を手に入れたとします。


 そのお金で、たとえば中東のどっかの国から絨毯を仕入れて日本で販売する輸入業をやることにしたとします。


 そこで、現地の仕入先に銀行から出・入金を繰り返したとする。しかも、なるべく汚らしい服装で銀行に行くのです。


 すると、突然ある日銀行口座が凍結される可能性が結構あるそうなのです。



 もしそうなって、その輸入業が倒産したりしたら、銀行を恨んでも恨みきれんでしょう。


 

 






 








 今日、渋谷シネマライズでドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」を見ました。http://www.darwin-movie.jp/


 いやー、素直に驚きました。ズシーンと心に響く映画でした。いや、本当に、これはすごい映画でした。見ている間も一分たりとも気が抜けませんでした。



 私がその感動を表現しても安っぽくなるので、まだ見てない人は、是非ともご自分の目と心で感じて頂きたいと思います。


 と、こんな感想だけだったら何も日記にする必要もないので、自分なりに考えてみたことを以下で書いていきたいと思います。


 (わりと雑なとこもあるので、突っ込んでくださって結構です。)



 詳しい内容はネタバレにもなっちゃうし出来るだけ控えたいのですが、少しだけ要約すると・・・・



・タンザニアのヴィクトリア湖でナイルパーチという魚が誰かの手によってもたらされ、これが大繁殖。(生物学的進化論の過程)



・そこに目をつけたグローバルな資本が登場し、現地(ムワンザという街)にナイルパーチの輸出産業用の加工工場ができる。



・近隣都市の住民や、輸出のための飛行機のパイロットなどの人が流入し、ムワンザがグローバルな経済に巻き込まれていく。



・そのグローバル化の波によって、貧富の差の拡大、ドラッグの流通・HIVの蔓延・ストリートチルドレンの発生・治安や衛生状態の悪化・人心の荒廃などが起きる。


 こんな感じでした。


 

 さっそく家に帰って、わりと信頼している社会学者の宮台真司さんの批評を見てみました。


 しかし、ちょっとガックリ。


 「合成の誤謬が問題なのです」と述べていたのですが、私から言わせると「そりゃそうだけどさ・・・」なのです。


 合成の誤謬とは、各人の判断というミクロ・レベルの判断は合理的であっても、社会全体というマクロ・レベルからすると非合理になることを言いますが・・・・


 たしかに「ダーウィンの悪夢」では、工場の経営者は「ナイルパーチのおかげでムワンザに産業が起き、雇用も生み出したんだ」と自慢げに語っていました。彼は「良かれ」と思ったんですね。


 しかし、その他の労働者は他の選択肢もないから漁師をしたり、水産研究所の警備員をしたり、売春婦をしたり、「骨場」で目を潰してまで働いたりしているのです。


 したがって、かれらにとって合理的な判断ではあっても、それは「判断不可能性ゆえの判断」なのだと思いました。しかもこの場合、「ほかに選択肢がない」という状況に置かれているのは、実は現地のタンザニア人だけではないのがポイントだと思います。


 ロシア人(?)のパイロットも、そしてもしかしたら、貿易している先進国の企業の人たちも、グローバルな資本の要請の前には圧倒的に無力と言えます。たとえば、パイロットさんは「俺には家族がいるんだ。どうしたらいいって言うんだい」みたいなことを言っていました。


 つまり、どこかに誰かしらのヒール(悪役)がいると考えると、この映画を見間違えることになると思います。というか、ザウパー監督さえもが勘違いをしているように見えました。(違うかもしれないけれども)。


 映画の随所に「ヨーロッパがいけないんだ」というメッセージがあったように思います。


 なるほど、究極的にはそうです。(その理由はあとで、「比較優位の原則」を紹介しつつ詳述します)


 しかし、少なくとも明確な悪意を持った黒幕など、存在していないのです。黒幕がグローバリズムという武器で、無邪気で無垢だったタンザニア人を搾取しているのだ、と考えるのは間違いです。ここではすべての人間が共犯関係にあるのですが、より問題なのは、ほぼすべての人間が「自分は共犯なんだ」という認識がない・できない構造があるからです。



 はっきり言えば、グローバリズムそのものが問題なのです。



 グローバリズムが「共犯である」ということを見えなくしている。



 しかし、考えてみると「グローバリズム」というのは、「相互交流のためのコストが相対的に低下した状態」と考えるのならば、それ自体は悪いものではありません。現に、オーストリア人ジャーナリストが、タンザニアで撮った映画を私が見たのは、グローバリズムの恩恵による。



 また、「ダーウィンの悪夢」を見た人たちが、何かしらの集団的なリアクションを起こし、それがタンザニアの人の生を改善したりするのであれば、それはグローバリズムというチャンネルを通してのことになるでしょう。



 だから、グローバリズムを適切に分節化しなければならないと思います。



 では、「ダーウィンの悪夢」を悪夢にしているグローバリズムの形態とはなんでしょうか。



 私が思うに、それはグローバルな資本が要請する世界の分業化です。しかも、「構造調整的」な分業化です。


 IMFは世界の分業体制を推進するために「構造調整プログラム」なるものを実施してきましたが、これが問題なのです。映画でもたびたびIMFが批判的な意味で引用されていました。



 この構造調整的な分業化の問題性を指摘するまえに、まず確認しておきたい2つのことがあります。


 「ダーウィンの悪夢」の世界には悪役が不在であることは既に書きましたが、それはすなわち、以下の二つの批判は的外れになるだろうということです。


 第一に、「援助貴族」批判です。少し前までは、ODAなどの開発援助が、現地の政府高官などの一部の人(=援助貴族)の手に渡り、本当に困窮している人の手に届かないと言われてきた。いや、現在でも確かにそうなのかもしれないのですが、「ダーウィンの悪夢」では、援助金とはあまり関係がないということ。たとえばこれは後で知ったことなんですが、日本からのODAでムワンザにナイルパーチを集積する港ができたらしい。ほら、ODAが彼らの手元に渡ってるじゃんよ。それが彼らにとって本当にいいことなのかどうかは別にしても。


 したがって、援助貴族を悪役と見ればことが済むような簡単な構造ではないのです。


 第二に、大国の国益を批判すること。たとえば、60年代の独立以降にアフリカ大陸で起きたことは、旧植民地時代の民族分割統治の延長線に位置するものだったと思います。国内の少数民族を優遇し、かれらを自然資源の現地責任者にする形で結託し、民族対立が激化したナイジェリアやルワンダやコンゴ。もしくは、冷戦の代理戦争として国内の民族対立が東・西の冷戦構造に利用されたスーダン、モザンビークなどなど。この場合に悪役だったのは、大国だったのです。しかし、「ダーウィンの悪夢」は、そんな帝国主義的な、もしくはイデオロギカルな国益とは無関係である。



 では本題に戻って、構造調整プログラム的なグローバリズムの問題です。



 構造調整プログラムの詳しい説明は省略しますが、これが「南北関係を固定化するような構造を持っている」という批判されているのは有名でしょう。



 では南北関係を固定化しているのは、そのようなプログラムを課しているIMFや世界銀行だけのせいかと言えば、そうではありません。私は、資本が持つ「比較優位の原則」にまず原因を求めます。




 比較優位の原則とは、リカードが提唱した理論なのですが、グローバリズムの分業体制を考える上でとても示唆的です。



 以下に挙げるサイトの説明が上手いので、是非見てください。


 http://www.ne.jp/asahi/british/pub/econ/comparative.html



 ここでは、フランスとスペインを例に、両国はワインと織物をどれだけ作るのが分業体制下で求められるかを説明しています。



 ワイン、織物ともに生産性の点ではフランスの方が「絶対優位」なのですが、「比較優位の原則」によって、「フランスはワイン・スペインは織物」だけを生産する方がトータルで効率的になってしまうのです。完全分業です。



 もちろん、この完全分業が推奨されるのは、自由貿易の障壁や輸送のコストなどの難点がない場合に限られるのですが、おそろしいことに(or素晴らしいことに)、グローバル化した世界ではこの条件をほぼクリアしているのです。



 したがって、グローバルな現代世界においては、各国がそれぞれ特化した産業を保護・推進することが、それぞれの国においても効率が良いのです。



(もちろん、一つの産業分野しか選択できないわけではありません。ここでしているのはあくまで概念的な説明です。)



 それゆえ、タンザニアの国民もすすんで、自らのためにも、ナイルパーチの加工業を選択するのです。大国押し付けられて選択した訳ではないのです。



 こここではフランスとスペインの例を挙げましたが、これは南・北にも当てはまります。



 だからグローバルな国際社会は、分業体制の効率性ゆえに、南北問題という関係を固定化するのです。




 というのは、仮に南側諸国(ここではタンザニア)が「やってられねーぜ」と言って、固定化された産業分担(ナイルパーチ加工業)を放棄しようとしても、既に他の産業分野は、より効率の良い生産体制を取っているので、むしろ損になる。「アホラシイ」「俺らは搾取されてるんじゃないのか?」と思っても、そこから抜け出すことは損になるので、いまさら産業分担を変えられなくなっているのです。


 

 この場合、南側にとって悲劇なのは、自国が産業分野を選ぶ際に、かれらには選択肢の幅が(ほぼ)ないということにあります。

理論的にはその選択肢の中でどれを選ぶかは自由なんですけどね。



 産業にも、「おいしい産業」と「儲からない産業」があり、現代では「おいしい産業」は、先進国の先端の需要に対応するようになっているのです。ちょっと前であればIC産業、最近では金融業・バイオ関係の産業などです。これらの先端産業は技術力を要請するので、先進国にしか(実質的には)選択権がないのです。



 たとえば日本は、もう自動車産業はおいしくなくなってきたのに固執してきたので、現時点では生産性の低く、そして技術力ではアメリカに大きく遅れを取っているような産業分野にも、国策として敢えて取り組んでいます。この姿勢は、簡単に言うと「常においしい産業にフォローしていかないと、いずれ儲からない産業を固定的にしがみつく将来のアフリカ候補」になってしまう」という危機意識によるものでしょう。


(いつまでもトヨタが売りの日本ではマズイのです。)



 最初にどの産業分野を担当することになるかを決めるのは、その国の偶然性によります。まず、技術力と資本の蓄積度。この条件をクリアしていない南側諸国はこの時点で「おいしい産業」を(実質的には)諦めさせられ、次に「おいしくない産業」の中から、何かしらを選び取る。タンザニアの場合、それがたまたま降って沸いたナイルパーチだったわけです。もちろん、石油産出国であれば「おいしい」こともありますが、そのような例は石油とダイヤモンド以外にはほとんどないでしょう。



 ここまで書いてきたことを整理すると・・・



 グローバリズムの形態として、効率を重視する分業体制を採用すると、世界経済における相互関係は固定化する。


 ということになります。


 

 それゆえ、ナイルパーチ加工業を選択したタンザニアの人は、現存の分業体制下では、むしろ合理的な選択をしたことになるし、またそこには「ヨーロッパのやつら」が悪人な訳でもないのです。強いて悪人を挙げるとすれば、それは現存の分業体制そのもの、ということになりましょう。悪「人」じゃなくなっちゃうけどね。



 映画館でもらったペーパーでザウパー監督は、(グローバリゼーション)の愚かさの仮面を剥ぐ」述べていますが、これは正しくないでしょう。


 第一に、ザウパー監督は「愚かな」と述べるが、愚かな人は誰もいないのです。すべてのアクターが合理的に振舞っているのです。「(ナイルパーチの不買というボイコットではなく)愚かな行為に対してボイコットを起こせ」とザウパー監督は指摘するが、愚かな行為を取っている人などどこにもいないのです。愚かなのは、現行の構造・制度です。これらは「行為」しないはずです。制度や構造は、行為を基礎付けるたり・一定の規則性の中に収めるもので、それ自体は行為しない。



 なるほど、宮台氏が述べるように、個々人の判断は合理的であっても「合成の誤謬」は起きているのであって、その点ではザウパー監督の言うように「愚か」だとしても・・・(第二点目につづく)



 第二に、ザウパー監督は「愚かだ」と指摘することしかしていない。つまり、ザウパー監督は「愚かさの仮面」を発見し、糾弾したかもしれないけれども、仮面の下にあるはずの何かしら健全な姿は提示できていないのです。マスコミにありがちな態度ですね。投げっぱなし。



 第二の点に関して、なるほど、ザウパー監督は何も述べていないわけではありません。



 (ザウパー監督は)先に触れたペーパーで、フランスでナイルパーチの不買運動が起きていることに対して、「魚のボイコットは、映画を理化する際に誤解が生じたから」と述べているのです。



 なるほど、ナイルパーチは悪くない。魚が人間界のことなど考えて繁殖するわけがないしね。



 しかし、「不買はだめよ」と言うだけであれば、映画の前と世界はどう変わるのでしょうか。



 同じじゃないですか?



 私は「比較優位の原則」を紹介しつつ、「おいしい産業」と「おしくない産業」を導出しましたが、これを用いれば「ダーウィンの悪夢」に対する理論的な解決策を提示できます。


 つまり・・・・


 1、「おいしい産業」に対する需要を低下させることによって、実質的に「おいしくない産業」へと導く。

   われわれの欲望の流れを抑制的に作動させるのです。


 2、逆に、「おしいくない産業」に対する需要を上昇させることによって、実質的に「おいしい産業」へと導く。具体的には、ナイルパ 

   ーチの不買運動ではなく、単位あたりの買取価格を意図的に高くし、それでも消費するのです。不買ではなく、今より高くてもそれでも買う。




 以上に述べてきたのは、じつは「なぜ加速度的にナイルパーチ加工業が発展してきたのか?」という問いに対する一つの回答でしかありません。



 「ダーウィンの悪夢」を悪夢たらしめていたのは、HIV・ストリートチルドレン・治安悪化・衛生状態の悪化・武器の横行などの諸問題でした。



 ザウパー氏によれば、これらの諸問題はグローバリゼーションによる「ドミノ倒し」だったそうです。映画の中では、ナイルパーチ産業が勃興する前のムワンザは出てこないので、見る側は「なるほど、すべての問題はナイルパーチ産業の始まりとともにあったんだな」という印象を強く受けます。そして、それがまるで「ドミノ倒し」だったように感じるのです。


 


 しかし、本当にそうでしょうかね~。


 私は6割そう思い、4割は納得できません。


 以下ではその4割について書きます。信じていない部分です。



 作品としては、ドラマツルギー上、そのように描いた方が良かったという都合もあるでしょう。だから、ザウパー監督を批判する気は毛頭ありません。


 しかし、今後のムワンザのことを真剣に考えるならば、より正確に事実を捉える必要性があるように思います。(その必要性に目を向けさせてくれたのは、他でもないザウパー監督です。)



 そこで、事実としてどうなのかあれこれ考えてみたいと思います。もちろん、推測の域を超えないものになるでしょうが・・・。


 たしかに、ナイルパーチの大量発生によって国内・国外の多くのモノ・ヒトがムワンザに流れ込んできたのは確かで、そうでなければ起きなかったであろう問題はいくつかあるでしょう。もしくは、あそこまで悪化する問題はなかったでしょう。


 たとえば、売春婦とエイズの問題。


 金持ちのロシア人パイロットの流入がなかったら、売春婦家業は大規模なものにはならなかったでしょう。


 しかし、そのこととエイズの問題はどこまで関係があるのか。



 サハラ以南のエイズの問題は、むしろグローバリゼーション以前からの現象であったことは周知の事実です。そもそもエイズ発祥の地、したがって「原産地」はアフリカです。


 だから、もしグローバリゼーションによるエイズ問題の潜在的被害者は、現地人よりもむしろ外国人でしょう。



 それに、エイズ問題をどうしてもグローバリゼーションの問題として見たいのならば、特許の問題こそを挙げるべきでしょう。



 特効薬(というほど絶対的な効き目はないらしいが・・・)の開発の恩恵はアフリカの人に行き届いていない、というのが定説です。特許権のせいと言われています。特許権のために価格が高く、かれらの手には届かないのです。安価なジェネリック薬を自国で開発できたタイやインドはまだしも、ジェネリックの開発もできないアフリカ諸国では、「エイズ=死への廃棄」になっているのです。



 先進国の薬品会社もその経営のために、特許を取るのは当然です。莫大な研究費の元が取れないならば、今後のエイズ薬の開発もとまってしまうでしょう。だから、このエイズ薬の点からグローバリゼーションを批判することもできないのです。悪役はここでも不在です。



 他の問題は、その大元をただせば、労使関係にあるような気がしてなりません。

 

 たとえば、ストリートチルドレンの問題も、元をかえせば両親が死んでしまっていることや、親が貧しくて子供を養えないからですが、それらの原因はその親の労使問題に関係が深い。


・低賃金

 (例:一晩1ドルの警備の仕事。)


・労災 

 (例:病気になったら、手当ても補償なく実家に送り返される。)


・労働条件

 (例:アンモニアの充満という過酷な労働条件で目が潰れる。前任者が殺された警備の仕事なのに、武器が弓。)


 南米諸国(とりわけコロンビアとブラジル)のストリートチルドレン問題のように、警察がかれらの「抹殺」をしているのならば、これはまた別な問題だが、ムワンザではどこやらのゴロツキが殺害する。

 

 (ブラジルの例として映画「バス174」と「シティ・オブ・ゴット」を挙げておきます。)


 この場合であれば、まっとうに機能する警察機能があるならば、それが対処すべき犯罪行為であって、グローバリゼーションの問題ではないはずである。


 (ちなみに、「ダーウィンの悪夢」では、政府の存在が希薄すぎて、タンザニアの実態がいまひとつ明瞭ではないのが問題である。たしかに、ヴィクトリア湖の魅力とナイルパーチの素晴らしさを説く、環境会議での政府の役人の姿は出てくる。しかし、治安・衛生・福祉全般を管理するポリス・パワーがどのように機能しているのかが映画では明らかにされないのである。あらゆる問題が混然としており、それゆえ我々は映画に絶望と驚きを感じるのだが、その問題のいくつかは適正なポリス・パワーの執行で回避できる問題であろう。たまたまポリス・パワー不在の瞬間に起きた事件を「事実」として収集しても、それは実際のタンザニア社会とは別の社会であろう。もちろん、「事実」は厳然として事実であるから、作品にケチをつけるつもりはないことを繰り返し述べておく。むしろその「事実」の収集こそがドキュメンタリー作品の監督の腕の見せ所だろう。)


 

 また、ヴィクトリア湖の生態系の破壊も深刻な問題となっていた。しかし、グローバリゼーションにおけるナイルパーチ加工業の隆盛は、むしろ生態系の回復に寄与しているのではないのか。増えすぎたナイルパーチを減らすからである。



 もちろん、ナイルパーチという「外来種」が最初にヴィクトリア湖に持ち込まれたのは、「よそ者がやってきた」という意味ではグローバリゼーションの効果かもしれない。しかし、問題だったのはたまたまそのナイルパーチがヴィクトリア湖の環境に順応し、大量に増殖してしまったことである。このこと自身は、グローバリゼーションとはおそらく関係がない。



 日本でも琵琶湖のブラックバス問題などで「もともと多様な生態系があったのに、外来種(=ブラックバス)によって破壊された」などと言い、「在来種=善、外来種=悪」と考えるアホがいるが、なんだよそれは。ブラックバスに謝れ!笑

 


 もちろん、既にブラックバスには爆発的な繁殖能力があることを知りながら、「釣りで楽しむのに良い」というだけの理由で霞ヶ浦に放流した奴には猛省を促すが、ブラックバスはいずれにしても悪くない。



 そもそも日本の動植物は、歴史的にはその多くが外来種だろう。それに、なんかのキッカケで在来種が爆発的に増えた場合は、かれらはどう思うのであろうか気になるところだ。


 



 以上のように、ここでは最初に、映画では省略されていた「ナイルパーチの加工業がなぜあそこまで突出せざるを得なかったのか」という疑問に対して考えました。


 そのうえで、「比較優位の原則」を踏まえ、一応の解決策を私なりに考えてみました。(もちろん、どれほど実現可能性と実効性があるかは私自身すら疑問だが、一応は理論的に解決策を考えてみたのです)


 最後に、では映画で強調されていたグローバリゼーションによるドミノ倒しは、どこまで本当なのかを考えてみました。その結果、「6割納得・4割疑問」くらいの感触を得ました。個人的には、4割の部分は何かしらの(しかも割りと簡単な)対策で解決できるように思うのです。たとえば、ポリス・パワーの執行という対策です。


 


 では4割の部分、すなわち、問題の原因を直接的にグローバリゼーションに求めれる部分、はどうしたらいいのでしょうか。


 しかもここで重要なのは、グローバリゼーションの後ろで糸を引いているような悪人はいないのです。(というか、みんなが悪人・共犯。)


 もし、そのような悪人がいるのならば話は意外に簡単だと思います。


 少なくとも、解決への道しるべは既に与えられていることになるでしょう。


 しかし問題になっているのは、誰の手からも離れた、グローバルな資本そのものの論理なのです。


 だから、この問題についてはまだ考えなければならないでしょう。


 この遠大な課題に対しては、うっすらと観測は持っています。


 つまり、世界銀行・IMF的なグローバリゼーションの形態を変更しみてる、という観測です。


 しかし、ではどのような代替的形態が望ましいのかは、いまのところ私にも分かりません。


 とはいえ、諦めるわけではありません。


 「ダーウィンの悪夢」で、キリスト教信者の姿が二度出てきますが、かれらはザウパー監督によって「諦めた人」として描かれていたように思います。それはまるで、「ひたすら神を信じることは、つまり諦めなんじゃないの?」という批判であったような気がします。むしろキリスト教を用いつつ、戦闘的な批判精神を鼓舞する運動家が出てきましたが、彼の方にこそ未来の可能性が与えられているように思いました。


 「時には戦うことが正当なことがある」とザウパー監督は言いたかったのでしょうか。


 このザウパー監督の態度には私も賛成です。


 

 と、いろいろと批判はしたが、本当に価値ある映画でした。



 最後に恒例の著名人のコメント批判のコーナーです。(我ながら暗い趣味だな。笑)


 今回もヒドイのありまっせ~。


 

 1、中川敬(ミュージシャン/ソウル・フラワー・ユニオン)


 生き血を吸いながら肥え太る消費者民主主義。

 贅を尽くす先進国の営みを貧者に奪われんと存在するのが軍隊である、ということをも本作はズバリ言い当てている。

 必見!



→おいおい、まず「消費者民主主義」ってのは、とりわけ食品における安全を、生産者側ではなく消費者の側が求めていく態度のことだよ。消費者が製造過程の情報公開を求めたりね。おそらく、貴方が言いたかったのは、「市場主義の消費」か「消費社会」なんじゃない?そして、軍隊?は?武器の輸出は出てくるけれども、映画でも言われていたように、アフリカの内戦している他の国への輸入という文脈で武器が出てくるだけでしょ?タンザニアはアフリカでは珍しく内戦を経験してないんだけどなぁ。何をズバリ言い当てたんすか?中川さんって、けっこう政治的な発言の多いミュージシャンだったよね?それがこの程度のコメントじゃ、その名に恥じるんじゃないんですか?http://www.mammo.tv/interview/152_NakagawaT/ ←随分、えらそうに「政治」について語ってますなぁ。

 


 2、一青窈(歌手)


 これを見た夜うなされた。

 それぐらい衝撃の事実をつきつけられて私は居ても立ってもいられなくなった。

 日常に流される前に観て欲しい。


→言葉どおり読ならば、「日常に流される前」は「日常に流されていない状態」なんだから、この映画を観ても衝撃を受けないんじゃない?自分は「衝撃の事実をつきつけられ」たと言ってるんだから、むしろ日常に流されている人に観て欲しいってことになるんじゃな いの?それに、タンザニアの現実は、それが「日常」になっていて、その日常が、我々の日常とあまりに隔世的だから衝撃を受けるんじゃないんすかねー。ここには、見る側にも・見られる側にも「日常に流される前」、つまり「非日常」は存在していませんよ。


 

 3、小林武史(音楽プロデューサー)


 たやすく哀しくなったり、怖くなって同調したりするのでも、人ごとだと思うのではなく、

 この問題が僕らの周りにもいっぱい溢れていることを感じること。

 それをどう乗り越えるのか。

 「救いようがない」と、諦める必要なんかない!


→最後の一文はそうですね。しかし、それ以前の文章に問題が多すぎますよ。映画を観て「たやすく哀しくなったり、怖くなって同調したりする」自分を発見し、それによって問題意識を持ってもらおうというのが映画の狙いなのでは・・・。それに、このナイルパーチ問題は思いっきり人ごとですよ?人の事。だって、魚は悪くなくて、思いっきり人災じゃんよ。貴方が言いたかったのは「他人ごと(ヒトゴト)」でしょ?なるほど、「この問題が僕らの周りにもいっぱい溢れていることを感じる」のは納得だ。でも、なに、それを乗り越えていっちゃうの?ええー、なんでー?むしろ「自分たちの問題でもある」という同一の平面上で考えていかなけりゃならんのですよ。その同一の平面を乗り越えていってしまったら、たとえば「神などのような超越的な存在者が、われわれという同一平面を越えたところから救済の手を差し伸べてくれるのを待とう」みたいな態度になっちゃうんじゃないんすか?貴方の言いたいことは、おそらく「乗り越えちゃだめだ」ってことなんじゃない?


 


 最後に一言。


 「売春婦を家に入れる時は殴るだけにしておけ」


 「あなたも大きなシステムの一部である」


 ってのはあまりに映画の趣旨にピッタシで驚きました。



 ああ~いい映画だったなぁ。


 「不都合な真実」もそのうち見に行く予定だったけれど、どう考えても「ダーウィンの悪夢」より面白いと思えないから、どうでも良くなっちまったよ~。


 


 

 









 (未完です。保存のためにアップしただけです。)




 スクリャービンという作曲家の曲にやられた。す、すごい。


(彼は、スクリアビン、スクリャビン、スクリャービン、スクリヤビン、スクリヤービンと様々に表記されるようだが、ここではスクリャービンに統一する。)

 

 あの人がピアノの演奏会で弾く曲目に選んだというのがキッカケで、私はスクリャービンを知った。


 彼の曲を技術的な点で評価する資格は私にはないし、スクリャービンの曲を何曲も知っているわけではない。しかし、受けたインパクトは巨大である。とりわけ、作品42(正確な名称は知らない)には打ちのめされました。


 同じような体験を去年もしました。アルベニスという作曲家に「やられた」のです。(とりわけ「エボカシオン」という曲にです。)


 不思議なことに、アルベニスもスクリャービンもほぼ同時代人です。


 アルベニスは1860年~1909年、スクリャービンは1872年~1915年。


 もちろん、彼らの曲はかなり違った雰囲気なので、両者を並べることには何の意味もないかもしれません。


 しかし私には、彼らは同じ時代的な課題を共有していたように思えないのです。その課題への解答がそれぞれ異なっていただけのような気がするのです。


 そこで、今回の日記ではスクリャービンの感想ではなく、スクリャービンから見えてくるものを考えてみようと思います。


 同じ時代的な課題。それは、19世紀後半から第一次大戦までの時代の病理であった「奇妙な死」だと思います。


 アルベニスもスクリャービンも、この「奇妙な死」という問題に立ち向かったのだと私は思うのです。


 その「奇妙な死」とは何であるのか。それを理解するために、以下ではしばし歴史に立ち返ります。


 歴史家はよく「長い19世紀」という言葉を用います。すなわち、19世紀を、1789年(フランス革命)から1914年(第一次世界大戦の勃発)までだったと歴史家は言うのです。


 その「長い19世紀」の歴史を概観すると三段階に捉えることができます。


 1、1789年~1848年。


 フランス革命によって絶対王政が消滅し、いわゆる自由主義的ブルジョワジーが登場する。産業資本家の全盛期が到来するのである。たとえば、もっともはやく、イギリスは産業革命を1780年代に経験する。産業の時代が到来するのである。

 しかし、急激な産業社会化は、貧富の差を代表的とする社会経済的な諸矛盾を表面化させ、市民階層のあらゆる反発が頻発する。たとえば、七月革命(1830年)はブルジョワジーを主体とする上からの革命で、二月革命(1848年)は労働者、農民、学生のデモ・ストライキによる下からの革命であったと言える。



 2、1848年~1875年


 しかし、階級間の矛盾は、1848年以降、好景気によって表面化することがなくなった。格差は厳然と存在し、むしろ拡大する傾向にあったが、社会全体の発展と進歩が可視化されたので、人々の不満は革命には向かわなかったのである。

 そこで、各階級はそれぞれ自律的な空間を形成したが、とりわけ重要な役割を果たしたのが、自由主義ブルジョワジーの安定した道徳的秩序である。これを歴史家は「19世紀的秩序」と呼ぶことが多いが、ともかくも、彼ら産業資本家を支える精神的・道徳的基盤のことである。


 3、1875年~1914年


 しかし、1870年代中頃からのヨーロッパ大の不景気の蔓延が起きた。普通に考えればここで革命が起きておかしくない。というのは、社会全体の発展のために、ある意味ではガス抜きされていた労働者階級の不満がここで噴出するはずだからである。

 しかし、そうはならなかった。1870年代から始まる社会立法と福祉政策の拡充によって社会全体の国民化(ネーション化)が深化し、階級的な利害関心はその色合いを薄くしていたからである。しかしこの国民化は、よく言われるように単純なナショナリズムの原理によるものではないだろう。そうではなくて、大衆化が最初にある。

 産業ブルョワジー自身が生み出した大量消費の時代が到来し、各階級の利益とは無関係な資本の論理が、ただそれだけで自己拡大的に起動しだすのである。それはたとえば市場の拡大によって飽和した国内生産力を吸収しようという植民地戦略を要請し、帝国主義なるものを生み出した。しかし、より重要なのはこの大衆の登場は、19世紀的秩序の崩壊を意味していたことである。自由主義的ブルジョワジーの生み出した産業社会の帰結として、自由主義的ブルジョワジーは自らの道徳的基盤さえをも掘り崩してしまい、最終的には第一次大戦へと行き着くのである。これが自分の生んだもので自滅するという意味で「奇妙な死」と言われる現象である。

 (ちなみに、アメリカは、20世紀になっても相変わらず「契約の自由」を重んじるレッセフェール的な19世紀的秩序を維持した。それが訂正されるようになったのは、フランクリン・ルーズベルトが登場するいわゆるニューディール時代になってからである。)



 この「長い19世紀」の三つの段階んことを、歴史家のボブズボームは「革命の時代」「資本の時代」「帝国の時代」と呼ぶ。

(ボブズボームは、『革命の時代』『資本の時代『帝国の時代』という三部作の著作を出している。ちなみに、私がかなり好きな歴史家です。→写真1)


 この時代区分によれば、スクリャービン(1872年~1915年)は、帝国の時代(1875年~1914年)の人だったということになる。


 帝国の時代とはなんだったのか。


 私はこの時代について以前から興味が持っていました。


(もちろんこの時代は、フランス革命以降の産業社会と連続性を持っています。余談ながら、私はこの産業社会の精神的な基盤を生み出したとされるジェれミー・ベンサムの理論を研究したのでかなり詳しい。研究したかったのはベンサムの時代に始まった産業社会がどのような論理に従っていたのか、でした。その点については大体納得いく研究ができたと思っているのですが、問題はこの産業社会の最終地点としての「帝国の時代」です。ベンサムを研究した者としては、ベンサムに代表される産業社会の論理が、最終的にどこに向かったのかについては、なんだか責任を感じてしまいます。しかも、それは決して幸せな結末ではなかった(=第一次大戦)のだから・・・。)


 

 脱ロマン主義的、だがどこへ?その試案としてのスクリャービン的解答とアルベニス的解答。それをOP42から導きだす


 貴族の華やかなイメージの欺瞞、時代表象


 パリ博覧会(植民動物園)、その視線の相互性の意味


 スクリャービンの神知主義、ニーチェ信奉、神秘主義


 フロイトの「ペスト」発言→心理学、アルベニス無意識へ(スクリャービンは神秘に)


 広告業・写真・映画の登場


 H・アレントのモッブ論


 インモラルではなく、アモラル(没道徳的)

 

 次の時代(ローザ・ルクセンブルク、ドイツ革命、ソビエト革命)

 

 時代的相関