野球の国際大会であるWBC(ワールドベースボールクラシック)は2006年に第1回大会が行われ、2026年の今年も第6回大会が実施された。

第7回大会が何年に実施されるのかは不明だが、回を重ねるごとにWBCの観客動員数は右肩上がりとなっている。

また、WBCの開催を実質的に司っているMLB(メジャーリーグ)も今後のWBCの開催に凄く前向きなので、2029~2030年ごろに第7回大会が実施されるのはほぼ確実視されている。第7回大会に限らず2032~2034年ごろには第8回大会も実施されるだろうし、更にその後の時期に第9回大会も実施されるだろう。

 

WBCは野球の国際大会な訳だが、サッカーでいえばFIFAワールドカップという国際大会がある。

前述したように、WBCは著しく成長し続けている国際大会であるが、ワールドカップの歴史や経済規模は尋常ではないレベルで傑出している。

そもそも、東アジア・北米・中米・オーストラリア・オランダ・イタリア・チェコ・ドイツなど一部の国でしかあまりプレーされていない野球と比べて、サッカーは世界中の多くの国々でプレーされている。

事実、WBCは2026年の本戦の出場国が20か国に留まるのに対し、2026年のワールドカップは48か国も出場する。

他にも、大会をFIFAという国際組織が主催しているのか、それともMLBという特定の国のプロリーグが主催しているのかという違いや、NPBやMLBのプロ野球選手が日本シリーズやワールドシリーズの制覇を夢見ている一方で、プロサッカー選手のほとんどは所属しているリーグでの優勝も重視しつつワールドカップ優勝を最大の目標としている違いがある。

 

そのため、一概にWBCはワールドカップを見習うべきとは言い難いのだが、それでもWBCがワールドカップに匹敵するほどの規模の大会になることを目指すのであれば、野球の競技人口や野球ファンの人口を世界規模で増やすということに加えて、WBCの開催形式をブラッシュアップすることを検討すべきである。

 

以下で、筆者が個人的に考えるWBCの開催形式の改善案を挙げてゆく。

 

 

 

改善案①:開催年度の間隔を固定する。

2023年大会と2026年大会に関してはコロナ禍の影響があるのでやむを得なかったと言えるが、WBCは開催年度が2006年、2009年、2013年、2017年、2023年、2026年と大会の間隔がばらばらとなっている。

世界中にいる野球ファンや野球関係者たちの間で、WBCの存在感を高めるのであれば、決まった間隔(4年ごと)で大会を開催することを検討しても良いのかなと感じる。

五輪やワールドカップがスポーツ界で大きな存在感を放っているのは、大会の歴史や経済規模などのほかに、「何年後に、次回大会が行われるのかが自明である」という点が大きい。

例えば、五輪やワールドカップで不本意な結果となった選手が「この悔しさを4年後に晴らしたい」などと述べることは珍しくない。

しかし、或る五輪が終わったときに次の五輪の大会が実施されるのかが不明だったり、次回大会の実施がほぼ確実であってもそれが何年後になるのかが今の大会が終わった直後の時期であるにもかかわらず未定だったりする場合でも、このような言葉がきかれるのかと言われれば、それは違うだろう。

 

夏や冬の五輪やワールドカップは、世界大戦やコロナ禍などの緊急事態がなければ、決まった間隔(4年ごと)で開催される。そのため、或る大会が終わった直後の時期に「次回大会が何年に実施されるのか不明」という状況になっていることは原則ない。

夏季五輪の開催年度が2024年、2028年、2032年、2036年……であり、野球が夏季オリンピック競技として採用されるケースがあることを踏まえると、WBCは夏季五輪と別の年度に開催するのが望ましい。

具体的には「2026年以降のWBCは基本的に4年ごとに開催する」というようなルールが考えられ、その場合、WBCの開催年度は2026年、2030年、2034年……となる。

 

 

 

改善案②:大会ごとに開催国を大幅に変更する

ワールドカップでは年度ごとに開催国が変わる。たとえば、2018年はロシアで、2022年はカタールで開催されたし、2026年もカナダ・メキシコ・アメリカの3か国で共同開催される。

五輪もロンドン、ブラジル、日本、フランスなどと開催国が大会ごとに変わってゆく。

野球の競技人口が一定の水準を上回っている国はワールドカップや五輪の参加国ほどではないという問題はあるが、WBCも開催国(本戦の試合が行われる国)を年度ごとに変えてみてはどうだろうか。

 

WBCは、第1回から第6回に至るまで、決勝や準決勝などの大会終盤は米国のスタジアムで実施され、大会序中盤のリーグ戦は米国・日本(・台湾)などといった「いつメン」の国のスタジアムで実施されている。

今後は「大会序中盤のリーグ戦から準決勝や決勝に至るまで本戦の全ての試合を1か国で開催する」ということを提案したい。

 

例えば、第7回大会は開催国をアメリカのみとする。

その場合、アメリカや日本やブラジルや韓国やチェコなどの選手たちは、大会序中盤の段階でアメリカにいることとなる。

全ての出場国は、アメリカの複数のスタジアムでリーグ戦を行っていく訳だが、決勝トーナメントに進出した国の選手はアメリカに残り続け、リーグ戦で敗退した国の選手はアメリカから「普段、自分が住んでいる国」へ帰ることとなる。

第7回大会がアメリカのみで開催されたならば第8回大会は北中米や東アジアのどこかの国のみで開催されてもよいのではないか。

 

MLBの選手らは自分らが慣れ親しんだ国(アメリカやカナダ)のスタジアムで決勝トーナメントがプレーできず不満かもしれないが、WBCに参加するついでに異国の地で観光旅行や野球の広報活動をすることも出来る訳で、観光旅行や野球の広報活動といった魅力をメジャーリーガーにアピールするという方法もある。

もちろんWBCが今まで通り3月に開催されるならば、「翌月にはMLBの公式戦が始まるのに、なぜMLBシーズン開幕の直前に米国やカナダ以外の国へ行かねばならないのか」といった声も挙がりうる。

その場合は、WBCの開幕時期を2月下旬に少し早めることで、WBCの決勝戦の日付とMLB開幕戦の日付をもっと空けることや、「第7回大会だけではなく第8回大会もアメリカ単独開催にするから、その代わり第9回大会はアメリカ以外の国で単独開催するというのはどうですか」などと話し合うことなどを考えても良いだろう。

 

 

 

改善案③:リーグ戦の国の組み合わせをもっとランダムにする

前述したように、今までのWBCでは大会序中盤に行われるリーグ戦の国の組み合わせが「いつメン」状態になりやすかった。

例えば、東京ドームで行われたリーグ戦をみていくと、2006年の1次ラウンドA組は「日本・中華人民共和国・チャイニーズタイペイ・韓国」で、2009年の1次ラウンドA組は「日本・中華人民共和国・チャイニーズタイペイ・韓国」で、 2013年の2次ラウンド1組は「日本・キューバ・チャイニーズタイペイ・オランダ」で、2017年の1次ラウンドB組は「日本・キューバ・中華人民共和国・オーストラリア」で2017年の2次ラウンドE組は「日本・イスラエル・オランダ・キューバ」となっている。

2023年の大会は東京ドームで1次ラウンドB組と準々決勝が行われたが、1次ラウンドB組は「日本・韓国・オーストラリア・中華人民共和国・チェコ」で、準々決勝は「日本・イタリア・キューバ・オーストラリア」だった。

そして、2026年は1次ラウンドC組が「日本・オーストラリア・韓国・チェコ・チャイニーズタイペイ」となっている。

このように、今まで日本がWBCのリーグ戦で対戦してきた相手国は結構マンネリ化していることが分かる。

 

もちろん、リーグ戦における日本の対戦相手がかなり固定されているのには理由があり、それは端的に言えば興行的な事情による。

野球人気が高い地域は世界の中でばらつきがあり、野球人気が高い国は東アジアや北中米に集まっている。

時差の問題もあり、東アジアの国の試合は東アジアのスタジアムで実施し、北中米の国の試合は北中米のスタジアムで実施したほうが、野球中継の視聴率が高くなるし、現地観戦もしやすくなる(例えば、韓国在住の野球ファンが日本のスタジアムへ行くのと、韓国在住の野球ファンが北中米のスタジアムへ行くのとでは移動にかかる時間や費用が全然ちがう。また、東アジアと北中米には時差があるため、例えば東アジアのスタジアムで北中米の国同士の試合が実施され、その試合が13時スタートである場合、北中米に住んでいる人にとっては深夜スタートの試合となりうるため視聴するハードルが高くなる)。

 

これらの興行的な事情を踏まえると、東アジアの国のリーグ戦が日本のスタジアムで開催されがちとなり、北中米の国のリーグ戦が北中米のスタジアムで開催されがちとなるのは十分に理解できる。

だが、興行面のことばかりを重視してしまうと、2026年の1次ラウンドC組で「台湾だけが初日から4連戦という日程」となり、日本以外の国も「ナイターで試合をした翌日にデーゲームという過酷な試合日程」を余儀なくされるなどといった露骨すぎる「日程の有利・不利」が発生してしまう。

 

ワールドカップは、基本的に日本以外の国で開催されるので、日本戦が日本時間の深夜や早朝に始まることも多い。しかし、そうであるにも拘らずワールドカップの日本戦は地上波放送されるたびに高い視聴率を叩き出す。

本当の意味で魅力や注目度の高い大会であれば、「一次ラウンドの日本戦が全て日本時間の19時にスタート」というような日本在住者にとって素晴らしすぎる日程でなくても、高い視聴者数や人気を集めることは可能なのではないだろうか。

 

 

 

以上で3つの改善案を紹介したが、WBCの実質的な運営組織がMLBであることを踏まえると、MLBやメジャーリーガーの選手会、そしてNPB等の各国のプロフェッショナル野球リーグの同意なくして、上記の改善案の実現は不可能である。

改善案①は比較的、各国のプロフェッショナル野球リーグに属する選手たちの賛同を得やすいように思うが、改善案②と改善案③は興行性や収益性に大きく影響しうる案であるため実現のハードルが高いと感じる。

本記事の読者の皆様はWBCの開催形式について、どのようなアイデアをお持ちだろうか。

コメント欄などでご教示くだされば幸いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

半年ほど前、筆者はドラマ『とんぼ』を視聴した。

第1話から最終話まで視聴して凄く気になったことがある。

それは、主人公の言動がしばしばブーメランとなっていることである。

 

主人公の小川英二は渋滞にイライラして自分の周囲の自動車を毀損するなど、周囲の人々に迷惑をかけてばかりいるのに、蕎麦屋の高校生たちには「思いやり」や「世の中、他人がいるってこと忘れるんじゃねえぞ」と説いていた。

 

体格の良さそうな青年に対して「お前だよ、おめえ、ラグビー部」や「でっけえ図体ぶらさげやがってコノヤロー」と彼の姿を揶揄するようなことを言いながら、自分がランニング中に「けんこうてき~!」や「お父さん、オリンピック終わったよ」と若者らに自分の姿を揶揄されたときは、その中の一人の頬を叩き、蹴りを入れて「茶化して喜ぶおもちゃじゃねえんだよ、人間ってのはよ」と語っていた。

 

「トイレ掃除は掃除後のトイレを自分の舌で舐められるほど徹底的に行え」と説きながら、排便後に自分の尻をきちんと拭いていないようでパンツに大便がついていることを妹に指摘されるシーンもあった。

 

英二が自分の舎弟と電話しているとき、英二は舎弟が女(恋人)と一緒にいることを察し「ちゃんとゴム(コンドーム)つけるんだぞ」と伝えている。

ところが、英二は後に自分の恋人とゴムをつけずに性行していたようで、その恋人は妊娠に至っている。

妊娠を知った恋人は悲しんでいる様子ではなかったが、英二が交際を始める前の段階で強引に彼女の胸を揉んでいたことなどを考えると、英二が性行の際にゴムをつけないことを恋人と同意していたのかは疑わしく「うーん」と感じてしまった(まあコンドームをつけていても妊娠の可能性が完全にゼロとなる訳ではないのだが)。

 

なお、英二は出前に対しては全然、否定的な態度をとっていない一方で、スーパーマーケットの惣菜に対しては「パック入りのくそみたいなもん食えるかよ」とケチをつけている。

これに関して、筆者は「出前もスーパーマーケットのお惣菜も身内以外の他人が作った料理である。ラップなどで包装されて食卓に並ぶのか、パックで包装されて食卓に並ぶのかの違いでしかなくね?」と思った。

しかも、よくよく考えれば、そのパックにしてもパック入りの総菜はトレーの上にラップをかけて構成されている訳で、同じラップが使われているのに「スーパーマーケットの惣菜がダメで出前がOK」というのは不可解なように感じられる。

 

このように、英二は暴力的でブーメランや矛盾に満ちている人物な訳だが、興味深いことに、ドラマ『とんぼ』が地上波で放送されていたとき、少なくない数の視聴者が英二に好感を持っていたという。

この理由としては主に三つあると思う。

 

英二は舎弟の母親のために尽力したり、青森県から上京してきた交通整理の青年には一万円をプレゼントしたりと、英二は他人に優しい振る舞いも結構していた。

普段は粗暴でオラオラ系の人物がたまに善行をすると、そのギャップで普通よりも高く評価されるという現象は世間でしばしば見られ、この現象が英二においても起こっていたのではないだろうか。

 

また、英二を演じた長渕剛の容姿もプラスに働いた可能性がある。

屑な言動をしている人物が美女だったりイケメンだったりすると、「小悪魔系女子」や「小悪魔系男子」と呼ばれ、普通に考えれば欠点でしかない「性格の悪さ」が一つの魅力かのように扱われることも世間では珍しくない。

 

他の理由としては、世間には「或るストーリーに印象的なシーンがあったとき、そのシーンの前後を余り重視しない鑑賞者」が一定数いるということが挙げられるかもしれない。

 

例えば『ONE PIECE』という少年漫画には有名なシーンがある。

それは、主人公ルフィの兄エースが戦死するシーンであり、たとえば週刊少年ジャンプの編集長も務めた中野博之氏はエースが死ぬシーンを「世界の漫画史の中でもトップレベルの名シーン」と絶賛している。

筆者がこのあたりを読んだのは十年くらい前なので詳しい筋書を正確に覚えている訳ではないが、エースが「愛してくれてありがとう」とルフィに伝え絶命していったのは記憶に残っている。

 

一般論として、主人公と親しい人物(ルフィとエースは義兄弟)が戦死するという展開は感動シーンとなりやすく、「愛してくれてありがとう」という台詞も、これ単体で観れば感動的かもしれない。

だが、重要なことがあり、作中では、このシーンに至るまでの間、膨大な数のキャラがエース一人のために自分の命や時間を犠牲にしていたのだ。

エースの死を「ワンピースで読んだ中で一番ひどい出来事」と評する海外読者の声を引用する。

 

俺はエースのキャラ結構、好きだったんだよ。アラバスタで出てきて、1/3くらいでいなくなって、次に会うのはあの黒ひげの騒動の時だったから、そんなに描写はなかったんだけど、結構いいポテンシャルはあったんだよね。でも、そのポテンシャルが、死んだだけじゃなくて、死に方によって台無しにされた感じ。だって、色々あったのに、エースが「お前の母ちゃん、デカい」みたいなジョークにキレて、それで死んだって考えると、マジで真剣に受け止められないんだよね。マジでストレートに言うけど、あれはマジで「お前の母ちゃん、デカい」ジョークだったんだよ。赤犬が白ひげをバカにしただけで、エースは自分の人生に関わったみんなの努力を無駄にしたんだから。

ルージュはエースを生かすために自分の命を犠牲にして、20ヶ月もお腹の中でエースを育てた。ガープはロジャーの頼みでエースを引き取って、こんなことにならないように海賊の道から遠ざけようとした。白ひげはエースを自分のクルーに入れて、エースを助けるために何千人もの仲間が死ぬ中、世界最強の海軍に挑んだ。白ひげ自身もエースを助けるために死んだ。ルフィはインペルダウンっていう世界で一番セキュリティの高い刑務所を脱獄して、エースを助けるために何年も人生を捧げた。海軍本部にも突入して、エースを助けるためにさらに何年も人生を捧げた。それなのに、エースは赤犬が白ひげをバカにしたせいで死んだんだから。エース自身が、赤犬からルフィを「守る」っていう状況を作り出したんだよね。ルフィだって、物語の中で最も衝動的なキャラで自己防衛能力が低いのに、エースに赤犬を無視して先に進むよう頼んだんだから。

 

自分にとって大切な人である白ひげを馬鹿にされて感情的になってしまうのは気持ちとしては理解できるのだが、挑発にのってしまったがために、ルージュ、ルフィ、白ひげ、白ひげ海賊団の多くの団員たちの苦労や献身は水の泡となってしまった。

 

とどのつまり、エースが死ぬシーンは「挑発にのらなければ全然いきのこれたのに、見え透いた挑発にのってしまったせいで仲間たちの犠牲や苦労や努力や献身が無駄となってしまったシーン」であり、「名シーン」よりかは「迷シーン」に近いかもしれないと考えることも出来る。

 

人の価値観や思考プロセスには個人差がある。

或るストーリーに印象的なシーンがあったとき、そのシーンの前後を或る程度、重視する人であれば、エースが死ぬシーンを鑑賞して「これ、見え透いた挑発にのらなければエースは普通に生き残れたよね?多くの仲間の献身や犠牲を無駄にしたエースは無鉄砲すぎる」と呆れるだろう。

その一方で、或るストーリーに印象的なシーンがあったとき、そのシーンの前後や積み重ねを余り重視しない人であれば、エースが死ぬシーンを鑑賞して「エースが死んじゃって悲しい!『愛してくれてありがとう』とかマジ感動的で泣ける!」といった反応になるのかもしれない。

 

英二の言動に肯定的だった視聴者は、例えば英二が蕎麦屋の高校生たちに思いやりを説くシーンを鑑賞したときに「間違ったことは言ってないけど普段まわりの迷惑となる行為ばかりしているお前が言えるようなことか?」などと感じるのではなく、「言うべきことをはっきりと言う英二はカッコいい!」などと感じていたのではないか。

 

なお、この記事を書きながらドラマ『とんぼ』のストーリーを思いだしていると、或る夜中のシーンが頭に浮かんできた。

或る日の夜、英二たちは小料理屋「松」を出て自動車に乗っていた。そのとき、英二は近くの路上で或る中年女性(恐らく母親)が一人の少年(恐らく母親の息子)を殴っていることに気づく。

英二は母親に殴られている少年を庇おうと、自動車を出て母親のところへ向かうのだが、なんと英二は母親の顔を殴ったのである。

そして母親を殴打した直後、英二は「やめろぅ、こんなところで殴るのはよぅ」と母親を叱るのであった。

人を殴った1~2秒後に「やめろぅ、こんなところで殴るのはよぅ」と語り出すのは最早「このひと記憶障害なの?」というレベルであり、或る印象的なシーンの前後をどれぐらい重視するのかという次元の話ではない気もする。

 

余談だが、筆者は或る予備校に通っていたことがある。

その予備校には増田という英語講師がいた。

クラスや年度などにもよるのだろうが、私のいた教室には明らかに不真面目な生徒は殆どおらず、大抵の生徒は真面目だった。

そのため、授業中に講師が不真面目な生徒を叱るということは非常に稀だった。

 

だが、増田は些末なことでイライラして授業中に教壇を降りて、生徒に文句を言いに行くことがしばしばあった。

授業中に大きな声で私語をしている生徒や、授業中にPSPや3DSで遊んでいる生徒を叱るとかであれば理解できるし、そんな不真面目な生徒は筆者の周りにいなかったが、もしいた場合は、どんな講師であってもその生徒に注意なり激怒なりをしただろう。

 

しかし、増田はあくびをしながら板書をノートに書き写しているだけの男子生徒や、授業内容をノートではなく配布プリントにメモ書きしているだけの男子生徒にイライラして、それらの生徒の近くへ行き、「なあぁんねぇへぇ、もおぅ(何を言っているのかは聞き取れなかった)」や「ノートじゃなくて配布プリントに書いて楽しようとするなんて、やる気がないんだね」などと悪態をついていた。

真面目に授業を受けている普通の生徒に、しばしば悪態をついていた増田は、その予備校のなかで異様な存在だった。

 

そんな或る日、増田は傍から見て特に悪いことをしていない男子生徒にイライラし、いつものように男子生徒の席のそばへ向かった。

「無駄な時間だな」と感じつつ、男子生徒と増田のほうに視線を移すと、増田は男子生徒をにらみながら「叱ってるんじゃないよ。怒ってるんだよ」と口を開いた。

その2秒後、増田は「怒ってるんじゃないよ。呆れているんだよ」と語り始めた。

筆者が「このひと、2秒前と言ってること矛盾してない?」と耳を疑ったのは論を俟たない。

 

増田の授業内容は可もなく不可もなくだった記憶があるが、恐らく増田は深い思慮に基づいて悪態をついていたのではなく、何となくイライラしたから悪態をついていたのだろう。

この英語講師の例を参考にして考えると、英二は冷静さに乏しく、その場の瞬間的な気分に重きをおいて日々を生きているキャラクターなのかなと思えてくる。

世間には、その場の瞬間的なノリに重きをおいて生きているような人間が少なからず存在しており、そのような人間がドラマ『とんぼ』を視聴すると、「オラオラ系の人物がたまに見せる善行をするというギャップ」や「主演の長渕剛の容姿」も相まって「英二はカッコいい兄貴だ」などと感じられてしまうのかもしれない。

 

最後になるが、筆者はドラマ『とんぼ』を下らないドラマだとは考えていない。

主題歌『とんぼ』は「(凍りつく)ような」が「よな」と歌われているのが残念だが、メロディは本当に素晴らしく、この曲のメロディをテーマとしたBGMが流れると、それだけで情緒的な気分になるという方は多いだろう。

大滝秀治が登場するシーンに関しては、大滝秀治の自然体すぎる演技に感銘を受けた。

若干のツッコミポイントがあることは、そのドラマが駄作であることを必ずしも意味しないし、優れた役者の卓越した演技を鑑賞して感傷に浸ることが出来るドラマは貴重だと思う。

筆者は以前『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』という本を見かけたことがあるが、ジャニーズものでなくとも内容のあるTVドラマは今も昔も存在する。

ドラマの視聴においては、最新のドラマなのか否かよりも、『とんぼ』などのように見ごたえのあるドラマなのか否かが重要なのではないだろうか。

 

 

インターネット百科事典には有料のものと無料で読めるものとがある。

無料で読めるインターネット百科事典は大抵の場合、執筆者が匿名であり、誰でも項目(記事)を執筆し編集できる。

その代表例はWikipediaだが、ある日、筆者が『BLEACH』のキャラクターの一人である「井上織姫」のWikipedia記事を読んでいると、違和感の湧く記述を見かけた。

 

記事には、「(井上織姫は)黒崎一護のクラスメイト[4]。」と書かれており、脚注[4]には「中学二年生の頃からの親友」と書かれている。

この文面だと、「井上織姫は黒崎一護のクラスメイトであり、織姫と一護は中学二年生の頃から親友同士である」と読めてしまう。

しかし、これは不正確である。

「中学二年生の頃からの親友」は『BLEACH』単行本1巻収録の第3話における黒崎一護の台詞に由来するとみられる。

朽木ルキアに井上織姫のことを問われた黒崎一護は「(織姫は)近所に住んでるヤツの中2の頃からの親友なんだよ」と説明した。

この台詞は、「近所に住んでいるヤツ(一護の家の近くに住んでいる一護の知り合い)と、織姫は中2の頃から親友同士である」という意味にとるのが自然であろう。

また、第1巻の時点で一護と織姫は高校一年生であり、一護はルキアに「あの井上という女…親しいのか?」と訊かれて「別に?まあそこそこじゃねえか」と答えている。

親友がいるときに、「(その親友と)親しいのか?」と訊かれて「別に?まあそこそこじゃねえか」と答えるのは余りにも不自然である。

いずれにせよ「織姫と一護は中学二年生の頃から親友同士である」という情報は誤っている。

 

では、「近所に住んでいるヤツ(一護の家の近くに住んでいる一護の知り合い)」は誰のことなのだろうか。

筆者は有沢竜貴(たつき)のことだと考えている。

子供のころ、一護は有沢竜貴と同じ空手道場に通っており、二人は4歳の頃から幼馴染だった。

「通わせる」というよりも「送り迎えする」と表現すべきかもしれないが、幼児が空手を習いたいというときに、幼い自分の子供を遠方にある道場へ通わせる親は稀で、大抵の親は近所にある道場へ行かせるだろう。

普通に考えれば、一護が通っていた有沢竜貴の道場は一護の家の近所にある可能性が高いのだ。

 

因みに、織姫は中学に入った直後、髪を切られたり蹴られたりと中学校でいじめを受けていた。

いじめ被害に加えて、兄も亡くした織姫は苦しい中学校生活を送っていた。

そんななか一つの出来事が起こった。

同じ中学に通っていた同学年の有沢竜貴が、いじめに遭っている織姫の手を引いて織姫を怒鳴りつけたのだ。

その後、有沢竜貴は事あるごとに織姫をいじめようとする不届き者たちから織姫を守っていった。

やがて、織姫と有沢竜貴は仲良くなり、中2の頃には親友同士になっていったと読み取れる。

 

以上のことをまとめると、「(織姫は)近所に住んでるヤツの中2の頃からの親友なんだよ」は「(織姫は)有沢竜貴の中2の頃からの親友なんだよ」と解釈できる。

いずれにせよ、Wikipediaの「井上織姫」の記事が正確でないことは確かである。

この件に限らず、Wikipediaの記事は不正確な情報を含む場合があり、実は2012年ごろに『BLEACH』の作者である久保帯人先生も「自分の本名に関してWikipediaに間違った情報が載っている」と苦言を呈していた。

WikipediaのURLが学会や学校などにおける論文のソースとして使えないという話はあまりにも有名である。

 

ただ、Wikipediaに関しては見落とせないことがあると思う。

それは、「多少でたらめで間違った情報を含むにしても、7割か8割ぐらいはおおかた正しい内容の記事が多い」ということである。

Wikipediaでどれだけ記事を執筆し編集しても、Wikipediaの運営からギャラが貰える訳ではないことを踏まえると、「多くのWikipedia記事はそこそこ正しい内容である」ということが少し不思議なようにも感じられてくる。

もしも、Wikipediaなどのように無料で利用できるインターネット百科事典に関して大きな特徴を見出すならば、それは「正確性が非常に高いとは言えないが、ざっくりとした理解を求めるならば大抵の状況において便利である」ということになるのかもしれない。

 

 

単行本『BLEACH』74巻(最終巻)の683話において、初見では理解が凄く難しいストーリー展開(プロット)があった。

週刊少年ジャンプに683話が掲載されているのを読んだとき、当時未成年だった筆者も、このストーリー展開を完全には理解できなかった記憶がある。

この記事では、683話で展開されている難解なストーリー展開を解説してゆく。

 

まず、683話は一見すると、以下のような展開に見える。

 

 

 

初撃で一護が吹き飛ばされる

恋次が卍解『双王蛇尾丸』でユーハバッハに攻撃するも、ユーハバッハが恋次の左腕を斬り落とす

藍染が斬魄刀「鏡花水月」を振り回したり、破道の九十九を発動したりすることでユーハバッハを攻撃するも、ユーハバッハは鏡花水月を折り、藍染を吹き飛ばす

左腕のない姿の一護がユーハバッハを奇襲するも、ユーハバッハに奇襲を防がれる

ユーハバッハは一護に致命傷を負わせ、「さらばだ 一護」「お前の抵抗は心地良かった」「せめて尸魂界と共に滅べ」と語り、一護を殺し切った達成感に浸るが、左腕のない姿の藍染が「…そうか(自分が)黒崎一護に視えているか」と種明かしをする

藍染の種明かしの直後、一護がユーハバッハに月牙天衝を放ち、ユーハバッハがその攻撃を直に受ける

 

 

 

しかし、上記の展開は藍染による完全催眠の影響を受けており、作中で実際に起こっている展開そのものではない。

作中で実際に起こっていると考えられる展開を以下に示す。

 

 

 

初撃で一護が吹き飛ばされる。

「恋次が卍解『双王蛇尾丸』でユーハバッハに攻撃しているかのような催眠」を藍染がユーハバッハにかける。その際、藍染は自分自身を恋次かのように錯覚させている。ユーハバッハは恋次の左腕(実際には藍染の左腕)を斬り落とす。

「藍染が鏡花水月を振り回し、破道の九十九も駆使して、ユーハバッハを攻撃しているかのような催眠」を藍染がユーハバッハにかける。その際、藍染は恋次を自分自身かのように錯覚させている※1。ユーハバッハは鏡花水月(実際には恐らく蛇尾丸)を折り※2、藍染(実際には恋次)を吹き飛ばす。

「左腕のない姿の一護がユーハバッハを奇襲しているかのような催眠」を藍染がユーハバッハにかける。その際、既に自身の左腕を斬り落とされている藍染は、自分のその体を「左腕を斬り落とされている一護」かのように錯覚させている。ユーハバッハは一護による奇襲(実際には藍染による奇襲)を防ぐ※3

「ユーハバッハが一護に致命傷を負わせたかのような催眠」を藍染がユーハバッハにかける。ユーハバッハは「さらばだ 一護」「お前の抵抗は心地良かった」「せめて尸魂界と共に滅べ」と語り、一護を殺し切った達成感に浸るが、左腕のない姿の藍染が「…そうか(自分が)黒崎一護に視えているか」と種明かしをする。

藍染の種明かしの直後、一護がユーハバッハに月牙天衝を放ち、ユーハバッハがその攻撃を直に受ける。

 

 

 

※1:言うまでもないことだが、恋次の斬魄刀は鏡花水月ではなく蛇尾丸である。また、恋次は藍染と違って鬼道が苦手であり、破道の九十九という非常に難易度の高い鬼道を用いることが不可能なはずである。よって、このシーンは、実際には「恋次が蛇尾丸を振り回し、破道の九十九よりも難易度の低い鬼道を用いてユーハバッハを攻撃しているの」を、あたかも「藍染が鏡花水月を振り回し、破道の九十九も駆使して、ユーハバッハを攻撃している」かのように見せているのだろう。

鏡花水月の能力は、蠅を竜に見せることも、沼地を花畑に見せることも可能なほど強力な代物であり、「破道の九十九よりも難易度の低い鬼道」を破道の九十九かのように見せることも可能であると思われる。

 

 

※2:破面篇の終盤(第48巻)で藍染は「自分は鏡花水月と一体化したような状態になった(ため、鏡花水月という斬魄刀がなくても鏡花水月の能力を使えるようになった)」と解釈できる発言を一護に対して行っている。

事実、最終章(第58巻)において、藍染が斬魄刀「鏡花水月」や解号を用いることなくユーハバッハの時間感覚を僅かに狂わせている描写がある。これは、斬魄刀「鏡花水月」や解号を用いずとも藍染がユーハバッハに対して鏡花水月の能力を発揮できるということを示唆している。

そもそも、藍染が無間に投獄されてから683話までの間、原作で藍染が鏡花水月などの刀を振り回しているような描写は皆無である。

これらのことを踏まえると、683話のタイミングで藍染が鏡花水月という斬魄刀を振り回している光景があるとすれば、その光景は藍染による錯覚だと考えるのが自然なのである。

 

 

※3:その際、ユーハバッハは「戦況を見て瞬時に藍染惣右介との共闘に転じた事は上出来(じょうでき)だ」「だが鏡花水月も我が力には及ばぬ」「初撃で我が力に吹き飛ばされたのが阿散井恋次」「次に私に腕を捥がれた(もがれた)のが貴様だ 一護」「全て視えている」と語っている。

だが、「初撃で我が力に吹き飛ばされたのが阿散井恋次」「次に私に腕を捥がれた(もがれた)のが貴様だ 一護」「全て視えている」というのは、あくまで藍染がユーハバッハにそう錯覚させているだけである。

つまり、藍染はユーハバッハに「恋次が卍解『双王蛇尾丸』でユーハバッハに攻撃しているかのような催眠」や「藍染が鏡花水月を振り回し、破道の九十九も駆使してユーハバッハを攻撃しているかのような催眠」や「左腕のない姿の一護がユーハバッハを奇襲しているかのような催眠」をかけたうえで、ユーハバッハに「初撃で我が力に吹き飛ばされたのは一護であるかのように見えるが、これは鏡花水月による錯覚であり、実際に初撃で我が力に吹き飛ばされたのは阿散井恋次である。また、その次に私に腕を捥がれたのは恋次であるかのように見えるが、これは鏡花水月による錯覚であり、実際に腕を捥がれたのは一護である」という催眠をかけていた。

 

 

 

 

以上で、683話で展開されている難解なストーリー展開を解説したが、個人的に気になっていることがある。

それは『BLEACH』の読者の間で「漫画『BLEACH』の最終巻に載っている683話ってストーリー展開を把握するのが凄く難しいよね」などといった声を殆ど聞かないことである。

 

世界には有名作品というものがある。

戯曲であればゲーテの『ファウスト』などがそうであり、絵画であればピカソの『ゲルニカ』などがそうであり、音楽であればビートルズの『レット・イット・ビー』などがそうである。

日本の漫画は世界中で読まれており、『NARUTO』等の作品ほどではないかもしれないが、『BLEACH』も世界中の国々に住む膨大な数の読者によって読まれている。

しかし、国内外の非常に多くの読者が存在する漫画であるにも拘らず、少なくとも日本においては「原作683話で凄く難解なプロットが展開されている」ということが余り知られていないように感じられるのだ。

 

有名作品に読解が凄く難しい箇所がある場合、その箇所はしばしば読者の間で話題となる。

例えば『ファウスト』は、読者の間で「第二部の第一幕~第二幕の箇所は凄く読解が難しい」ということが広く知られている。

ところが、『BLEACH』の読者の間で「久保帯人先生ってネーミングセンスが凄いよね」や「死神代行篇を読んで『この漫画のラスボスは主人公の母を殺したグランドフィッシャーとかなのかな』と思っていたらラスボスは(藍染や)ユーハバッハであり、グランドフィッシャーを倒すための戦闘は破面篇の序盤あたりであっさりと終わってしまい意外だった」などの声がしばしばあがるのとは対照的に、原作683話のプロットの難解さは余り話題になっていない。

 

この理由を考えるにあたっては、『BLEACH』が「流し読みしようと思えば凄くスピーディーに読めてしまう作品」であることを踏まえる必要がある。

さきほど、「週刊少年ジャンプに683話が掲載されているのを読んだとき当時の筆者はプロットを正確には理解できていなかった」と述べたが、それでも「一護が藍染と共闘してユーハバッハに月牙天衝を直撃させることができた」という683話の大まかなプロットを把握することは容易に出来た。

つまり、前述した「作中で実際に起こっていると考えられる展開」を正確に把握できていなくても、「一護が藍染と共闘してユーハバッハに月牙天衝を直撃させることができた」という大まかなストーリーさえ把握できれば、684話以降を読むのに大きな支障が生じないのだ。

 

『BLEACH』は流し読みするだけであれば、筆者がこの記事で行ったような考察をせずとも、作品の全体的なストーリーを把握することが十分に可能となっており、そのことが「原作683話のプロットの難解さが読者の間で余り知られていない理由」である。

そう考えることは出来るのではないだろうか。

 

 

 

謹賀新年の挨拶はさておき、2026年は少年漫画『BLEACH』の完結10周年に当たる年である。

『BLEACH』は2001年に連載が始まり、2016年に最終話を迎えている。

作者の久保帯人先生によれば、連載終了の一年ほど前にジャンプ編集部との間で打ち合わせが行われ、そのとき「第1話の発表から丁度15年が経つタイミングで最終話を掲載すること」が決まったという。

同時期に週刊少年ジャンプで連載されていた作品に『NARUTO』がある。この漫画も1999年に連載が始まって2014年に最終話を迎えており、連載期間が15年ほどとなっている。

 

ここで、わたくしA倉R郎は一つのルールを提唱したい。

それは「少年漫画の15年ルール」というもので、「少年漫画はどんなにページ数の多い長編作品であっても15年以内に連載を終了する」というルールである。

 

少年漫画は読み切り作品、短期集中連載される作品、長期連載される作品に大別される。

読み切り作品も、短期集中連載の作品も、長期連載の作品も、それぞれ特徴や魅力などがある訳だが、長期連載の作品には或る種のリスクがある。

それは、何らかの事情で作品の連載が打ち切りになってしまったり、作品が完結する前に作者の寿命が尽きて作品が未完になってしまったり、作品の連載が完結する前に読者が亡くなってしまうリスクである。

 

これらのリスクを浮き彫りにした出来事がある。

『BLEACH』の連載が終わって3か月が経った頃、久保帯人先生はネット上で情報提供を呼び掛けた。

 

漫画『BLEACH』久保帯人、探していたファンレターの差出人見つかる “余命1年半”の少年友人から

 

経緯を簡単に記すと、『BLEACH』の連載の真っ最中に、余命一年半の読者が久保先生にファンレターを書いた。その読者の死後、その読者の知り合いが久保先生にそのファンレターを送った。久保先生は『BLEACH』の連載が終わった後も、そのファンレターのことが忘れられず、その読者やファンレターの差出人(その読者の知り合い)に関する情報を募集したという流れになる。

 

その後、ファンレターを送った差出人が見つかり、久保先生やスタッフらは情報提供の件について感謝の意を示しているが、いずれにしても、その読者は『BLEACH』の最終話を読めないまま生涯を終えている。

 

もちろん5年ほどの連載でも15年ほどの連載でも25年ほどの連載でも、作者や読者の寿命というリスクは無視できない訳だが、私が10年や20年ではなく15年という数字を採用しているのには理由がある。

それは、少年が少年のうちに連載が完結するギリギリの年月が15年ほどだからである。

 

例えば、或る子供が4歳や5歳のときに『BLEACH』の連載が始まったとする。

その場合、前述した余命一年半の読者のように自身の寿命が尽きたり視力を永遠に失ったりしなければ、その子供は19歳か20歳ぐらいで『BLEACH』の最終話が読めることになる。

これは『NARUTO』であっても同様であり、連載期間が15年ほどであれば、初めて作品に出合ったときに4歳や5歳だった少年は二十歳(はたち)を超える前に少年漫画の最終話を読めるのだ。

 

だが、もしも連載期間が20年を超えてしまうと、どうなるだろうか。

或る読者が10歳にもならない年齢のときに、その連載漫画の第1話が発表された場合、その読者が最終話を読めるのは20代後半あたりとなる。20代後半にもなれば配偶者や子供がいても全然おかしくない年齢である。

仕事や家庭などで子供時代よりもしばしば忙しい年齢になってから最終話が発表されても、「人生で初めて第1話を読んだときの感性や気持ちで、その最終話を読むこと」は既に不可能となってしまっている。

 

結局のところ、4歳や5歳という少年が二十歳を過ぎて大人になってから「少年」漫画の連載が完結するのか、それとも4歳や5歳の少年が大人になる前に「少年」漫画の連載が完結するのかという違いは余りにも大きいのだ。

 

因みに、「少年漫画の15年ルール」は少女漫画などにも適応できるかもしれない。

少女漫画に関して私はほぼほぼ無知なのだが、かなり前から『ガラスの仮面』という作品の存在は知っている。

たったいま『ガラスの仮面』について調べると、この漫画は1975年に連載が始まり、50年以上たっても連載が完結していないと分かった。

「10歳ごろに『ガラスの仮面』の第1話が連載されているのを読んで『ガラスの仮面』の連載を追うようになった少女は還暦になっても未だに最終話を読めていないのか」と気づいた私は言葉を失ってしまった。

『ガラスの仮面』の恐ろしさを考えれば、三年以上の長期休載等がない『名探偵コナン』や『ONE PIECE』が可愛く思えてくる(尤も、この二つの作品にしても、寿命や失明などの理由で、江戸川コナンらが黒の組織を倒してゆく過程や「ひとつなぎの大秘宝」の正体を永遠に読めないことが確定してしまった人々が少なからずいる訳だが)。

 

長いあいだ漫画を連載していると、主人公サイドのキャラ以外の登場人物に関しても回想シーンなどで深く掘り下げたく(もっともっとその登場人物について描きたく)なってしまう漫画家は珍しくないという。

また、長期連載は大人気作品であることが多く、商業的な理由から連載が引き伸ばしの対象となってしまうことも多い。

そういった事情も理解は出来るのだが、いったん本編を完結させたあとにスピンオフとして、その回想シーンなどを描くといった手段もあるし、最終話を待ち望んでいる読者を何十年も待たせるというのは可能な限り避けるべきだと思う。

 

なお、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』などのように一話完結型の連載漫画の場合は、15年以内に連載を終えるべきだとは考えていない。「連載開始時にメインの読者層が20歳以上だった長編漫画」などについても同様である。

漫画ではなく戯曲となってしまうが、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)は世界文学の最高傑作の一つとされる『ファウスト』を後世に遺している。

だが、この作品は完結までに膨大な年月がかかっている。

ゲーテは1770年代に初稿『原ファウスト』を書いたが、そのときは作品を完成させることが出来ず、『ファウスト』が完結したのはゲーテが82歳で死ぬ直前のことだった。

このように、完結までに長い時間がかかっていることは、その作品が駄作であることを意味しないのだが、ゲーテに対して「君が構想している『ファウスト』は素晴らしい作品になる。君は『ファウスト』を書き進めるべきだ」と助言したフリードリヒ・フォン・シラーは『ファウスト』の完結を知ることなく死去している。

本来のメイン読者層が少年や少女でないジャンルの漫画ひいては文学作品であっても、連載期間や完結までの期間が長すぎると、このシラーのような事態が続出することとなる。

これらのことを踏まえたうえで言うが、少年漫画や少女漫画はなるべく15年以内に完結させるべきだし、少年漫画や少女漫画の制作に関わる者は子供が子供のうちに作品が完結するよう最大限、努力すべきだと私は強く考える。

 

 

 

筆者は、しゃん将棋王という将棋系ユーチューバーの配信をよく視聴するのだが、今夜のライブで或る文章を見かけた。

松延成雄という方が書いた文章とのことで、タイトルは「あなたは何流?」となっている。

この文章を読んで湧いたのは、「この方はなんで趣味ごときで三流や二流や一流などといった格付けを行っておられるのだろうか」という違和感である。

将棋をよく指している者はプロ(いわゆるプロ棋士や女流棋士)とアマチュアに分けられる。

プロ棋士は将棋連盟から給料のようなものを定期的に受け取っていると聞くし、将棋を職業としている者に対して三流や一流などといった格付けが行われるというのは分からなくもない。

ただ、将棋連盟から金銭を受け取っている訳でもない一般人に「あなたは何流?」などといった格付けを行うのは異常だと思う。

 

この文章をじっくり読んでいくと、「勝負の世界に身を投じた」や「研究会」や「日頃の鍛錬」や「精進を続ける」や「努力しているのは相手も同じ」などといったフレーズがあり、この方の将棋観が見えてくる。

恐らく、この方にとって将棋とは「膨大な時間や労力を注ぎ、日頃から上達のための努力を重ねなければならないもの」なのだろう。

「まじめに将棋」と題したホームページを運営し、将棋高段者(棋力がとても高い人)でようやく解けるレベルの「詰むや詰まざるや」問題を複数題つくり、それらの問題をホームページで発表するなど、この方が凄まじい熱量で将棋に取り組んでいるのは容易に推察できる。

だが、責任等が生じる仕事などと違って、趣味という営みは本来、自由度が高いものなのではないだろうか。

 

例えば、「割とゴルフや水彩画の腕前があって、その道のプロとも交流しているような熟練者」が、ゴルフや水彩画を趣味としている一般人に対して、「あなたは一流だ」や「あなたは三流だ」などと言いだしているのを見かけたら、多くの方は「こいつは何を言っているの?」とドン引きするだろう。

他の例を挙げるが、コーヒーを淹れるのが趣味な人と一概に言っても、「コーヒー豆に関心が湧きすぎて、エチオピアや中南米などに足を運んでコーヒー豆を採集し、コーヒー豆の焙煎方法についても研究しています」というレベルの人もいれば、「半年に数回ほど、近くのスーパーマーケットで買った焙煎済みのコーヒー豆をコーヒーミルで砕いてコーヒーを淹れています」というレベルの人もいる。

これに対して「前者は一流君であり、後者は三流君である」などと主張するのは冷静さを欠いている。

 

もっとも、この方にとって将棋は趣味なのかということを踏まえる必要はあるかもしれない。

中学高校の部活にはガチ勢とエンジョイ勢が存在するとされる。

ガチ勢にとって部活は自分の学校生活の全てに近いものだと言えるし、エンジョイ勢にとって部活は趣味のようなものだと言える。

ここで重要なのは、ガチ勢とエンジョイ勢の間に人としての優劣は無いということである。

部活を「自分の学校生活のほとんどを注ぎ込むような対象」と捉えている生徒がいてもいいし、部活を「楽しむためのもの」と捉えている生徒がいてもいい。

この方はどうやら弁護士の仕事をしてきた人物らしいのだが、仮に、この方が「司法の仕事が本業なのだとしても将棋こそが自分の人生なのだ」や「将棋は趣味などといったものではなく自分の全てだ」といった意識で将棋に取り組んできたのだとしても、それは非難されるようなことではない。

 

いずれにしても、将棋に限らず、趣味はどれぐらいの熱量で取り組むのかを各々の気分や価値観で自由に決めていい営みだと思うし、趣味の領域で三流や一流などといった格付けを行うのは基本的にすべきことではないのかなと筆者は感じている。

 

 

最近YouTubeで「けくしひ」という方を知った。

だが、その方のエックス垢に関して或ることに気づいた。

なんと、ログインしていれば普通にプロフィール欄を閲覧できるが、ログインせずにプロフィール欄にアクセスすると「@kekusihi45さんはポストしていません」と謎の表示がされるのだ。

 

この方を知ったのは、将棋系配信者の「しゃん将棋王」さんがきっかけなのだが、しゃん将棋王ライブのリスナーである涅槃さんもブラウザでプロフィール欄を覗くと「@brSakJi8yQ43031さんはポストしていません」と表示されているのが分かった。「もしや自分も?」と思い、試してみると私のアカウント(垢)も「@a6web0さんはポストしていません」と表示されることに気づいた。

 

いわゆるシャドウバンなのかなと思い、ネットで調べると、けくしひさんも、涅槃さんも、私もシャドウバンされている訳ではないらしいと分かった。

 

この現象について調べてみると、今年の夏ごろから「○○さんはポストしていません」「ポストを読み込めません」「やりなおしてください」などの異常を伝える声が多数あがっているという情報があった。詳しいことは分からないが、どうやらエックス側の不具合であるらしい。

 

それにしても、3000以上ポストをしているにも拘らずログインしていないというだけで「@a6web0さんはポストしていません」と表示されるのは単刀直入に言って矛盾そのものではないだろうか。

 

 

筆者が中高の頃、国語や日本史の教材を開くと、「現代の文学」というような項目があり、複数の小説家が紹介されていた。

どの小説家が載っているのかは教材によって異なってはいるが、大体は「吉本ばなな、村上春樹……」といった名前が掲載されていた。

この二人は現代日本の文学界を代表する作家として、しばしば並列されていた印象を受ける。

 

ところで、2020年代の今、吉本ばなな氏と村上春樹氏は同じぐらいの存在感だろうか。

両者とも知名度の高い作家であることは確かだが、吉本ばなな氏の最新作を知っている人と、村上春樹氏の最新作を知っている人であれば、明らかに後者の方が多いように見える。

ノーベル文学賞が発表される時期になるたびに、村上春樹氏の名前はマスメディアやSNSで頻繁に取り上げられるが、吉本ばなな氏の名前が挙がることは殆どない。

存在感に関していえば両者の間には大きな差が出来ている。

 

 

2020年代の初頭、二人のミュージシャンが話題となっていた。

一人は、瑛人氏というシンガーソングライターで、もう一人はAdo氏というヴォーカリストである。

元々は無名だったが、インターネットで大きな人気を得たという共通点があり、この二人はよく並列されていたように思う。

 

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YouTubeやTwitterの影響力がカギ 18歳Adoのデビューシングル「うっせぇわ」が月間ダウンロードランキング1位に

 

ガキ「米津!髭男!Ado!瑛人」おっさん「負けてられん…ワイの青春をくらえ」

 

 

 

これらのウェブサイトのタイトルや本文を読むと、この二人がしばしば並列されていたということが確認できる。

では、2025年現在、両者の存在感はどうなっているだろうか。

まずAdo氏から述べていくと、筆者が最初にAdo氏を知ったのは「うっせぇわ」が流行し始めた頃である。

動画サイトで彼女の曲を聴き、「ヴォーカル上手いな」と感じたのを覚えている。

筆者が子供のころ、日本の音楽チャートは、秋元康関連のアイドルやジャニーズやEXILE等の曲ばかりが並んでいた。

これらのタレントの中には歌唱力が高い人もいただろうが、どちらかといえば演奏力や歌唱力よりもタレント人気に重点が置かれている印象を受けた。

だから「顔面非公開で、しかも歌唱力に重きを置いていて凄いな」と感じた。

「うっせぇわ」ブームのときは、余りにもこの曲ばかりが取り上げられており、「このままだと、Adoさんは一発屋みたいになってしまうのでは」と不安を感じることもあったが、その後も「唱」や「踊」や「新時代」などの話題作が現れ、今なお強い存在感を放っている。

 

次に瑛人氏について述べていくと、筆者が最初に瑛人氏を知ったのは2020年ごろだと思う。

「香水」という曲が流行しているらしいという噂を聞き、筆者は動画サイトでさっそく「香水」を聴いた記憶がある。

伴奏がシンプルな曲だなと感じた気がする。

それから4年ほどが経って、ふと筆者は或ることに気づく。

「そういえば最近、瑛人さんの名前を聞かないな」と思った筆者は、ネットで彼のことを調べた。

すると、彼は2023年ごろに結婚し、近頃は妻と一緒に育児を行っていることが分かった。

なお、彼は今も音楽活動を続けているという。

 

小説家やミュージシャンに限らず、コメのブランドに関しても同様の現象が指摘できるかもしれない。

平成のはじめごろ、日本のコメはササニシキとコシヒカリが二大巨頭とされていた。

「東の横綱ササニシキ、西の横綱コシヒカリ」と言われていたほど、この二つはジャポニカ米を代表する存在だった。

だが、令和の現在、ササニシキという品種の名前を聞くことは稀である。

 

以上の事例を踏まえると、「注目され、しばしば並列されていた両者のうち、一方は影が薄くなり、もう一方は高い存在感を保ち続けるという現象」は様々なジャンルで観測できるのが分かる。

もっとも、世間一般における存在感は複数ある評価基準の中の一つに過ぎないため、そのことを過度に意識するのは避けたほうが良いだろう。

童話「ウサギとカメ」はレース(race)を題材としたストーリーである。

レースの序盤、亀を引き離した兎は、まだゴールしていないにも拘らず眠ってしまう。

一方の亀は休むことなく進み続け、兎よりも早くゴールに到着し、兎に勝利する。

 

筆者は、この童話のメッセージ(教訓)は油断大敵だと考えている。

というのも、兎は油断して眠ってさえいなければ亀に余裕をもって勝てていたからである。

この童話が明治時代の国語の教科書に掲載されたときも、タイトルは「油断大敵」となっており、歴史的経緯に鑑みても油断大敵をこの童話の教訓と捉えるのが妥当である。

 

しかし、近頃この童話に対して「本当の教訓は油断大敵ではない」という俗説がしばしば見られるようになっている。

「兎は相手(亀)を見ていた。亀はゴールを見ていた。だから亀は兎に勝ったのだ。『相手ではなくゴールを見ろ』が、この童話の本当の教訓なのだ」というような俗説を見聞きしたことのある人は多いのではないだろうか。

 

個人的には、この解釈も間違いではないと思っている。

レースの序盤あっさりと自分を追い抜かしていく兎の姿を見て、亀が「これ、もう無理じゃん」と心おれてレースを棄権するという事態も普通にありえた訳だが、亀は自分が劣勢であることに絶望せずゴールへ進み続けた。

だからこそ、亀は兎に勝利したのである。

しかし、兎がレース中に対戦相手である亀を見ていたことは誤りだったのだろうか。

結論から言えば、それは誤りではない。

何故なら、レースの勝利条件は「相手よりも早くゴールに到着すること」だからである。

自分が全力を尽くして早くゴールに到着しても、自分より先に相手がゴールに到着していたなら、その相手に勝つことは出来ない。

一方で、凄く手を抜いて遅くゴールに到着しても、相手がまだゴールに到着していなければ勝つことが出来る。

 

NPBやMLBなどといったプロフェッショナル野球の試合では、終盤に継投がしばしば行われる。

このとき、例えば1点リードで9回裏を迎えているのか、それとも7点リードで9回裏を迎えているのかによって、起用されるリリーフ投手は変わってくる。

7点リードで9回裏を迎えているときに勝ちパターンや守護神(チームのリリーフ投手のなかで相対的に能力の高いリリーフ投手のこと)を登板させない監督は多いが、そのことを油断とは言わない。

 

野球の試合のゴール(目標)は基本的に「相手よりも1点でも多い状態でゲームセットを迎えること」である。

そのことに着目するならば、残り3つのアウトを稼ぐために7点リードの9回裏に勝ちパターンや守護神を登板させることは論理的には凄く正しい判断である。

しかし、プロフェッショナル野球が1年で膨大な数の試合をこなさなければならないことや、リリーフ投手の酷使の予防などといった事柄を知っている人であれば、「7点もリードしているからといって、チームで優れたリリーフ投手を登板させず、それよりも能力の劣るリリーフ投手を登板させるのは油断である」などとは主張しないだろう。

これと同様のことが「ウサギとカメ」にも言えるのではないだろうか。

レースでの勝利のみを目的とするならば、客観的に考えて、兎は全力疾走をする必要などなかった。

自分と亀の距離を確保しつつ、自分がゴールするまで「全力疾走ではないものの亀のスピードよりかは速いスピード」を維持したまま進み続けるだけで兎は勝てたのだ。

前述した俗説では「兎は自分がゴールするまで対戦相手を見ずゴールだけを見て全力疾走すべきだった」ということになってしまうが、これは合理的な考えではない。

 

結局のところ、この童話などから、レースすなわち競争で勝つためのノウハウを導き出すならば、それは「油断は絶対にするべきではないが、自分と競争相手のうち、どちらが優勢なのかや、自分と競争相手との差はいかほどなのかを十分に把握したうえでゴールまで着実に進み続けること」と要約できるように思う。

 

さきほどプロフェッショナル野球の事例を紹介したが、プロフェッショナル野球では毎年リーグ戦が行われている。

リーグで最も勝率の高いチームはリーグ優勝となり、優勝ペナント(リーグ優勝を示す優勝旗)を獲得できる。

そのため、各チームが公式戦でリーグ優勝を目指してゆく競争のことをペナントレースという。

 

プロフェッショナル野球の一つであるNPBのチーム(球団)は、例年、1シーズンすなわち1年で143試合を行っていく。

NPBは2リーグ制を採用しているが、1リーグには6チームがあり、大雑把にいうと6チームのなかで最も勝率の高いチームがそのリーグの優勝チームとなる。

「最も勝率の高いチームがリーグ優勝」というのが肝であり、「143試合のうち90試合以上に勝ったチームがリーグ優勝(そもそも、そのようなルールだと、1シーズンで勝率の異なる複数のチームがリーグ優勝することがありえてしまう)」という訳ではない。

それゆえ、「143試合で101勝42敗のチーム」がいたとしても、「143試合で102勝41敗のチーム」が同じリーグにいた場合、そのチームは「101勝42敗(勝率7割以上)」という非常に優秀な成績を残しているにも拘らず、リーグ優勝することが出来ないのだ。

逆に言えば、「143試合で73勝」のチーム(引き分けがないと仮定すれば勝率はなんと51.049%ほど)であっても、同じリーグに、そのチームよりも勝率の高いチームが存在しなかった場合は、そのチームがリーグ優勝できてしまう。

このように、或るチームがリーグ優勝を果たす難易度は、「そのチームが属しているリーグで、そのチームよりも強いチームがどのくらい存在するのか」によって大きく左右されてしまうということが分かる。

もしかすると、プロフェッショナル野球のペナントレースを俯瞰するにあたっては、この身も蓋もない現実を頭の片隅に入れておく必要があるのかもしれない。

 

 

小林秀雄は『ヒットラアと悪魔』でこう述べている。

 

ヒットラアの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかったところに現れたと言った方がよかろう。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼に問題ではなかった。

大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。

その点、個人の心理も群集の心理も変りはしない。

本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。

獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。

それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。

大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択に任すと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。

 

5年ほど前、筆者はこの文章を読み「小林はフロムが『自由からの逃走』で指摘していた現象を言いたいのだろうな」と感じた。

そして、「なんか腑に落ちない箇所もあるな」とも感じた。

「腑に落ちない箇所」は「人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変りはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」のところである。

「(本当を言えば、大衆は)支配されたがっている」は、『自由からの逃走』でも指摘されていた現象(市民が自由の重みから逃れるために独裁者に服従したくなってしまう現象)を知っていれば容易に理解できるし、筆者も当時この文に関しては違和感を抱かなかった。

だが、「本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」は、実態に即していないように感じられた。

例えば、ナチ政権は有権者に対してアーリア人としての誇りをアピールしていた。ユダヤ人などを侮辱することはあっても、自分らの支持基盤であるドイツ人を侮辱することは殆どなかった。

 

冷静に考えて、有権者に「お前らは惨めで愚かだ」と言い放つ政治家と、有権者に「あなたがたは何も悪くない!」と寄り添うような言葉を発する政治家であれば、多くの支持を集めるのは後者である。

「人間は侮蔑されたら怒る」というのは現実世界で頻繁に起こっていることであり、それを「浅薄な心理学」と捉えるのは不自然さが漂う。

「有権者は自分たちを侮辱する政治家を本心では求めているというのは果たして正しいのだろうか」と当時の筆者は思った。

 

時が流れ、5年ほどが経った。

或る日、筆者は一人の政治家のコメントを知った。

その政治家はYouTubeでこう述べたという。

 

真実や本意を伝えるのは難しいのよ。この仕事をして思うけど、自分の考えと党の考えを知ってもらうのは一番、難しくて、俺、正直、諦めた。そこはもうあまり知ってもらおうと思わない。馬鹿、相手にしてもしんどいもん。

そうじゃなくて、もっと賢い人だけで政治として引っ張れる方法ないかなと、もっと言い方、はっきり言うけれど、馬鹿な人たちをどうやって上手く利用するか。ホリエモンがそういうことを言っている。最近、俺もそうやなって思っててね。犬とか猫とかと一緒なん。

そういう人たちにも有権者として一票を託している制度が、今の民主主義のやりかた、一人一票で、やり方は全然違うと思っている。けれども、これ違うと言っても、それは批判しても、この状態で選挙に勝たなきゃいけない。
だから、馬鹿に入れてもらう方法を考えるのが本当の賢い人かなと思って。ガーシーとかと話しているのはね。本当にこの国の国民は政治の問題、ウクライナの戦争の問題とかよりも、芸能人の下ネタの方が好き。そうするとね。それを「ああ、そんなのくだらない人間だ」というような批判をするよりも、そこはやっぱり降りていく。そこに首をつっこむしかないのよ。

 

このコメントはSNSで物議を醸していたが、興味深いことに、この政治家の支持者の多くは、この政治家に怒りや失望感を抱いていなかった。

むしろ支持者の多くは「馬鹿であっても選挙権を持っているというのが今の日本の制度なんだから、この政治家の姿勢は現実的であり、妥当である」などと反応していた。

これらの様子を見て、筆者は「本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」というフレーズを思いだした。

そして、このフレーズの真意について察することが出来た。

 

思うに、「本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」は「大衆は本音では政治家に侮蔑されたがっている」という意味ではなく、「大衆は政治家に侮蔑されていても、侮辱されているということに気づかず、その政治家を支持し続ける」という意味なのではないだろうか。

事実、ヒットラーは『我が闘争』で「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」と述べている。

ナチスに投票したドイツ人の中には『我が闘争』を読んでいた者も多かったはずだが、彼らは自分が「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」の「大衆」に含まれているとは認識していなかったのだろう。

 

筆者はこのコメントの全てが間違っているとは思っていない。

例えば、2016年の事例だが、英のEU離脱の国民投票の結果が判明した後に「EU離脱は何を意味する?」というグーグル検索が英国で最多になったというニュースがあった。

このニュースは、「国民投票を行ったイギリス人の多くは、英国がEUを離脱すると何が起こるのかをあまり把握せずに票を投じていた可能性」を示唆している。

有権者の多くが重要度の高い政策についてよく分かっていない状態で投票しているという現象は世界中で起こっているし、残念ながら「候補者の掲げる政策や政治家としての実績よりも、候補者の容姿や知名度を基準にして、どの政治家に投票するのかを決めてしまっている有権者」は洋の東西を問わず存在する。

この政治家がヒットラーのようなファシストなのかと言われれば、必ずしもそうではないと思う。

だが、一部の有権者を「犬とか猫とかと一緒」と形容していたり、自身の考えと党の考えを知ってもらうことがとても難しいことを理由に有権者が自身の考えや政策を理解するのを諦めていたりするのは、政治家として問題があるのではないだろうか。