今日、渋谷シネマライズでドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」を見ました。http://www.darwin-movie.jp/


 いやー、素直に驚きました。ズシーンと心に響く映画でした。いや、本当に、これはすごい映画でした。見ている間も一分たりとも気が抜けませんでした。



 私がその感動を表現しても安っぽくなるので、まだ見てない人は、是非ともご自分の目と心で感じて頂きたいと思います。


 と、こんな感想だけだったら何も日記にする必要もないので、自分なりに考えてみたことを以下で書いていきたいと思います。


 (わりと雑なとこもあるので、突っ込んでくださって結構です。)



 詳しい内容はネタバレにもなっちゃうし出来るだけ控えたいのですが、少しだけ要約すると・・・・



・タンザニアのヴィクトリア湖でナイルパーチという魚が誰かの手によってもたらされ、これが大繁殖。(生物学的進化論の過程)



・そこに目をつけたグローバルな資本が登場し、現地(ムワンザという街)にナイルパーチの輸出産業用の加工工場ができる。



・近隣都市の住民や、輸出のための飛行機のパイロットなどの人が流入し、ムワンザがグローバルな経済に巻き込まれていく。



・そのグローバル化の波によって、貧富の差の拡大、ドラッグの流通・HIVの蔓延・ストリートチルドレンの発生・治安や衛生状態の悪化・人心の荒廃などが起きる。


 こんな感じでした。


 

 さっそく家に帰って、わりと信頼している社会学者の宮台真司さんの批評を見てみました。


 しかし、ちょっとガックリ。


 「合成の誤謬が問題なのです」と述べていたのですが、私から言わせると「そりゃそうだけどさ・・・」なのです。


 合成の誤謬とは、各人の判断というミクロ・レベルの判断は合理的であっても、社会全体というマクロ・レベルからすると非合理になることを言いますが・・・・


 たしかに「ダーウィンの悪夢」では、工場の経営者は「ナイルパーチのおかげでムワンザに産業が起き、雇用も生み出したんだ」と自慢げに語っていました。彼は「良かれ」と思ったんですね。


 しかし、その他の労働者は他の選択肢もないから漁師をしたり、水産研究所の警備員をしたり、売春婦をしたり、「骨場」で目を潰してまで働いたりしているのです。


 したがって、かれらにとって合理的な判断ではあっても、それは「判断不可能性ゆえの判断」なのだと思いました。しかもこの場合、「ほかに選択肢がない」という状況に置かれているのは、実は現地のタンザニア人だけではないのがポイントだと思います。


 ロシア人(?)のパイロットも、そしてもしかしたら、貿易している先進国の企業の人たちも、グローバルな資本の要請の前には圧倒的に無力と言えます。たとえば、パイロットさんは「俺には家族がいるんだ。どうしたらいいって言うんだい」みたいなことを言っていました。


 つまり、どこかに誰かしらのヒール(悪役)がいると考えると、この映画を見間違えることになると思います。というか、ザウパー監督さえもが勘違いをしているように見えました。(違うかもしれないけれども)。


 映画の随所に「ヨーロッパがいけないんだ」というメッセージがあったように思います。


 なるほど、究極的にはそうです。(その理由はあとで、「比較優位の原則」を紹介しつつ詳述します)


 しかし、少なくとも明確な悪意を持った黒幕など、存在していないのです。黒幕がグローバリズムという武器で、無邪気で無垢だったタンザニア人を搾取しているのだ、と考えるのは間違いです。ここではすべての人間が共犯関係にあるのですが、より問題なのは、ほぼすべての人間が「自分は共犯なんだ」という認識がない・できない構造があるからです。



 はっきり言えば、グローバリズムそのものが問題なのです。



 グローバリズムが「共犯である」ということを見えなくしている。



 しかし、考えてみると「グローバリズム」というのは、「相互交流のためのコストが相対的に低下した状態」と考えるのならば、それ自体は悪いものではありません。現に、オーストリア人ジャーナリストが、タンザニアで撮った映画を私が見たのは、グローバリズムの恩恵による。



 また、「ダーウィンの悪夢」を見た人たちが、何かしらの集団的なリアクションを起こし、それがタンザニアの人の生を改善したりするのであれば、それはグローバリズムというチャンネルを通してのことになるでしょう。



 だから、グローバリズムを適切に分節化しなければならないと思います。



 では、「ダーウィンの悪夢」を悪夢にしているグローバリズムの形態とはなんでしょうか。



 私が思うに、それはグローバルな資本が要請する世界の分業化です。しかも、「構造調整的」な分業化です。


 IMFは世界の分業体制を推進するために「構造調整プログラム」なるものを実施してきましたが、これが問題なのです。映画でもたびたびIMFが批判的な意味で引用されていました。



 この構造調整的な分業化の問題性を指摘するまえに、まず確認しておきたい2つのことがあります。


 「ダーウィンの悪夢」の世界には悪役が不在であることは既に書きましたが、それはすなわち、以下の二つの批判は的外れになるだろうということです。


 第一に、「援助貴族」批判です。少し前までは、ODAなどの開発援助が、現地の政府高官などの一部の人(=援助貴族)の手に渡り、本当に困窮している人の手に届かないと言われてきた。いや、現在でも確かにそうなのかもしれないのですが、「ダーウィンの悪夢」では、援助金とはあまり関係がないということ。たとえばこれは後で知ったことなんですが、日本からのODAでムワンザにナイルパーチを集積する港ができたらしい。ほら、ODAが彼らの手元に渡ってるじゃんよ。それが彼らにとって本当にいいことなのかどうかは別にしても。


 したがって、援助貴族を悪役と見ればことが済むような簡単な構造ではないのです。


 第二に、大国の国益を批判すること。たとえば、60年代の独立以降にアフリカ大陸で起きたことは、旧植民地時代の民族分割統治の延長線に位置するものだったと思います。国内の少数民族を優遇し、かれらを自然資源の現地責任者にする形で結託し、民族対立が激化したナイジェリアやルワンダやコンゴ。もしくは、冷戦の代理戦争として国内の民族対立が東・西の冷戦構造に利用されたスーダン、モザンビークなどなど。この場合に悪役だったのは、大国だったのです。しかし、「ダーウィンの悪夢」は、そんな帝国主義的な、もしくはイデオロギカルな国益とは無関係である。



 では本題に戻って、構造調整プログラム的なグローバリズムの問題です。



 構造調整プログラムの詳しい説明は省略しますが、これが「南北関係を固定化するような構造を持っている」という批判されているのは有名でしょう。



 では南北関係を固定化しているのは、そのようなプログラムを課しているIMFや世界銀行だけのせいかと言えば、そうではありません。私は、資本が持つ「比較優位の原則」にまず原因を求めます。




 比較優位の原則とは、リカードが提唱した理論なのですが、グローバリズムの分業体制を考える上でとても示唆的です。



 以下に挙げるサイトの説明が上手いので、是非見てください。


 http://www.ne.jp/asahi/british/pub/econ/comparative.html



 ここでは、フランスとスペインを例に、両国はワインと織物をどれだけ作るのが分業体制下で求められるかを説明しています。



 ワイン、織物ともに生産性の点ではフランスの方が「絶対優位」なのですが、「比較優位の原則」によって、「フランスはワイン・スペインは織物」だけを生産する方がトータルで効率的になってしまうのです。完全分業です。



 もちろん、この完全分業が推奨されるのは、自由貿易の障壁や輸送のコストなどの難点がない場合に限られるのですが、おそろしいことに(or素晴らしいことに)、グローバル化した世界ではこの条件をほぼクリアしているのです。



 したがって、グローバルな現代世界においては、各国がそれぞれ特化した産業を保護・推進することが、それぞれの国においても効率が良いのです。



(もちろん、一つの産業分野しか選択できないわけではありません。ここでしているのはあくまで概念的な説明です。)



 それゆえ、タンザニアの国民もすすんで、自らのためにも、ナイルパーチの加工業を選択するのです。大国押し付けられて選択した訳ではないのです。



 こここではフランスとスペインの例を挙げましたが、これは南・北にも当てはまります。



 だからグローバルな国際社会は、分業体制の効率性ゆえに、南北問題という関係を固定化するのです。




 というのは、仮に南側諸国(ここではタンザニア)が「やってられねーぜ」と言って、固定化された産業分担(ナイルパーチ加工業)を放棄しようとしても、既に他の産業分野は、より効率の良い生産体制を取っているので、むしろ損になる。「アホラシイ」「俺らは搾取されてるんじゃないのか?」と思っても、そこから抜け出すことは損になるので、いまさら産業分担を変えられなくなっているのです。


 

 この場合、南側にとって悲劇なのは、自国が産業分野を選ぶ際に、かれらには選択肢の幅が(ほぼ)ないということにあります。

理論的にはその選択肢の中でどれを選ぶかは自由なんですけどね。



 産業にも、「おいしい産業」と「儲からない産業」があり、現代では「おいしい産業」は、先進国の先端の需要に対応するようになっているのです。ちょっと前であればIC産業、最近では金融業・バイオ関係の産業などです。これらの先端産業は技術力を要請するので、先進国にしか(実質的には)選択権がないのです。



 たとえば日本は、もう自動車産業はおいしくなくなってきたのに固執してきたので、現時点では生産性の低く、そして技術力ではアメリカに大きく遅れを取っているような産業分野にも、国策として敢えて取り組んでいます。この姿勢は、簡単に言うと「常においしい産業にフォローしていかないと、いずれ儲からない産業を固定的にしがみつく将来のアフリカ候補」になってしまう」という危機意識によるものでしょう。


(いつまでもトヨタが売りの日本ではマズイのです。)



 最初にどの産業分野を担当することになるかを決めるのは、その国の偶然性によります。まず、技術力と資本の蓄積度。この条件をクリアしていない南側諸国はこの時点で「おいしい産業」を(実質的には)諦めさせられ、次に「おいしくない産業」の中から、何かしらを選び取る。タンザニアの場合、それがたまたま降って沸いたナイルパーチだったわけです。もちろん、石油産出国であれば「おいしい」こともありますが、そのような例は石油とダイヤモンド以外にはほとんどないでしょう。



 ここまで書いてきたことを整理すると・・・



 グローバリズムの形態として、効率を重視する分業体制を採用すると、世界経済における相互関係は固定化する。


 ということになります。


 

 それゆえ、ナイルパーチ加工業を選択したタンザニアの人は、現存の分業体制下では、むしろ合理的な選択をしたことになるし、またそこには「ヨーロッパのやつら」が悪人な訳でもないのです。強いて悪人を挙げるとすれば、それは現存の分業体制そのもの、ということになりましょう。悪「人」じゃなくなっちゃうけどね。



 映画館でもらったペーパーでザウパー監督は、(グローバリゼーション)の愚かさの仮面を剥ぐ」述べていますが、これは正しくないでしょう。


 第一に、ザウパー監督は「愚かな」と述べるが、愚かな人は誰もいないのです。すべてのアクターが合理的に振舞っているのです。「(ナイルパーチの不買というボイコットではなく)愚かな行為に対してボイコットを起こせ」とザウパー監督は指摘するが、愚かな行為を取っている人などどこにもいないのです。愚かなのは、現行の構造・制度です。これらは「行為」しないはずです。制度や構造は、行為を基礎付けるたり・一定の規則性の中に収めるもので、それ自体は行為しない。



 なるほど、宮台氏が述べるように、個々人の判断は合理的であっても「合成の誤謬」は起きているのであって、その点ではザウパー監督の言うように「愚か」だとしても・・・(第二点目につづく)



 第二に、ザウパー監督は「愚かだ」と指摘することしかしていない。つまり、ザウパー監督は「愚かさの仮面」を発見し、糾弾したかもしれないけれども、仮面の下にあるはずの何かしら健全な姿は提示できていないのです。マスコミにありがちな態度ですね。投げっぱなし。



 第二の点に関して、なるほど、ザウパー監督は何も述べていないわけではありません。



 (ザウパー監督は)先に触れたペーパーで、フランスでナイルパーチの不買運動が起きていることに対して、「魚のボイコットは、映画を理化する際に誤解が生じたから」と述べているのです。



 なるほど、ナイルパーチは悪くない。魚が人間界のことなど考えて繁殖するわけがないしね。



 しかし、「不買はだめよ」と言うだけであれば、映画の前と世界はどう変わるのでしょうか。



 同じじゃないですか?



 私は「比較優位の原則」を紹介しつつ、「おいしい産業」と「おしくない産業」を導出しましたが、これを用いれば「ダーウィンの悪夢」に対する理論的な解決策を提示できます。


 つまり・・・・


 1、「おいしい産業」に対する需要を低下させることによって、実質的に「おいしくない産業」へと導く。

   われわれの欲望の流れを抑制的に作動させるのです。


 2、逆に、「おしいくない産業」に対する需要を上昇させることによって、実質的に「おいしい産業」へと導く。具体的には、ナイルパ 

   ーチの不買運動ではなく、単位あたりの買取価格を意図的に高くし、それでも消費するのです。不買ではなく、今より高くてもそれでも買う。




 以上に述べてきたのは、じつは「なぜ加速度的にナイルパーチ加工業が発展してきたのか?」という問いに対する一つの回答でしかありません。



 「ダーウィンの悪夢」を悪夢たらしめていたのは、HIV・ストリートチルドレン・治安悪化・衛生状態の悪化・武器の横行などの諸問題でした。



 ザウパー氏によれば、これらの諸問題はグローバリゼーションによる「ドミノ倒し」だったそうです。映画の中では、ナイルパーチ産業が勃興する前のムワンザは出てこないので、見る側は「なるほど、すべての問題はナイルパーチ産業の始まりとともにあったんだな」という印象を強く受けます。そして、それがまるで「ドミノ倒し」だったように感じるのです。


 


 しかし、本当にそうでしょうかね~。


 私は6割そう思い、4割は納得できません。


 以下ではその4割について書きます。信じていない部分です。



 作品としては、ドラマツルギー上、そのように描いた方が良かったという都合もあるでしょう。だから、ザウパー監督を批判する気は毛頭ありません。


 しかし、今後のムワンザのことを真剣に考えるならば、より正確に事実を捉える必要性があるように思います。(その必要性に目を向けさせてくれたのは、他でもないザウパー監督です。)



 そこで、事実としてどうなのかあれこれ考えてみたいと思います。もちろん、推測の域を超えないものになるでしょうが・・・。


 たしかに、ナイルパーチの大量発生によって国内・国外の多くのモノ・ヒトがムワンザに流れ込んできたのは確かで、そうでなければ起きなかったであろう問題はいくつかあるでしょう。もしくは、あそこまで悪化する問題はなかったでしょう。


 たとえば、売春婦とエイズの問題。


 金持ちのロシア人パイロットの流入がなかったら、売春婦家業は大規模なものにはならなかったでしょう。


 しかし、そのこととエイズの問題はどこまで関係があるのか。



 サハラ以南のエイズの問題は、むしろグローバリゼーション以前からの現象であったことは周知の事実です。そもそもエイズ発祥の地、したがって「原産地」はアフリカです。


 だから、もしグローバリゼーションによるエイズ問題の潜在的被害者は、現地人よりもむしろ外国人でしょう。



 それに、エイズ問題をどうしてもグローバリゼーションの問題として見たいのならば、特許の問題こそを挙げるべきでしょう。



 特効薬(というほど絶対的な効き目はないらしいが・・・)の開発の恩恵はアフリカの人に行き届いていない、というのが定説です。特許権のせいと言われています。特許権のために価格が高く、かれらの手には届かないのです。安価なジェネリック薬を自国で開発できたタイやインドはまだしも、ジェネリックの開発もできないアフリカ諸国では、「エイズ=死への廃棄」になっているのです。



 先進国の薬品会社もその経営のために、特許を取るのは当然です。莫大な研究費の元が取れないならば、今後のエイズ薬の開発もとまってしまうでしょう。だから、このエイズ薬の点からグローバリゼーションを批判することもできないのです。悪役はここでも不在です。



 他の問題は、その大元をただせば、労使関係にあるような気がしてなりません。

 

 たとえば、ストリートチルドレンの問題も、元をかえせば両親が死んでしまっていることや、親が貧しくて子供を養えないからですが、それらの原因はその親の労使問題に関係が深い。


・低賃金

 (例:一晩1ドルの警備の仕事。)


・労災 

 (例:病気になったら、手当ても補償なく実家に送り返される。)


・労働条件

 (例:アンモニアの充満という過酷な労働条件で目が潰れる。前任者が殺された警備の仕事なのに、武器が弓。)


 南米諸国(とりわけコロンビアとブラジル)のストリートチルドレン問題のように、警察がかれらの「抹殺」をしているのならば、これはまた別な問題だが、ムワンザではどこやらのゴロツキが殺害する。

 

 (ブラジルの例として映画「バス174」と「シティ・オブ・ゴット」を挙げておきます。)


 この場合であれば、まっとうに機能する警察機能があるならば、それが対処すべき犯罪行為であって、グローバリゼーションの問題ではないはずである。


 (ちなみに、「ダーウィンの悪夢」では、政府の存在が希薄すぎて、タンザニアの実態がいまひとつ明瞭ではないのが問題である。たしかに、ヴィクトリア湖の魅力とナイルパーチの素晴らしさを説く、環境会議での政府の役人の姿は出てくる。しかし、治安・衛生・福祉全般を管理するポリス・パワーがどのように機能しているのかが映画では明らかにされないのである。あらゆる問題が混然としており、それゆえ我々は映画に絶望と驚きを感じるのだが、その問題のいくつかは適正なポリス・パワーの執行で回避できる問題であろう。たまたまポリス・パワー不在の瞬間に起きた事件を「事実」として収集しても、それは実際のタンザニア社会とは別の社会であろう。もちろん、「事実」は厳然として事実であるから、作品にケチをつけるつもりはないことを繰り返し述べておく。むしろその「事実」の収集こそがドキュメンタリー作品の監督の腕の見せ所だろう。)


 

 また、ヴィクトリア湖の生態系の破壊も深刻な問題となっていた。しかし、グローバリゼーションにおけるナイルパーチ加工業の隆盛は、むしろ生態系の回復に寄与しているのではないのか。増えすぎたナイルパーチを減らすからである。



 もちろん、ナイルパーチという「外来種」が最初にヴィクトリア湖に持ち込まれたのは、「よそ者がやってきた」という意味ではグローバリゼーションの効果かもしれない。しかし、問題だったのはたまたまそのナイルパーチがヴィクトリア湖の環境に順応し、大量に増殖してしまったことである。このこと自身は、グローバリゼーションとはおそらく関係がない。



 日本でも琵琶湖のブラックバス問題などで「もともと多様な生態系があったのに、外来種(=ブラックバス)によって破壊された」などと言い、「在来種=善、外来種=悪」と考えるアホがいるが、なんだよそれは。ブラックバスに謝れ!笑

 


 もちろん、既にブラックバスには爆発的な繁殖能力があることを知りながら、「釣りで楽しむのに良い」というだけの理由で霞ヶ浦に放流した奴には猛省を促すが、ブラックバスはいずれにしても悪くない。



 そもそも日本の動植物は、歴史的にはその多くが外来種だろう。それに、なんかのキッカケで在来種が爆発的に増えた場合は、かれらはどう思うのであろうか気になるところだ。


 



 以上のように、ここでは最初に、映画では省略されていた「ナイルパーチの加工業がなぜあそこまで突出せざるを得なかったのか」という疑問に対して考えました。


 そのうえで、「比較優位の原則」を踏まえ、一応の解決策を私なりに考えてみました。(もちろん、どれほど実現可能性と実効性があるかは私自身すら疑問だが、一応は理論的に解決策を考えてみたのです)


 最後に、では映画で強調されていたグローバリゼーションによるドミノ倒しは、どこまで本当なのかを考えてみました。その結果、「6割納得・4割疑問」くらいの感触を得ました。個人的には、4割の部分は何かしらの(しかも割りと簡単な)対策で解決できるように思うのです。たとえば、ポリス・パワーの執行という対策です。


 


 では4割の部分、すなわち、問題の原因を直接的にグローバリゼーションに求めれる部分、はどうしたらいいのでしょうか。


 しかもここで重要なのは、グローバリゼーションの後ろで糸を引いているような悪人はいないのです。(というか、みんなが悪人・共犯。)


 もし、そのような悪人がいるのならば話は意外に簡単だと思います。


 少なくとも、解決への道しるべは既に与えられていることになるでしょう。


 しかし問題になっているのは、誰の手からも離れた、グローバルな資本そのものの論理なのです。


 だから、この問題についてはまだ考えなければならないでしょう。


 この遠大な課題に対しては、うっすらと観測は持っています。


 つまり、世界銀行・IMF的なグローバリゼーションの形態を変更しみてる、という観測です。


 しかし、ではどのような代替的形態が望ましいのかは、いまのところ私にも分かりません。


 とはいえ、諦めるわけではありません。


 「ダーウィンの悪夢」で、キリスト教信者の姿が二度出てきますが、かれらはザウパー監督によって「諦めた人」として描かれていたように思います。それはまるで、「ひたすら神を信じることは、つまり諦めなんじゃないの?」という批判であったような気がします。むしろキリスト教を用いつつ、戦闘的な批判精神を鼓舞する運動家が出てきましたが、彼の方にこそ未来の可能性が与えられているように思いました。


 「時には戦うことが正当なことがある」とザウパー監督は言いたかったのでしょうか。


 このザウパー監督の態度には私も賛成です。


 

 と、いろいろと批判はしたが、本当に価値ある映画でした。



 最後に恒例の著名人のコメント批判のコーナーです。(我ながら暗い趣味だな。笑)


 今回もヒドイのありまっせ~。


 

 1、中川敬(ミュージシャン/ソウル・フラワー・ユニオン)


 生き血を吸いながら肥え太る消費者民主主義。

 贅を尽くす先進国の営みを貧者に奪われんと存在するのが軍隊である、ということをも本作はズバリ言い当てている。

 必見!



→おいおい、まず「消費者民主主義」ってのは、とりわけ食品における安全を、生産者側ではなく消費者の側が求めていく態度のことだよ。消費者が製造過程の情報公開を求めたりね。おそらく、貴方が言いたかったのは、「市場主義の消費」か「消費社会」なんじゃない?そして、軍隊?は?武器の輸出は出てくるけれども、映画でも言われていたように、アフリカの内戦している他の国への輸入という文脈で武器が出てくるだけでしょ?タンザニアはアフリカでは珍しく内戦を経験してないんだけどなぁ。何をズバリ言い当てたんすか?中川さんって、けっこう政治的な発言の多いミュージシャンだったよね?それがこの程度のコメントじゃ、その名に恥じるんじゃないんですか?http://www.mammo.tv/interview/152_NakagawaT/ ←随分、えらそうに「政治」について語ってますなぁ。

 


 2、一青窈(歌手)


 これを見た夜うなされた。

 それぐらい衝撃の事実をつきつけられて私は居ても立ってもいられなくなった。

 日常に流される前に観て欲しい。


→言葉どおり読ならば、「日常に流される前」は「日常に流されていない状態」なんだから、この映画を観ても衝撃を受けないんじゃない?自分は「衝撃の事実をつきつけられ」たと言ってるんだから、むしろ日常に流されている人に観て欲しいってことになるんじゃな いの?それに、タンザニアの現実は、それが「日常」になっていて、その日常が、我々の日常とあまりに隔世的だから衝撃を受けるんじゃないんすかねー。ここには、見る側にも・見られる側にも「日常に流される前」、つまり「非日常」は存在していませんよ。


 

 3、小林武史(音楽プロデューサー)


 たやすく哀しくなったり、怖くなって同調したりするのでも、人ごとだと思うのではなく、

 この問題が僕らの周りにもいっぱい溢れていることを感じること。

 それをどう乗り越えるのか。

 「救いようがない」と、諦める必要なんかない!


→最後の一文はそうですね。しかし、それ以前の文章に問題が多すぎますよ。映画を観て「たやすく哀しくなったり、怖くなって同調したりする」自分を発見し、それによって問題意識を持ってもらおうというのが映画の狙いなのでは・・・。それに、このナイルパーチ問題は思いっきり人ごとですよ?人の事。だって、魚は悪くなくて、思いっきり人災じゃんよ。貴方が言いたかったのは「他人ごと(ヒトゴト)」でしょ?なるほど、「この問題が僕らの周りにもいっぱい溢れていることを感じる」のは納得だ。でも、なに、それを乗り越えていっちゃうの?ええー、なんでー?むしろ「自分たちの問題でもある」という同一の平面上で考えていかなけりゃならんのですよ。その同一の平面を乗り越えていってしまったら、たとえば「神などのような超越的な存在者が、われわれという同一平面を越えたところから救済の手を差し伸べてくれるのを待とう」みたいな態度になっちゃうんじゃないんすか?貴方の言いたいことは、おそらく「乗り越えちゃだめだ」ってことなんじゃない?


 


 最後に一言。


 「売春婦を家に入れる時は殴るだけにしておけ」


 「あなたも大きなシステムの一部である」


 ってのはあまりに映画の趣旨にピッタシで驚きました。



 ああ~いい映画だったなぁ。


 「不都合な真実」もそのうち見に行く予定だったけれど、どう考えても「ダーウィンの悪夢」より面白いと思えないから、どうでも良くなっちまったよ~。