このブログを開設してから1年が経ったらしい。アメーバからのメールで知った。


 1年が経った今となっては現行のブログタイトルが恥ずかしいような気がするんですが、かといって良い代案も浮かばないので放置します。


 最近ほとんど日記を更新してなかったんですが、「こんなこと俺、考えてたのかぁ」という後日の驚きのために、本当は毎日日記を付けたいと思ってるんです。


 「ああ、こんなことしてたんだぁ」じゃなくて、「ああ、こんなこと考えてたんだぁ」です。


 他にやらないといけないことがあったりして、最近はほとんど日記を更新できていないのがちょっと残念です。


 でも、今日は久しぶりに文章に起こす気になりました。


 

 (以下の青色の部分については、面倒な人は飛ばしてくださいな)


 ところで、以前は「俺ならこう思う」とか「俺はこう感じた」という意見について考えるのが好きでした。


 というか、自然とそんなことばかり考えていました。


 自分・他人・周囲・社会で起きる出来事やことがらについて、それをどう思うのか突き詰めて、最終的にはその意見を自分・他人・周囲・社会にフィードバックさせようという意志が働いていました。


 専攻していた政治思想も、簡単にいえば「社会をどうするか」についての学問だったので、「社会(出来事)→自分(思考)→社会」というフィードバックの学問だったと言えそうです。


 (もちろん、政治思想を勉強すればするほど、現実の自分が社会に対して行使できる影響力の小ささに気付き、時折は空しい気分にもなりました。)


 これは……


 1、自分の力(思考力)で自分を含めた外部世界を変えてやろうという信念のようなものが最初にあり、 


 2、そうする力(思考力)が自分にはあるだろうという、ある程度の自信があった。


 ということでしょう。


 しかし最近は、なんだか自信も薄れ、そしてそれに応じて外部世界を変えてやろうという信念も後景に退却していっているのを感じます。(2が×になって、1も×になっていったということ)


 

 いや、何かしらの挫折があって自信がなくなったとかじゃないんです。


 なんていうか、自分自身の不思議さみたいなのを感じることが多くなったのです。


 それゆえ、「社会→自分→社会」というサイクルで、現実の社会と未来の社会を媒介していた(orしようとしていた)真ん中の「自分」が揺らいだのです。


 このことをもう少し丁寧に言わせてください。


 メルロ・ポンティが、あるところで


 「哲学と実践は、同じ実存の両極である」と述べています。


 磁石の両極のように、哲学と実践は正反対のものであるということです。相容れないのです。


 哲学者ソクラテスが、実践の場である社会から「反社会的」であると指弾され死刑に処せられたように、哲学と実践は古代ギリシャ時代から対立的なのです。同じことをたとえばレオ・シュトラウスも「哲学者は都市を転覆する」などと述べています。


 しかし、重要なのはこの相性の悪い哲学と実践が、「同じ」実存の両極にあることです。


 これはよく考えてみれば当たり前のことで、私たちもみんな、真理を目指す哲学的側面とともかくも生きていく知恵を身につけようとする実践的側面を、その両面を持っているのではないでしょうか。どっちに偏ってるかは人によるのでしょうが。


 メルロ・ポンティによれば、政治思想というのは、この両極の対立的な両義性を自らに引き受け、両者の架け橋となる学問であり、この難題を解決しようとする高貴な意志を持つものが従事すべき性質の学問領域だそうです。


 それゆえ、メルロ・ポンティの思想は「両義性の思想」とか呼ばれています。


 なんだか偉そうでむかつきますね。笑


 でも、これが結構つらい立場なんです。


 というのは、実践の側から「あれこれ頭でっかちなこと言うなよ」と批判されるだろうし、


 哲学の側からは「真理を目指すという姿勢において中途半端だ。おまえらのは学問でもなんでもない」と批判されるのです。


 重武装の準備もない中立国が、対立する2つの大国の間に挟まれて、どちらからも叩かれるのに似ています。


 (ちなみに、戦後のアホ日本左翼は、このタイプの中立国を目指そうとしていたのです。スイスだって重武装じゃないですか、社民党さん。選択肢はアメリカに寄り添うか、重武装中立かの2つしかないんです。)



 話を元に戻すと、最近の私はこの中立の立場(政治思想の立場)に疲れたのか、どうも哲学的な側面が強くなっています。


 といっても、哲学を勉強してるという訳ではない。資格試験の勉強の方で手一杯なのです。


 ただ、ふとした時に自分の奇妙さだとか、不思議さに気付いて、なんだか呆然とするんです。


 この感触こそが哲学だと思います。


 以前読んだ本に永井均さんという哲学者の本があるんですが、そこに……


 そういう不思議な感じこそが哲学的空間の入口だと書いてありました。


 もちろん、哲学というのは(永井氏も述べているように)、その不思議に思ったことを徹底的に考え抜く頑強さがなければできない学問のようです。


 しかし、そもそもこの不思議な感じがしない人には哲学はまったくのチンプンカンプンだそうです。


 簡単に言うと、センスがないと哲学は無理らしい。


 ちょっと自慢めいて聞こえるかもしれないけれども、自分にはセンスはあると思う。しかし、それを考え抜くだけの忍耐力はないように思う。


 どうやら、このセンスというのは子供の頃に、そのような不思議な感覚を経験をしたことがあるかどうか、で決まるらしい。


 自分自身、覚えている不思議な感じがいくつかある。列挙してみよう。説明しきれないものだが、感覚的になんとなく分かる人もいるのではないか。


・影の方が本当の私であって、本体とされる私の方が実在してる感じがしない、と感じたことがある。


・空間的な閉所恐怖症ではなくて、時間的な閉所恐怖症という感覚を持ったことがある。


・他人には心がないんじゃないのか、となんとなく感じ、他人を私にしか見えない幻影のように感じたことがある。


・運が良いという意味での「ついてる」ということと、何でも物事には原因があると考えることは、結局同じなんじゃないかということが感覚的に分かる。


・ベッドの淵などで頭を逆さにしても、よく聞くように「世界が逆さまになった」とは感じなかったことがある。


・「今思えばアレは幽体離脱だったんじゃねーのか」と思うようなや体と心の乖離や、もしくは無重力感を、好きな時にいつでも味わうことができた。

 (自分の場合、部屋の壁紙の模様を思い出すと、いつでも作動した)


・悲しい時に胸が苦しいというのはまったく感じたことはないが、悲しい時には、特定の味を舌の先で感じた。


・起きたら違う人間になってるのに、そのことにも自分は気付かないのではないかと感じ、寝る前に怖くなったことがある。


・黒鍵だけで適当にピアノを弾いて、その音色に眩暈を覚えたことがある。


・親類のお葬式の際に、少し離れたところから母親の姿を眺めていたら、「この人は宇宙人なんじゃないのか」と思ったことがある。


・「それで相手に怒ったら、貴方もその相手と同じ馬鹿なのよ」みたいなことを言う奴が一番卑怯だと感じてしまうが、なぜそれを卑怯と感じてしまったのかについては自分でも「え、なんで?」と思ったことがある。



 以上に上げたリストは、私が子供の頃に感じたことで、これがそのまま哲学的センスの有無の判定基準にはならないでしょう。


 しかも、それぞれがどういう共通点があるのかも全然分かりません。


 ただ、上に挙げたすべてのケースでは、いつも同じ不思議さを感じ取っていました。


 少なくともこの不思議な感触は、どこぞやの小学校の先生が言いそうな「植物や動物を観察して不思議に思う心」みたいなのとはまったく違う感覚です。不思議さの種類が全然違う気がします。


 ともかくも、そんな不思議な感じの出来事を子供の頃によく感じていた気がします。


 そして、最近また、この不思議な感じを味わうような機会があるのです。


 とりわけ、「あっ、これは子供の頃のアレじゃないか」と思うのは、寝入る寸前のときです。


 就寝時はたいてい本を読んでいるのですが、ほぼ毎日、本を読んだまま寝てしまいます。


 しかし、なんだか夢にしてはあまりにリアルな感じで、私は本を読み続けてます。(夢遊病では絶対にない)

 

 ちゃんと頁もめくったりしてるんです。ひどい時なんかは、ペンで線まで引いてるんです。


 しかも恐るべきことに、ちゃんと本の内容を勝手に先まで頭の中で捏造してるんです。


 たとえば小説を読んでるのであれば、まるで最初の15分だけテレビドラマを見て先の展開を予測するように、筋を捏造することはできそうです。


 しかし、読んでる本が小説じゃなくても捏造しちゃってるんです。


 そして、ある瞬間に「あれれ、なんかおかしいな」と気付き、例の不思議な感じがするんです。そこでようやく目が完全に覚めます。


 すると、本を読んでたはずなのに、ベッドの脇に落ちてたりする。ペンで書き込んでたはずなのに、本はきれいなまんま。


 その時には捏造してたストーリーはもう完全に忘却しているので、実際に起きてその先を読み進めても、さっきまで読んでた内容と一致しているのかも確かめられくなっている。


 


 また、音となって現れることもあります。


 まるで作曲家にでもなったのか、楽曲が聞こえてくるんです。


 しかもかなり複雑な和音の曲で、ジャンルは必ずクラシックです。しかし、まったく聴いたこともない曲です。


 メロディーだけでなく、時には複数の楽器の音が混じっています。


 しかし、なぜかピアノかパイプオルガンの音が一番大きく聞こえてきます。


 本の先読みの場合と比べて違うの点は、音楽の場合は完全に起きた状態であることにあります。


 ベッドで横になったまま、その曲を聴いているんです。


 そして、「あれ、なんだこの曲?」とか思って例の不思議な感覚に囚われると、その瞬間にまったくいつもの現実に戻り、さっきまで聞こえていた曲はそこで止まる。そして、さっきまで聴いていた曲をまったく思い出せないのです。


 本・曲のどちらに出るかは予測なんてつかないんですが、最近はほぼ毎晩、どちらかを体験しています。


 そしてこの体験は、まさしくあの子供の頃の不思議な感覚と同じなんです。


 どう同じなのか分からないけれども、同じだと感じるのです。


 「ああ、あれだな」と。


 そして、目が覚めるとどんな体験だったか克明に思い出せもしないくせに、なぜか一気に目が覚めて、眠れなくなります。


 このせいで、最近は寝不足です。 


 

 心理学では、起きている時は意識が働き、寝ているときは夢において無意識が働くと言いますよね。


 そして、起きている時の意識が抑圧したものが無意識として蓄積し、それが夢の中で紡ぎ合わせられる、と。


 この心理学の前提を受け入れるならば、眠りかけてる時ってのは、ちょうど意識と無意識の間にいるのでしょう。


 もしくは、意識と無意識が同時に作動しているのでしょう。


 「だから、変なことが起きるんだ」と自分を納得させたいところですが、なんだか自分でもまったく納得できてない。


 なんなんだこりゃ。


 皆さんも同じような体験をしたことがあったら是非とも教えてください。


 



 ところで、最後に余談を。


 このところ、睡眠というものに対しての認識が変わってきました。


 というのは、睡眠というのは体を休めるという側面もあるが、それより精神を休めるものなのではないかと思うようになったのです。


 個人的には「寝てないときほど悲観的なことを考えるものだ」とは思ってきましたが、やはり睡眠によって精神状態はリセットされるのではないかという考えを強く抱くようになってきました。


 現実世界での意識では認めたくない不快な気持ちは、その意識によって無意識に追いやられる。


 しかし、これは単にゴミ箱に捨てたというようなことではなく、夢を見ることによって、その間にその不快な気持ちを(意識に代わって)無意識が対処してくれるのではないのか、と思うのです。そこでようやく、その不快な気持ちがなくなるのではないか。


 だから、精神の安定のためには夢を見なければならないし、逆に言えば、夢を見るような時ほど精神が疲れているのではないだろうか。


 また、肉体が疲れているから体が眠いと感じるのではなく、いやそれもあるだろうが、むしろ無意識に不快な気持ちが溜まりすぎて容量の限界を迎えたときに眠くなるんじゃないかなー。それはまるで、精神が「もう無理~。肉体さんよ、ヌマ君をそろそろ眠くしてあげてくれないかなー」と肉体さんに連絡し、それを「ああ、分かった」と肉体さんが了承してくれた時に眠くなる、そんな感じでしょうか。


 この仮説が正しいならば、眠いときは寝ないとヤバイんじゃないでしょうか。


 それを無理して起き続けていると、精神が容量を超え、なにかしら病的なことを考えるようになってしまうのではないだろうか。


 なんでこんなことを言うかというと……


 よく寝る人と、ほとんど寝ない知り合いをそれぞれ思い出すと、(寝れない人は対象外)


 よく寝る人の方が、 無意識に負荷を掛けてるような人間関係をしているように思うからです。


 負荷を掛けてるというのは、単純に不快な思いをよくしているというのではない点が重要です。


 不快であるとハッキリと感じれる人はむしろ無意識に負荷が掛かっていないように思います。


 深層では不快なのに、それを明るく振舞って気付かないようにしている人や、落ち込んでる暇はないと自分に鞭打っているタイプの人こそが、無意識に負荷を掛けているように思われるのです。


 寝ることによってリセットするにも、無意識にたまってる負荷が大きい人ほど去するのに時間がかかり、リセットするまでの作業時間がかかり、その分だけ睡眠時間が長くなる。


 この仮説は、「ほとんど寝ない人は、それだけ精神的にはキツイ」という一般的な常識と正反対の意見です。


 もちろん、リセットするのにもっと時間が必要なのに、諸般の事情(たとえば仕事があるから睡眠時間を削らざると得ないという理由など)によって、それだけの睡眠時間を取れていない人は、精神的にキツイ思いをしているでしょう。


 でもそれは「寝れない」人に関することであって、ここで考えているのは「寝ない」人なのです。


 そう考えると、ナポレオンがほとんど寝なかったというのは、単純にそういう人だったのではないかとも解釈できる。


 実際、「実務家タイプの職業の人はあまり寝ない人が多くて、芸術家はよく寝る」と聞いたことがありますが、ナポレオンは典型的な実務家ですよね。


 実務家タイプの人には、わりと生真面目な性格の人が多く、「嘘は言わない」みたいな人が多い気がします。飲み会の会計係を任されちゃうような人は、どうもこの手の性格の人が多い。彼らは、良く言えば現実が不快なものであってもそれと向き合える強さがあり、悪く言えば、現実をもう一度内省的に捉え返す審級が欠如しているのではないだろうか。簡単に言うと、「強いが浅い」。


 逆に芸術家タイプの人は、良く言えば内省的なので感情をそのまま受け入れるほど浅くないと言えるが、悪く言えば現実と向き合う強さに欠く。


 この場合、無意識に負荷が掛かるのは後者であることは言うまでもないでしょう。


 だから芸術家タイプの人はよく寝るんだ、と思う。


 

 ああ、眠くなった。なので尻切れトンボにここで寝よっと。リセットです。