新年初の更新です。
最初に一言。
中国語で「がんばれ」のことを「加油」と言うこと知りました。
「なんでも気合で乗り切れ」みたいなパワフルさを感じ、つい笑ってしまいました。
あ、すいません。では、本題に。
彼女が面白い本を買った。
「見ないでっ!」(講談社)という本で、女性ファッション誌『VOCE』の人気連載が単行本化されたものだそうである。
女性の本音や、知られざる生態についてのアンケート集らしく、かなり笑った。
また、イラストの出来も大変良い。
この本をちゃんと読んだ訳ではないのですが、しっかしこれが勉強になりました。
というのは、この本には、女性の涙ぐましいまでの外見への執念が感じられたからなのです。
ただ、この外見への脅迫観念は昔からそうだったろうと思うのですが、どうもこの本には次のような構造があるような気がしたのです。
つまり、この本には「恥ずかしい経験」がいくつも紹介されているのですが、これは自分自身の体験だったり、街で見た他人のことだったりするんです。
だから、これは単純に「こんな人がいたよ~。おかしいよね~」と嗤うだけの本でもないし、また、「私こんなことしちゃった~。ああ、恥ずかしかったわ~」というだけの告白集でもないんです。
他人のことであっても自分のことでもあっても、「こういうのは恥ずかしいことよね」という事柄を読者各人が出し合い、いわば「恥ずかしい行為集」をみんなで作っているのです。
だから読む側も、この本を嗤ったりしつつも、しかしどこか「自分もこんなことしてないかしら」と読むのです。
もちろん、「あ、自分もこれやったことある」と思った読者にも、その反応として冷や汗をかくような思いをする読者もいれば、「ああ、私もある~。」と共感を覚える読書もいるのでしょう。
しかしここで私が注目したいのは、読者がどちらの反応(冷や汗or共感)をするのであれ、「読者がただ嗤うだけではすまない」というこの本の心理的構造です。
こういう心理構造の「見ないでっ!」が売れているというところに、私は何かしらの現代女性の特徴を感じずにはいられません。
というのは、「近年の女性は少し変わってきたな」と個人的に思っているのです。
どういう変化かというと・・・
・少し前(おそらく2000年くらい)までの女性は、「他人にどう見られるか」が、それだけで重要なことだった。つまり、他人に「きれい」だとか「カワイイ」と思われれば、それだけでハッピーだった。
・しかし、近年では女性にとっての「他人にどう見られているか」はそれだけでは問題にならなくなった。つまり、他人に「きれい」だとか「カワイイ」とか思われることという出来事が、自分にとってどういうことなのかが重要になってきている。
と思うのです。
簡単に言うと、以前は他人に「きれい」と思われればそれでハッピーだったが、近年では他人に「キレイ」と思われることをハッピーと思えることがハッピーなのです。
つまり、「ハッピー」の基準がもう一段階深化したのです。
その分だけ、近年の女性は「ハッピー」になるのが難しくなっている。
説明が難しいので、もう少しだけ加えると・・・
以前は、キレイな格好をしたいと思うのは、そうすることによって外見上の評価が高まれば「ハッピー」だったからであって、オシャレをするのは積極的な動機に裏付けられていた。「モテタイ」とか。つまり、オシャレは努力だったのです。
(これこそが真のオシャレさんの姿だと私は思います。)
しかし、最近では、オシャレの動機が内向きになっている。たとえば、オシャレをして「カワイイ」と言われたとして、さらに「そんな私が素敵」と思えなくてはならない。
しかも、こういう風に内向きな動機は、大抵の場合は消極的なことが多い。
「カワイイ」と言われることは、「そんな私が素敵」と思いたいからというよりも、「そんな私はきっとダサクはないのだろう」と。
そして、自信喪失から一時避難できる。
そうなんですねー、私からすれば、現代の女性は極度の「自分に自信がない」不安に陥ってるんですね。
たとえば、おそらく大多数の女性が「モテメイク」などの宣伝文句に「ほんとかよー。それって個性も糞もないじゃn」と思っているくせに、それでも「モテメイク」的な雑誌を買ってしまうのは、逆説的なんですが、それが多くの人がその雑誌を買うからです。
「モテメイク」をしようというのは、普通なら「モテタイ」という積極的な動機なのですが、自信の無い現代女性はむしろ「みんなが買う雑誌に載ってるんだから、きっとダサいと思われることはないだろう」と消極的な動機でそのような雑誌を買うのではないか。
だから、本人も「くっだらねー」と思いつつも、「モテメイク」的な雑誌を買ってしまう。
以上は私の勝手な意見です。
ですが、もしマイナーな雑誌が「モテメイク特集」をやっても、あまり売れないのではないでしょうか。
発行部数も多いメジャー雑誌が特集を組むからこそ売れるのではないか、と思うのです。
話を「見ないでっ!」に戻します。
自信の無い現代女性は、「モテメイク」のような絶対にしくじらない型に自分をはめ込むことによって、自信を失うような事態を回避しているわけです。
この要望に、雑誌は散々とばかりに応えてきました。
だが、それでもまだ自信の無い脅えた女性たちは、今度はもっと直接的に「じゃあ、どういうのが恥ずかしいの?」と気になりだしたのです。そして、それこそが「見ないでっ!」的なものの需要を一気に高めているのではないでしょうか。
こうすればダサいと思われませんよという処方箋だけでは心配になった「不安患者」が、今度は積極的に不安の対象を探し始めたのです。
病気に喩えて言うならば、医者の説明は良く分からなかったが、とりあえず医者の出す薬をもらっていた人が、それでもやはり不安で、「どんな病気で、その病気がどんなメカニズムなのか?」まで気になり、医師に「インフォームド・コンセント」や「セカンド・オピニオン」を求めるようなものです。
(たとえば、登場間もない頃の「出会い系サイト」のイメージキャラクターはいわゆる美人が起用されることが多かったが、近年では大してキレイでもない人が起用されていることが多いように思う。
もちろん、この広告戦略の切り替えは、利用しようとする女性が「自分もやれるかしら」と思えるような身近さを狙っているのでしょう。これも、医師や雑誌の与えるような処方箋ではあまりに説明不足で専門的過ぎるので相変わらず不安な患者の、自分でも納得のいく説明を求めるような欲求に対応する狙いと言えなくもないように思う。)
そう考えると、いつからか、
「インフォームド・コンセント」
「セカンド・オピニオン」
「自己実現」
「情報公開」
といった言葉が頻繁に用いられるようになったのと、何か符号的なものを感じてしまいます。
どうしてこうも不安を感じるようになったのかは、私にも分かりませんが、とにかく社会のあらゆる領域で「不安」と「不安ゆえの直接的な原因究明への意欲」が沸き起こってきたのだと思います。
あまりに直感的な文章になっているのは恐縮なのですが、他にもこの現象を裏付ける例があるように思います。
それは「ギャル」と呼ばれる人たちの「男性嗜好」の変化にも現れているように思います。
(爬虫類→ビジュアル系→ポチ→中年エリート。男性嗜好を括弧に入れた理由は、後に説明する。)
というのはギャルと言われる人は、現代的な不安に最も敏感に反応する人たちだと思うからです。
それはもちろん、社会経済的にはギャルが低所得層の家庭の子だったりすることが多いとうことや、もしくは相対的に劣位なキャリア(高校中退など)などの様々な要因によって、彼女たちが不安定な存在者だからかもしれません。
しかしそれはともかく、こうした不安なギャルたちが、その不安を解消すべくどのような振る舞いをしてきたかを追跡するのは面白いと思います。
このギャルの歴史を私は4段階に考えました。
1、ブランド服時代
高級ブランドを、その品質やデザイン性ゆえではなく、それが「高級」であるからという理由で消費していた時代。この時代は、多くの人はそこまで不安ではなかったので、ブランド女はとりわけ精神不安に陥りやすい状況にいる女性だったと思います。典型的には風俗嬢です。
彼女たちは、自分の身体が性の商品になっていることに対することから目を背けたいので、自分の身体にブランドという記号を纏わせることによって、「売っているのは、本当は私の体ではない」などと思うことに一時的に成功した。売っているのはブランドで固めた嘘(=記号)の私なのであって、本当の私は他にある、と思うのです。
簡単に言うと、精神と身体のギャップを、ブランドによって隠そうとした訳です。これは、自分の体が急にセクシャルな特徴を帯びてくることに不安を覚える思春期の女性が、突如としてブランド品を欲しがるようになるのと同じです。
もちろん、記号化された身体によって生々しさを自分では隠し通したつもりでも、その隠された部分は必ず他の部分で無意識的に表出するものです。それがたとえば、一時期流行った「爬虫類をペットにする」という行為です。風俗嬢を描いたフィクションなどには、かならず爬虫類などの生々しい動物を飼う女性が登場しますが、これは代替行為です。
(かつて「イグアナの娘」というドラマがありました。身体と精神のギャップに戸惑う思春期の女の子が、「自分はまだ母のようなエロティックな身体じゃない」と身体性を隠蔽するのですが、結局隠したはずの身体性が「自分はイグアナなんだ」という錯誤的な自己認識になって表出してしまう、という話でした。)
つまり、失われた身体性を、ペットに代替しているのだと思います。
(ここでいう身体とか身体性とは、単にボディーだけでなく、そのボディーを使ってなされる振る舞いの全般を含みます。)
こうした風俗嬢に代表される「ブランド服の女性」たちは、蛇などの露骨に男性器を連想させる爬虫類を買っているので、彼女らの「男性嗜好」はこれらの爬虫類で完結する。それゆえ、彼女らは人間の男性に関してあまり興味がなかったりする。
ちなみに、「ブランド服の女性」には、ジュリアナ女も含めても良いでしょう。
2、コギャル時代
「ブランド服」時代のギャルを代表していたのは、多くは成年に達したギャルだったが、次第にギャルの若年化が始まった。
その結果、ギャルの主流は制服を着た「コギャル」時代を迎える。
彼女らの不安は、(「ブランド服」時代と違って)身体的な不安ではなくなる。
ブランド服時代は、自らの身体のエロティックな部分を自覚するあまりに、逆に自らの身体を否定し、性的なものを排除するという傾向(ドラマ「プラトニック・セックス」は最近のドラマだが、風俗嬢が意外にも「プラトニック」な恋愛を経験するというストーリは、まさに古い「ブランド服の時代」の構造そのまんまである。脚本を書いた飯島愛がもう「古い女」だということだろう。自信はないが、及川奈央であれば、あんな古臭いテーマの脚本は書かなかったであろう。)
を持っていたが、新しい「コギャル」たちは、積極的に性的なものを全面に押し出していった。
短いスカート
ビーチという身体を晒す場を連想させる焼けた肌
などなど。
そして、そうした性的解放が男性へのストレートな性的欲求として現れた。
その結果、当時たまたま「かっこいい」とされた男性のタイプがビジュアル系と呼ばれるヤサ男だったので、彼女たちの男性嗜好はビジュアル系なる男性に向けられた。
当時のギャルやビジュアル系の男性を持ち上げるつもりはないが、この時代は良かった。
というのは、このコギャル時代は相対的に不安の少ない時代であったので、ギャルにとっての男性(=ビジュアル系)が、単なる不安の解消のためのアクセサリーではなかったからである。
自らの性も受け入れ、不安の解消のためではなく異性を受け入れる時代だったからである。そのせいか、当時のギャルは一様に口が悪いなど非難すべき点はいくらでもあったが、元気だった。
3、ヤマンバ時代
しかし、ビジュアル系の男性が思ったよりも「男らしくない」人間であることが判明し、彼女らは失望した。
「浮気」という情けなさに悩まされたりするうちに、彼女らは男を欲求しなくなった。
それゆえ彼女らはエロティックな服装をやめ、まるで毛布でも被ったかのように身体を秘匿するヤマンバに変身した。コギャルがヤマンバになったとは限らないが、少なくともギャルの主流が、制服を着たコギャルからヤマンバに移ったのである。
ヤマンバたちはその脱セクシャルゆえに、好みの男性もビジュアル系から「ポチ」に変えた。
これが2000年くらいに起きた変化である。
「ポチ」と言われるのは、背が小さく、声が高く、(ヤマンバと同じく)原色系の服装をし、付き合いがよく、従順で中性的な男性である。この「ポチ」を連れて歩くことがヤマンバたちの間で流行った。当時、渋谷などを歩くと、このヤマンバとポチのカップルをよく見かけ、かなり驚いたことがある。
ここに、重大な変化があったと私は思う。
というのは、確かに「ポチ」の流行は一瞬だったが、これ以降ギャルたちは自らの身体的な不安を、異性経験を通して克服しようとするのをやめたからである。
「ポチ」のブームは、ギャルの側の「どうせ男性がみんな情けないなら、(ビジュアル系とは違って)裏切らない情けない男の方がいい」という現象なのだが、「ポチ」にも飽きた女性は、これ以降、「男性にどう思われるか」という事はどうでも良いことになってしまったのである。
4、おねえギャル時代
その代わりに現れたのが、「男性にどう思われるか」ということを自分自身がどう思うか、という彼女らの関心である。
これが新しく登場した「おねえギャル」的な生き方である。
しかし、女性の身体的不安というのは(男性の身体的不安もそうだが)、異性によってしか埋め合わされないので、現代ではいわば宙ぶらりんになったままの身体的不安が残存しているのである。
この数年では、以前にもまして、裕福で社会的地位のある中年男性を求める若い女性(=夕暮れ族)が現れてきている。
しかしこのかつての言葉で言えば「夕暮れ族」的な現象は、コギャル時代のような異性経験を通して身体的不安を克服しようという正常なあり方ではない。
私の大学時代の女性の知り合いには、「合コンするなら電通か商社マン」と平気で言うような夕暮れ族の女性が結構いたが、彼女たちを観察すると見えてくるのは・・・
そういう男性が、男性として魅力的なのではなく、
そういう男性が私のことを必要としてくれている、私はそれだけの価値がある女なんだという認証的な欲求
に基づいた行動パターンであった。
簡単に言うと、自信がないのだ。
だから、夕暮れ族的なギャルは、大量生産される「おねえギャル」的な服装をする。
さらに、「もしかしたらこの「偉い」男性は私を引き上げてくれるかもしれない」という貪欲な動機もあるようだ。
「ギョーカイ」への就職の世話を見てくれるかもしれない。
結婚したら高い生活水準を約束されるだろう。
などなど。
もちろん、反動として男性としての魅力への欲求も回帰している。
例としては「執事喫茶」を挙げる。 http://butlers-cafe.jp/
執事喫茶は、裏切らない・従順で素直な男性を求めている点で「ポチ」と同じだが、それだけでなく男性としてのカッコ良さを満たしてくれる点で新しい。
だが結局のところ、執事喫茶的なものへの欲求も、「電通マン」への自称恋心も、女性が持つ身体的な不安を直接に満たしてくれるものではないし、そもそも、そうした不安の解消という機能を、既に女性が男性に期待していないのである。
これを男性に喩えてみると、ハゲという身体的な不安に悩む男性が、
・カツラを被ることによって不安を隠そうとしたり(=ブランド服時代)
・一時的にハゲに対する不安がなくなったり(=コギャル時代)
・ハゲのことに触れない優しい女性と付き合ったり(=ヤマンバ・ポチ時代)
して何とかやってきたが、
・ここに来て、「ハゲの特効薬ができないかな~」と他力本願な夢を描き、そこに逃避し、心の奥底にあるハゲに対する劣等感をやり過ごしている(=おねえギャル時代)
ようなものである。
しかし、どうやり過ごそうと思ってもやはり不安は解消されない。
そこで、一部の女性は、「じゃあ、そもそもこの不安はなんなんだ?」とようやく不安の原因に立ち向かい出だしたのです。
それがまさに「見ないでっ!」的な現象なのだと思います。
「見ないでっ!」については二つの特徴を述べました。
一つは、笑えること。
もう一つは、我が身を振り返らせるようなとこがあること。
この二つだけでは単なる身体的不安を克服した人と、克服できていない人の反応の別でしかありません。
しかし、「見ないでっ!」的なものには、もう一つの特徴があります。
それは、「アホらしいっ」という反応です。
「見ないでっ!」を読めば、一通り笑ったり冷や汗をかいた後に、単純に「色んな人がいるんだなぁー」という寛容な気分になります。(自分の場合そうでした)
そうすると、「克服できてる・克服できてない」などと一喜一憂している自分自身に「アホらしいっ」となるのです。
この点こそが「見ないでっ!」の隠れたる凄い点なのではないでしょうか。
つまり、今まで不安に思ってたことの対象がようやく掴め、なーんだ、くっだらないことで不安に思ってたんだなと思えるのです。
それは単に「あ、私もこんなことしちゃった」みたいな個々の反応に対する共感じゃなくて、「どう反応するかの別はあっても、なーんだ、みんなもやっぱり同じことを気に掛けてたんじゃーん」みたいな気分になるのです。
この時ようやく、身体的な不安が解消されるのではないでしょうか。
悔しいのは、本来は女性の身体的不安を解消するのは男性の役割だったはずなのに、その役目を女性たち自身が、女性誌という媒体で行ってしまったことです。
おいー、男性はこれで本当に用なしじゃんよー、と思ってしまいました。