「ブラタモリ」#14「松江」#15「出雲」詳細<更新>
【お詫び】更新中の作業ミスにより、新しいブログ文(エントリー)が立ってしまいました。前のブログ文(エントリー)に[いいね!]をして頂いた皆様にはお詫びを申し上げます。◇NHK-G 「ブラタモリ」私のブログ「ブラタモリ」#7「函館その1」(2015/05/30放送), #8「函館その2」(2015/06/13放送)「ブラタモリ」#9「川越」(2015/06/20放送)「ブラタモリ」#10「奈良その1」(2015/06/27放送), #11「奈良その2」(2015/07/04放送)「ブラタモリ」#12「仙台その1」(2015/07/11放送), #13「仙台その2」(2015/07/18放送)◇■■ #14 「松江 ~国宝松江城の城下町はどうつくられた ? 」【初放送】8/1(土)19:30~20:15【再放送】8/2(日)13:05~13:50撮影ロケ: 松江FC、6/30(火)出雲大社、縁結び本舗、旧JR大社駅、他。7/1(水)松江城、松江大橋、白潟・風流堂、堀川遊覧船、宍道湖大橋、他。取材協力: 松江市、松江城山管理事務所、風流堂、堀川遊覧船管理事務所、出雲河川事務所、宍道湖漁業協同組合。資料提供: 松江市史料編纂室、アジア航測、伊藤孝一。映像デザイン: 山口高志CG制作: 水留健吾写真: 山田大輔ディレクター: 河添有祐プロデューサー: 垣東大介出演: タモリ、桑子真帆アナナレーター: 草彅剛(SMAP)◇【あらすじ】ブラタモリ、初の中国地方へ !舞台は島根県松江市。7/8(水)に国宝となったばかりの松江城を訪ね、その城下町の秘密を解き明かす。タモテバコの登場。今回の旅のお題は、「国宝松江城の城下町はどう作られた?」。ここで、松江歴史館学芸員の西島太郎さんが登場。松江は、松江城が築城されてから城下町が出来上がった。お城あっての城下町。タモリさん「城がなかったら下町ですからね」のギャグ。尚、明治中頃にはボロボロだった城が修復されている。遡って、実は建てて30年位で傾き出した。タモリさん「ピサの斜塔みたい」。日本に現存する12の天守閣のうちの1つ、堀尾吉晴が築城。なぜ今、国宝になったのか?天守の中を見ないと分からない。タモリさん「何度か上ったけれど、天守というものの中は意外とツマラナイ」。1Fに井戸の跡。タモリさん「なんでお賽銭を入れるのかな?」。天守の中に井戸が在るのは松江城だけ。柱に傷が2カ所。タモリさん「(刀の傷でなければ)♪柱の傷はおととしの~、殿様が子どもの頃にここで測った(笑)」。国宝に成る切っ掛けとなった。戦前までに国宝だったが、戦後(の改正で)、築城年が特定できず重要文化財に格下げ。ところが3年前、城が完成した時の木札"慶長十六年・・・"が外されたまま発見された!! しかも柱の傷2カ所とピッタリ一致した。国宝級のクギ穴。タモリさん「国宝と書いとけばいい」と撫でる(触っていいの?)。5Fの最上階へ。宍道湖が美しい。今はこんなに奇麗だが、元は城下町ができるような場所ではなかった。600年前の室町時代の「大山寺縁起」絵図を見ると、城がつくられた400年前の江戸時代初めまで、低湿地帯で人が住みにくい場所であった。では、どうしてそんな土地に城下町が作ろうと思ったか?大橋川の松江大橋で、松江市史編纂委員 絵図・地図部会長の大矢幸雄さんが登場。600年前はこの橋の元になる古い木橋が架かっていた。この辺りの湖岸は殆ど中世のままのカーブと、魚町の「うなぎ いづも屋」前を歩く。山陰合同銀行本店の右横通りは出世小路(しょうじ)、緩やかな坂上は標高3m、微高地の「白潟」には中世に千人位住んでいた。ここを核に商業地の回船問屋が発展、明治中頃まで回船問屋「伊野屋」だった「和菓子 風流堂」の4代目・内藤守さんが登場。1871年(明治4年)の廃藩置県直前に松江藩諸舩番所が発行した通行手形、1830年頃の松江藩藩札が遺されていた。ここで再び、西島さんが合流(番組編集のあや)。江戸時代堀尾期の城下町絵図に網の目のような堀・・・①防衛←②掘削・盛り土←③排水。北堀町の立派な島根県知事公舎の奥辺りはかなりの高度。山を分断、南を城に北を武家屋敷に、横240m x 縦90mに亘って掘った土を町作りの盛り土として使い、かつ西の湿地の排水路として使った。あし掛け5年の人力大工事。「城と町づくり」をテーマに、水と戦い、水と共存してきた松江の人々の知恵と工夫にタモリさんが迫る。町中に張り巡らされた堀に潜む工夫を、タモリさんが「堀川めぐり」遊覧船・ほりかわ6号で発見。改めて、松江が水郷だと認識。暗渠を通過する時は屋根を下げる。「船入」(と呼ばれる船が出入りするための堀・入江、富裕層の水門)の跡地は一段下がっている。タモリさん「マイマリーナだね、羨ましいな」と、羨ましさついでに色々と妄想す。1カ所だけ旧城代家老の柳田家屋敷跡の横に「船入」が遺っている。堀を支える仕組みとは?「国土交通省 松江堀川浄化ポンプ場」(末次町)へ。ここで、出雲河川事務所の西博之さんが登場。毎秒3.6tで宍道湖の水を堀川へ送り込んだり逆に吐き出したりして、水害対策。交融橋の水位40cmを超えないこと、黒田の水位を25~35cmに保つこと。これを維持しないと遊覧船が暗渠橋につっかえたり、船底をこすったりする。その他各種水位の監視・制御モニターを説明中にアラームが !! タモリさん「こんな状況の時に立ち会えてよかった」。宍道湖大橋へ。宍道湖は水深最大で6m位しかなく洪水が多かった、大正終わりから昭和にかけて宍道湖~大橋川(~中海~日本海)の拡幅・掘削工事。この結果、宍道湖が汽水域に変化し大橋川だけではなくシジミが採れるようになった。ここで、脱サラ漁師の矢野順一さんが船で登場。*【参考】1600年(慶長5年)、 関ケ原の戦いで戦功のあった堀尾氏が、24万石を得て月山富田城に入城し出雲国松江藩が成立。1607~11年(慶長12~16年)、堀尾氏(外様大名)が末次城のあった亀田山に築城を開始し落成。1633~34年(寛永10~11年)、堀尾氏に嗣子なく改易。京極氏(外様大名)が若狭国小浜藩より出雲・隠岐両国26万石で入封、三の丸を造営し松江城の全容が完成。1637~38年(寛永14~15年)、ところが京極氏もまた嗣子なく改易。信濃国松本藩より越前系・松平直政(親藩)が18万6千石で入封、明治維新まで続く。◇■■ #15 [出雲 ~出雲はなぜ日本有数の観光地となった ? 」【初放送】8/22(土)19:30~20:15【再放送】8/23(日)13:05~13:50取材協力: 島根県立古代出雲歴史博物館、出雲市、出雲弥生の森博物館、大社史話会、浜遊自然館、神門通り甦りの会、たいしゃ駅交流ネットワーク。資料提供: アジア航測、多々納光教、ピクスタ。映像デザイン: 山口高志CG制作: 水留健吾写真: 山田大輔ディレクター: 冨田百合子プロデューサー: 石原謙一郎出演: タモリ、桑子真帆アナナレーター: 草彅剛(SMAP)◇◇【あらすじ】タモリさんは、出雲には一度も来たことがなかったので、4~5年前、出雲大社のお参りに訪れた。お参りして帰っただけ。タモテバコの旅のお題は、「出雲はなぜ日本有数の観光地となった?」。ここで、出雲観光協会事務局長の小野篤彦さんが登場。出雲生まれ出雲育ちだとおっしゃるが、言葉はやたら東京の「ちゃった」言葉。参道から上って来て、鳥居を過ぎてから下がる。たぶん全国でも珍しい。鳥居が一番高い場所。タモリさん 「だから高低差ファンが造ったとしか思いようがない」。小野さん 「地形がこうだったから下りになっちゃったっていうのが正しいんですけどね」。タモリさん 「いや違います。こういうふうにしたかったんです。造った人が」。小野さん 「砂が堆積した土地なので、砂の山だった」。旅の舞台は島根県出雲市。出雲大社があるのは島根半島の西の端。海岸から程近くこの辺りはかつて砂丘だった。鳥居がある高い所は、大勢の参拝客が集まることから「勢溜」(せいだまり)と呼ばれて来た。「祓橋」(はらいのはし)を渡り、普段の穢(けが)れを祓いましょう。橋を過ぎると、景色がガラリと変わる。参道が3つにセパレートされる。真中の道は一説によれば神様の通り道。一歩遠慮気味に端を歩いて行きましょう。江戸時代の寛永期(1624~45年)に下り参道ができ、僅か250年位前の江戸中期に今のような賑わいになった。縁結びで知られる出雲大社。毎年旧暦の10月、全国の神々が縁結びの相談をするため集う神在月。その恩恵に預かろうと、年間800万以上の参拝客が訪れる。今や、日本有数の観光地となった出雲。なぜ日本有数の観光地となった?その名が全国に知られるようになったのは、実は江戸時代中頃のこと。「出雲が日本有数の観光地になった理由」をテーマに、出雲大社と出雲の町の秘密にタモリさんが迫る。先ずは出雲大社に参拝。拝殿~本殿。作法は昔から2礼4拍手1礼。全国の神社は、明治時代に国が管理し出した時に2礼2拍手1礼にしなさいと決められた。昭和時代になって元に戻してもよくなった。出雲大社の本殿を支えていた柱の跡は、2000年春に発見された。今は高さ24m、当時は48mあった。言い伝えの図「金輪御造営差図」(出雲国造の千家尊祐・蔵)は平面図なので、高さには諸説あった。約60年に1度「遷宮」(修繕)が行われ、「平成の大遷宮」は2008年4月~16年3月実施中。現在の本殿は、1744年(延享元年)に建てられたもの。タモリさん 「ちょっと空気が清々しい」。小野さん 「空気が違うっていうのは神様を感じちゃう瞬間。見えないものを何かの変化によって五感で感じる」。本殿には、御神座・客殿がある。天井には「八雲之図」。なぜか雲は7つしかない。完成しないことによって永遠性を求めている。「十九社」・・・神在祭の間、全国の神々が宿泊する場所。19の扉。檜皮葺(ひわだぶき、耐用年数50~60年)。石のような遺跡化でなくいつも生きて造り替えている。250年前の痕跡を探しに、町中に向かおうとすると---真帆さん 「もう終わりですか? 」。タモリさん 「お参りはちゃんとしましたので」。真帆さん 「えっ?えっ? 縁結びのお願いしてないです」。小野さん 「お参りしたじゃないですか」。真帆さん 「あそこでお願いするんだったんですね?」タモリさん 「お願いしなかったの?」真帆さん 「何も考えずにお礼してました」。相変わらずのノーテン。タモリさん 「遅れるわ、この子は」。門前町。ここで、いづも財団事務局次長の山﨑裕二さんが登場。出雲大社の正式な呼び名は「おおやしろ」。江戸時代の地図。出雲ではなく杵築(きづき)。真帆さん 「何だコレ?」タモリさんも 「出雲大社じゃなかったんですか?」江戸時代までは、杵築大社と呼んでいた。タモリさん 「ええっ!? 何か伝統がくしゃくしゃに壊れたような気がする」。「出雲風土記」によれば、国引きの後、ここに宮殿を造った。大勢の神々が集まって築いたから「きずきおおやしろ」。門前町の住所は杵築のまんま。江戸時代の後半から全国に一気に広がって行った。なぜ広がって行ったのか? その痕跡がある。元々の参道はこちら。両脇に神職さんたちの住居。彼らが270年前から明治初期まで全国に信仰を広め歩き、「出雲御師(おし)」と呼ばれた。鬼瓦に大国様の顔。「玉持大国像」(19世紀、県立古代出雲歴史博物館・蔵)。大国様(オオクニヌシ)は、打ち出の小槌を持った大黒様とは違う神様。参道(門前町)の中核となる「四つ角」。一見すると三つ角。由来は四ツ街道・・・勢溜・大社・日本海・石見銀山へとそれぞれ続く道。「杵築大社近郷絵図」(17世紀、北島建孝・蔵)。御師たちは四ツ街道で全国へ布教&観光案内。老舗の蕎麦店と庄屋の屋敷に残るお宝とは?布教道具が、蕎麦屋「荒木屋」に残されているという。8代目・浜村裕昭さんが登場。御師さんがお札などを印刷した版木(段ボール3箱分70枚)を屋根裏から発見。タモリさんが実際に墨を付けて印刷してみる。それは蕎麦預(そばあずかり、クーポン券)だった。タモリさん 「蕎麦クーポン付き大社参りというツアー」版木の裏面には、「大小暦」・・・旧暦の大月(30日)と小月(29日)を表現した暦。例えば、申年(さるどし)は、大月が二 五 七 九 十 十一、小月が正 三 四 六 八 十二。猿をあしらったイラストを考案した。中でも最も全国で民衆の心を掴んだのは、"縁結び"。真帆さんの瞳が一瞬、輝く!!タモリさん 「そこで全国的に広まって行くんですね、願い事の一押しにした訳ですね」。真帆さん 「珍しかったんですか?」山﨑さん 「珍しいですよね」。「出雲国大社八百万神達縁結給図」(3代目歌川豊国、県立古代出雲歴史博物館・蔵)。御師たちの話から数々の浮世絵が描かれ、御師たちの活躍振りが窺える。その結果、参拝客が急増、その時、門前町の人たちはどうしたか?タモリさん 「私としてはなんだかんだ言って色んな物を売り付けようと思う」。どうもてなした? その痕跡がある。商人街の一角、藤間家・・・北前船の回船業・酒造業を営む豪商。ここで18代目当主の藤間亨さんが登場。富興行(富籤)・・・修復事業のため、松江藩を支援し売れた札の3割を寄進した。「杵築富興行一會に付 市中人銭大辻見込帳」(藤間家・蔵)によれば、年2回(3月と8月)実施し1回に付き8日間で23万1260貫文(現在の約23億円)。現在のメインストリート「神門通り」は、「杵築惣絵図」(天保12年=1841年、千家尊祐・蔵)にも描かれていない。大正時代に道を造らねばならない理由があった。タモリさん 「鉄道では?」ご名答!! 「大社駅」ができたために、道をつけた。日本で3つしかないという国の重要文化財の駅舎--東京駅丸の内駅舎、門司港駅舎、そして大社駅舎。ここで、元大社駅員の金築重夫さんが登場。旧・大社駅舎・・・明治45年~平成2年(1912~90年)の間、走っていた大社線の駅として大正13年=1924年に建てられた。昭和6年2月3日の寝台券/上段/2等/3圓00銭の切符が紹介された。大社駅ができたことにより、昭和30年~45・46年(1955~71年)位が乗降客=参拝客の最盛期。年間100万人突破、年間200本以上の臨時列車(全国大都市との直通列車)があった。離れた場所(2.5km先)にできたのは、馬場通りと市場通りの商店街が誘致の綱引きとなり、両竦(りょうすく)みとなった結果、新たな道路として神門通りと大鳥居を建設。昭和40年代には年間300万人の参拝客。その後漸減し1990年3月の大社線廃線とともに激減し100万人。神門通りがシャッター通りと化した。そこで「平成の大遷宮」に合わせてリニューアル。工夫の1つとして、スイーツ⇒女性⇒男性⇒縁結び⇒結婚・出産⇒お礼のリピート。スイーツ効果で8倍増の800万人となる。遷宮によって神社が復活し、町が再活性化するよう努力した。タモリさん 「私も平成の御師の1人として」。*【参考】神代より、「杵築大社」(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれて来た。古事記や日本書紀の記述・・・大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)は、高天原を治める天照大御神(アマテラスオオミノカミ)に対し、国譲りに応じる条件として、出雲国神門郡杵築郷の多芸志の浜に天之御舎(天日隅宮、天日栖宮)、つまり巨大な金輪御造営を求め実現してもらった。BSフジ『古事記の世界』~CGアニメでひも解く日本誕生物語16世紀末の文禄年間、杵築大社の巫女・クニ(後に出雲の阿国と呼ばれる)となり勧進のため諸国を巡回し、1603年(慶長8年)には、「かぶき踊」を始めた。これが後に遊女歌舞伎を経て、歌舞伎へと発展して行った。17世紀中頃(寛文年間)、遷宮時に出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、1664~65年(寛文4~5年)、仏堂や仏塔は移築・撤去され経蔵は破却され、これに併せて祭神は古事記や日本書紀などの記述に沿って、これまでの素戔嗚尊(スサノオノミコト)から、晴れて息子の大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)へと復した。1744年(延享元年)、国宝・杵築大社本殿の造営。江戸時代中期、杵築大社近辺の各地では、地域の一般の人びとによる素人神楽が、宗教者による神楽を圧迫するほど盛んに行われた。1871年(明治4年)、「出雲大社」に改称。◇