最近YouTubeで「けくしひ」という方を知った。

だが、その方のエックス垢に関して或ることに気づいた。

なんと、ログインしていれば普通にプロフィール欄を閲覧できるが、ログインせずにプロフィール欄にアクセスすると「@kekusihi45さんはポストしていません」と謎の表示がされるのだ。

 

この方を知ったのは、将棋系配信者の「しゃん将棋王」さんがきっかけなのだが、しゃん将棋王ライブのリスナーである涅槃さんもブラウザでプロフィール欄を覗くと「@brSakJi8yQ43031さんはポストしていません」と表示されているのが分かった。「もしや自分も?」と思い、試してみると私のアカウント(垢)も「@a6web0さんはポストしていません」と表示されることに気づいた。

 

いわゆるシャドウバンなのかなと思い、ネットで調べると、けくしひさんも、涅槃さんも、私もシャドウバンされている訳ではないらしいと分かった。

 

この現象について調べてみると、今年の夏ごろから「○○さんはポストしていません」「ポストを読み込めません」「やりなおしてください」などの異常を伝える声が多数あがっているという情報があった。詳しいことは分からないが、どうやらエックス側の不具合であるらしい。

 

それにしても、3000以上ポストをしているにも拘らずログインしていないというだけで「@a6web0さんはポストしていません」と表示されるのは単刀直入に言って矛盾そのものではないだろうか。

 

 

筆者が中高の頃、国語や日本史の教材を開くと、「現代の文学」というような項目があり、複数の小説家が紹介されていた。

どの小説家が載っているのかは教材によって異なってはいるが、大体は「吉本ばなな、村上春樹……」といった名前が掲載されていた。

この二人は現代日本の文学界を代表する作家として、しばしば並列されていた印象を受ける。

 

ところで、2020年代の今、吉本ばなな氏と村上春樹氏は同じぐらいの存在感だろうか。

両者とも知名度の高い作家であることは確かだが、吉本ばなな氏の最新作を知っている人と、村上春樹氏の最新作を知っている人であれば、明らかに後者の方が多いように見える。

ノーベル文学賞が発表される時期になるたびに、村上春樹氏の名前はマスメディアやSNSで頻繁に取り上げられるが、吉本ばなな氏の名前が挙がることは殆どない。

存在感に関していえば両者の間には大きな差が出来ている。

 

 

2020年代の初頭、二人のミュージシャンが話題となっていた。

一人は、瑛人氏というシンガーソングライターで、もう一人はAdo氏というヴォーカリストである。

元々は無名だったが、インターネットで大きな人気を得たという共通点があり、この二人はよく並列されていたように思う。

 

【コラム】なぜ瑛人やAdoは無名から火がついたのか? TikTokでバズってる人が思う使われやすい曲

 

【悲報】瑛人、Ado、 YOASOBI案の定テレビに擦られまくって消える

 

Toshl、Ado「唱」カバーに反響「踊りも可愛いかった」

 

瑛人さんの「香水」やadoさんの「うっせえわ」などは、どうやってバズるの

 

YOASOBIとAdoと瑛人は夜に駆けるとうっせえわと、香水超える曲もう出てこないですよね?

 

YOASOBI、Ado、優里…動画SNS発信ソングの豊作で変わった「ミュージシャン像」と「ヒット曲の定義」

 

瑛人、優里、Ado……自然発生的なカバー動画が拡散 新たなヒット曲のセオリーとは

 

YouTubeやTwitterの影響力がカギ 18歳Adoのデビューシングル「うっせぇわ」が月間ダウンロードランキング1位に

 

ガキ「米津!髭男!Ado!瑛人」おっさん「負けてられん…ワイの青春をくらえ」

 

 

 

これらのウェブサイトのタイトルや本文を読むと、この二人がしばしば並列されていたということが確認できる。

では、2025年現在、両者の存在感はどうなっているだろうか。

まずAdo氏から述べていくと、筆者が最初にAdo氏を知ったのは「うっせぇわ」が流行し始めた頃である。

動画サイトで彼女の曲を聴き、「ヴォーカル上手いな」と感じたのを覚えている。

筆者が子供のころ、日本の音楽チャートは、秋元康関連のアイドルやジャニーズやEXILE等の曲ばかりが並んでいた。

これらのタレントの中には歌唱力が高い人もいただろうが、どちらかといえば演奏力や歌唱力よりもタレント人気に重点が置かれている印象を受けた。

だから「顔面非公開で、しかも歌唱力に重きを置いていて凄いな」と感じた。

「うっせぇわ」ブームのときは、余りにもこの曲ばかりが取り上げられており、「このままだと、Adoさんは一発屋みたいになってしまうのでは」と不安を感じることもあったが、その後も「唱」や「踊」や「新時代」などの話題作が現れ、今なお強い存在感を放っている。

 

次に瑛人氏について述べていくと、筆者が最初に瑛人氏を知ったのは2020年ごろだと思う。

「香水」という曲が流行しているらしいという噂を聞き、筆者は動画サイトでさっそく「香水」を聴いた記憶がある。

伴奏がシンプルな曲だなと感じた気がする。

それから4年ほどが経って、ふと筆者は或ることに気づく。

「そういえば最近、瑛人さんの名前を聞かないな」と思った筆者は、ネットで彼のことを調べた。

すると、彼は2023年ごろに結婚し、近頃は妻と一緒に育児を行っていることが分かった。

なお、彼は今も音楽活動を続けているという。

 

小説家やミュージシャンに限らず、コメのブランドに関しても同様の現象が指摘できるかもしれない。

平成のはじめごろ、日本のコメはササニシキとコシヒカリが二大巨頭とされていた。

「東の横綱ササニシキ、西の横綱コシヒカリ」と言われていたほど、この二つはジャポニカ米を代表する存在だった。

だが、令和の現在、ササニシキという品種の名前を聞くことは稀である。

 

以上の事例を踏まえると、「注目され、しばしば並列されていた両者のうち、一方は影が薄くなり、もう一方は高い存在感を保ち続けるという現象」は様々なジャンルで観測できるのが分かる。

もっとも、世間一般における存在感は複数ある評価基準の中の一つに過ぎないため、そのことを過度に意識するのは避けたほうが良いだろう。

童話「ウサギとカメ」はレース(race)を題材としたストーリーである。

レースの序盤、亀を引き離した兎は、まだゴールしていないにも拘らず眠ってしまう。

一方の亀は休むことなく進み続け、兎よりも早くゴールに到着し、兎に勝利する。

 

筆者は、この童話のメッセージ(教訓)は油断大敵だと考えている。

というのも、兎は油断して眠ってさえいなければ亀に余裕をもって勝てていたからである。

この童話が明治時代の国語の教科書に掲載されたときも、タイトルは「油断大敵」となっており、歴史的経緯に鑑みても油断大敵をこの童話の教訓と捉えるのが妥当である。

 

しかし、近頃この童話に対して「本当の教訓は油断大敵ではない」という俗説がしばしば見られるようになっている。

「兎は相手(亀)を見ていた。亀はゴールを見ていた。だから亀は兎に勝ったのだ。『相手ではなくゴールを見ろ』が、この童話の本当の教訓なのだ」というような俗説を見聞きしたことのある人は多いのではないだろうか。

 

個人的には、この解釈も間違いではないと思っている。

レースの序盤あっさりと自分を追い抜かしていく兎の姿を見て、亀が「これ、もう無理じゃん」と心おれてレースを棄権するという事態も普通にありえた訳だが、亀は自分が劣勢であることに絶望せずゴールへ進み続けた。

だからこそ、亀は兎に勝利したのである。

しかし、兎がレース中に対戦相手である亀を見ていたことは誤りだったのだろうか。

結論から言えば、それは誤りではない。

何故なら、レースの勝利条件は「相手よりも早くゴールに到着すること」だからである。

自分が全力を尽くして早くゴールに到着しても、自分より先に相手がゴールに到着していたなら、その相手に勝つことは出来ない。

一方で、凄く手を抜いて遅くゴールに到着しても、相手がまだゴールに到着していなければ勝つことが出来る。

 

NPBやMLBなどといったプロフェッショナル野球の試合では、終盤に継投がしばしば行われる。

このとき、例えば1点リードで9回裏を迎えているのか、それとも7点リードで9回裏を迎えているのかによって、起用されるリリーフ投手は変わってくる。

7点リードで9回裏を迎えているときに勝ちパターンや守護神(チームのリリーフ投手のなかで相対的に能力の高いリリーフ投手のこと)を登板させない監督は多いが、そのことを油断とは言わない。

 

野球の試合のゴール(目標)は基本的に「相手よりも1点でも多い状態でゲームセットを迎えること」である。

そのことに着目するならば、残り3つのアウトを稼ぐために7点リードの9回裏に勝ちパターンや守護神を登板させることは論理的には凄く正しい判断である。

しかし、プロフェッショナル野球が1年で膨大な数の試合をこなさなければならないことや、リリーフ投手の酷使の予防などといった事柄を知っている人であれば、「7点もリードしているからといって、チームで優れたリリーフ投手を登板させず、それよりも能力の劣るリリーフ投手を登板させるのは油断である」などとは主張しないだろう。

これと同様のことが「ウサギとカメ」にも言えるのではないだろうか。

レースでの勝利のみを目的とするならば、客観的に考えて、兎は全力疾走をする必要などなかった。

自分と亀の距離を確保しつつ、自分がゴールするまで「全力疾走ではないものの亀のスピードよりかは速いスピード」を維持したまま進み続けるだけで兎は勝てたのだ。

前述した俗説では「兎は自分がゴールするまで対戦相手を見ずゴールだけを見て全力疾走すべきだった」ということになってしまうが、これは合理的な考えではない。

 

結局のところ、この童話などから、レースすなわち競争で勝つためのノウハウを導き出すならば、それは「油断は絶対にするべきではないが、自分と競争相手のうち、どちらが優勢なのかや、自分と競争相手との差はいかほどなのかを十分に把握したうえでゴールまで着実に進み続けること」と要約できるように思う。

 

さきほどプロフェッショナル野球の事例を紹介したが、プロフェッショナル野球では毎年リーグ戦が行われている。

リーグで最も勝率の高いチームはリーグ優勝となり、優勝ペナント(リーグ優勝を示す優勝旗)を獲得できる。

そのため、各チームが公式戦でリーグ優勝を目指してゆく競争のことをペナントレースという。

 

プロフェッショナル野球の一つであるNPBのチーム(球団)は、例年、1シーズンすなわち1年で143試合を行っていく。

NPBは2リーグ制を採用しているが、1リーグには6チームがあり、大雑把にいうと6チームのなかで最も勝率の高いチームがそのリーグの優勝チームとなる。

「最も勝率の高いチームがリーグ優勝」というのが肝であり、「143試合のうち90試合以上に勝ったチームがリーグ優勝(そもそも、そのようなルールだと、1シーズンで勝率の異なる複数のチームがリーグ優勝することがありえてしまう)」という訳ではない。

それゆえ、「143試合で101勝42敗のチーム」がいたとしても、「143試合で102勝41敗のチーム」が同じリーグにいた場合、そのチームは「101勝42敗(勝率7割以上)」という非常に優秀な成績を残しているにも拘らず、リーグ優勝することが出来ないのだ。

逆に言えば、「143試合で73勝」のチーム(引き分けがないと仮定すれば勝率はなんと51.049%ほど)であっても、同じリーグに、そのチームよりも勝率の高いチームが存在しなかった場合は、そのチームがリーグ優勝できてしまう。

このように、或るチームがリーグ優勝を果たす難易度は、「そのチームが属しているリーグで、そのチームよりも強いチームがどのくらい存在するのか」によって大きく左右されてしまうということが分かる。

もしかすると、プロフェッショナル野球のペナントレースを俯瞰するにあたっては、この身も蓋もない現実を頭の片隅に入れておく必要があるのかもしれない。

 

 

小林秀雄は『ヒットラアと悪魔』でこう述べている。

 

ヒットラアの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかったところに現れたと言った方がよかろう。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼に問題ではなかった。

大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。

その点、個人の心理も群集の心理も変りはしない。

本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。

獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。

それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。

大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択に任すと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。

 

5年ほど前、筆者はこの文章を読み「小林はフロムが『自由からの逃走』で指摘していた現象を言いたいのだろうな」と感じた。

そして、「なんか腑に落ちない箇所もあるな」とも感じた。

「腑に落ちない箇所」は「人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変りはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」のところである。

「(本当を言えば、大衆は)支配されたがっている」は、『自由からの逃走』でも指摘されていた現象(市民が自由の重みから逃れるために独裁者に服従したくなってしまう現象)を知っていれば容易に理解できるし、筆者も当時この文に関しては違和感を抱かなかった。

だが、「本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」は、実態に即していないように感じられた。

例えば、ナチ政権は有権者に対してアーリア人としての誇りをアピールしていた。ユダヤ人などを侮辱することはあっても、自分らの支持基盤であるドイツ人を侮辱することは殆どなかった。

 

冷静に考えて、有権者に「お前らは惨めで愚かだ」と言い放つ政治家と、有権者に「あなたがたは何も悪くない!」と寄り添うような言葉を発する政治家であれば、多くの支持を集めるのは後者である。

「人間は侮蔑されたら怒る」というのは現実世界で頻繁に起こっていることであり、それを「浅薄な心理学」と捉えるのは不自然さが漂う。

「有権者は自分たちを侮辱する政治家を本心では求めているというのは果たして正しいのだろうか」と当時の筆者は思った。

 

時が流れ、5年ほどが経った。

或る日、筆者は一人の政治家のコメントを知った。

その政治家はYouTubeでこう述べたという。

 

真実や本意を伝えるのは難しいのよ。この仕事をして思うけど、自分の考えと党の考えを知ってもらうのは一番、難しくて、俺、正直、諦めた。そこはもうあまり知ってもらおうと思わない。馬鹿、相手にしてもしんどいもん。

そうじゃなくて、もっと賢い人だけで政治として引っ張れる方法ないかなと、もっと言い方、はっきり言うけれど、馬鹿な人たちをどうやって上手く利用するか。ホリエモンがそういうことを言っている。最近、俺もそうやなって思っててね。犬とか猫とかと一緒なん。

そういう人たちにも有権者として一票を託している制度が、今の民主主義のやりかた、一人一票で、やり方は全然違うと思っている。けれども、これ違うと言っても、それは批判しても、この状態で選挙に勝たなきゃいけない。
だから、馬鹿に入れてもらう方法を考えるのが本当の賢い人かなと思って。ガーシーとかと話しているのはね。本当にこの国の国民は政治の問題、ウクライナの戦争の問題とかよりも、芸能人の下ネタの方が好き。そうするとね。それを「ああ、そんなのくだらない人間だ」というような批判をするよりも、そこはやっぱり降りていく。そこに首をつっこむしかないのよ。

 

このコメントはSNSで物議を醸していたが、興味深いことに、この政治家の支持者の多くは、この政治家に怒りや失望感を抱いていなかった。

むしろ支持者の多くは「馬鹿であっても選挙権を持っているというのが今の日本の制度なんだから、この政治家の姿勢は現実的であり、妥当である」などと反応していた。

これらの様子を見て、筆者は「本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」というフレーズを思いだした。

そして、このフレーズの真意について察することが出来た。

 

思うに、「本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」は「大衆は本音では政治家に侮蔑されたがっている」という意味ではなく、「大衆は政治家に侮蔑されていても、侮辱されているということに気づかず、その政治家を支持し続ける」という意味なのではないだろうか。

事実、ヒットラーは『我が闘争』で「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」と述べている。

ナチスに投票したドイツ人の中には『我が闘争』を読んでいた者も多かったはずだが、彼らは自分が「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」の「大衆」に含まれているとは認識していなかったのだろう。

 

筆者はこのコメントの全てが間違っているとは思っていない。

例えば、2016年の事例だが、英のEU離脱の国民投票の結果が判明した後に「EU離脱は何を意味する?」というグーグル検索が英国で最多になったというニュースがあった。

このニュースは、「国民投票を行ったイギリス人の多くは、英国がEUを離脱すると何が起こるのかをあまり把握せずに票を投じていた可能性」を示唆している。

有権者の多くが重要度の高い政策についてよく分かっていない状態で投票しているという現象は世界中で起こっているし、残念ながら「候補者の掲げる政策や政治家としての実績よりも、候補者の容姿や知名度を基準にして、どの政治家に投票するのかを決めてしまっている有権者」は洋の東西を問わず存在する。

この政治家がヒットラーのようなファシストなのかと言われれば、必ずしもそうではないと思う。

だが、一部の有権者を「犬とか猫とかと一緒」と形容していたり、自身の考えと党の考えを知ってもらうことがとても難しいことを理由に有権者が自身の考えや政策を理解するのを諦めていたりするのは、政治家として問題があるのではないだろうか。

 

 

筆者は18歳になってから選挙があるたびに毎回、投票しているが、選挙日に投票することはあまりなく、大抵は期日前投票をしている。

期日前投票をするときに強く感じるのが「身分証とかが無くても投票できるのだな」ということだ。

自治体にもよるのかもしれないが、今の日本の選挙では郵送された投票所入場券を持って行かなくても、名前や住所などを手書きすれば投票できる仕組みになっている。

事実、筆者が期日前投票するときに身分証の提示を求められたことは現時点で一度もない。

「なりすましのリスクとかヤバくないか」という不安を感じるが、その一方で「今の日本は、そのことが大きな問題にならない国なのだろうな」とも感じられてくる。

手ぶらでも投票できる日本の選挙制度の背景には、治安の良さと投票率の低さがあるのだろう。

海外では選挙の際に軍隊が出動する国も存在するが、日本は治安が凄く悪い国であるという訳ではない。

また、近頃の日本は、選挙の投票率が悲しい数字となっている。

国政選挙で5割前後。地方自治体の選挙では4割前後ということも多い。

つまり日本では有権者の約半数が投票する権利を自ら捨てているのだ。

選挙を管理し運営している組織の関係者に「多少なりすましのリスクがあったとしても、気軽に投票できるようにすることで、投票しに行く人を何とか増やしたい」という思いを抱いている人がいたとしても、個人的には驚かない。

たった今、投票でのなりすまし事案についてニュースサイトで検索してみると、2023年4月の大阪府の選挙で他人になりすまして投票しようとした2名の男が逮捕されたという記事が見つかったが、数か月前の選挙で筆者が期日前投票したときも手ぶらで投票できたので、「手ぶらでも投票できる」という選挙制度は今後も続くのだろう。

 

最後になるが、選挙の結果が国や地方自治体の政治に影響を及ぼす事例は枚挙にいとまがない。良き政治のためにも選挙の時期は積極的に投票しに行くことが大事だと筆者は強く考える。

 

 

 

 

 

動詞は状態動詞と非状態動詞に大別される。

状態動詞は「主に状態を表す動詞」と説明され、動作動詞とも呼ばれる非状態動詞は「主に動作を表す動詞」と説明される。

例えば、英語だと、knowやbelongなどが状態動詞であり、runやeatなどが非状態動詞である。

動詞knowは「知っている」という状態を表し、動詞belongも「所属している」という状態を表している。

一方で、動詞runは「走る」という動作を表し、動詞eatも「食べる」という動作を表している。

英語にはliveという動詞がある。

この動詞は「生きている」や「住んでいる」と和訳され、一般に状態動詞とされる。

 

日本語にも「ある」や「いる」や「値する」などといった状態動詞がある。

では、「生きる」は状態動詞なのだろうか。それとも非状態動詞なのだろうか。

個人的には、「生きる」は状態動詞としても用いられるし非状態動詞としても用いられると考えている。

人類は未だに不老不死を実現できていないため、全ての人は「生きている状態」のあと「死んでいる状態」を迎える。

そのため、例えば「或る人物が、いま生きているのか、それとも死んでいるのか」に重点がある場合は、状態動詞として「生きる」が用いられることになる。

その一方で、生きるということを、「我々ひとりひとりが、いま生きているのは、呼吸を絶やしていないからであり、この一瞬も血が流れているからだ。呼吸が停止し、血液の循環が失われれば、あっという間に我々は死ぬことになる」などといった視点で捉える場合は非状態動詞としての側面が強くなる。

 

このように、動詞「生きる」は、「生きている状態」というニュアンスが強い場合は状態動詞として用いられ、「この瞬間を生きる」というニュアンスが強い場合は非状態動詞として用いられる。

 

現代の日本語には「(場所)に生きる」という表現と、「(場所)で生きる」という表現がある。

試しに蔵書検索が出来るサイトで「国に生きる」や「国で生きる」が含まれる書籍名を調べていくと、前者の例としては『ソ連と呼ばれた国に生きて』や『クリスチャニア 自由の国に生きるデンマークの奇跡』などがあり、後者の例としては『この国でそれでも生きていく人たちへ』や『私とあなたのあいだ いま、この国で生きるということ』や『日本列島回復論 この国で生き続けるために』などがあった。

助詞「に」と助詞「で」の違いを踏まえれば、状態動詞として「生きる」が用いられているときは「(場所)に生きる」となり、非状態動詞として「生きる」が用いられているときは「(場所)で生きる」となるのだろう。

 

状態動詞と非状態動詞の違いは英文法で重視される事柄だと認識している日本人は少なくないが、実は日本語においても状態動詞か否かの違いは軽視できるものではないと、筆者は考えている。

 

2025年4月中旬、新千歳空港にある映画館のほうを歩いていると、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』のポスターが視界に入ってきた。

その数日後、或る記事をネットで見かけた。

 

森川ジョージ氏、「ガンダム」最新作への「すごい違和感」投稿に反響 (ヤフコメ

 

筆者はガンダムに疎いのだが、このアニメの舞台設定は未来っぽさを余り感じさせないデザインとなっているらしく、『はじめの一歩』を連載中の漫画家である森川氏がそのことに違和感を表明したという。

これに対するSF作家の高千穂遙氏のコメントを紹介する。

 

ちょっと失礼します。SF作家をやってますから、その違和感は、すごくよくわかります。でも、いくら未来的にデザインしてもだめなんですよ。必ず外れます。いい例が衣装デザイン。むかしは21世紀等の未来を描くと、全身ぴちぴちタイツとかそういうのを着せていたんですが、まったくそうならなかった。

未来予想は的中することもあるが、外れることも多い。例えば1930年ごろにケインズは「2030年に人間の労働時間は週15時間になるだろう」と予想したが、そのような社会が来る気配はない。

 

 

結局、絵的には、いまの服装やテクノロジーをちょいとアレンジしたあたりがちょうどいいんです。作品の賞味期限も50年程度ですし。それ以上は、どんなに未来的に描いても、古びます。なので、いまはわざわざすごく未来的にはしません。いまの視聴者に馴染みのあるデザイン、テクノロジーを狙います。

真に優れた作品であれば何十年、何百年たっても愛され続けるように思うが、時の試練(test of time)を乗り越えられる作品は確かに多くない。「どんなに未来的に描いても古びてしまう」という言葉には重みがある。

 

 

ヤフコメを見ると、「はじめの一歩やガンダムが長寿コンテンツであることに言及したコメント」や「宇宙世紀は現代よりもはるか未来の話で、本来ならスマホなんてはるか昔の技術の世界というコメント」があった。

 

松本零士アニメもガンダムも詳しくないため、このコメントがどのくらい妥当なのかは分からないものの「松本零士アニメだと未来の都市は奇抜な形の大きなビルがたくさん並んでいる。ガンダムは同時期でありながらそういった事でなくニューヨーク市でもわりとシンプルなビルやドーム球場だったり現代と変わらない。ミハルやアムロが住んでいた地球での家も木造で未来にしてはクラシック。どういう意図なのか分からないけどガンダムが古びない名作である要因の一つかも知れない」という声もあった。

 

或るコメントに「SFものって映像や世界観的にはいまだにブレードランナー的なものから壮大に進歩してるかってそうでもないし、現実世界でもわかりやすく言えば70年の万博と今の万博で壮大な進歩を現実世界で行われているかと言えばそこまで?って感じ」という意見があった。

このコメントに限らず、本記事のヤフコメでは「世界観」という名詞を作品世界という意味で用いているものが多数ある。

たまに「世界観を作品世界という意味で用いるのは言葉の誤用だ」と主張する日本人を見かけるが、筆者は「或る言葉の意味が派生して新たな意味が生じることと、言葉の誤用は異なるものなのでは」と考えている。

世界観は元々「世界をどう観ているのか」を指す名詞である。

「或る作品の登場人物が作品内で、自分自身のいる作品世界をどう観ているのか」が「その作品世界がどのようなものなのか」を反映していることを踏まえれば、名詞「世界観」に作品世界という意味が現れていくのは自然なことだろう。

去年、筆者が日本科学未来館に行ったときもガンダムを解説する文章で世界観が「作品世界」という意味で用いられていた

世界観に関する私見はさておき、この意見のキーワードを考えるならば「壮大さ」が挙がるように思う。

筆者が小学生のころアポロ計画のことを知って或る疑問を抱いた。

「1970年ごろ人類は月に到達した。あれから何十年もたった今、人類は火星とかに到達していてもおかしくないはずだ。しかし、現在ためしに宇宙に関するニュースを調べても、スペースシャトルやSELENE(かぐや)など、有人の月面着陸に比べればスケールの小さい出来事ばかり報じられている。1970年ごろと今だったら、今の方が科学技術は発達しているはずなのに、宇宙開発がしょぼくなっているのは変だ」と本気で感じていたものだった。

1970年の大阪万博では月の石が展示されて全国的な話題となっていたが、現在おこなわれている大阪万博で全国的な話題を呼んでいる宇宙関連の展示物があるかと言われれば微妙なように思う。

結局のところ、ガンダム最新作の舞台設定がそこまで未来っぽくないのは、2020年代を生きる我々人類が未来に対して壮大なサイエンスやテクノロジーの成長を余り期待しなくなったことが大きいのではないだろうか。

 

 

 

 

〇経緯

筆者が『School Days』というアニメの存在を知ったのは小中の頃だと思う。

そのときは「前代未聞のアニメが放送されていたんだ、ふーん」程度に感じていたが、のちに一連のエンディング・シーン(「かなしみの向こうへと」という歌声が流れるシーンや「中に誰もいませんよ」のシーンや「やっと二人っきりになれましたね」のシーンなど)を実際に見て衝撃を受けた。

実際に見たといっても、それらは数分か10分ほどの断片的な動画に過ぎず、筆者は今年の3月になるまでキャラクター数人の名前と一連のエンディング・シーンぐらいしか知らない状態だったが、「Nice boat.」などの伝説はネット経由で把握しており、このアニメのことが強く印象に残っていた。

機会があれば全12話を視聴したいとずっと感じていたのだが、今年の3月にYouTubeを眺めていると、『School Days』全12話が期間限定で配信されているのを知り、さっそく全12話を視聴した。

そして、「やはり凄まじいアニメだったのだな」と感じた。

「かなしみの向こうへと」から始まる曲「悲しみの向こうへ」をきちんと聴いたのも初めてで、それまでは歌詞も大して把握していなかったのだが、じっくりと聴いたところ、しみじみとした良曲であることに気づいた。

以下に、全12話のレビューを記す。

 

 

〇第1~2話

桂言葉に恋心を抱いている伊藤に対して「伊藤の片思いが実るように応援するね」と宣言する西園寺。

第1話を観終わってようやく、桂と西園寺と伊藤が日本の首相の苗字なことに気づいた。

初デートのときに、セクシーな女性のグラビア写真が載っている本を立ち読みする伊藤誠。

てか、挨拶でキスは流石におかしいと思う。欧米とかなら兎も角、ここは日本なのだし。

桂は豪邸っぽい家に住んでいる模様。

桂の入浴シーンで胸が動いていたけどエロ描写で男性視聴者を露骨に釣ろうとしすぎ。

どうやら桂には妹がいるらしい。裸の姉がいる浴室の扉を開けることに一切ためらいのない妹。

そこまで仲が良い訳でもないのに桂の胸を突然もみはじめる西園寺。

なお、第2話の終わりのほうに、西園寺世界と思しきシルエットがあった。

このアニメが第12話ではなく第2話で終わっていれば、伊藤が自分の身勝手さを反省するというエンディングになって良い終わり方だったように思う。

 

 

〇第3話

妹の名前は心というらしい。

それにしても胸を強調した描写が多くね、このアニメ。

「姉妹で変わった名前なんですね」って伊藤は間違ったこと言ってないけど、桂言葉本人に対してそう無神経に言い放てるのは凄まじい。

西園寺の台詞のお陰で「にぶちん(にぶい人)」というスラングを知ることが出来た。

西園寺世界ってファミレスでバイトしているらしいけど、バイトの服装にしては露出度が高くないか。

夕方ぐらいの時間帯なのに別れ際の挨拶が「おやすみなさい」となっており、違和感のようなものが湧いた。

 

 

〇第4話

「ノックもしないで入ってこないで」って、妹は裸の姉がいる浴室の扉をノックもしないで開けていた記憶。

このアニメは、こういう露骨なセクシー描写が割と多く、キャラの瞼の描線が特殊なように思う。

入浴時に乳輪(にゅうりん)や乳首(にゅうとう)が普通に描かれていた。

個人的には乳房程度で規制するのは馬鹿げていると思うので、このシーンが規制を受けていないこと自体は良いことだと思う。

西園寺の「あげちゃってもいいかもって感じ、女の子だったら無い?」は「初めて(処女)をあげちゃっても」という意味であろう。

 

 

〇第5話

眼鏡かけながらプール入る人って、どのぐらいいるんだろう。

西園寺と伊藤が家でいちゃつきあっており「桂言葉が可哀想だな」と感じた。

 

 

〇第6話

授業中の教師の声を聴いていると、西園寺と伊藤は理系ではなく文系なのかなと一瞬、感じたが、第2話で化学の教師の声があったのを思いだした。

この回は最後のほうで不調和音が流れている。

 

 

〇第7話

電子機器の暗証番号が誕生日というのはありがちだろうけど、なんで刹那が誠の誕生日を知っているのかが気になった。

 

 

〇第8話

刹那というキャラ、人気投票したら普通に上のほうの順位になりそう。

 

 

〇第9~10話

桂言葉が赤い体液を流しているシーンがあった。これは多くの先行作品で使われてきたような描写であろう。

それにしても、なんで伊藤ってこんなにモテるんだろう……。

隠し撮りって普通に犯罪な気がするのだが、この女子バスケ部いろいろとヤバくないか?

因みに、カメラの存在は第10話より前の回できちんと提示されている。

これに限らず、このアニメは割と伏線がしっかりしている印象を受ける。

 

 

〇第11話

「べつに」という黒田光の台詞を聴き、沢尻エリカとかいう芸能人を思いだした。

沢尻エリカの「べつに」騒動は2007年らしいけど、このアニメも2007年放送らしい。

黒田は西園寺の家へ行き、「世界がいないと伊藤も、ほら浮気するかもしれないし」と西園寺に告げているけど、「そりゃあ黒田本人も伊藤と肉体関係を結んで、浮気に手を染めてるしな」とツッコミを入れたくなった。

桂言葉が可哀想すぎるのは確かだが、何度も何度も「言葉と伊藤は恋人じゃない」と伝えられているのに、「私は誠くんの彼女ですから」と壊れたラジオスピーカーみたいに言ってて、桂言葉も常軌を逸しているように思った(もっとも伊藤は、その夜以降、言葉と親密な関係を取り戻すのだけど)。

「誠、そんなこと言うキャラじゃなかったよね」という台詞が物語っているように、このアニメのヤバいキャラは元から常軌を逸していた訳ではないように見える。

元はまともな性格だったのに、伊藤らは気づいたらヤバすぎる性格になっていたというのが、このアニメの重要なポイントなのではないだろうか。

 

 

〇第12話

素朴な疑問なんだけど、伊藤らは高校生なのだから、普通に親とかに相談すればよくないか?

妊娠したかどうかという重大な事態なのに、当事者の親たちの存在感が全然、伝わってこない。

結局、伊藤と言葉は高級そうなレストランで食事をしたのか否かが気になっていたのだが、西園寺が言葉を平手打ちするなどの修羅場をみていると、そんなことがどうでもよく感じられてきた。

因みに、第7話で刹那が誠の誕生日を知っていた理由が第12話で明かされている。

既に削除もしくは非公開となっているらしく今は視聴できない様子だが、或る動画で安藤チャンネル安藤さんが「伊藤誠は女性に対して病院へ行くことを勧めるなど、女性に寄り添っている描写もある。だから誠は悪くないっすね」と語っていたのを思いだした。

これには二つの可能性がある。

一つは、安藤さんが「病院」が中絶手術という意味であることを知ったうえで、ギャグとしてそう語っていた可能性である。

もう一つは、安藤さんが「病院」の意味を知らなかった可能性である。

安藤チャンネルはギャグ動画が多いことを踏まえれば前者の可能性が濃厚だが、安藤さんは案外ピュアな側面もあるので後者の可能性も低くないと個人的には思う。

安藤さんのことを思い出しながらアニメを見ていると、長い改行メールのシーンが流れ始め「ついにエンディングが始まるのかあ」と感慨深くなった。

長い改行メールのシーンを以て、このアニメは恋愛アニメから猟奇アニメへと変貌を遂げていく訳だが、「西園寺が殺人に手を染める経緯」が(筆者が想定していたよりかは)突飛なようにも感じた。

もっとも、ただでさえ中絶手術を提示されて苦しんでいるとき(ただし後に桂言葉が西園寺の子宮を裂いた際、子宮内に胎児は確認されなかった)に、自分のつくった料理が捨てられているのを見て、殺意がわくという流れはそこまで不自然ではないとも言える。

だから、あくまで「少し突飛かもしれない」というレベルであり、「非常に突飛である」というレベルではないとも考えられる。

西園寺は目の前で伊藤と桂言葉が熱いキスをしているのを見させられており、「誠を刺殺する経緯は突飛ではない」と感じる視聴者も多いように思う。

屋上の流血シーンは知っていたものの、屋上が伊藤と西園寺と言葉にとって思い入れのある場所だったというのは全12話を見るまで知らなかった。

西園寺はポケットの中に刃物を忍ばせている訳だが、そのことを示す伏線が丁寧に張られており、やはり脚本はしっかりしているなと実感した。

 

 

 

〇総評

このアニメは凡作とは真逆の作品であると言わざるを得ない。

筆者は、小説やアニメや漫画や映画を問わず、ぶっとんだ作品に凄く惹かれる。

凡庸で無個性な作品を読んだり視聴したりするぐらいなら、完成度の高低に関係なくぶっとんだ作品を鑑賞するほうがいいとすら感じることが多い。

このように全12話を視聴できたことを筆者は嬉しく思っているが、筆者の脳裏には「このアニメで最も可哀想なキャラがいるとすれば、それは桂心なのではないだろうか」という考えが浮かんでいる。

桂心の境遇を整理するならば、「裕福な家庭に育ち、優しい姉のもとで暮らし、伊藤誠という年上の男子に淡い恋心を寄せていたのに、伊藤誠は他殺され、姉も犯罪者になってしまった」となる。

西園寺世界を刺殺するという犯罪に手を染めたのは桂言葉であって桂心ではないのだが、世間では加害者の家族というだけで差別や偏見を受ける可能性が高い。

最終話以降の作中世界において、桂心が体験することになる未来は過酷なように思う。

2005年発売の原作ゲームは全然知らないため、原作ゲームがどうなのかは分からないが、アニメに関してはガラゲーが重要なモチーフとなっているように感じられる。

長い改行メールもガラゲーならではの描写だし、CMとCMの間の映像(アイキャッチ)でも二頭身と化したキャラがしばしばガラゲーに触れていた。

日本でスマホが本格的に普及したのは2010年代前半なので、2007年当時の携帯電話事情が窺える。

最後になるが、このアニメは企画段階では「いかにバッドエンドを回避するか」という方向性で議論されていたという。

だが、アニメーション制作会社TNKの「とにかくショッキングに行きたい」という案が採用された結果、あの伝説的なエンディング・シーンが誕生するに至った。

安易なエンディングにしなかった制作スタッフたちの勇気は並々ならぬものがあると思うし、このアニメをまだ見ていない方がいるのならば、第1話から最終話まで一気に視聴することを強く推奨する。

 

小学生のころ「トイ・ストーリー」三部作が話題になっていた。

「トイ・ストーリー」シリーズと聞いて頭に浮かぶキャラは、主人公の少年と、カウボーイ人形と、宇宙飛行士っぽい男と、熊のぬいぐるみ程度で、『トイ・ストーリー』や『トイ・ストーリー2』に関する記憶は殆どないに等しいのだが、『トイ・ストーリー3』は視聴した記憶がある。

『トイ・ストーリー3』の全体的な粗筋は記憶に残っていないものの、「玩具は子供が大人になると遊ばれなくなる」というテーマや、大人になろうとしている主人公の男が年下の子供に玩具を手渡すエンディングなどは印象に残っており、『トイ・ストーリー3』を視聴し終わった直後、子供ながら「いい感じに三部作の物語が完結しているな」と感じたのを覚えている。

 

大学生になり、<映画『トイ・ストーリー2』、いつの間にかセクハラシーンを削除>という記事を見かけた。

まず「あんなに美しく完結した『トイ・ストーリー3』に続編が出るらしい」と知って驚いたあと「『トイ・ストーリー2』に、そんなシーンがあったんだ」と思った。

記事によると、『トイ・ストーリー2』にはプロスペクターという悪役キャラが登場しているそうで、プロスペクターがバービー二人(若い女性キャラ)に「僕なら君たちを『トイ・ストーリー3』に出してあげられるよ」と持ちかけるも、カウボーイらの視線に気づいたプロスペクターが言い繕うシーンがある。

 

ネットで調べると該当シーンが見つかったので、プロスペクターの台詞を引用する(拙訳も付記した)。

 

(プロスペクターが二人組のバービー人形を見ながら)

And so, you two are absolutely identical? 

それで、君たち二人は完全に同じなんだね?

You know, I'm sure I could get you a part in Toy Story 3.

君らも分かると思うけど、私は君らをトイ・ストーリー3に出演させることが出来ると思う。

 

(カウボーイらの視線に気づいたプロスペクターが言い繕って)

Oh, I'm sorry. Are we back?! Lovely talking with you. 

おお、ごめん。我々は撮影中の状態に戻っているのか?!君らと会話できて楽しかったよ。

Yes, any time you'd like some tips on acting, I'd be glad to chat with you. 

ああ、演技のヒントが欲しいなら、どんなときでも私は喜んで君らにしゃべるさ。

All right. Off you go then. 

いいよ。もう行っていいよ。

 

映画等のプロデューサーが(特に新人の)女優を自分の部屋に呼び、親密な関係(セクハラ行為の許容や、疑似恋愛や、肉体関係など)となることを交換条件に、映画等の役や契約をその女優に与えることを、キャスティングカウチというが、このシーンはキャスティングカウチを暗示したブラックジョークとなっている。

 

前述した記事を引用する。

 

最新作『トイ・ストーリー4』の公開を前に再リリースされたDVDからこのシーンが削除されているという。ディズニーはこれについて正式には発表していない。

ハーヴェイ・ワインスタインの事件をきっかけに起きたセクハラ告発運動「#Me Too」ムーブメントでキャスティングカウチの実態も明るみになったハリウッド。ワインスタインだけでなく、他の映画会社重役やプロデューサーが同様の行為をしていることを女優たちが語っている。ちなみにこのムーブメントの中でディズニーのプロデューサー、ジョン・ラセターもキャスティングカウチではないけれど、社員へのセクハラが告発されディズニーを退職するという騒ぎに発展した。

ディズニーアニメにこのようなシーンが登場するのは、『トイ・ストーリー2』が作られた1999年にはキャスティングカウチをジョークにしても問題ないと男性主導のハリウッドが考えていたことの表れ。それから約20年経ち、これが冗談ではないという考え方が浸透してきたよう。「ようやく」という感もあるけれど、ハリウッドのセクハラに関する意識は確実に変わってきていると言えそう。

 

 

「明るみになった」は「明るみに出た」という意味だろうが、「ディズニーアニメにこのようなシーンが登場するのは、『トイ・ストーリー2』が作られた1999年にはキャスティングカウチをジョークにしても問題ないと男性主導のハリウッドが考えていたことの表れ」というのは少し違うと思う。

というのもブラックジョークは批判や非難や風刺や告発の意義がこめられているケースも多いからだ。

このシーンで「I'm sure I could get you a part in Toy Story 3.」と語っているのが、作中で善とされる側のキャラではなく悪役であるという点、そしてカウボーイらの視線に気づいたプロスペクターが即座に言い繕っている点などから判断できるように、このシーンを制作したスタッフはキャスティングカウチを良くないこととして描いている。

つまり、本作のスタッフはキャスティングカウチを肯定したり笑い話として扱ったりするためにこのシーンを制作した訳ではない。

 

だが、或る空間や作品でブラックジョークが存在しうるか否かは表現の自由度に大きく依存する。

例えば、金正恩を風刺したブラックジョークを人ごみの中で語るという行為は、金正恩を非難しても政治的に弾圧されない日本や英国などの国では容易に出来るだろう。

しかし、そのようなブラックジョークを平壌の人ごみの中で語るとなれば話は別である。

このように、表現の自由度が低い空間ではブラックジョークが存在しづらくなってしまう。

ポリコレやキャンセルカルチャーの勢いが凄まじい米国では、現在と異なる時代に制作された作品に対して攻撃的な人が目立っており、表現の自由度が大幅に低下している。

このことは例のシーンが削除された要因の一つだと考えられる。

 

もう一つの要因は、大々的に報じられている事故や事件への自粛である。

例えば、2015年に「イスラム国」とみられるグループが日本人二人を拘束し、殺害を予告する事件が起こった。

この事件を受けて、フジテレビはアニメ『暗殺教室』第3話の放送を自粛した。

『暗殺教室』は謎の生物が担任教師を務める中学校を主な舞台とした作品である。

作中には中学生が暗殺目的で特殊なナイフを振り回す場面などがあり、こういったことが放送自粛につながったという。

記事にもあったように、2010年代後半は、ワインスタインの事件をきっかけに起きたセクハラ告発運動「#Me Too」ムーブメントでキャスティングカウチの問題に注目が集まっていたばかりかジョン・ラセターのセクハラ疑惑が報道されていた。

2019年の記事で米オンラインメディアのVoxが考察しているように、当時ピクサーがセクハラ関連のシーンに関して敏感になっていたのは確かである。

 

ブラックジョークのシーンの削除が2025年以降も続くのかは分からない。

ポリコレ等のウォーキズムに否定的なドナルド・トランプが再選したことを踏まえると、このシーンの削除がディズニー社で見直される可能性はある。

結局のところ、大きな事故や事件が起こったときに作中の或るシーンを自粛すべきか否かは、主に具体性で判断すべきなのではないだろうか。

ネットで安倍晋三銃撃事件の前に発表されたと思しき漫画を見かけたが、例えば、この漫画は「安倍晋三狙撃」という語句を含んでおり、具体的な人名が登場している。

政治家が狙撃されること自体は今も昔も数えきれないほど発生している訳だが、「安倍晋三狙撃」で連想される出来事となれば、やはり2022年7月に奈良県で発生した例の事件が多くの人々の脳内で真っ先に浮かぶであろう。

その一方で、削除されたブラックジョークのシーンはワインスタインなどといった人名を全く含んでおらず、本作のアニメーターたちがワインスタインらの問題を念頭においてこのシーンを制作したのかは不明である。

 

子供も見る作品であったとしてもブラックジョークは一定の範囲内であってよいはずだし、ワインスタインらの問題を直ちに連想させるシーンではない以上、このシーンを永遠に削除するのは過剰な反応であると考える人は多いのではないだろうか。

 

 

翻訳は直訳と意訳に大別される。

日本の学校における英語教育では直訳が重視されている印象を受ける。

しかし、一部の翻訳者たちは、状況に応じて、あえて直訳しないという手法を用いることがある。

本記事では筆者が興味深いと感じた意訳の具体例を挙げてゆく。

 

南北戦争は米国においてThe Civil Warなどと呼ばれている。

形容詞civilには「公民の、民間の」という意味の他に「内政の、国内の」という意味があり、Civil Warを直訳するならば内戦となる。

アメリカ独立戦争から2025年現在に至るまで、この一度しか内戦が起こっていないとされる米国では、The Civil Warだけで南北戦争のことだと通じるのである。

南北戦争が米国で発生したことを強調するためにAmerican Civil Warという名称もあり、この名称を直訳するならば「アメリカ内戦」などのようになるが、日本や中国では14世紀や5~6世紀に実在した南北朝時代のイメージから「南北戦争」と意訳され、この名称が歴史用語として定着している。

この意訳は米国が南部の勢力と北部の勢力に分かれて戦闘していたことを端的に表現しており、分かりやすさという点で優れている。

 

南北戦争とは対照的に民主主義という訳語は元の意味が分かりづらくなっており、誤解を招きやすい意訳と言えるかもしれない。

名詞democracyはdemoとcracyから構成されている。aristocracyが貴族制・貴族政・貴族政治などと、bureaucracyが官僚制・官僚政治などと、gerontocracyが長老政治・長老支配などと訳されることを踏まえれば、democracyは民主制や民主政や民主政治などと訳すのが自然である。

だが、接尾辞がismではなくcracyとなっているにもかかわらずdemocracyは民主主義と訳されることが多い。

この背景には「民主政や民主政治が行われているのは民衆による政治が相応しいからだ」という価値観があるのだろう。

世界の国々をみても実質的な独裁国家ですら「民主主義人民共和国」と称している例が存在するほど「民衆による政治を是とする価値観」は支持されている。

確かにdemocracyが民主制とも民主政とも民主政治とも民主主義とも訳せるケースは豊富にあり、例えばenemy of democracyは「民主制の敵」とも「民主主義の敵」とも訳すことが出来る。

ただし、democracyという単語が含まれる英文があって民主制や民主政治と訳すのが妥当なときに、民主主義という訳語を採用してしまうのは誤訳であると思われる。

 

筆者は映画に疎いのだが、『地獄の黙示録』や『アナと雪の女王』などといった邦題は有名である。

『地獄の黙示録』の原題は『Apocalypse Now』であり、これは1960年代にヒッピーが主張していた「Nirvana Now(今こそ涅槃を)」をもじったものである。

涅槃は「煩悩が消えた悟りの境地」を意味する仏教用語であり、『Apocalypse Now』を直訳するならば「今こそ黙示録を」などとなる。

だが、日本人の多くは「Nirvana Now(今こそ涅槃を)」というフレーズを知らないため、「今こそ黙示録を」だと本作がどういう雰囲気の映画なのかが伝わりにくい。

『地獄の黙示録』という邦題は「キリスト教や米国のヒッピー文化に詳しくない観客」に配慮した意訳だと考えられる。

因みに、本映画はコンラッドの小説『闇の奥』が原作となっているが、この小説の原題は『Heart of Darkness』であり、小説のほうもタイトルが意訳されている。

名詞heartは「心」や「心臓」なので、『Heart of Darkness』を直訳するならば「闇の心」や「闇の心臓」などとなる。

 

アニメ映画『アナと雪の女王』も原題は『Frozen』であり、作中キャラの人名を前面に出した邦題とは大きく異なっている。

 

筆者は小学生の頃から『宇宙大戦』という作品(英題は『The Great War of the Worlds』となる予定)を構想している。

この作品は小説として完成するかもしれないし、もしくは戯曲や漫画やアニメなどとして完成するかもしれないが、このタイトルはハーバート・ジョージ・ウェルズの『宇宙戦争』に由来する。

『宇宙戦争』も実は意訳であり、原題は『The War of the Worlds』である。

これを直訳するならば「世界同士の戦争」となり、このタイトルは「地球人の世界」と「火星人の世界」の間で戦争が発生するという粗筋を表している。

だが、「世界同士の戦争」という直訳では本作がSF作品であることが伝わりづらい。

日本で『宇宙戦争』という邦題が100年以上にわたって定着しているのは、漢字四文字という完結さや、SF作品であることが伝わりやすいというメリットによるところが大きいのだろう。

 

これまで英語から日本語に意訳された例を紹介してきたが、フランス語から日本語に意訳された例もある。

フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンは1940年ごろ『Quatuor pour la Fin du Temps』という曲を発表した。

この曲は『時の終わりのための四重奏曲』や『世の終わりのための四重奏曲』という邦題で知られており、前者が直訳に近いタイトルで後者が意訳に近いタイトルである。

終末論として知られる新約聖書『ヨハネの黙示録』が曲想となった作品であり、『時の終わりのための四重奏曲』の「時」は「時代」というニュアンスが強いと思われる。

簡潔に言えば、終末論は「この世の終わり」や「この世界の終わり」を扱った記述のことである。

『時の終わりのための四重奏曲』と『世の終わりのための四重奏曲』であれば、多くの日本語話者にとって曲のイメージが伝わりやすいのは後者だろう。

 

人文学や社会科学とは異なる領域でも意訳は散見される。

例えばアインシュタインはマックス・ボルンへの手紙で「Jedenfalls bin ich überzeugt, daß der Alte nicht würfelt.」と述べている。

この一文を直訳するならば「いずれにせよ、私は、古きものはサイコロを振らないと確信している。」などとなる。

つまり「神はサイコロを振らない」というアインシュタインの有名台詞は「古きもの」を「神」と置き換えた意訳である可能性が高い。

 

意訳は誤訳と隣り合わせであるというリスクを伴うが、直訳では汲み取りづらいニュアンスを如実に表現できるという魅力がある。

機械翻訳の精度が高まりつつある21世紀、意訳の重要性は増してゆくのかもしれない。