ablindspotのブログ -256ページ目



今日は終戦記念日





いろいろ書きたいことがあるが


ぼくの知識はとても浅いから


何も書かずにおこう




僕の代わりに


いろんな人がいろいろ書き


いろんな国がいろいろ言う





いろんな立場によっていろいろ変わる





僕はそれをニュートラルに合わせ


たた”じっと見聞きする




侃侃諤々


右往左往





しかしながら


結局 全員が全員


戦争は悪て”あり


平和は素晴らしい


と結ぶ




ならば




その「恐ろしい戦争が終わった日」として


いかなる理由て”あれ


敗戦したとはいえ


ろくて”もない人間が増えたとしても


僕は喜ぶべき記念日じゃないかと思う




大前提としてね





そのうえて”犠牲になった人々


を偲ぶということがとても大切なわけなんよね




「今日があるのは


いままて”支えてくれたみんながいるから」



スポーツの世界にはこの感覚がかろうじて残っているけと“も






我々 凡人は


「われあり ゆえに…」


の意識が強過ぎちゃって


そんな当たり前の感覚を省みることがない





しいていうなら結婚式くらいなんやろね



つまり



その場の主役にならないと


そういう感覚って生まれない



きっと。






一生に一回といわず


(ぼくは破たんしたから2回あるかもしれないが)



少なくとも今日という日は





国家的に我々のルーツ 背景を考えさせる場を設けて



全員が国家の主役て”あると認識させても


いいのじゃないかしらん





と思うのれす




この日は徹底的に



仕事も


高校野球も


プロ野球も


バラエティも



ぜーんぶ取っ払っちゃう





 

結果




帰属意識が高まり




自給率も


投票率も


出生率も


税収もいくらかアップすることて”しょう










続く























































































勇者たちよ



オリンピックがいつの間にか閉幕していた



と、振り返りニュースと選手たちの帰国で気づく




何だか、あっさりとしていたなと思ってしまう。


メダルはたくさん取ったけど、やっぱり時差がありすぎて


なんかモリモリ盛り上がった感じはしなかった気がする


気のせいかな。





でも、たくさんのメダルと感動と興奮を


遠い異国から届けてくれた選手の人たちに感謝。





毎回毎回、試合が終わっ後の選手インタビューで思うこと。



金メダルじゃなかった場合


「そうですね、せっかく応援してくれたのに、応援してくれてた方々、金メダルじゃなくてすみません。

みなさんのおかげで、ここまで来ることができました。ほんとうにすみません。」



みたいな感じのコメント。特に柔道の人たちとかの。



そんな、あなたが謝ることなんて一ミリもないよ。


皆さんのおかげじゃないよ、あなたの努力と才能の賜物だよ。


と思う。




もちろん、周りの支えと応援と支援にプラスαは大いにあるだろうけど


そんなに謝る必要はないのではないかな。




全てを犠牲にして、人生を賭けて戦って、戦いつくした人たちに


周りで見ている私たちは、何の非難を送れるというのだろう





勝っても自分、負けても自分の


汗と涙と努力の賜物だよ


と思うので、そんな時くらいは優等生コメントより



チョー気持ちイイや、何もいえねー



くらいストレートで直観的で心の底からの言葉の方が


私的には、分かりやすくていい。





謝られると、別に私に謝ってないだろうけど



とんでもございません。あなた程頑張ってる人に、謝られる筋合いはございません。



という居心地の悪い気分になっちゃうから。




とにかく、お疲れさまでした。












つづく






















東から昇ったお日様が西に沈む これ本当




まったくもって書くことを決めずに画面に向かっている





雷がなっている



ひさしぶりに神戸に雨が降っている



いいね、癒される






さて何書こうかしらん




と記憶をよみがえらしてみるが



そんな面白いこともないし




あるっちゃあるけれと” こういう公の場においては


察しがついてしまうと大変た”から書かないことも多い






たとえば 個人に対しての私的感情


たとえば 国民的漫画に対しての私的感情


たとえば 宗教について ナショナリティーについて





文章を書いてみて分かることた”けと”




素人の僕て”さえ


いろーんな制約がある







「ああこういう解釈されたら困るなぁ」


とか


「見方によっては非難しているように感じ取れるなぁ」


とか



実際 CCメールを送付した内容が


受け手によって全く違う解釈されたりしていたりして


言葉 、つまり表現って本当に難しいな


と感じ




むしろ逆に 




簡単に言い逃れ出来るように


幾通りにも解釈されるような書き方をしなくちゃならない


事に気付かされる






回顧主義になっちゃうけと”



作家にしてもテレビマンにしても


映画監督にしても歌手にしても




昔の表現者たちはきっと今よりも制約が少なく


のびのびたやったんじゃないのかなぁ



とよく思う



(もちろん その時はその時て”いろんな制約があったに違いないが…) 



その当時は(いまもそうた”けと”)


彼らの活躍する媒体の




テレビにしても


漫画にしても


音楽にしても


小説にしても




対 個人た”ったわけよね


もしくは 対 家族やったわけやね







それが自分に合わなければ 面白くなければ


見たり 聞いたり買わなきゃいいた”けて”あったのに






何が契機か分からんが


いつの間にか



表現とは


読者て”もない人間をひっくるめた社会全てに


認められなければならない


高尚な存在になってしまっているような気がする




(ネットの普及て”ますますね)






検閲なんてもんじゃなくて


もう それはシュタ―ジュの世界





「あいつこんなんいったったよ」



「あいつ連絡つかへん」




「あいつ このまえと矛盾してる」



「ぶれてる ぶれてる かぶれてる」



とかね。






かつてないインフラによって



一見 開かれた世界のはずなのに




その真逆て”実は



非常に閉ざされた世界になってって


その可視化された窮屈な枠組みに



表現者も受け手もみんな疲れていっている





そりゃそうた”


「知らなくていいものを


知らなくちゃいけないおせっかいな権利」をもたされてるんた”からね





その食傷気味な疲れと緊張と大衆迎合によって




表現者たちが



無難に無難に



右に同じく



パクッてパクパク



目立たぬようにニンニン 



大人しくなっていくのも当然ちゃ当然やけと”






「表現とは風穴をあけること」



とするならば



完璧に失敗て”


中の風を滞留させているた”け






受け手も「その失敗」を求めてるから仕方がないけと”





僕はこの空気が



埃まみれて”


ぜんそくになになりそうなんす










とは言えと”も




結局この兆候は


日本人の遺伝子が求めている


「村社会への原点回帰本能」なのかもしれないね




た”た”っぴろい情報化社会のもと




同じ屋根の下て”


同じ釜の飯をくい


同じ空気を吸った仲間じゃないかー




という一体感








おっくれってるー





あ 、これ?


昔流行った言葉









続く