新年初の更新です。



 

 最初に一言。


 中国語で「がんばれ」のことを「加油」と言うこと知りました。


 「なんでも気合で乗り切れ」みたいなパワフルさを感じ、つい笑ってしまいました。



 

 あ、すいません。では、本題に。



 彼女が面白い本を買った。


 「見ないでっ!」(講談社)という本で、女性ファッション誌『VOCE』の人気連載が単行本化されたものだそうである。


 女性の本音や、知られざる生態についてのアンケート集らしく、かなり笑った。


 また、イラストの出来も大変良い。



 この本をちゃんと読んだ訳ではないのですが、しっかしこれが勉強になりました。


 というのは、この本には、女性の涙ぐましいまでの外見への執念が感じられたからなのです。


 ただ、この外見への脅迫観念は昔からそうだったろうと思うのですが、どうもこの本には次のような構造があるような気がしたのです。

 

 つまり、この本には「恥ずかしい経験」がいくつも紹介されているのですが、これは自分自身の体験だったり、街で見た他人のことだったりするんです。


 だから、これは単純に「こんな人がいたよ~。おかしいよね~」と嗤うだけの本でもないし、また、「私こんなことしちゃった~。ああ、恥ずかしかったわ~」というだけの告白集でもないんです。


 他人のことであっても自分のことでもあっても、「こういうのは恥ずかしいことよね」という事柄を読者各人が出し合い、いわば「恥ずかしい行為集」をみんなで作っているのです。


 だから読む側も、この本を嗤ったりしつつも、しかしどこか「自分もこんなことしてないかしら」と読むのです。


 もちろん、「あ、自分もこれやったことある」と思った読者にも、その反応として冷や汗をかくような思いをする読者もいれば、「ああ、私もある~。」と共感を覚える読書もいるのでしょう。


 しかしここで私が注目したいのは、読者がどちらの反応(冷や汗or共感)をするのであれ、「読者がただ嗤うだけではすまない」というこの本の心理的構造です。


 こういう心理構造の「見ないでっ!」が売れているというところに、私は何かしらの現代女性の特徴を感じずにはいられません。


 というのは、「近年の女性は少し変わってきたな」と個人的に思っているのです。


 


 どういう変化かというと・・・



・少し前(おそらく2000年くらい)までの女性は、「他人にどう見られるか」が、それだけで重要なことだった。つまり、他人に「きれい」だとか「カワイイ」と思われれば、それだけでハッピーだった。


・しかし、近年では女性にとっての「他人にどう見られているか」はそれだけでは問題にならなくなった。つまり、他人に「きれい」だとか「カワイイ」とか思われることという出来事が、自分にとってどういうことなのかが重要になってきている。


 

 と思うのです。


 簡単に言うと、以前は他人に「きれい」と思われればそれでハッピーだったが、近年では他人に「キレイ」と思われることをハッピーと思えることがハッピーなのです。


 つまり、「ハッピー」の基準がもう一段階深化したのです。


 その分だけ、近年の女性は「ハッピー」になるのが難しくなっている。


 

 説明が難しいので、もう少しだけ加えると・・・


 以前は、キレイな格好をしたいと思うのは、そうすることによって外見上の評価が高まれば「ハッピー」だったからであって、オシャレをするのは積極的な動機に裏付けられていた。「モテタイ」とか。つまり、オシャレは努力だったのです。


 (これこそが真のオシャレさんの姿だと私は思います。)


 しかし、最近では、オシャレの動機が内向きになっている。たとえば、オシャレをして「カワイイ」と言われたとして、さらに「そんな私が素敵」と思えなくてはならない。


 しかも、こういう風に内向きな動機は、大抵の場合は消極的なことが多い。


 「カワイイ」と言われることは、「そんな私が素敵」と思いたいからというよりも、「そんな私はきっとダサクはないのだろう」と。


 そして、自信喪失から一時避難できる。



 そうなんですねー、私からすれば、現代の女性は極度の「自分に自信がない」不安に陥ってるんですね。


 たとえば、おそらく大多数の女性が「モテメイク」などの宣伝文句に「ほんとかよー。それって個性も糞もないじゃn」と思っているくせに、それでも「モテメイク」的な雑誌を買ってしまうのは、逆説的なんですが、それが多くの人がその雑誌を買うからです。


 「モテメイク」をしようというのは、普通なら「モテタイ」という積極的な動機なのですが、自信の無い現代女性はむしろ「みんなが買う雑誌に載ってるんだから、きっとダサいと思われることはないだろう」と消極的な動機でそのような雑誌を買うのではないか。


 だから、本人も「くっだらねー」と思いつつも、「モテメイク」的な雑誌を買ってしまう。


 以上は私の勝手な意見です。


 ですが、もしマイナーな雑誌が「モテメイク特集」をやっても、あまり売れないのではないでしょうか。


 発行部数も多いメジャー雑誌が特集を組むからこそ売れるのではないか、と思うのです。


 

 話を「見ないでっ!」に戻します。


 自信の無い現代女性は、「モテメイク」のような絶対にしくじらない型に自分をはめ込むことによって、自信を失うような事態を回避しているわけです。


 この要望に、雑誌は散々とばかりに応えてきました。


 だが、それでもまだ自信の無い脅えた女性たちは、今度はもっと直接的に「じゃあ、どういうのが恥ずかしいの?」と気になりだしたのです。そして、それこそが「見ないでっ!」的なものの需要を一気に高めているのではないでしょうか。


 こうすればダサいと思われませんよという処方箋だけでは心配になった「不安患者」が、今度は積極的に不安の対象を探し始めたのです。


 病気に喩えて言うならば、医者の説明は良く分からなかったが、とりあえず医者の出す薬をもらっていた人が、それでもやはり不安で、「どんな病気で、その病気がどんなメカニズムなのか?」まで気になり、医師に「インフォームド・コンセント」や「セカンド・オピニオン」を求めるようなものです。



(たとえば、登場間もない頃の「出会い系サイト」のイメージキャラクターはいわゆる美人が起用されることが多かったが、近年では大してキレイでもない人が起用されていることが多いように思う。


もちろん、この広告戦略の切り替えは、利用しようとする女性が「自分もやれるかしら」と思えるような身近さを狙っているのでしょう。これも、医師や雑誌の与えるような処方箋ではあまりに説明不足で専門的過ぎるので相変わらず不安な患者の、自分でも納得のいく説明を求めるような欲求に対応する狙いと言えなくもないように思う。)


 そう考えると、いつからか、


「インフォームド・コンセント」


「セカンド・オピニオン」


「自己実現」


「情報公開」


といった言葉が頻繁に用いられるようになったのと、何か符号的なものを感じてしまいます。


 

 どうしてこうも不安を感じるようになったのかは、私にも分かりませんが、とにかく社会のあらゆる領域で「不安」と「不安ゆえの直接的な原因究明への意欲」が沸き起こってきたのだと思います。


 

 あまりに直感的な文章になっているのは恐縮なのですが、他にもこの現象を裏付ける例があるように思います。


 それは「ギャル」と呼ばれる人たちの「男性嗜好」の変化にも現れているように思います。


 (爬虫類→ビジュアル系→ポチ→中年エリート。男性嗜好を括弧に入れた理由は、後に説明する。)


 

 というのはギャルと言われる人は、現代的な不安に最も敏感に反応する人たちだと思うからです。


 それはもちろん、社会経済的にはギャルが低所得層の家庭の子だったりすることが多いとうことや、もしくは相対的に劣位なキャリア(高校中退など)などの様々な要因によって、彼女たちが不安定な存在者だからかもしれません。


 しかしそれはともかく、こうした不安なギャルたちが、その不安を解消すべくどのような振る舞いをしてきたかを追跡するのは面白いと思います。


 このギャルの歴史を私は4段階に考えました。



1、ブランド服時代


  高級ブランドを、その品質やデザイン性ゆえではなく、それが「高級」であるからという理由で消費していた時代。この時代は、多くの人はそこまで不安ではなかったので、ブランド女はとりわけ精神不安に陥りやすい状況にいる女性だったと思います。典型的には風俗嬢です。


 彼女たちは、自分の身体が性の商品になっていることに対することから目を背けたいので、自分の身体にブランドという記号を纏わせることによって、「売っているのは、本当は私の体ではない」などと思うことに一時的に成功した。売っているのはブランドで固めた嘘(=記号)の私なのであって、本当の私は他にある、と思うのです。


 簡単に言うと、精神と身体のギャップを、ブランドによって隠そうとした訳です。これは、自分の体が急にセクシャルな特徴を帯びてくることに不安を覚える思春期の女性が、突如としてブランド品を欲しがるようになるのと同じです。


 もちろん、記号化された身体によって生々しさを自分では隠し通したつもりでも、その隠された部分は必ず他の部分で無意識的に表出するものです。それがたとえば、一時期流行った「爬虫類をペットにする」という行為です。風俗嬢を描いたフィクションなどには、かならず爬虫類などの生々しい動物を飼う女性が登場しますが、これは代替行為です。


(かつて「イグアナの娘」というドラマがありました。身体と精神のギャップに戸惑う思春期の女の子が、「自分はまだ母のようなエロティックな身体じゃない」と身体性を隠蔽するのですが、結局隠したはずの身体性が「自分はイグアナなんだ」という錯誤的な自己認識になって表出してしまう、という話でした。)


 つまり、失われた身体性を、ペットに代替しているのだと思います。


(ここでいう身体とか身体性とは、単にボディーだけでなく、そのボディーを使ってなされる振る舞いの全般を含みます。)


 こうした風俗嬢に代表される「ブランド服の女性」たちは、蛇などの露骨に男性器を連想させる爬虫類を買っているので、彼女らの「男性嗜好」はこれらの爬虫類で完結する。それゆえ、彼女らは人間の男性に関してあまり興味がなかったりする。


 ちなみに、「ブランド服の女性」には、ジュリアナ女も含めても良いでしょう。



2、コギャル時代


 「ブランド服」時代のギャルを代表していたのは、多くは成年に達したギャルだったが、次第にギャルの若年化が始まった。


 その結果、ギャルの主流は制服を着た「コギャル」時代を迎える。


 彼女らの不安は、(「ブランド服」時代と違って)身体的な不安ではなくなる。


 ブランド服時代は、自らの身体のエロティックな部分を自覚するあまりに、逆に自らの身体を否定し、性的なものを排除するという傾向(ドラマ「プラトニック・セックス」は最近のドラマだが、風俗嬢が意外にも「プラトニック」な恋愛を経験するというストーリは、まさに古い「ブランド服の時代」の構造そのまんまである。脚本を書いた飯島愛がもう「古い女」だということだろう。自信はないが、及川奈央であれば、あんな古臭いテーマの脚本は書かなかったであろう。)


 を持っていたが、新しい「コギャル」たちは、積極的に性的なものを全面に押し出していった。


 

 短いスカート


 ビーチという身体を晒す場を連想させる焼けた肌


 などなど。



 そして、そうした性的解放が男性へのストレートな性的欲求として現れた。

 

 その結果、当時たまたま「かっこいい」とされた男性のタイプがビジュアル系と呼ばれるヤサ男だったので、彼女たちの男性嗜好はビジュアル系なる男性に向けられた。


 当時のギャルやビジュアル系の男性を持ち上げるつもりはないが、この時代は良かった


 というのは、このコギャル時代は相対的に不安の少ない時代であったので、ギャルにとっての男性(=ビジュアル系)が、単なる不安の解消のためのアクセサリーではなかったからである。


 自らの性も受け入れ、不安の解消のためではなく異性を受け入れる時代だったからである。そのせいか、当時のギャルは一様に口が悪いなど非難すべき点はいくらでもあったが、元気だった。



 3、ヤマンバ時代


 しかし、ビジュアル系の男性が思ったよりも「男らしくない」人間であることが判明し、彼女らは失望した。


 「浮気」という情けなさに悩まされたりするうちに、彼女らは男を欲求しなくなった。


 それゆえ彼女らはエロティックな服装をやめ、まるで毛布でも被ったかのように身体を秘匿するヤマンバに変身した。コギャルがヤマンバになったとは限らないが、少なくともギャルの主流が、制服を着たコギャルからヤマンバに移ったのである。


 ヤマンバたちはその脱セクシャルゆえに、好みの男性もビジュアル系から「ポチ」に変えた。




 これが2000年くらいに起きた変化である。


 「ポチ」と言われるのは、背が小さく、声が高く、(ヤマンバと同じく)原色系の服装をし、付き合いがよく、従順で中性的な男性である。この「ポチ」を連れて歩くことがヤマンバたちの間で流行った。当時、渋谷などを歩くと、このヤマンバとポチのカップルをよく見かけ、かなり驚いたことがある。


 ここに、重大な変化があったと私は思う。


 というのは、確かに「ポチ」の流行は一瞬だったが、これ以降ギャルたちは自らの身体的な不安を、異性経験を通して克服しようとするのをやめたからである。


 「ポチ」のブームは、ギャルの側の「どうせ男性がみんな情けないなら、(ビジュアル系とは違って)裏切らない情けない男の方がいい」という現象なのだが、「ポチ」にも飽きた女性は、これ以降、「男性にどう思われるか」という事はどうでも良いことになってしまったのである。



4、おねえギャル時代


 その代わりに現れたのが、「男性にどう思われるか」ということを自分自身がどう思うか、という彼女らの関心である。


 これが新しく登場した「おねえギャル」的な生き方である。


 しかし、女性の身体的不安というのは(男性の身体的不安もそうだが)、異性によってしか埋め合わされないので、現代ではいわば宙ぶらりんになったままの身体的不安が残存しているのである。


 この数年では、以前にもまして、裕福で社会的地位のある中年男性を求める若い女性(=夕暮れ族)が現れてきている。


 しかしこのかつての言葉で言えば「夕暮れ族」的な現象は、コギャル時代のような異性経験を通して身体的不安を克服しようという正常なあり方ではない。


 私の大学時代の女性の知り合いには、「合コンするなら電通か商社マン」と平気で言うような夕暮れ族の女性が結構いたが、彼女たちを観察すると見えてくるのは・・・



 そういう男性が、男性として魅力的なのではなく、


 そういう男性が私のことを必要としてくれている、私はそれだけの価値がある女なんだという認証的な欲求


に基づいた行動パターンであった。


 簡単に言うと、自信がないのだ。


 だから、夕暮れ族的なギャルは、大量生産される「おねえギャル」的な服装をする。


 さらに、「もしかしたらこの「偉い」男性は私を引き上げてくれるかもしれない」という貪欲な動機もあるようだ。


 


 「ギョーカイ」への就職の世話を見てくれるかもしれない。


 結婚したら高い生活水準を約束されるだろう。


 などなど。

 

 

もちろん、反動として男性としての魅力への欲求も回帰している。


 例としては「執事喫茶」を挙げる。  http://butlers-cafe.jp/


 執事喫茶は、裏切らない・従順で素直な男性を求めている点で「ポチ」と同じだが、それだけでなく男性としてのカッコ良さを満たしてくれる点で新しい。


 だが結局のところ、執事喫茶的なものへの欲求も、「電通マン」への自称恋心も、女性が持つ身体的な不安を直接に満たしてくれるものではないし、そもそも、そうした不安の解消という機能を、既に女性が男性に期待していないのである。


 これを男性に喩えてみると、ハゲという身体的な不安に悩む男性が、



・カツラを被ることによって不安を隠そうとしたり(=ブランド服時代)


・一時的にハゲに対する不安がなくなったり(=コギャル時代)


・ハゲのことに触れない優しい女性と付き合ったり(=ヤマンバ・ポチ時代)


して何とかやってきたが、


・ここに来て、「ハゲの特効薬ができないかな~」と他力本願な夢を描き、そこに逃避し、心の奥底にあるハゲに対する劣等感をやり過ごしている(=おねえギャル時代)

 

ようなものである。




しかし、どうやり過ごそうと思ってもやはり不安は解消されない。


そこで、一部の女性は、「じゃあ、そもそもこの不安はなんなんだ?」とようやく不安の原因に立ち向かい出だしたのです。


それがまさに「見ないでっ!」的な現象なのだと思います。




「見ないでっ!」については二つの特徴を述べました。




一つは、笑えること。


もう一つは、我が身を振り返らせるようなとこがあること。




この二つだけでは単なる身体的不安を克服した人と、克服できていない人の反応の別でしかありません。



しかし、「見ないでっ!」的なものには、もう一つの特徴があります。


それは、「アホらしいっ」という反応です。


「見ないでっ!」を読めば、一通り笑ったり冷や汗をかいた後に、単純に「色んな人がいるんだなぁー」という寛容な気分になります。(自分の場合そうでした)


 そうすると、「克服できてる・克服できてない」などと一喜一憂している自分自身に「アホらしいっ」となるのです。


 この点こそが「見ないでっ!」の隠れたる凄い点なのではないでしょうか。


 つまり、今まで不安に思ってたことの対象がようやく掴め、なーんだ、くっだらないことで不安に思ってたんだなと思えるのです。


 それは単に「あ、私もこんなことしちゃった」みたいな個々の反応に対する共感じゃなくて、「どう反応するかの別はあっても、なーんだ、みんなもやっぱり同じことを気に掛けてたんじゃーん」みたいな気分になるのです。


 この時ようやく、身体的な不安が解消されるのではないでしょうか。


 悔しいのは、本来は女性の身体的不安を解消するのは男性の役割だったはずなのに、その役目を女性たち自身が、女性誌という媒体で行ってしまったことです。


 おいー、男性はこれで本当に用なしじゃんよー、と思ってしまいました。


 

 昨日、森美術館で展示中のヴィル・ヴィオラ展を見てきました。彼女と一緒に。


 見ていた時は何にも考えずに見ていたのですが、家に帰ってきてからヴィオラさんの作品について考えてみたので、ちょっとばかしそれを整理してみようと思います。


 作品はすべてビデオ・インスタレーション形式で、各フロアが、映像による体感的な鑑賞が可能な空間になっていた。その意味では、映像だけでなく、そのフロア自身が空間としての作品になっていたと思います。


 あくまで個人的な意見ですが、すべての作品には共通した主題があったように思いました。


 その主題とは、「抗事実的な感覚世界への招待」とでも言いましょうか。


 たとえば、超スローな映像が多くありました。なんと、たかが1分間の表情を、81倍に引き伸ばした作品がありましたし、他の多くの作品もスローに動くのです。


 事実としての時間の進行に敢えて立ち向かい(抗事実)、現実の等間隔な時間の概念に束縛された感性に「ちょっと待ったぁ!」を掛けているのです。


 それはまるで、


 「皆さん、本当にそうですか?同じ一秒でも、すべての一秒が同じに流れていますか?違うよねー。」


 と言わんばかりでした。


 それが象徴的だったのは、4枚のスクリーンの作品。


 見る人は、この4枚のスクリーンに囲まれた内部に立つように設計されています。


 スクリーンには静止した風景が映っているのですが、それがまったく予測不可能に突然、しかも数秒だけ動き出し、それと同時に「グぉー」と音も鳴り響くのです。(とってもビビリました。)


 時間の流れ方は、個人の内面においては不均一なんじゃないの?


 ということを言いたかったのだと思います。そして、これに「ウォッ」と驚いてしまった人は、「それは貴方、あまりに本来的な感覚に毒されてしまっているんじゃないんですか?」と気付いて欲しいかのようでした。


 実際、突然画面が動く瞬間にもっとも驚くのは高齢者のオバちゃん達でしたが、彼女たちは長く生きた分だけ均一な時間の流れ方に最も染まっている人たちだったからこそ一番驚くのでしょう。そして、ヴィオラ氏が訴えるような不均一で濃淡ある時間感覚からあまりに遠ざかっているので、どうやらこの作品のことを「単なる悪ふざけ」くらいにしか思わないらしく、つまらなかったのでしょう。一番驚いたくせに、もっとも足早に去っていきました。


 ヴィオラ氏の代表的な作品に「Passion」という作品があるようなのですが、やはり人間の感情というものに興味を持っているような作品が幾つかありました。


 それらの作品も、やはりスローの映像にすることで、「ほらね、顔の表情や仕草だって連続的なものじゃないでしょ?」と言わんばかりでした。


 たとえば、涙が流れるシーンをスローで再生するこ作品があったのですが、これも現実世界ではおそらく1秒も掛からない訳です。しかし超スローで再生することで、表情がもっと繊細に変化するものであって、時間は均一に連続して流れている訳ではないと伝えたかったようです。


 つまり、私の言葉で言えば、あっさりとした流れていく時間という事実は「本当は事実じゃないよね」と抗事実的に表現している訳です。


 天井から吊るされた10枚くらいの布を通して映像を見せる作品もあったのですが、この作品も簡単に言えば、我々が慣れ切った感覚に揺らぎを与え、そして挑戦している。実際、布は揺れるので、映像も不規則に揺れていました。


 と、以上がヴィル・ヴィオラ氏の作品に関する解釈です。


 実に頭でっかちな解釈で自分も嫌だったのですが、彼の作品自身がそういう「頭でっかち」な作品だったと思うので、まぁいいとしておきましょう。


 あくまで「頭でっかち」に解釈した訳ですが、この解釈を基礎にしての感想を以下で展開したいと思います。



1、ヴィオラ氏は「時間とか感覚には濃淡があるよ」と言いたかったようだが、それを伝えたかったとするならば、その目的すら成功していない。というのは、(彼女が鋭くも指摘したように)あまりにスロー過ぎて、ほとんど静止画にしか見えないものが多すぎたからです。「濃淡とか言う前に、そもそも全面が同じ濃さじゃねーか」ということです。


 

2、「頭でっかち」過ぎて、「俺はこういうのを美しいと思うんだ」というような芸術家的な情熱が欠如している。確かに、俺は「こういうのが美しいと思うんだ」という感性のエゴを強調しすぎると、見る側はなんとなく「押し付けがましいのぅ」と思ってしまうことがある訳です。しかし、私なんかは芸術家というプロが「美しい!」と思うものを見てみたいと思うので、「あまりに思念的な構想が先にあって、後はそこから計画的に製作した」みたいなヴィオラ氏の作品には、なんだかプロ魂を感じませんでした。



3、そしてその思念性も、ある意味では月並みです。濃淡ある時間感覚とか感性って、僕の好きなアンリ・ベルクソンの言葉で言うならば「純粋持続」という概念なんですが、如何にもシタリ顔の芸術家が借り物で「純粋持続」を使ってみた、という匂いを感じてしまいました。しかも、散々この手の芸術作品は作られてきたように思うので、「今更なんだよぉ~」と胸焼けする感じもします。



4、ヴィオラ氏は、感情というものの機微を積極的に捉え返そうとして「Passion」という用語を用いたがっていたように思ったらしく、しかもこの単語を「情熱」と「受難」という二重の意味で用いていたように思う。


 たとえば、まるで「受難」のキリストのように、苦悩に打ちひしがれる人の身体をスローで見せる作品があった。「情熱」的なまでの感情を描くのにあたって、ヴィオラ氏は「そうだ、色んな感情があるだろうけれども、苦悩が一番いいな」と思ったのだと思う。その意味で、「Passion」という単語はちょうど「受難」と「情熱」という意味があるから、彼にとっても都合の良い用語だったのだと思う。


 つまり、濃淡ある感情を見せ、そうすることによって「感情ってのは、みんなが思ってるより一人一人の個性的なものであって、しかも同じ人であっても時間の中では濃淡あるんだよ」と言いたかったんだと思う。言い換えるならば、感情の私的さと、その主体性を救い出したかったのだと思う。


(というのは、「感情」の反対概念は「理性(ロゴス)」だが、彼の作品は徹底的に理性(ロゴス)を排除しているからである。ご存知のようにロゴスのもう一つの意味は「言葉」だが、彼の映像作品には「言葉」は徹底的に排除されている。水の音などの自然界の音は聞こえてくるが、「言葉」はまったく聞こえないのである。


 排除しない例として、先に紹介した4つのスクリーンの作品があったが、これは排除をしないまでも下位的な位置づけにされていた。静止→突然動くというのがこの作品の構造で、ヴィオラ氏は明らかに「突然動く」という部分を強調したかったのだが、しかし会話する声(ロゴス)は、一定の速度で、画面の静止中も動作中もずっと流れていた。


 つまり、ヴィオラ氏にとって言語や理性は下位的な概念でしかなく、そこには主体性も個性もないとされるのだ。そうすることによって、言語や理性の反対概念である「感情」を主体的で個性あるものとして描きたかったのだろう。)


 しかし、どうだろう。


 ここでヘーゲルやマルクスが「感覚ですらが全世界史の労作である」と述べていたなどという引用を持ち出す野暮は犯したくないが、感覚や感情というものですら歴史的な構築物であり、従って主体性はないと見ることもできるはずだ。それなのに、ヴィオラ氏はやたら無邪気に感情の主体性を強調する。


 実際、たとえばキリストの受難(Passion)も、「神に見放された(受身の文法であることに注目)」という苦悩なのであって、これは受動態なのである。語源的なことを言っても、受動態(Passive Voice)の「Passive」と「Passion」は、同じ語源を持つ。


 だから、ヴィオラ氏が主体的に描こうとする「Passion」は能動態だが、ここに私は違和感を抱かざるを得なかった。


 たとえば、行列する多くの人間が、何であるかは最後まで明らかにされない何物かを順番に眺めていく様子を撮った「Obserberance」という作品があった。それが何か分からないのに、行列する人が一様に、呆然としたり、悲嘆にくれたりするので、それがまるで友人の遺体であるかのように思われた。


 ここで言いたいのは、私が「これは遺体だろ」と思ってしまうほどに行列する人が同じようなパターン化された表情や仕草をすることである。もしヴィオラ氏が感情の主体性を描きたかったのであれば、この行列する人の一様な反応は、むしろ「感情ってのは実はパターン化された歴史的な構築物なんだよ」ということを証明してしまっている訳になり、感情の主体性の反証になってしまっているのである。私はこれを端的にヴィオラ氏のミス・矛盾と思いました。


 矛盾しているのを発見して鬼の首でも取ったような顔をするのは自分でも嫌ですが、それにしてもヴィオラ氏が実に幼稚で初歩的なとこで失態を犯しているように思われてしまったのです。



 と、かなり酷評してきました。


 が、ここまで酷評したくなったのは、酷評したくなるほどの価値があるからと思ったが故のことです。


 個人的には初歩的なとこで失敗しているように見えたわけですが、「おお、こいつ何かに挑戦しようとしているな」と感じたのです。そして、「このヴィオラ氏ってのは、そのうちもっと凄いものを作るかもしれんぞ」と思ったのです。


 さらに言えば、矛盾するかのように見えた「Obserberance」も、もしかしたら意図的な逸脱なのかもしれない、とも思いました。


 もしわざとなのだとしたら、これは凄い。実に奥行きがあることになる。


 もしくは、意図的に逸脱して、自らが設定したテーマに残る課題を敢えてそのまま提示したと見ることも出来ます。そうだとするならば、「ヴィオラ氏は誠実なんだなー」とも思えるわけです。


 だから、先には「ミス・矛盾」としたところも、実はミスでも矛盾でもない可能性がある訳です。そして、個人的には「ミスじゃないんじゃないかなー」という気持ちになっています。そう思う方が生産的だしね。


 そんなこんなで酷評しつつも、やはり見に行って良かったと思う展示でした。まだ見ていない方にもそれなりに薦めたい展示だったと思います。



(ちなみに、森美術館のHPに掲載されている「著名人のコメント」にはガッカリしました。http://www.mori.art.museum/jp/index.html


 以下は、引用。


ものをつくるときにいつも考えるのは
「単にきれいなだけではなく、心に響くものを作りたい」ということ。
思わず声が出るような、技術だけではない、本当の何か。
ビル・ヴィオラ展では、その本当の何かのエネルギーを感じること ができると思います。
吉岡徳仁(デザイナー)
「はつゆめ」というにはあまりに衝撃的でした。
ホンマタカシ(写真家)
ビル・ヴィオラの作品は、テクニカルに走り賢すぎるようなアートとは違い、観客の感情に訴える。
彼のテクノロジーの使い方は、表立って科学的ではない代わりに、見るものの感覚と知性を刺激する。観客は、「感じて」いる間に考えさせられる。
ヴィオラは、最良の現代アートは、心と精神に本能的に働くものだということを証明している。
ジョン・C・ジェイ
(ワイデン・アンド・ケネディ エグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクター)
今までヴィオラの展覧会は、ことあるごとに見てきたけれど、今回まとめて観てみて、すごくショックだった。
彼自身は、時代から離れ、すごく思弁的な作業に集中して作品をつくっているのだけれど、それが時代を生きる人に生々しく届く。アートの力の凄みをとても強く感じた。
心から、多くの人が、ぜひ観に行くべき展覧会だと思う。観て、たくさん感じて、そして考えることができるから。
後藤繁雄(編集者/クリエイティブ・ディレクター/京都造形芸術大学ASP学科教授)



面倒なのでこれらのコメントについて詳細に批判するつもりはありません。それにしても、あまりに酷いコメントです。


各コメントについて一言だけ批判しておくと、


・吉岡徳仁・・・・だから何なんだよ。それにオマエの話は聞いてないんだよ。


                ) 

・ホンマタカシ・・・どう衝撃的だったんだよ!



・ジョン・C・ジェイ・・・「知性にも訴えかける」って言うけど、むしろ反知性(本文で言えば、「反ロゴス」「抗事実的」)がヴィオラ氏の     

             テーマなんじゃん?逆だよ、逆。


・後藤繁雄・・・貴様っ、森ビルから何万円もらったんだ!何が言いたいのかよく分からんし。中学生の良い子作文みたいじゃないか。 

 電車で通学するようになって約半年。


 飯田橋で東西線に乗り換えるのですが、そこに「R25」なるフリー・ペーパーの配架棚がある。


 これが前から気になっていた。


 なんだか面倒で手にとってみたことはなかったんだけれども、ホームで見ていると棚に次から次へと手が伸びていく。


 毎週木曜日に発刊されるらしく、木曜の夕方に今度は帰宅でそこを通ると既になくなっている。


 どうやら人気フリーペーパーらしいのだ。


 たまたま知り合いの日記を見ていたら、最近女性向けの「L25」が新たに創刊されたと書いてあった。


 リクルート社によるもので、「R25」は2年前くらいに創刊されたらしい。


 私は世の中の流行というやつに疎いのだが、皆さんは「ああ、あれねー」と思ってるのかもしれない。


 ネットで検索してみたら、「R25」のホームページがあった。http://r25.jp/


 早速、記事を読んでみたら、なるほど、なかなか面白い。


 あらゆるジャンルの記事が掲載されていて、中には「社会」「経済」「「政治」などのわりと硬派な内容の記事もある。


 どれも読みやすく、そこそこタメにもなりそうだった。


 電車の中でさっと読むには確かにいい読み物だなー、と思いました。


 捨てやすいしね。


 フリーペーパーという媒体の気軽さと、記事内容の説教臭さの無さが、いかにもお洒落で軽妙な雰囲気を醸し出していて、そこら辺に人気の秘密があるのかなーなどと思いました。存在の浮遊感とも言うべき軽やかさ、って言葉くらいがちょうどいいかな。

 

 「R25」の「R」は、映画のR18と同じで、25歳制限ということらしい。


 では、R25が25歳以上を全般にターゲットしているかといえばそうではないらしく、25歳辺りをターゲッティングしているらしい。


 ちょうど働き始めて数年、しかし結婚していないお金に余裕のある年齢層。


 しかも、団塊ジュニアの世代だから頭数も多い。


 だから、リクルート社は、広告マーケッティングの対象として25歳を狙い打ったのだろう。


 かく言う私も25歳である。


 このマーケッティングの戦略的なことはどうでもいいけれども、私が興味を持ったのは、説教臭さを排したR25がこの世代にウケているということである。


 R25は、簡単に言えば、情報誌である。知性ではなく知識を提供するフリーペパーと言ってしまって問題はないだろう。




 そこで私の頭に浮かんだのは、カール・マンハイムと彼の提唱した知識社会学という学問分野である。


 マンハイムは、知識には「存在拘束性」があると言う。


 大雑把に言うと、どういう知識を摂取しようかとする時も、我々は自分の好みから情報を選択している。そしてその好みとは、どのように生きてきたかという存在性に拘束されている、ということになろう。


 この知識社会学的な見地からすると、R25的な知識が25歳くらいの世代に好まれているということが、そのまま25歳くらいの世代はR25的な生き方をしてきた、ということになろう。


 ここに逆説がある。


 というのは、知識社会学的な見地からすれば、知識は当人の歴史から紡ぎだされる歴史化されたものであるのに、そうであるならば、25歳世代がR25という脱歴史的な知識を好むということは、25歳世代は「脱歴史化されたという意味で歴史化された知識」を得ようとしていることになるのだ。


 しかし、マンハイムはこの事態までをも想定している。


 これは凄いことだと思うが、しかし、マンハイムはまさにこの事態を同時代的に体験しているのだ。


 彼が知識社会学を打ち立てた『イデオロギーとユートピア』は1929年の著作だが、この時代は言うなれば大衆社会の矛盾が一気に噴出した時代である。そしてそれがファシズムにつながっていくのだが、マンハイムはこの時代の人間を「ユートピアのさまざまな形態の消滅とともに、歴史への意志と歴史への展望とを失った人間」と述べている。


 1929年は言うまでも無く、大衆社会の「夢」が世界恐慌によって覚まされた年であり、「歴史への意志と歴史への展望を失った」人間が、その虚無感のままに全体主義的な社会の風潮に傾いていく。


 私がわざわざ知識社会学まで持ち出してR25のことを話題にしたのは、R25的な現象に既視感を覚えるからである。


 もちろん、私は両大戦間期を生きていない。しかし、なぜかこの時代に昔から関心があった。それは現代につながる大衆社会の雛形が既にこの時代に出揃っている感じがするからであり、現代のことを考えるならばこの時代を無視してはならないと思っているらである。ちなみに、大衆社会についての名著とされる、オルテガ・イゼットの『大衆の反逆』、E・フロム『自由からの逃走』、ライヒ『ファシズムの大衆心理』は、すべてこの時代に書かれたものである。(順に、1930、1941、1933年)


 「現在の日本社会が全体主義化している」とまで言ってしまうつもりはないが、近年のナショナリスティックな言説の流行という現象がそのようなサインと見て取ることもできなくはなさそうである。


 私は、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』に(どういう訳だが自分でも分からないのだが)、打ち震えるような思いをした。


 ナチスによるユダヤ人迫害というありふれたテーマを描いたポランスキー作品だが、私が感動したのはストーリーではない。


 ユダヤ人を強制連行した「クリスタル・ナハト(水晶の夜)」を逃げ切り生き延びた主人公が、廃墟となった街に再び戻ってくるシーンがある。このシーンの映像の美しさに感動したのだ。


 (ちなみに、多くの人が感動すると聞く「2001年宇宙の旅」には私はまったく感動を覚えなかった。あれ、そんなにいいかい?)


 彼はもはや感情も失ったような面持ちで廃墟の街を歩く。


 その際、道の両側に立つマンションからは綿とも羽とも言えないようなものがフワフワと舞い散るのである。


 その美しき広大な廃墟の中を、チッポケな背中がただひたすらに歩くのである。


 ポランスキー監督にとっては、大衆社会の最終地点がこの光景なのだろう。


 大衆社会が夢見てきた富は、ここでは綿(か羽)というメタファーによって表現されている。


 そしてそれが散り行く瞬間が、主人公が立ち会っている瞬間なのである。


 (余談:


 ポランスキー監督は今年『オリバー・ツイスト』という新作を出したが、あの映画は時代設定が18世紀とされており、大衆社会の入り口を表していると思う。そこは確かに悲惨な社会ではあるが、どこかまだ希望がある。現に、主人公は苦難を経ながら成長していく。


 これに比べて、『戦場のピアニスト』は、大衆社会の終末を描いているような気がしてならない。そして主人公は成人である。


 つまり、ポランスキー監督は、この両作品をセットにすることで何かを訴えているように思う。)


 もし現代が再び「歴史への展望のない」世界に逆戻りしているのだとしたら、そしてそれがR25的なものと一致するのならば、私たちはいずれ『戦場のピアニスト』の主人公になるのだろうか。あのシーンを実体験できるならばそれも良いような気もしてしまうが、やっぱり怖いことですね。


 

 最近、色々な社会問題を調べているのですが、ちょっと教育基本法の改正について書いてみようと思いました。


 前回の日記で、文壇を批判しました。今回は新聞批判です。


 もちろん、新聞はよくアホそのものな作家の対談なんかを掲載してきたし、テレビ番組もよく文壇の人をコメンテーターにしています。その意味では文壇を含む社会批評家全般への批判になろうかと思います。


 ただ、最近の新聞は、わりとマトモな知識人を対談なんかに起用するようになっているので、少しは希望を見出しています。


 じゃあ現在のマスコミや文壇が社会批評する場合にどこが問題なのか。


 その問題点は、戦争に喩えて言うと、「空中戦しかできない」という点です。


 遠大な理想やヒューマニスティックな理念を振りかざして、現在の社会(=地上)での勢力図を見ることができないのです。


 空は自由です。


 しかし、地上では必ず陣地が形成されます。


 その陣地が何で構成されているかと言えば、簡単に言えば利害です。


 だから私は、まずは地上戦をちゃんと観察しろ、言いたい。


 その意味で、最近問題になっている教育基本法の改正問題ほど、マスコミが地上戦を無視してきた問題はないと思います。



 陣地を形成する利害が何なのかを観察するには、普通、その陣地に入るしかありません。


 教育の問題の場合、それは教師になるか、文部科学省の役人になるかです。つまり、自分自身が当事者になり、その利害関係の中に入ることです。


 しかし、それは普通の場合はできない。


 じゃあ、一般の人(=非当事者)がその利害を観察するにはどうしたらいいのか。


 その際、その利害関係の変遷がどうなってきたのかという歴史を辿るのが一番です。



 そこで教育に関する利害の変遷を辿ると、


・国家行政が教育に介入しすぎた。


・その反省から、戦後はGHQの指導の下、「行政不介入」の原則が出来た。


・それが今でも問題になっている。



 と、非常に単純化するとこんな感じです。


 つまり、文部省(中央官庁)が広範な権限を放棄し、市町村レベルの行政も現場教育を放置し、実際には建物や備品の管理・修理くらいしか口を出せないできた。


 そこで、教育委員会が絶大な権限を行使する。


 しかし、実際には「タダでは起きない」文部科学省は、教育長を教育委員会に潜り込ませてきた。


 しかも、教育委員会の方も、「たかだか教育長が介入してくるくらいなら、ま、いいか」とそれを容認し、その代わりに実際の権限を維持してきた。


 つまり、文部省という中央官庁と教育委員会が仲良くしてきたわけです。


 だから、最近になって「地元のコミュニティーを大事にしろ」などという文句を看板にして、区長などの首長が教育に干渉してきているケース(東京都の場合は、足立区や杉並区)は、文部省にとっても、教育委員会にとっても脅威なのです。


 しかも、この足立区や杉並区が教育の改善に成功してきているから、文部省と教育委員会も焦っているわけです。


 こういう時、普通なら教育委員会と文部省はタッグを組むはずなのですが、イジメ問題などが起きた時に教育委員会が文部省のせいにして逃げたのです。


 これに腹を立てた文部省は自力で権限の奪取を試みているわけです。


 そういうタイミングで未履修問題が起きた。


 この未履修問題は周知の事実だったのに、今更のように問題になったのです。


 これはハッキリ言って、文部省の(おそらく)陰謀なのではないでしょうか。


 文部省は、伊吹大臣が言っていたように、「ほーら、現場に任せていたら問題が起きたじゃねーか」という態度に出た。


 しかも折りよく、未履修の問題を苦に現場の校長が自殺したりして、地域の自主的な教育に疑問符が打たれたし、また、未履修問題へ不満を抱える高校生が現場を飛び越えて文部省に直訴するような事態が出てきた。


 これは文部省にとっては千載一遇のチャンス。(もちろん、すべてが文部省のシナリオだったのかもしれないが・・・)



 と、以上のような権限の奪い合いという露骨な利害関係があり、それを基軸に陣地が形成されているわけです。


 まとめると、「教育の現場 VS 文部省」という地上戦が起きているのが現状です。


 社会批評家たちは、馬鹿みたいに「子供の命は大事」とか「地域との交流を増やせ」とか言うばかりで、まずこの地上戦の現状を把握していないのではないだろうか。


 それはさておき、この地上戦がさりげなく重要な意味を持っているのが教育基本法の問題です。


 というのは、巷では教育基本法の問題はもっぱら「愛国心」の問題だけに争点が集中しています。


 この愛国心をめぐって、改正案をプッシュする自民党と、これに反対する野党が戦っているわけです。


 しかし、実は重要なのはそんな争点ではなく、教育基本法の先にあります。


 具体的には、文部省の権限を制限する根拠となってきた「行政の不介入原則」を文部省は取っ払いたいのです。


 この「行政の不介入原則」を定めた法律(名称は忘れた)を改正したいがために、その前に教育基本法を改正したいのです。


 詳しいことはまだ調べていないのですが、この法律は、どうやら現行の教育基本法では改正できないようなのです。


 

 そのような意図を持っている政権与党である自民党と文部省は、本当は愛国心の問題なんてどうでもいいんです。


 いや、もしかしたらアホ安倍首相だけは本気で「国民に愛国心を!」などと思っているのかもしれないけれども。笑


 むしろ彼らとしては、マスコミと国民の目を愛国心にのみ向けさせることによって、この重要な部分から目を逸らさせようとしているのかもしれませんね。実に巧妙です。


 実際、マスコミも教育基本法の改正は「愛国心の問題だ」と思っているし、国民もそうです。


 よく「政治家も役人も馬鹿だ」と偉そうなことを言う奴がいるが、そのような輩こそ今回の改正問題をめぐっては「愛国心だなんて政治家も役人も頭がオカシイんじゃねーか?頭が古すぎるし、危険だよ」などと文句を言っているのでしょう。


 でも、むしろそれこそ政治家(自民党)と役人の狙いなのではないのか。


 どっちがアホかって、マスコミと国民の方でしょう。


 以上に述べてきたのは、教育をめぐる地上戦の知られざる実態です。


 私自身としては、(正直に言うと)教育をめぐる権限をどこが握ろうと実はどうでもいいんですが、それよりも言っておきたかったのは、現在のマスコミや社会評論家があまりに「地上戦」を無視してきていることです。


 その一例として教育基本法の改正問題を取り上げた訳です。


 他の社会問題に関しても、同じように空中戦しか行われていない。それが日本の社会評論のレベルだと思います。


 

 なんで日本の社会というのは、利害というものに目を向けようとしないのか。


 いや、実際にはものすごくドロドロの利権社会なんですが、なぜか利権という言葉に潔癖症なんです。


 例えば、アメリカの政治はロビー活動なしには語れないし、それを国民も当たり前と思っている。


 アメリカを持ち上げるつもりもないが、金なり力なりカリスマなりを持っている人は、その資源を使って政治的に影響力を持とうとすることはアメリカでは常識です。


 もちろん、賄賂はいけないとされるが、日本の場合は企業の政治献金さえ嫌悪感を持たれています。


 この潔癖症の悪いところは・・・


1、政治を自分たちの力で変えようという市民感覚がまったく育たない。


2、空虚な空中戦のみが横行する。戦争における戦闘機の爆撃と同じで、この場合、どこかに被害者が出てもそれが見えない。誰が悪なのかも分からなくなる。


 です。


 とりわけ、二番目の点は重要です。


 もちろん、常に仮想敵国を想定し、その敵への憎悪と危険意識のみを調達し、国民を管理しようとする政治のあり方は実に危険です。


 しかし、C・シュミットが述べるように、政治とは「敵か味方か」という境界線を決定していくことである(と私も思う)。


 どこに問題の所在があるのか、どういう利害関係者がいるのか、ということが曖昧にされると、政治のダイナミズムは磨耗します。政治的アパシーはその当然の帰結です。何も、現代の若者が公共精神に欠いているからではないと思う。「若者に元気がない」のではなく、元気になる対象が見えないだけです。


 実際、元気になる対象について今日記を書いている私は、今元気ですよ。深夜だけどね。


  

 ところでここからは本題と離れるんだけれども、教育に関する現象で個人的に面白いなーと思うことがあります。


 それは、「頭が良い」ということです。(俗な話ですいません)


 例えば、公立校の建て直しが議論される時に必ず挙げられるのが、東大進学率。


 学校群制が出来る前は一部の公立校が強かったが、それ以降は完全に私立進学校が東大進学率の上位を独占してきた。


 たとえば、父親の母校である都立日比谷高校は今の筑駒よりも進学率が良かったそうだが、それが今では年に数人。


 しかし、重要なのは相変わらず学校群制が生き残っているのに、私立進学校の東大進学率が落ちてきて、その分だけ公立校が盛り返してきていることです。


 たとえば、有名な私立進学校はどこも現在では最盛期の6割くらいの数字になってきている。


 その理由は、実は公立校が頑張っているからではない。


 私立進学校の生徒が、勉強しなくなったからだと思います。


 未履修問題の際に、「私立校は受験に不必要な科目をカットしているから受験に強い。それは不公平だ」と言われてきたが、これは嘘ですね。


 第一に、東大は受験科目が多いし、第二に、実際問題として私立校の東大進学率は減ってきているので、むしろその意味での公平性を問題にするならば、むしろ事態は改善されてきていることになるはずである。


 もちろん、東大離れなどの理由もあるのかもしれない。とりわけ、進学校ほど医学部を受験する高校生が増えてきているのも確かだ。


 しかし、そうじゃないと思う。


 簡単に言うと、勉強よりも面白いことがあって、頭の良い人ほど勉強に魅力を感じないのだ。


 ここで言う「頭の良い」人とは、単純に情報処理能力が早く、しかも情報を摂取しようという意識の高い人間です。


 多くの私立進学校は中学入試だが、この時点での成績の良さは大学受験に比べて努力の要素が少ないように思う。


 頭の良い子が成績も良い傾向が強い。


 だから、はっきり言って、公立校と私立進学校との間にある「頭の良さ」の差は絶望的なくらいだと思います。


 これは自分の体験でそう思うのですが、大学時代に会って「こいつ頭いいな」と思わせてくれたのは、結局ほとんどが進学校の出身者でした。


 悲しいけれども、これは実感です。


 しかも、「進学校に居たけれども、勉強なんてやる気も起きなかったから、東大なんて目指さずに遊んで、適当に早慶に落ち着いたよ」という奴に「頭の良い奴」が多い。


 頭の良さなんて人間の魅力の一部分に過ぎないし、むしろクダラナイものでしょう。だって、そんな天才はどうせ滅多にいないしね。


 だけど、少なくとも「頭の良さ」に限っては、進学校の出身者に多いし、そして、その中でも適度に勉強をさぼった奴が多い。


 たとえば、進学校ほどいわゆる「オタク」が多い。


 鉄道マニア、アニメオタクなどなど。


 オタクというのは、私の解釈では、現実が退屈になって人たちの一つの横道なのだと思う。


 つまり、頭の回転が速いから現実の希薄でノッペリした空間に耐え切れず、むしろ過剰なものを求めるのです。


 アニメであれば、現実の女性以上に反応があるキャラクターに萌えるし、鉄道であれば、その過剰な記号の集合をデータとして蓄積することに求めるのです。


 キャラクターの外見的特徴を、髪の毛の色・服装・声の質・目の色などに分解し、それを組み合わせたりして楽しむ。社会学者の東浩紀が述べているように、分解した記憶を自分の脳内にデータベース化して蓄積しているのです。そして、そのデータベースから自由に分解された情報を引き出して、新たなキャラクターを創作しているのです。たとえば、その一例としてオタクが頻繁に利用するというTINAMIというキャラクター検索サイトがあります。http://www.tinami.com/

これは、「髪→緑、目→茶色、服→メイド服」などと設定して検索すると、それに該当するキャラクターの一覧が出てくるというサイトですが、オタク自身こういうデータベース化された頭脳を持っているのです。これは「頭の良い」人にしかできないことでしょう。


 時刻表だとか、路線、駅の名前などといった過剰の記号を記憶し、その有り余る脳の機能を使って遊んでいるのです。その分解された情報を組み合わせて、たとえば「A駅からB駅に行くには、どう乗り換えていくか」などということをシュミレーションして遊んでいるのです。


 また。進学校ほどギャンブル好きが多い。


 競馬新聞を見れば分かると思いますが、あれってもの凄い情報量です。レースの記録が、いくらでも分解できる。どこの競馬場で、馬場はどうだったか、タイムはどうか、どの相手と走ったことがるか、展開はどうだったか、そのときの馬体重は何キロだったか、などなど。


 やはり情報を分解して、それを組み合わせることによって自分なりの予想(シュミレーション)をして楽しんでいるのです。


 もちろん、同じギャンブルであっても違いがあります。


 情報処理能力が必要なギャンブルほど「頭の良い」がハマルのです。


 ただ漠然と運だけで勝ち負けが決まるパチンコには「頭の良い」人はハマラナイのです。


 オバちゃんにパチンコ好きが多く、アホな若者がスロットにハマルのも、同じギャンブルの中でもパチンコ・スロットには「頭の良さ」が必要とされないからだと思います。


(これは自分自身の記憶なんで恐縮なんですが、高校時代、授業中によく「競馬シリトリ」をして遊んでいました。


 そして、そういう仲間は今思い返しても実に「頭が良かった」。受験はあまり良い結果が出ませんでしたがね。


 東大に行くタイプは、オタクでも無頼のギャンブル好きでもない、テニス部に代表されるような、「爽やか系アンポンタン」でした。)



 これらのオタクやギャンブル好きに共通しているのは、以上に述べてきたように、過剰な情報処理です。


 しかも、この際その情報が無意味であっても構わないのです。


 歴史の年号を無意味なまでに暗記するようなものですが、しかし年号という情報は組み合わせても何も生まれない。しかも、受験の歴史科目には、一定の解釈がすでに存在するからシュミレーションの自由がない。その点で、鉄道やアニメや競馬は、いくらでもシュミレーションして、場合によってはそれを作品(二次作品=シュミラクル)にしたりするのです。(例:同人誌)


 だから、「頭が良いなー」と感じさせてくれる人には、進学校卒の落ちこぼれに多い。


 自分自身そうだから、この結論に「それは自己弁護なんじゃないのか?」と批判されてしまうかもしれないですが、実際問題としてそうなのです。それに既に述べたように、私自身が「人間の魅力は頭の良さ」じゃないと思っているので、この結論が自己弁護になるとも思っていません。


 ここに問題があるのです。


 つまり、現実が希薄すぎるから彼らの「頭の良さ」が無意味なことに蕩尽されてしまうのが問題なのです。


 この日記の最初の問題と合わせて考えるならば(長文すぎてもう遠い過去のようになっているが)、現実は本来面白いんです。


 つまり、多くのアクターがそれぞれの利害を中心に、それを上手く隠したりしつつ動いているんです。


 マスコミはそのダイナミズムの面白さを描き出すことができないので、我々は現実が希薄だと思い、とりわけ「頭の良い」人は現実から逸れて行ってしまうのです。


 「頭の良い」人は情報を分解し、それを組み合わせることを楽しむ傾向にあると述べてきたが、そもそも情報を分解できる時点でその対象は静的なんです。社会は動的です。だから社会においては、情報はある一時点で抜き出しても意味がない。これに比べて、アニメはストーリーは作者によって不動のものになっているし、時刻表もそんなに変更がない。つまり、静的なんです。


 だから、現実社会の方が、潜在的には「頭の良い」人を引き付ける面白さがある。しかし、彼らにはその現実社会が面白く感じられないのである。そして、その責任は、本来面白いはずのものを退屈に(=空中戦的に)しか表現して来なかった一部の人間にあると思う。つまり、マスコミや社会評論家です。月並みだけど、彼ら、本当にひどいと思う。


 彼らが「頭が悪い」からなのか、忙しいからなのか、それとも制限があって表現できないだけなのかは知りませんが、ともかくも空中戦だけやって終わりにするのはもう飽きました。


 ここで言う空中戦とは、抽象的な理念だけを戦わせることなのですが、実際に彼らがやっていることは「戦い」にもなっていません。俺はこう思う、という信念すら借り物で、しかも大衆迎合的な借り物。


 どのメディアも「命の大切さ」「自然の尊さ」といったような理念をぶちまけて終わり。たとえば、イジメ問題もそこからしか分析しない。だから、実質的には「空中戦」どころか「空中(=からっぽ)」で、そこにあるのは、空気だけ。しかも、この空気たるや、大衆の空気であって、実に単一化されているのです。


 あまりに「戦い」がないから、彼らマスコミは「愛国心」とかいったわざと論争的なテーマを持ち出したがります。「朝まで生テレビ」の議題になるのも、この手の分かりやす~い問題ばかり。しかも、この「愛国心」についてばかり問題にされる方が自民党や文部省にとっても都合がよく、彼らの術中にはまっているのだから、なんだか笑えてきますね。


 「頭の良い」人が現実問題にコミットしたくなるような社会。それに向けて、社会問題のもっと面白い分析をしてくれる人が出てくることを望みます。


 ああ、二回も続けて攻撃的な内容になってしまった。


 今度からは何かを叩かずに、ただ自分の意見だけを書くことにしよう。


 結構疲れるしね。

 


 

 ちょうど1ヵ月ぶりの更新になってしまいました。


 この1ヵ月間、忙しかったと言えば確かに忙しかった。


 論文のラストスパートで必死になっていたからなのですが、不思議なもんで、人間ってのは忙しい時ほど当面の課題以外のことにも精力的に時間を費やすらしい。


 逆に、目の前のことからも逃げている時は、他のことにもたいして取り組まず、ただ腐るようだ。


 「人間ってのは」などと大風呂敷を広げてしまったが、少なくとも私の場合はそうだ。


 夏休みは、はっきり言って怠惰だった。


 思い出すだけでも胃が痛くなるようなダメ期間だったが、この1ヵ月は(自分でも言うのもなんだが)わりと頑張ったように思う。


 というのは、論文のために膨大な英語文献を読んだが、それと同じくらいに現代の社会問題を調べた。



 とりわけ興味を持ったのは、


・労働問題(関係する法律の精査を中心に)


・オタク論(社会学をベースに)


・臓器移植問題(関係する法律の精査と生命倫理学を中心に)


・ディストピア論(映画における郊外の表象を中心に)


です。


そんな関係で、社会評論とか映画評論なんかを読み漁ってみたのですが、いやーやばいですね。


とりわけ酷いのが、雑誌レベルの言論人のレベルの低さ。


自分はアカデミズムに足を半分突っ込んでいるから、確かに学術的な匂いのしないものには違和感がある。


しかし、たとえ学術的でなくとも、直観に訴えかけてくるようなものも好きです。


たとえば、労働問題に関しては鎌田慧さんの『自動車絶望工場』なんかは、実に魂を揺さぶる厚みがあった。


あ、元衆議院議員の山本譲二さんが書いた『累犯障害者』もすごかったな。あれは事実として知っておいた方がいいとさえ思った。


だが、雑誌レベルの社会評論は地に堕ちてますね。


日本の新聞は、「んで、何が問題なの?」ということを一切明らかにしない。


第一に、その当該の問題の変遷を明らかにしない。


第二に、利害関係者がどういう思惑があるのか記者が理解していなから、問題の構造を析出できない。


そういう訳で、新聞には何も期待していないんです。


そこで、雑誌には期待したんですが、これが一層酷い。


何が一番酷いかって、記事を書いてる奴がダメな場合が多い。


どういうことか分かりにくいと思うので、詳しく書こうと思う。


そのために、日本の言論がどのような特殊性を持っているか、から説明しようと思う。


たびたび「ドイツでは言論は哲学者がリードしてきたが、日本では文壇がリードしてきた」と言われてきた。


そうだ、と思う。


そして、それは今もそうだと思う。


はっきり言うと、日本の哲学界は先を行く欧米の哲学に追いつくのに必死で(言語の違いがやはり大きかった)、ずっとウォーミング・アップをしてきたのだと思う。


その間隙を縫って、文壇が主導的な地位を独占してきたのだと思う。


でもね、でもね、じゃあ文壇のレベルが高かったかと言えば、そんなことはない。


夏目漱石?


はー?近代を批判しながら、漱石自身が思いっきり近代人じゃん。近代の特徴である「再帰性の地獄」の典型的なタイプじゃんよ。一言で表せば、ナマクラ。


ま、いいや。


それよりも問題なのは、文壇の人じゃなくて、文壇を評価し続けてきた偽知識人。


典型的なのは、「私はよく考えてる」とか自分では思っていて、結局のところ文体の美しい(とされている)本しか読まない奴のこと。


失礼な言い方だが、中途半端に勉強した文学部上がりに多い、「小林秀雄が好きです」みたいな人。


先日、61歳の某出版社の人と話したんだが、こいつがまさに小林秀雄フリークのアホだった。


小林秀雄の本を読めば分かると思うけれども、彼、ほとんど書き殴りしかしてないよ。


思いつきだけ。


しかも、それを文体の美しさの見せかけた「無秩序」で、うまく考えたフリをしている。


それに飛びつくなよ、と私は言いたい。


オリジナリティーというのは、おそらく控え目にしか出てこないと思う。


ある事については、先人が触れていないことの方が少ない。


だから、オリジナリティーというのは、それらの解釈をどういう切り口で捉え直すかというギリギリのところで、ホンノリと滲み出てくるものだと思う。しかも、それがあまりに「ホンノリ」した淡いものなので、そのオリジナリティーを読み解ける人はおそらく少ない。


つまり、文壇の人というのは、厚顔無恥(&無知)な輩が多いと言いたいのだ。


例えば、福田和也が売れてはいるが、なんすかアレ。


そして文壇の輩は、現代の問題に折り返して物事を考えるという知的好奇心に欠ける。


ジイサンは黙ってろよ、と言いたくなる。


例えば、延々と戦争のことに拘泥する馬鹿。


例えば現代のニートの問題を、人材派遣業に関する法律の変遷や、その背景にある社会構造の変化を勉強もせずに、ただここぞとばかりに若者批判に用いるアホ。


まるで、E・フロムが、ナチズムの支持基盤となった下層中産階級を批判して述べた「かれらの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人に対しては詮索好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化していた」という言葉がピッタリな人間です。


ちょっと前だと、司馬遼太郎さんがいた。


彼の著作は僕も好きです。


ただ、それは実に丁寧な取材力と彼の言語学(彼の専攻はモンゴル語だった)の素養に対してであって、現代への提言は実に青臭い。


だって、文壇がずっと繰り返してきた近代批判と、そして環境破壊と、土地に対する私有感覚の行き過ぎに対する義憤だけでしょ?


どれも月並みで、そして青臭い。


先に出てきた出版社にお勤めのご老人は、上述の作家が好きで好きで仕方なかったようだが、他にも嗤ってしまった点はあった。


どうやら彼にも本音のところでは「文壇はダメだ」と思ってるらしく、哲学に興味はあるらしかった。


私は黙って彼の哲学論のご高説を拝聴していたのだが、出てくる哲学者の名前が、


・ミッシェル・フーコー


・アレクサンドル・コジェーブ


・ロラン・バルド


・サミュエル・ハンチントン(哲学者ではないが)


・フリードリヒ・ニーチェ


だった。


黙って聞いていたが、この5人には共通点がある。それは、「日本を持ち上げた」という点である。


日本人の自称知識人は、この5人が大好きなんです。


日本を褒めたから。


それだけです。


実際に彼のご高説は、理論内部に入ることはなく、ただよく聞くニーチェ評やフーコー評を繰り返すだけ。


ウンザリしました。


彼の話は離れても、なぜか一部の真面目な高校生の間ではよくニーチェが読まれるのは面白い現象だと思う。


いや、たぶん原典を読んでもないのだろうが、


・「力への意志」とか「悲劇の誕生」とか「超人」とか言ったタームがなんとなくカッコいい


・彼の自虐的な性格がカッコいい(これに関しては、太宰治が好きな自称知識人が多いのと同じ。ちょっと進んでる奴になると、すぐに意味を分からずにショーペンハウアーに手を出す。この前テレビを見ていたら、どこぞやの芸能人が「ショーペンハウアーを読むのが趣味です」と言っていたが、その理解は出鱈目だった。)


・キリスト教世界を徹底的に攻撃したアグレッシブさが、なんとなくカッコいい


と、そんなとこなんじゃないでしょうか。


そういや一時期、プロファイリングをテーマにしたドラマがブームになった時、やけにフロイトを持て囃す奴が増えたが、そういう奴に限ってジャック・ラカンの名前すらも知らなかったなぁ。


 話が逸れてきたが、文壇に多いのは、以下のような奴だと思う。


・不勉強


・文体か情熱で誤魔化す


・感情が先行


(たとえば、件のご老人は若者を批判したかったらしく、「自分の会社に就職試験を受けに来た文学部の学生は、『卒論は渡辺淳一がテーマです』と言ってきたが、アホかと思った」と言っていた。しかし、このまったく同じ話を私は数ヶ月前に新聞で読んだ。この場合、ジイサンは嘘を付いた訳だが、なぜ嘘をついたかを考えてみるに、まずもって若者を批判したかったという感情があったのだと思う。)


・プライドだけ高い


・すぐに髭を生やしたがる(笑)


・頭が固くて、現代の問題を回避する



偉そうなことを言って、今更恥ずかしい。


だが、あまりに文壇が酷い。


そろそろ消えて欲しいとすら思っています。


というのは、一部の学者がようやく誠実に社会評論を行うようになってきたと私は思っていて、そこに期待しているんです。


いい加減、文壇が偉そうにノサバッテルのはやめさせよーじゃないか、と思うし、そしてそれが可能な条件が整いつつあると思うんのです。これまで文壇が曲りなりにも日本の思想面をリードしてきたことは(百歩譲って)認めてあげるから。


少なくとも、知識人の卵である素質のある若者が、くっだらない文学の世界にはまって、自縄自縛の再帰性の蟻地獄で潰れていくのはもう見たくありません。


 ここでいう再帰性というのは、再起動詞のように、すべての対象が自分自身の自我に帰ってきてしまう状態のことですが、せっかく自分の理解を超える外部に接しながらも、結局のところ自我でしか捉えられないのはやはり「痛い」と思う。


 最近の文学では、「主人公の心の葛藤が成長によって解消されれば、外部の世界もなぜか同時進行的に改善される」という通称「セカイ系」の文学が大ブームです。例えば、自分を捨てた父への内面の葛藤を克服すると、なぜか絶滅寸前だった世界も突然救済される、みたいなね。


(再帰性が迫り出してきている例として、私は最近のドキュメンタリー映画の流行を挙げる。なんでも、最近の芸術家志望の若い人には、「ドキュメンタリーを作りたい」という人が多いらしい。


 彼らがドキュメンタリーという手段に魅力を感じるのは、「それが生々しいから」だそうなのだが、どの作品も退屈です。編集なしのダラダラで、しかもテーマは大抵の場合が自分の葛藤。そんな自慰行為をなぜか観客を見せられるのです。


 しかも、作者は「このままでは退屈だろうな」とさすがに危惧するらしく、突然のように強引に事件を起こす。多くは、暴力か性を持ち出す。


 自分が見たドキュメンタリー映画は、自分を捨てた父親と数年ぶりに会いに行くというストーリーでした。しかし、いざ会ってみた父親は何とも情けない人間だった。そこで作者は突然、父親を張り倒す。


この映画が象徴的だったように、当初「生々しさ」を求めていた人が、捏造した生々しさを取ってつけるのが最近の芸術のブームです。


演劇に詳しい彼女の話によれば、演劇の世界でも同じことが起きているようだった。なんでも、客に見せることによって魅せる演劇の世界に「セミ・ドキュメント」なる分野が流行しているらしいのだ。「セミ(半)」というだけ、まだ良心が残っているようだが、具体的には「筋なし」の即興で劇を進めるらしい。しかも、やはりここでも突然「性」や「暴力」が勃発するらしい。つまり、現在進行形の性行為をビデオ撮影し、それをスクリーンで流したり、もしくは、出演者同士が実に内輪な感情を剥き出しにして、突如殴りあったりするらしいのだ。ここで問題にしたいのは、それが不道徳的だからではありません。自我を十全に持てない軟弱な人間が、それを取り戻すべく、再帰的で内輪なネタでしか表現に到達できないことが問題なのです。しかも、「性」とか「暴力」ってある意味ではもう月並みなパターンじゃないんでしょうか。


総じて、「かくも幼稚な・・・」というのが私の感想です。)


 いやー、もっと大人になろうぜ。


 あんたの自我なんて、世界と時間の中にあっては糞の役にも立たないことくらい分かってくれよ、大人なら。


 残念だけど、文学部の人にはこれが多い。


 再帰性のマドロミの中で、自分は地獄の苦しみと戦ってる勇者のつもり。


 でもね、傍から見たらそれはただの臆病じゃないんですか?


 ヌルーーイ、自我という被膜に守られて、理解不能な外部との接触を拒んでいるようにしか思えません。


 たとえば、人種差別の問題もこの問題だと思います。


 自分とは明らかに見た目も生活習慣も違う「理解不能な他者」がいるとして、重要なのは、それにも関わらず彼らと交渉していくことでしょうが。


 文学部の奴ほどナショナリスティックで過激な奴が多い(学生運動もそうでした)が、本人は過激でカッコいいつもりでいるけれども、それってつまり「日本人」という安全弁で自己保存したいだけなんじゃないですか?


 実際、文壇も得てして保守的な態度表明をするし、純文学や古典を学んだ人ほどアホ右翼が多いのも、同じ構造だと思います。


 自我の問題と必死に向き合ってるから、誰よりも苦しいって?苦しいくらい「考えてる」だと?


 だったら死ねよ。


 世界の無方向性は、誰もあなたの苦しみも省みずに流れていくし、それに、苦しいのは理解不能な外部に対して自分が微力しか影響力を持てないことなんじゃないんですか?


 しかも彼らは、散々と自分が闘ってきたと自負してるくせに、いざ論破されたりすると、すぐに自虐的になる。


 飲み屋のおっさんかよ。


 もっとタフになれよ。


 たとえば、ある社会問題があって、そこに行政権力の明白な不正義があった場合、彼らの叩き方は実に勇ましい。


 そこで、「ではどうしてその不正義が起きる構造上の問題があったか」ということを、分析的に利害関係を説明したとする。


 すると彼らは、(おそらく、不勉強でそういう構造上の問題にすら気付いていなかったのであろう)今度は急に、その構造の硬直さの前に愕然とする。そして、「こりゃー無理だ」と思うらしく、急に絶望的になる。


 その次には、お決まりの「日本は腐ってるよ」を抜かしやがる。


 そこで、さらに意地悪に「でも、その構造には貴方も乗っかってるんですよ」ということを、当該の問題の事例に即して説明した、とする。


 すると奴らの共通した反応は、


「そりゃー、そういうもんだよ。人間ってのは理想じゃ生きられない」みたいに急に「俗世間の人間なんです、僕は」と弱腰になる。それまで散々に自分が「俗世間と一緒にされたくない」という内容の態度を示していたくせに。そして突然のように心理学者に変貌するのだ。


 しかも、その心理学たるや、ただ人間の欲望を追認するだけのオートマシーンの心理学。


 文壇よ、どうぞ消えてください。


 いや、それがあまりに失礼な言い方であったのだとしたら訂正します。


 その再帰性のヌルマ湯に浸かって、どうぞ自分の手で安楽死を選択してください。



 














 本屋に立ち寄った。


 本屋に行くと見境なく時間を浪費してしまう癖がある。


 だから、いつもなるべく本はAmazonかセブン&Yで買うようにしている。


 だが、今日は本屋に寄ってみたのである。


 面白い本を見つけた。


 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』2005年 講談社現代新書 である。


 一見しただけで、あの馬鹿売れした東浩紀の『動物化するポストモダン』に似た本なんだろうな~、と思ったが、案の定そうだった。


 『動物化するポストモダン』でのキータームであった「データベース的消費」という単語が、何の前置きもなく使われていた。


 その意味では、『動物化するポストモダン』に刺激を受けた鈴木氏が、さらに現代的現象を踏まえた上で論を進めた、といったところか。


 どちらの本もとても面白いし、それに内容も一言で語れるものではない。


 だから、ここでは内容については触れないが、とても面白いとだけ言いたいと思う。



 私は、暇な時間に社会学か民俗学の本を読むのが好きなのだが、とりわけ社会学については「面白いからこそ、あまりハマラナイようにしなければ」と思っている。


 社会学とは何かと言うと、多くの人が思っているように「何でもありの学問でしょ」と答えたくなる。


 確かにそういう面がある。



 オタク現象、アニメ論、ニート論、映画論、なんでもありである。


 中には、ブルセラ論、援助交際論など、ピンクがかったものもある。


 つまり、テーマは俗なものであっても良いのだ。



 それだけに社会学者の凄さが分かる。


 誰もが同時代的に触れている出来事に対して、「ここまで考えて分析している奴がいたのかー」という気分にさせてくれるのである。


 小難しい思想や哲学は、正直、何が凄いのかも分からないことがあるが、社会学にはそういうことはないのだ。


 テーマが俗なだけに、誰にでも簡単に入っていける。その分、筆者の力量が試される部分が大きいのだ。



 切れ味勝負の学問、という感じが強い。


 

 私は、浅田彰・宮台真司・大塚英志・東浩紀・大澤真幸・見田宗介・市野川容孝あたりの(こう言うと失礼かもしれないが)軽いテーマを扱う社会学者が好きである。


 逆に嫌いなのは、鶴見和子だとか橋爪大三郎,、廣松渉などの重鎮系。勝手な話だが、つまらない。


 どうせ趣味だと思っているから軽い方がいいだけなのだが、上に挙げた好きな社会学者は皆、思想史的なことを充分に下敷きにしているので、単に読みやすいという意味で「軽い」のではない。


 その点が社会学と文芸の差なのだろうが、自分としては「文芸ではあまりに頼りなさ過ぎる」し、「思想では鈍重すぎる」と思っているので、社会学が読み物としては丁度肌に合うのである。


 社会学は一つの社会の切り取りった断面図なので、それにはまるとそういう見方しか出来なるのが怖いところなので、読み物として消費するくらいがやはり丁度良いのではないだろうか。


 というか、一流の社会学者の真似をしようとしても、その切れ味についていけず、結局二番煎じに終わる。


 だから、自分としても「あくまで読むだけ」くらいに自己規制を掛けて読むようにしているのだ。


 それくらい、面白い学問なのだ。



 文章もそこまで難しくないし、学問から少し離れてしまった人には是非リハビリに勧めたい学問である。


 面白いしね。


 面白さのあまり単なる「信奉者」になられても嫌なので、本気で他人に社会学を勧めたことはなかったが、読み物として社会学をお勧めしたいと思います。


 同じ時事的問題を扱うそこいらの文芸誌や新聞と比べて、こんなにも面白いことに気付いている人がいるんだー、と目の鱗が落ちる思いがすると思います。


 あまりの社会学者の切れ味を目の当たりにして、「自分は馬鹿なんだなー」と落ち込むかもしれませんが、お勧めです。

 9月28日の佐賀県知事の会見を巡ってちょっとした問題が起きています。


 この会見は、佐賀県が主催する「第26回全国豊かな海づくり大会」に先立って、知事が大会の内容を説明した会見である。


 

 この大会には天皇・皇后両陛下が参加されるのが恒例になっており、知事は両陛下がどのような日程で公務なさるかを説明する。


 問題は、この説明が終わった後の、記者による質疑にあった。


 毎日新聞の記者(朴氏)が、


 「今回の行事に両陛下が参加される意義は何ですか?」と口火を切った。


 これに対して知事は、「毎年参加されているので、今年も参加頂くことにした。海の大切さを両陛下がご理解していただけているのだと思う。大会の気運が盛り上がるためにも、佐賀県としては参加をうれしく思っている。」


 と、いかにも当たり障りのない応答をする。


 

 その後、記者はさらに舌鋒するどく切り返していくのだが、彼の真意は、


 ・両陛下が参加されるほどに意義のある大会なのか?


 ・両陛下をお呼びするとなったら、それなりに費用が掛かるのではないか。


 ・参加されるのが恒例となっているというだけでは、今年もお呼びするということの理由になっていないじゃないか。


 ということにあったようだ。


 この辺の会話のやり取りは、是非とも動画で確認していただきたい。


http://www.youtube.com/watch?v=QZ2rUiROI7o&mode=related&search=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E6%A1%9C%20%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%20%E5%9C%A8%E6%97%A5%20%E4%BD%90%E8%B3%80



 ともかくも、記者はどうやら「こんな大会に両陛下をお呼びして税金を使うのはアホらしい」と思っているようで、最終的には、


「両陛下をお呼びすることによって、どれほどの予算が増すことになるのか?」と知事に問いただし、その具体的な数字の提示を求めるのである。


 知事にこれに対して返答に窮し、お茶を濁すのである。


 

 ここまでは、この事件の内容の紹介である。


 ではなぜこの記者の問題を取り上げたのか。

 

 私としては実際に両陛下が参加しようがしまいがどっちでもいい。


 問題は、この記者の発言を巡って、記者に対する批判が過熱していることにある。


 

 とりわけ、「ちゃんねる桜」という報道番組では記者に対する批判的な意見が出ていた。


 ちゃんねる桜という番組はどうやらスカパーの番組らしが、ネットの公式HPでも閲覧可能な番組のようだ。


 (ちなみに、この毎日記者に対する批判を述べた回の放送は、http://www.youtube.com/watch?v=cx3Ts01bzLA&mode=related&search=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E6%A1%9C%20%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%20%E5%9C%A8%E6%97%A5%20%E4%BD%90%E8%B3%80  で見ることができます。)



 この番組を実際に見てもらうのが一番早いのですが、番組のコメンテーターは、まず、記者の言葉遣いを批判の俎上に乗せる。


 「公人に対する礼儀を失している。現場にいたら殴ってやりたい」


 と述べているのである。



 確かに、記者の言葉遣いは多少失礼なものだとは思う。しかし、そこまで大したことはない。それに、「殴ってやりたい」という発言の方がよっぽど下品ではないだろうか。



 さらに、記者が在日であることを明かした上で、


 「日本人としての自覚に欠いている。下劣だ」と述べている。


 だが、この発言はまずオカシイ。


 少しだけ、揚げ足取りをする。


 在日というわざわざ公表しなくても済むことを明かすこと自体がオカシイのだが、それは目をつぶってあげたとしても、ではなぜ「在日」に「日本人としての自覚に欠く」と言えるんだろうか。


 日本人じゃない人に「日本人としての自覚」なんて期待する方がオカシクありませんか?


 私としては、在日の方も広い意味で「日本人」と思っているが、番組がわざわざ持ち出さなくても良い「在日」という政治的なタームを持ち出したのなら、なぜそこで「日本人らしさ」みたいなものを彼らに強要できるのだろうか。


 そもそも「日本人としての自覚」ってのは、そう一義的なものではないように思う。


 ここから先は推測だが、このコメンテーターは・・・・・


  

   在日のくせに、天皇家のことに文句をつけるんじゃねー



 と言いたいのではないか。


 この悪質な意図を隠蔽しつつ、天皇家というある意味では日本人の精神的支柱を隠れ蓑にしているようにしか思えない。


 コメンテーターとしては、天皇家に対して失礼じゃないかと言いたいのだろう。


 しかし、そもそもこの記者は税金の使途をめぐって佐賀県に問い質しているのであって、なにも天皇家に対して失礼なことを述べている訳ではない。



 つまり、コメンテーターは批判する対象を間違えている。


 いや、もしかしたらそんなことは百も承知なのかもしれない。


 その上で、圧倒的多数が同調するであろう一般的な観念を持ち出して、イジメているだけである。


 

 


 叩きやすいとこを叩く。


 叩く時は、虎の威を借りる。




 簡単に言えばこういうことだろう。


 大衆迎合的でありながら、さもラディカルなふりをするためには、この手法は常套手段だ。こういう手法を仮にここで「みのもんた節」と名づけておく。


 ある正義と認められたものに対して「良い子ちゃん競争」をし、その正義自身の内実を問わない。


 その正義に盲目的なまでに忠実であればよい。


 日本赤軍の末期的症状に似ている。


 

 「全国豊かな海づくり大会」というのが、どんな大会だかはもちろん私は知らない。


 しかし、「箱物行政・イベント行政」さえしていればOKという行政の体質は以前から指弾されている。


 たとえば、海の水利権についても、漁業者の利益・環境保護の利益・工業の利益が真っ向から衝突しており、実に複雑な問題になっている。


 それなのに、ただ漠然と「豊かな海づくり」と銘打って、しかも口当たりのいい「環境保護」だけを全面に押し出した「全国豊かな海づくり大会」は、おそらく質の劣るイベントであろう。


 記者は、おそらくこうした疑惑の気持ちから、「そもそもこの大会は意義あるものなのか?」と質問したのだろう。


 そのついでとして、「もしクダラナイ大会なら、公費を使って両陛下をお呼びするのは税金の無駄なのではないか」という意見も出てきたのであろう。


 また、小泉首相の海外歴訪の総予算が数十億だったことが分かって、公人の公費が適正なものかどうか注目を浴びているという文脈もある。記者はそうした背景もあって、質問をしたのかもしれない。


 

 「ちゃんねる桜」の番組を見て、非常に腹が立ったので文章に起こした。


 サイードの「知識人とは何か」ではないが、知識人の存在理由は、常に一般的な価値観に挑戦し、アンチテーゼを提出することにある。だから、知識人は嫌われ者になることも辞さない覚悟が必要である。


 それに比べて、「ちゃんねる桜」のコメンテーターは、その覚悟がないばかりか、最も安全なところから攻撃を加えているだけである。

 

 社会が正常な自己調整能力(もしくは自己浄化能力)を維持していくためには、つねに「反対者」が必要ではないのか。


 その重要な「反対者」たるべき者が、大衆に迎合し、スタイルだけ先鋭なふりをするのは、社会の自己調整能力は大きく削がれることになると思う。筋違いな批判ばかりか、卑怯そのもの。番組は毎日新聞社に「猛省を促す」と述べているが、私としては番組に猛省を促したい。



 

 

 


 


 



 (恥ずかしい日記になりそうです。)


 先日、吾妻(あがつま)渓谷という名所に行って来ました。


 そこで、「吾妻」という言葉についての日記を書こうと思います。


 「吾妻」は、「あがつま」とも読むし、「あずま」とも読む。


 「あがつま」に関しては、私の苗字の元の姓とも言われている。


 そんな縁もあるのですが、今回は「あがつま」について書きたいと思います。



 吾妻(あずま)といえば、日本書紀の有名な箇所を思い出します。


 それは、ヤマトタケルが東征を終えて都に帰る途中の話です。


 峠の頂上に登ったヤマトタケルは、愛して止まない弟橘媛を思い出して、一刻も早く会いたいと思いました。


 そして、「吾妻はや!」と叫んだというのです。




 この日本書紀の箇所が、文学的な香りを漂わせていたせいでしょうか、全国の山の名所には「吾妻」という地名が多く当てられています。


 おそらく、日本書紀を読んだ地元の知識人が、近くにある山に「吾妻」という地名を用いたがったのでしょう。


 ちなみに、登山道の休憩所のことを「あずま小屋」と呼ぶのも、この古事と関係しているようです。


 

 恥ずかしながら、吾妻渓谷の一番の絶景に居る時、私もヤマトタケルの気持ちになりました。


 「あずまはや!」と心の中で叫び、あの人に会いたい気持ちで一杯になっていたのです。


 ヤマトタケルにとっての弟橘媛は、僕にとってのあの人です。


 (ああ、恥ずかしいなー)


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 ちなみに、ヤマトタケルが「あずまはや」と叫んだとされる峠は、それを足柄峠(神奈川県)とする説と、碓氷峠(群馬県)とする説の2説が有力なようです。


 私は碓氷峠の方に、この夏に行って来ました。


 軽井沢の人が「見晴台」と呼んでいるところで、力餅が有名です。


 ここに熊野神社があります。→(写真)


 実際に、神社内にはヤマトタケルのこの古事に絡んだ案内があります。 →(写真)


 (ちなみに、写真は2枚とも自分で撮影してきたものです。)

 

 


 この夏、私は熊野神社を訪ねたのですが、突然、霧の発生しました。


 かなり濃い霧で、そして急に体が寒くなりました。


 すると、宮司さんが雅楽っぽい笛を吹き始めました。


 笛を吹きたい気分になったのでしょう。


 霧で視界もままならないまま、私は笛の音色を聞き、まるでヤマトタケルの時代にタイム・スリップしたかのような錯覚を覚えたました。



 「あずまはや、あずまはや・・・・・あの人に会いたい。」


 

 と、体の底から思いました。




 今回吾妻渓谷であの人を思ったのも、もしかしたら、既に夏の熊野神社でこのような体験をしていたからかもしれません。


 それにしても、普段はきわめて感性の鈍い私が、なぜか「吾妻」という地名に関係する場所に行くと、万葉詩人の気分になるのです。


 万葉の言の葉は、確かに突然降って湧いたような「移りにけりな」で、脆いものかもしれません。


 しかし、熊野神社と吾妻渓谷で感じた「あずまはや」の気持ちは、これは紛れもなく確固たるものでありました。


 

 


 

 芸術の秋、になりました。


 美的な生活をしている訳でもない私ですが、芸術についてコメントしてみたくなりました。


 感性の豊かな人がいる。


 形ある作品を手掛けている訳ではないが、しかし人生そのものを美的に統合しようとしている人もいる。


 そういう貴重な人達のありがたい人たちの影響であろうか、門外漢の私が芸術について考える夜もあるのです。



 前置きはさておき、芸術家って大変だろうなと思う。


 生活うんぬんではなく、その生き方が大変だなと思う。


 というのは、芸術というもののレゾンデートルが、そもそも反・生活的だからと思うからです。


 その意味では、「芸術家的生」という言葉は、語義的な矛盾を内包しているように思う。


 

 この「生/芸術」という矛盾(苦悩と言い換えても良い)をテーマにした小説にトマス・マンの『トニオ・クレーゲル』がある。


 この小説を読んだ時は鮮烈な感動を覚えた記憶があるが、如何せん私自身が未熟だったために不消化な感が否めなかった。


 だが、今になって思うと、以下のようなことをマンは言いたかったのではないかと思うのである。


 (『トニオ・クレーゲル』の概略についてはhttp://www.tufs.ac.jp/ts/personal/yamaguci/seminars/2003/referate/suzuki_sin.html を参照。)



 つまり、芸術的行為の原初的な動機は実に存在論的(ontological)なものであり、そうであるが故に、社会的な力を失しているのだ。


 ここで言う存在論的というのは、ハイデガー風に「死に向かう存在」という意味で取ってもいい。


 また、より広義に捉えて、「社会経済的な相互関係性をすべて剥ぎ取った上でも残る実存的な人間存在の一部分」としてもいい。


 どのような定義を採用するにしても、重要なのは、芸術が剥き出しの生としてしかレゾンデートルを見出せない点にあると思う。


 たとえば、人の自尊心の基盤のうちには経験・所属・肩書き・社会的評価などが含まれるが、芸術家においては、これらは生の外皮的な周縁的位置づけしか与えられないのではないか。


 もちろん、剥き出しの実存や感情というのは、(サルトルの述べるように)普通は自らでさえも気味の悪いものであるから、芸術家もそのままでは作品にはしないだろう。

  

 自らに抑制を課すのだ。感情と実存を抑制しつつ成熟させる。そうすることによって完成度を高めるのではないか。


 だから、芸術の受け手も、作品から感情と実存の残滓を発見し、そこから作者の実存へと遡行する。


 そこに追体験という名の冒険が発生し、冒険の終着点で作者の実存と自らの実存がシンクロナイズするならば、作品への共感が可能になる。この時はじめて、追体験は「追」ではない「体験」そのものへと変質する。作者と同じ舞台に、同じ情感が降り立つのである。


 だから、感情の押し着せはタブーだろう。逆に、シンクロさせるための工夫はむしろ芸術家の技術とも言うべきものであって、この能力は芸術家には必須の技術(テクネー)であろうと思う。


 ところで、芸術が存在論的であり、死に向かう存在であるからには、そこには(ニーチェの述べるように)ルサンチマンがある。


 人は自分ではどうにもならない「可死性(mortality)」に条件づけられており、そのことに恨み(=ルサンチマン)を抱いている。しかしそれではあまりに空しいので、ルサンチマンを自制することで「超人」に至れとニーチェは述べる。


(ものすごい大雑把なニーチェの超人論でごめんなさい。)


 この意味では、芸術家たるということは、ルサンチマンを自制する超人への道を求道することであろう。


 というか、この「超人」に至らない限り、芸術家はただルサンチマンを蓄積し、生そのものを損なうことになるだろう。


 だから芸術の誘惑は、甘美で危うい。



 もちろん、自制できない芸術家には逃げ道が用意されている。


 実存を全面に押し出すのだ。例えば、「平和」や「環境」や「生命」などの絶対的な正義と思われるものをモチーフに選び、そして自制せずに感情を剥き出しで提示するやり方である。実際、芸術家には政治感覚に純粋な人が多く、それだけに一度政治問題に首を突っ込むと過剰にコミットする人も多い。この場合、政治を「人間相互関係の技術」としてではなく、「絶対的正義によって不正を放擲する運動」くらいに思ってしまうのだ。


 だが、これはもう芸術ではなかろう。


 

 ところで、芸術は「恋」に似ているように思う。


 恋をする時、我々は相手の社会経済的な属性に恋するのではない。


 そのような属性をすべて剥ぎ落としてもなおも残る実存的な部分に、親愛な気持ちを抱く。


 だから、恋に理由は不要である。


 極端な場合、利害の観点から相手が「害」であったり、道徳的観点から相手が「悪」であっても、それでも相手の実存を肯定することもあるのだ。あまり幸せなことではないけれども。


 「真・善・美」と言うが、この3つの徳目の両立は至難の業である。


 「真」を追求したソクラテスは、市民によって死を迫られ服毒死した。


 「善」は本義では、良き市民たることであるので、社会経済的な他者とのつながりがある。だから、存在論的な「美」とは折り合いが悪い。


 この「善」と「美」の関係は変質した。


 シュミットの診断では、


16世紀は「宗教の時代」


17世紀は「合理主義的科学の時代」


18世紀は「道徳の時代」


19世紀は「経済の時代」


20世紀は「技術の時代」


としているが、とりわけ19世紀以降を「真剣さのない世界」と批判する。


ここでいう「真剣さ」とは「現状維持(スタータス・クオ)を放棄すること」である。


そしてここで注目すべきなのは、18世紀の「道徳」と19世紀の「経済」を媒介したのが「美」であったというのだ。


シュミットはこれを論理的に説明はしない。


だが私が思うに、これは「善」の変容が関係しているように思う。


善(good)が商品経済のグッズ(goods)に変容し、つまり物質崇拝(フェティシズム)が進行したと思うのである。これは「善」の変容である。道徳的な意味での「善」が、いかに人生を効用を得るかという功利的な意味での「豊かさ」に還元される。そして、「美」はただ商品の消費を煽るための道具として動員される。(=広告業の成立)


 商品経済に動員される芸術は、これは確かに社会経済的な他者との関係性を持っているが、逆に言えば、既に存在論的な意味合いを失っている。


 それゆえ、現代において真に芸術家であることの社会的コストは増大するばかりであろう。


 だが私が思うに、芸術家が自制する超人に至ることができるならば、それは「真」や「善」と抵触する存在者ではないだろう。


 だから、私が芸術に期待するのは、第一に、芸術自体が自律的な領域を回復すること、第二に、自律した芸術が「真」と「善」の領域の正常化に向けて刺激を発信すること、である。


 

 

 以上に書いてきた芸術論は、明らかに異端論である。なぜなら芸術を技術的な点から述べていないからであるが、それは私が単純に門外漢であり、無知だからである。技術的なことも踏まえて書けていたら、もっと説得力のあるものになったと思われる。


 また、「芸術はただ美しいとか美しくないとかいうんでいいんじゃないの」と思う人にとっても、私の意見は実に異端なものであろう。もちろん、私も本文で芸術のことを「存在論的」と述べているんで、その意味では「美しいとか美しくない」というので良いと思っている。だが、「真」や「善」への影響力に期待している。


 つまり、芸術に自律は望んでいるが、「真」や「善」からの孤立化は望んでいないのだ。この点で、美・醜を語るだけの一般的な芸術論とは相容れないのである。芸術が、変容した「善」に動員された原因は、むしろこうした一般的で無邪気な芸術論のせいでなかったかと思う。


 最後にアフォリズム的に文を終えたいと思う。要旨を折込みつつ。




 実存に帰れ、そしてその後に、生活世界と往還せよ。

 研究室で、長い間カール・シュミットの著作を読んできた。


 それが今週でとりあえず一段落した。


 今回の日記は、完全に外向けな内容ではないのですが、これこそ修士に進んで良かったと思えるような経験だったので、書いてみることにしました。


 シュミットの『憲法論』『現代議会主義の精神史的地位』『政治的なものの概念』の3著作を精読してきたのですが、どの著作もその分析の明晰さに圧倒されました。


 日本のシュミット研究者である田中浩さんがシュミット思想のことを「魔性の哲学」と呼んでいるように、その鋭すぎる分析力は危ういほどの魅力だと思います。


 その一方で、どこにシュミットの真意があるのか不信を持って眺められてきたのもまた事実であり、そのためにも精読が必要だったのです。


 

 

 偉大な思想家というのは、何かしら両義的な要素を持っている。


 しかし、文章そのものは実に明晰なのです。


 明晰で、しかもテーゼがはっきりしているのに両義的。


 こういう矛盾とも言えるような奥行きの広さというのが、偉大な思想家の特徴だと思います。


 この感覚。


 これなんです。政治思想の醍醐味は。



 自分の学んでいる学問を持ち上げたくなるのはよくあることだけど、でも、本当にこういう経験は政治思想以外では経験したことがない。


 よく口では簡単に、「物事は色んな側面から見ないといけない」とか言うけれども、こんなに深い意味で多面的に一つの思想を読み込むことは出来ないと思う。


 だから、「色んな側面から物事を見よう」なんてことは僕の口からは滅多なことがないと言いたくないくらいです。


 研究室でのゼミでもシュミットの著作を読むだけでなく、レオ・シュトラウスとハーバーマスとシャンタル・ムフのシュミット論も読んだのですが、どれも怖いくらいに鋭い。彼らの独自の切り口には、その周囲に血が吹き出ている。


 そして、シュミット理解が3人ともまったく違う。


 切り口が違うとここまで解釈が違うのか、と素直に思いました。


 


 文学を批判するつもりはないですが、特定の文学者を評価する場合に文学がよくやる手法は、作家の個人史に依拠して解釈すするという手法。これが横行し過ぎていて、理論だけで勝負していないことが多い。


 もちろん、文学は理論じゃないのかもしれませんが・・・。


 これは、評価を外在性に委ねているケースです。


 逆に、理論内部だけで両義性を語るというやり方は、これは政治思想の専売特許に近いものがある気さえします。


 もちろん、思想を内在的に論じようとすると、一端は自らが理論内部に入り切らないといけない。だから、とっても労力が要ることだと思います。


 浸りきって息苦しいんだけど、かろうじて口だけは水面上に出ていて呼吸を確保する。


 この苦行のはてに到達する至高の地点。


 これが醍醐味なんです。


 まして、シュミットのような危うい思想の内部に入り切るのは、実に恐ろしいことなのです。


 実際に、「シュミット思想をシュミットの手法で乗り越えろ」と言われるように、理論内部だけで理論に挑まないと無意味なのがシュミット思想でしょう。


 

 内部に入り切るのに、染まりきらない。この精神力がないと飲み込まれて終わるのです。


 この感覚って、おそらく役者さんみたいなもんじゃないでしょうか。


 演劇論みたいなことは何も知りませんが、なり切る覚悟と客観的な視線を同時進行させていく。


 そんな隘路を縫った暁に、歓喜と明るみが仄かに見えてくる感じ。


 この興奮は、そうは味わえないものだと思います。


 だから、シュミットを学部時代に読まなくて良かったと思います。


 当時だったら、ただ飲み込まれて終わっていたでしょう。


 

 シュミット思想の重要なキーワードの一つに「アクラマツィオン(喝采)」という用語がありますが、シュミットに喝采を送りたいと思います。感動をこめて。