思い出の1930~60年代ポピュラーと欧米女性歌手--TBS「今晩は 吉永小百合です」を聴いて
◇TBSラジオ「今晩は 吉永小百合です」を聴いた。私は高校生時代、恥ずかしながら定期券入れにブロマイドを忍ばせる程、2歳年下のサユリストだった。その後の彼女は映画も朗読も暗いイメージを感じて来た。ところが、このパーソナリティーはゆっくりした口調で明るいものとなっているので、悠久(笑)の時を経てハッとした。9/27(日) 22:30~23:00は、第508夜「アメリカの女性ボーカリストの名曲」。パティ・ペイジ(Patti Page)のカントリー「テネシーワルツ」(Tennessee Waltz, 1948年)などを流していた。番組に触発されて、私の高校生~大学生時代(1963~70年)の思い出の中にある、1930~60年代欧米女性歌手のポピュラーソングを調べてみた。私も今月で68歳。彼女たちには同世代が多く存命である(笑)。◇【思い出のポピュラーと欧米女性歌手】===1930~40年代===♪ 「虹の彼方に」(Over The Rainbow)1939年。作詞Yip Harburg、作曲Harold Arlen。歌・ジュディ・ガーランド(Judy Garland、1922/6/10~69/6/22、47歳で早世)。米国ミネソタ州クランドピッズ生まれ。父親がボードビリアン、母親がピアニスト。39年、ミュージカル『オズの魔法使』でアカデミー子役賞・歌曲賞受賞。覚醒剤・睡眠薬を常用するようになる。49年、映画『アニーよ銃をとれ』の撮影中に精神異常状態になったジュディはアニー役から下ろされる。女優のライザ・ミネリは、2度目の夫ヴィンセント・ミネリとの娘。女優のローナ・ラフト(Lorna Luft)は、3度目の夫シドニー・ラフト(Sidney Luft)との娘。映画『ニュールンベルグ裁判』で復活し衰えない演技力でアカデミー助演女優賞ノミネート。61年、カーネギー・ホールでのソロ・コンサートを収録した「虹の彼方に」を始めとしたライブ・アルバムはグラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、ジュディ自身も最優秀女性歌唱賞を受賞する。69年、睡眠薬の過剰服用により死亡。===1950年代===♪ 「ケセラセラ」 (米製スペイン語Que Sera, Sera、英語Whatever will be, will be、日本語・なるようになる)1956年。作詞Raymond Evans、作曲Jay Livingston。歌ドリス・デイ(Doris Day、1922/4/3~、93歳)。米国オハイオ州シンシナティ生まれ。父はドイツ出身の音楽教師で両親は彼女が10歳の時に離婚。18歳の時にジャズバンド「レス・ブラウン楽団」に専属歌手として参加し、バンドメンバーのアル・ジョーダンと結婚。42年、離婚。44年、『センチメンタル・ジャーニー』を歌い大ヒット。46年、再婚するも僅か8カ月で破局。48年、『洋上のロマンス』で映画デビュー。50年、『二人でお茶を』など売れっ子になり、エージェントだったマーティン・メルチャーと結婚。56年、アルフレッド・ヒッチコック監督作品『知りすぎていた男』の劇中歌『ケ・セラ・セラ』でアカデミー歌曲を受賞。尚、2004年にはアメリカ映画主題歌ベスト100に選出された。68年、夫を亡くし映画界を引退、活躍の場をテレビ『ドリス・デイ・ショー』(1968~73年)に移す。76年、4度目の結婚をするが81年には離婚。その後は動物愛護に力を注ぐ。===これより我々の世代、1960年代===♪ 「夢見る想い」(Non ho l'età)1964年。作詞・作曲Mario Panzeri Nisa。歌ジリオラ・チンクエッティ(Gigliola Cinquetti、1947/12/20~、まもなく68歳)。イタリア・ヴェネト州ヴェローナ生まれ。64年、16歳時にサンレモ音楽祭でカンツォーネ「夢見る想い」を歌い優勝。続くユーロビジョン・ソング・コンテストでもイタリア代表初の優勝。66年、「愛は限りなく」(Dio, come ti amo) でサンレモ音楽祭連覇。当時、カンツォーネ・ブームの日本では、ボビー・ソロと共に本国イタリアを凌ぐ人気となり、日本語の録音も残している。79年に結婚、翌年二人の男の子の育児に専念するため引退してローマに転居した。89年、サンレモ音楽祭に復活出場。90年、デビュー25周年ツアーを欧州で行った。93年、来日コンサート開催。95年、サンレモ音楽祭出場など依然として精力的に活動中。♪ 「夢見るシャンソン人形」(Poupée de cire, poupée de son)1965年。作詞・作曲Serge Gainsbourg。歌フランス・ギャル(France Gall、1947/10/9~、まもなく68歳)。フランス・パリ生まれ。父は作詞家Robert Gall、母はパリ木の十字架少年合唱団の共同設立者として知られるPaul Berthierの娘Cécile Berthier。65年、ルクセンブルク代表としてユーロビジョン・ソング・コンテストに出場し「夢見るシャンソン人形」で優勝。70年代に入り作曲家のミッシェル・ベルジェと知り合い彼のプロデュースのもと本格的な歌手として再スタートを切り絶大な支持を得る。76年、ベルジェと結婚、2児を授かる。92年、ベルジェが他界。97年、娘ポーリーヌを難病で亡くす。それ以来、表舞台に出ることはなく実質上の引退状態となっている。♪ 「恋はみずいろ」(L'amour est bleu)1967年。作詞Pierre Cour、作曲Andre Popp。歌ヴイッキー(Vicky Leandros、1949/8/23~、66歳)。ギリシャのコルフ島生まれ。幼少時から音楽家の父親によって歌とダンスのレッスンを受けていた。9歳時、西ドイツに移る。64年、レコード・デビュー。67年、ルクセンブルク代表としてユーロビジョン・ソング・コンテストに出場し「恋はみずいろ」で4位だったが、68年に爆発的にヒットした。以後は世界的な活動を展開、70年、初の日本公演を果たした。72年、再びルクセンブルク代表としてユーロビジョン・ソング・コンテストで「想い出に生きる」を歌って優勝。82年、ギリシャ人実業家と結婚。その後ドイツ人と再婚したが離婚。2006年、ギリシャの港町ピレウスの副市長に就任し、文化振興や国際交流に貢献した。♪ 「悲しき天使」(Those Were the Days)1968年。作詞・作曲Eugene Raskin。歌メリー・ホプキン(Mary Hopkin、1950/5/3~、65歳)。英国ウェールズ生まれ。68年、ポール・マッカートニーがプロデュースした「悲しき天使」が大ヒットを収めた。グラミー賞の最優秀女性ポップ・ボーカル・パフォーマンス賞にノミネート。その後、全世界で多くの歌手がカヴァーした。原曲はロシア語の歌謡曲の『ダローガイ・ドリーンナィユ』(Дорогой длинною)。69年、レノン=マッカートニー作詞・作曲(実際はマッカートニー単独の作品)の「グッドバイ」(Goodbye)。70年、「しあわせの扉」(Knock Knock Who's There)で英国代表としてユーロビジョン・ソング・コンテストに出場。71年、「大地の歌」(Earth Song/Ocean song)はメジャーデビュー以前のブリティッシュ・フォークの香りが漂う作品。プロデュースしたトニー・ヴィスコンティと結婚し引退。だが、77年にはもう、デヴィッド・ボウイのアルバム「ロウ」のバック・ヴォーカルに参加し、81年にヴィスコンティと離婚。◇