(未完です。保存のためにアップしただけです。)




 スクリャービンという作曲家の曲にやられた。す、すごい。


(彼は、スクリアビン、スクリャビン、スクリャービン、スクリヤビン、スクリヤービンと様々に表記されるようだが、ここではスクリャービンに統一する。)

 

 あの人がピアノの演奏会で弾く曲目に選んだというのがキッカケで、私はスクリャービンを知った。


 彼の曲を技術的な点で評価する資格は私にはないし、スクリャービンの曲を何曲も知っているわけではない。しかし、受けたインパクトは巨大である。とりわけ、作品42(正確な名称は知らない)には打ちのめされました。


 同じような体験を去年もしました。アルベニスという作曲家に「やられた」のです。(とりわけ「エボカシオン」という曲にです。)


 不思議なことに、アルベニスもスクリャービンもほぼ同時代人です。


 アルベニスは1860年~1909年、スクリャービンは1872年~1915年。


 もちろん、彼らの曲はかなり違った雰囲気なので、両者を並べることには何の意味もないかもしれません。


 しかし私には、彼らは同じ時代的な課題を共有していたように思えないのです。その課題への解答がそれぞれ異なっていただけのような気がするのです。


 そこで、今回の日記ではスクリャービンの感想ではなく、スクリャービンから見えてくるものを考えてみようと思います。


 同じ時代的な課題。それは、19世紀後半から第一次大戦までの時代の病理であった「奇妙な死」だと思います。


 アルベニスもスクリャービンも、この「奇妙な死」という問題に立ち向かったのだと私は思うのです。


 その「奇妙な死」とは何であるのか。それを理解するために、以下ではしばし歴史に立ち返ります。


 歴史家はよく「長い19世紀」という言葉を用います。すなわち、19世紀を、1789年(フランス革命)から1914年(第一次世界大戦の勃発)までだったと歴史家は言うのです。


 その「長い19世紀」の歴史を概観すると三段階に捉えることができます。


 1、1789年~1848年。


 フランス革命によって絶対王政が消滅し、いわゆる自由主義的ブルジョワジーが登場する。産業資本家の全盛期が到来するのである。たとえば、もっともはやく、イギリスは産業革命を1780年代に経験する。産業の時代が到来するのである。

 しかし、急激な産業社会化は、貧富の差を代表的とする社会経済的な諸矛盾を表面化させ、市民階層のあらゆる反発が頻発する。たとえば、七月革命(1830年)はブルジョワジーを主体とする上からの革命で、二月革命(1848年)は労働者、農民、学生のデモ・ストライキによる下からの革命であったと言える。



 2、1848年~1875年


 しかし、階級間の矛盾は、1848年以降、好景気によって表面化することがなくなった。格差は厳然と存在し、むしろ拡大する傾向にあったが、社会全体の発展と進歩が可視化されたので、人々の不満は革命には向かわなかったのである。

 そこで、各階級はそれぞれ自律的な空間を形成したが、とりわけ重要な役割を果たしたのが、自由主義ブルジョワジーの安定した道徳的秩序である。これを歴史家は「19世紀的秩序」と呼ぶことが多いが、ともかくも、彼ら産業資本家を支える精神的・道徳的基盤のことである。


 3、1875年~1914年


 しかし、1870年代中頃からのヨーロッパ大の不景気の蔓延が起きた。普通に考えればここで革命が起きておかしくない。というのは、社会全体の発展のために、ある意味ではガス抜きされていた労働者階級の不満がここで噴出するはずだからである。

 しかし、そうはならなかった。1870年代から始まる社会立法と福祉政策の拡充によって社会全体の国民化(ネーション化)が深化し、階級的な利害関心はその色合いを薄くしていたからである。しかしこの国民化は、よく言われるように単純なナショナリズムの原理によるものではないだろう。そうではなくて、大衆化が最初にある。

 産業ブルョワジー自身が生み出した大量消費の時代が到来し、各階級の利益とは無関係な資本の論理が、ただそれだけで自己拡大的に起動しだすのである。それはたとえば市場の拡大によって飽和した国内生産力を吸収しようという植民地戦略を要請し、帝国主義なるものを生み出した。しかし、より重要なのはこの大衆の登場は、19世紀的秩序の崩壊を意味していたことである。自由主義的ブルジョワジーの生み出した産業社会の帰結として、自由主義的ブルジョワジーは自らの道徳的基盤さえをも掘り崩してしまい、最終的には第一次大戦へと行き着くのである。これが自分の生んだもので自滅するという意味で「奇妙な死」と言われる現象である。

 (ちなみに、アメリカは、20世紀になっても相変わらず「契約の自由」を重んじるレッセフェール的な19世紀的秩序を維持した。それが訂正されるようになったのは、フランクリン・ルーズベルトが登場するいわゆるニューディール時代になってからである。)



 この「長い19世紀」の三つの段階んことを、歴史家のボブズボームは「革命の時代」「資本の時代」「帝国の時代」と呼ぶ。

(ボブズボームは、『革命の時代』『資本の時代『帝国の時代』という三部作の著作を出している。ちなみに、私がかなり好きな歴史家です。→写真1)


 この時代区分によれば、スクリャービン(1872年~1915年)は、帝国の時代(1875年~1914年)の人だったということになる。


 帝国の時代とはなんだったのか。


 私はこの時代について以前から興味が持っていました。


(もちろんこの時代は、フランス革命以降の産業社会と連続性を持っています。余談ながら、私はこの産業社会の精神的な基盤を生み出したとされるジェれミー・ベンサムの理論を研究したのでかなり詳しい。研究したかったのはベンサムの時代に始まった産業社会がどのような論理に従っていたのか、でした。その点については大体納得いく研究ができたと思っているのですが、問題はこの産業社会の最終地点としての「帝国の時代」です。ベンサムを研究した者としては、ベンサムに代表される産業社会の論理が、最終的にどこに向かったのかについては、なんだか責任を感じてしまいます。しかも、それは決して幸せな結末ではなかった(=第一次大戦)のだから・・・。)


 

 脱ロマン主義的、だがどこへ?その試案としてのスクリャービン的解答とアルベニス的解答。それをOP42から導きだす


 貴族の華やかなイメージの欺瞞、時代表象


 パリ博覧会(植民動物園)、その視線の相互性の意味


 スクリャービンの神知主義、ニーチェ信奉、神秘主義


 フロイトの「ペスト」発言→心理学、アルベニス無意識へ(スクリャービンは神秘に)


 広告業・写真・映画の登場


 H・アレントのモッブ論


 インモラルではなく、アモラル(没道徳的)

 

 次の時代(ローザ・ルクセンブルク、ドイツ革命、ソビエト革命)

 

 時代的相関