最近の日本語の乱れの代表例として、レストランなどでしばしば耳にする「よろしかったでしょうか?」が槍玉にあがる。いや、これが乱れなのかは自分には分からないので、「あるらしい」というに留めておこう。


 この「よろしかったでしょうか?」については、否定派の意見の方が多いような気がするが、実際、私もこの言葉を初めて聞いたときはなんだかビックリしました。


 それはもちろん、今まで聞いたこともなかったからなのです。


 しかし、ビックリすると同時に少しイラッとしました。


 「正しい日本語を使え」などと、どこぞやの頭の固いジイサンのようにイラッとしたのではありません。


 そうではなくて、メニューを繰り返したあとに「よろしかったでしょうか?」と聞かれると、「えっ、だから今言ったじゃんよ」みたいな気分になるからである。もしよく聞き取れなかったのならば、「すいません、もう一度お願いします」と言ってくれた方が自然な感じがするので、「Pardon me?」の新バージョンに店員の投げやりな雰囲気を感じてしまったのである。


 つまり、最初にメニューを注文するところから最後にメニューの確認をするまでの間は、一連の継続したコミュニケーションが成立しているはずであり、その一対一のやり取りも重要な「食事」を構成する要素なのに、まるで継続したコミュニケーションが成立していなかったように感じてしまったのだ。


 実際に、自分のことや頼んだメニューをよく覚えてくれたりすると、やはり気持ち良い食事ができたりする。もちろん、そこまでの接客を常に求めるほど私もサービスの良さを重視しているわけではないが、一対一の人間同士のやりとりとしての継続したコミュニケーションが成立していないように感じると……


「あっ、おれ、人間としてではなくて、一様に「お客」と思われてるんだな」

 

と思ってしまうのである。


 

しかし、しかしである。



最近思ったのだが、自分の経験上、「よろしかったでしょうか?」と言う店員さんは接客態度のよい人が多いように思う。



そういえば、英語でも丁寧語の際には、「could」や「would」を用いる。


敢えて時制をずらすことによって「差別化」を図るという丁寧語の用法は、日本語には従来ないらしいが(自信はない)、


どうやら英語を筆頭に他の言語ではよくある用法のようだ。


この敢えて過去形を用いる用法を、かりにここでは「現在過去丁寧」と命名する。


では、この「現在過去丁寧」が丁寧語として成立する思想とは何であろうか。


これは推測するしかないので、仮説を考えてみた。


先に私ははじめて「よろしかったでしょうか?」を聞いたときに、コミュニケーションの継続性の不足から苛立ちを感じたと述べた。


つまり、コミュニケーションの継続性が重要だという前提がそこにはあったのである。


しかし、「現在過去丁寧」はこの前提が逆なのではないのかと思う。


「現在過去丁寧」は、コミュニケーションの継続を前提としていないことによって成立する丁寧語なのではないか。


たとえば、英語で


"Could you V ? ”


 とか 


“ Would you mind Ving ? ”


聞く場合、質問する時点では、過去の相手の傾向や決定がその瞬間も変わっていないままであるとは限らないことを想定して、そんな配慮を踏まえつつ、恭しく以前のままなのかどうか伺いを立てているのではないか。


 たとえば、レストランでの「よろしかったでしょうか?」も、お客さんは最初に注文を取った時とは違うメニューを頼みたくなっているかもしれない。そこで、もしかしたら心変わりしているかもしれないので、過去のお客さんの注文の意志を尊重しつつも、改めて聞き直すのではないか。


 この点で、コミュニケーションの継続性よりもむしろその度のコミュニケーションを大切にしてくれてるように感じるのが「現在過去丁寧」である。


 たとえば、おばあちゃんの家に毎年夏に遊びに行くとする。


 去年「おばあちゃんの筑前煮はおいしい」と言ったとして、そのことを覚えてくれたおばあちゃんは今年も筑前煮を出してくれたとする。


 もちろん、うれしい。覚えてくれたからだ。コミュニケーションの継続性がそこにある。


 しかし、「去年は筑前煮がおいしいって言ってくれたけど、今年も筑前煮でいいかい?他のメニューでもいいのよ」とおばあちゃんが言ってくれたとすると、これもやっぱりウレシイ。去年からのコミュニケーションの継続性を尊重しつつも、筑前煮より食べたいものがあったら言ってね、と新たなコミュニケーションを創始するからだ。そしてこのとき、「ああ、おばあちゃんはその度その度ごとに新たなコミュニケーションを取ろうとしてくれてるんだな」と思うのだ。


 だから、どちらも丁寧語として十分に成立しているのではないか。


 仮にこの「現在過去丁寧」が従来の国語の用法にないものであれ、上のように考えると、それはそれで立派な丁寧語のような気がしなくもない。あっ、あくまで僕の仮説が当たっていればの話ですが。


 と、評判の悪い「よろしかったでしょうか?」をちょっと見直してみる気になりましたー。




 余談:


 先日飲み屋で「フードはよろしかったでしょうか?」と、奇抜な合わせ技を掛けられたのにはさすがにその場でズッコケそうになりました。