単行本『BLEACH』74巻(最終巻)の683話において、初見では理解が凄く難しいストーリー展開(プロット)があった。

週刊少年ジャンプに683話が掲載されているのを読んだとき、当時未成年だった筆者も、このストーリー展開を完全には理解できなかった記憶がある。

この記事では、683話で展開されている難解なストーリー展開を解説してゆく。

 

まず、683話は一見すると、以下のような展開に見える。

 

 

 

初撃で一護が吹き飛ばされる

恋次が卍解『双王蛇尾丸』でユーハバッハに攻撃するも、ユーハバッハが恋次の左腕を斬り落とす

藍染が斬魄刀「鏡花水月」を振り回したり、破道の九十九を発動したりすることでユーハバッハを攻撃するも、ユーハバッハは鏡花水月を折り、藍染を吹き飛ばす

左腕のない姿の一護がユーハバッハを奇襲するも、ユーハバッハに奇襲を防がれる

ユーハバッハは一護に致命傷を負わせ、「さらばだ 一護」「お前の抵抗は心地良かった」「せめて尸魂界と共に滅べ」と語り、一護を殺し切った達成感に耽るが、左腕のない姿の藍染が「…そうか(自分が)黒崎一護に視えているか」と種明かしをする

藍染の種明かしの直後、一護がユーハバッハに月牙天衝を放ち、ユーハバッハがその攻撃を直に受ける

 

 

 

しかし、上記の展開は藍染による完全催眠の影響を受けており、作中で実際に起こっている展開そのものではない。

作中で実際に起こっていると考えられる展開を以下に示す。

 

 

 

初撃で一護が吹き飛ばされる。

「恋次が卍解『双王蛇尾丸』でユーハバッハに攻撃しているかのような催眠」を藍染がユーハバッハにかける。その際、藍染は自分自身を恋次かのように錯覚させている。ユーハバッハは恋次の左腕(実際には藍染の左腕)を斬り落とす。

「藍染が鏡花水月を振り回し、破道の九十九も駆使して、ユーハバッハを攻撃しているかのような催眠」を藍染がユーハバッハにかける。その際、藍染は恋次を自分自身かのように錯覚させている※1。ユーハバッハは鏡花水月(実際には恐らく蛇尾丸)を折り※2、藍染(実際には恋次)を吹き飛ばす。

「左腕のない姿の一護がユーハバッハを奇襲しているかのような催眠」を藍染がユーハバッハにかける。その際、既に自身の左腕を斬り落とされている藍染は、自分のその体を「左腕を斬り落とされている一護」かのように錯覚させている。ユーハバッハは一護による奇襲(実際には藍染による奇襲)を防ぐ※3

「ユーハバッハが一護に致命傷を負わせたかのような催眠」を藍染がユーハバッハにかける。ユーハバッハは「さらばだ 一護」「お前の抵抗は心地良かった」「せめて尸魂界と共に滅べ」と語り、一護を殺し切った達成感に耽るが、左腕のない姿の藍染が「…そうか(自分が)黒崎一護に視えているか」と種明かしをする。

藍染の種明かしの直後、一護がユーハバッハに月牙天衝を放ち、ユーハバッハがその攻撃を直に受ける。

 

 

 

※1:言うまでもないことだが、恋次の斬魄刀は鏡花水月ではなく蛇尾丸である。また、恋次は藍染と違って鬼道が苦手であり、破道の九十九という非常に難易度の高い鬼道を用いることが不可能なはずである。よって、このシーンは、実際には「恋次が蛇尾丸を振り回し、破道の九十九よりも難易度の低い鬼道を用いてユーハバッハを攻撃しているの」を、あたかも「藍染が鏡花水月を振り回し、破道の九十九も駆使して、ユーハバッハを攻撃している」かのように見せているのだろう。

鏡花水月の能力は、蠅を竜に見せることも、沼地を花畑に見せることも可能なほど強力な代物であり、「破道の九十九よりも難易度の低い鬼道」を破道の九十九かのように見せることも可能であると思われる。

 

 

※2:破面篇の終盤(第48巻)で藍染は「自分は鏡花水月と一体化したような状態になった(ため、鏡花水月という斬魄刀がなくても鏡花水月の能力を使えるようになった)」と解釈できる発言を一護に対して行っている。

事実、最終章(第58巻)において、藍染が斬魄刀「鏡花水月」や解号を用いることなくユーハバッハの時間感覚を僅かに狂わせている描写がある。これは、斬魄刀「鏡花水月」や解号を用いずとも藍染がユーハバッハに対して鏡花水月の能力を発揮できるということを示唆している。

そもそも、藍染が無間に投獄されてから683話までの間、原作で藍染が鏡花水月などの刀を振り回しているような描写は皆無である。

これらのことを踏まえると、683話のタイミングで藍染が鏡花水月という斬魄刀を振り回している光景があるとすれば、その光景は藍染による錯覚だと考えるのが自然なのである。

 

 

※3:その際、ユーハバッハは「戦況を見て瞬時に藍染惣右介との共闘に転じた事は上出来(じょうでき)だ」「だが鏡花水月も我が力には及ばぬ」「初撃で我が力に吹き飛ばされたのが阿散井恋次」「次に私に腕を捥がれた(もがれた)のが貴様だ 一護」「全て視えている」と語っている。

だが、「初撃で我が力に吹き飛ばされたのが阿散井恋次」「次に私に腕を捥がれた(もがれた)のが貴様だ 一護」「全て視えている」というのは、あくまで藍染がユーハバッハにそう錯覚させているだけである。

つまり、藍染はユーハバッハに「恋次が卍解『双王蛇尾丸』でユーハバッハに攻撃しているかのような催眠」や「藍染が鏡花水月を振り回し、破道の九十九も駆使してユーハバッハを攻撃しているかのような催眠」や「左腕のない姿の一護がユーハバッハを奇襲しているかのような催眠」をかけたうえで、ユーハバッハに「初撃で我が力に吹き飛ばされたのは一護であるかのように見えるが、これは鏡花水月による錯覚であり、実際に初撃で我が力に吹き飛ばされたのは阿散井恋次である。また、その次に私に腕を捥がれたのは恋次であるかのように見えるが、これは鏡花水月による錯覚であり、実際に腕を捥がれたのは一護である」という催眠をかけていた。

 

 

 

 

以上で、683話で展開されている難解なストーリー展開を解説したが、個人的に気になっていることがある。

それは『BLEACH』の読者の間で「漫画『BLEACH』の最終巻に載っている683話ってストーリー展開を把握するのが凄く難しいよね」などといった声を殆ど聞かないことである。

 

世界には有名作品というものがある。

戯曲であればゲーテの『ファウスト』などがそうであり、絵画であればピカソの『ゲルニカ』などがそうであり、音楽であればビートルズの『レット・イット・ビー』などがそうである。

日本の漫画は世界中で読まれており、『NARUTO』等の作品ほどではないかもしれないが、『BLEACH』も世界中の国々に住む膨大な数の読者によって読まれている。

しかし、国内外の非常に多くの読者が存在する漫画であるにも拘らず、少なくとも日本においては「原作683話で凄く難解なプロットが展開されている」ということが余り知られていないように感じられるのだ。

 

有名作品に読解が凄く難しい箇所がある場合、その箇所はしばしば読者の間で話題となる。

例えば『ファウスト』でも、「第二部の第一幕~第二幕の箇所は凄く読解が難しい」ということが読者の間で広く知られている。

ところが、『BLEACH』の読者の間で「久保帯人先生ってネーミングセンスが凄いよね」や「死神代行篇を読んで『この漫画のラスボスは主人公の母を殺したグランドフィッシャーとかなのかな』と思っていたらラスボスは(藍染や)ユーハバッハであり、グランドフィッシャーを倒すための戦闘は破面篇の序盤あたりであっさりと終わってしまい意外だった」などの声がしばしばあがるのとは対照的に、原作683話のプロットの難解さは余り話題になっていない。

 

この理由を考えるにあたっては、『BLEACH』が「流し読みしようと思えば凄くスピーディーに読めてしまう作品」であることを踏まえる必要がある。

さきほど、週刊少年ジャンプに683話が掲載されているのを読んだとき当時の筆者はプロットを正確には理解できていなかったと述べたが、それでも「一護が藍染と共闘してユーハバッハに月牙天衝を直撃させることができた」という683話の大まかなプロットを把握することは容易に出来た。

つまり、前述した「作中で実際に起こっていると考えられる展開」を正確に把握できていなくても、「一護が藍染と共闘してユーハバッハに月牙天衝を直撃させることができた」という大まかなストーリーさえ把握できれば、684話以降を読むのに大きな支障が生じないのだ。

 

『BLEACH』は流し読みするだけであれば、筆者がこの記事で行ったような考察をせずとも、作品の全体的なストーリーを把握することが十分に可能となっており、そのことが「原作683話のプロットの難解さが読者の間で余り知られていない理由」である。

そう考えることは出来るのではないだろうか。

 

 

 

謹賀新年の挨拶はさておき、2026年は少年漫画『BLEACH』の完結10周年に当たる年である。

『BLEACH』は2001年に連載が始まり、2016年に最終話を迎えている。

作者の久保帯人先生によれば、連載終了の一年ほど前にジャンプ編集部との間で打ち合わせが行われ、そのとき「第1話の発表から丁度15年が経つタイミングで最終話を掲載すること」が決まったという。

同時期に週刊少年ジャンプで連載されていた作品に『NARUTO』がある。この漫画も1999年に連載が始まって2014年に最終話を迎えており、連載期間が15年ほどとなっている。

 

ここで、わたくしA倉R郎は一つのルールを提唱したい。

それは「少年漫画の15年ルール」というもので、「少年漫画はどんなにページ数の多い長編作品であっても15年以内に連載を終了する」というルールである。

 

少年漫画は読み切り作品、短期集中連載される作品、長期連載される作品に大別される。

読み切り作品も、短期集中連載の作品も、長期連載の作品も、それぞれ特徴や魅力などがある訳だが、長期連載の作品には或る種のリスクがある。

それは、何らかの事情で作品の連載が打ち切りになってしまったり、作品が完結する前に作者の寿命が尽きて作品が未完になってしまったり、作品の連載が完結する前に読者が亡くなってしまうリスクである。

 

これらのリスクを浮き彫りにした出来事がある。

『BLEACH』の連載が終わって3か月が経った頃、久保帯人先生はネット上で情報提供を呼び掛けた。

 

漫画『BLEACH』久保帯人、探していたファンレターの差出人見つかる “余命1年半”の少年友人から

 

経緯を簡単に記すと、『BLEACH』の連載の真っ最中に、余命一年半の読者が久保先生にファンレターを書いた。その読者の死後、その読者の知り合いが久保先生にそのファンレターを送った。久保先生は『BLEACH』の連載が終わった後も、そのファンレターのことが忘れられず、その読者やファンレターの差出人(その読者の知り合い)に関する情報を募集したという流れになる。

 

その後、ファンレターを送った差出人が見つかり、久保先生やスタッフらは情報提供の件について感謝の意を示しているが、いずれにしても、その読者は『BLEACH』の最終話を読めないまま生涯を終えている。

 

もちろん5年ほどの連載でも15年ほどの連載でも25年ほどの連載でも、作者や読者の寿命というリスクは無視できない訳だが、私が10年や20年ではなく15年という数字を採用しているのには理由がある。

それは、少年が少年のうちに連載が完結するギリギリの年月が15年ほどだからである。

 

例えば、或る子供が4歳や5歳のときに『BLEACH』の連載が始まったとする。

その場合、前述した余命一年半の読者のように自身の寿命が尽きたり視力を永遠に失ったりしなければ、その子供は19歳か20歳ぐらいで『BLEACH』の最終話が読めることになる。

これは『NARUTO』であっても同様であり、連載期間が15年ほどであれば、初めて作品に出合ったときに4歳や5歳だった少年は二十歳(はたち)を超える前に少年漫画の最終話を読めるのだ。

 

だが、もしも連載期間が20年を超えてしまうと、どうなるだろうか。

或る読者が10歳にもならない年齢のときに、その連載漫画の第1話が発表された場合、その読者が最終話を読めるのは20代後半あたりとなる。20代後半にもなれば配偶者や子供がいても全然おかしくない年齢である。

仕事や家庭などで子供時代よりもしばしば忙しい年齢になってから最終話が発表されても、「人生で初めて第1話を読んだときの感性や気持ちで、その最終話を読むこと」は既に不可能となってしまっている。

 

結局のところ、4歳や5歳という少年が二十歳を過ぎて大人になってから「少年」漫画の連載が完結するのか、それとも4歳や5歳の少年が大人になる前に「少年」漫画の連載が完結するのかという違いは余りにも大きいのだ。

 

因みに、「少年漫画の15年ルール」は少女漫画などにも適応できるかもしれない。

少女漫画に関して私はほぼほぼ無知なのだが、かなり前から『ガラスの仮面』という作品の存在は知っている。

たったいま『ガラスの仮面』について調べると、この漫画は1975年に連載が始まり、50年以上たっても連載が完結していないと分かった。

「10歳ごろに『ガラスの仮面』の第1話が連載されているのを読んで『ガラスの仮面』の連載を追うようになった少女は還暦になっても未だに最終話を読めていないのか」と気づいた私は言葉を失ってしまった。

『ガラスの仮面』の恐ろしさを考えれば、三年以上の長期休載等がない『名探偵コナン』や『ONE PIECE』が可愛く思えてくる(尤も、この二つの作品にしても、寿命や失明などの理由で、江戸川コナンらが黒の組織を倒してゆく過程や「ひとつなぎの大秘宝」の正体を永遠に読めないことが確定してしまった人々が少なからずいる訳だが)。

 

長いあいだ漫画を連載していると、主人公サイドのキャラ以外の登場人物に関しても回想シーンなどで深く掘り下げたくなってしまう(もっともっとその登場人物について描きたくなってしまう)という漫画家は珍しくないという。

また、長期連載は大人気作品であることが多く、商業的な理由から連載が引き伸ばしの対象となってしまうことも多い。

そういった事情も理解は出来るのだが、いったん本編を完結させたあとにスピンオフとして、その回想シーンなどを描くといった手段もあるし、最終話を待ち望んでいる読者を何十年も待たせるというのは可能な限り避けるべきだと思う。

 

なお、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』などのように一話完結型の連載漫画の場合は、15年以内に連載を終えるべきだとは考えていない。「連載開始時にメインの読者層が20歳以上だった長編漫画」などについても同様である。

漫画ではなく戯曲となってしまうが、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)は世界文学の最高傑作の一つとされる『ファウスト』を後世に遺している。

だが、この作品は完結までに膨大な年月がかかっている。

ゲーテは1770年代に初稿『原ファウスト』を書いたが、そのときは作品を完成させることが出来ず、『ファウスト』が完結したのはゲーテが82歳で死ぬ直前のことだった。

このように、完結までに長い時間がかかっていることは、その作品が駄作であることを意味しないのだが、ゲーテに対して「君が構想している『ファウスト』は素晴らしい作品になる。君は『ファウスト』を書き進めるべきだ」と助言したフリードリヒ・フォン・シラーは『ファウスト』の完結を知ることなく死去している。

本来のメイン読者層が少年や少女でないジャンルの漫画ひいては文学作品であっても、連載期間や完結までの期間が長すぎると、このシラーのような事態が続出することとなる。

これらのことを踏まえたうえで言うが、少年漫画や少女漫画はなるべく15年以内に完結させるべきだし、少年漫画や少女漫画の制作に関わる者は子供が子供のうちに作品が完結するよう最大限、努力すべきだと私は強く考える。

 

 

 

筆者は、しゃん将棋王という将棋系ユーチューバーの配信をよく視聴するのだが、今夜のライブで或る文章を見かけた。

松延成雄という方が書いた文章とのことで、タイトルは「あなたは何流?」となっている。

この文章を読んで湧いたのは、「この方はなんで趣味ごときで三流や二流や一流などといった格付けを行っておられるのだろうか」という違和感である。

将棋をよく指している者はプロ(いわゆるプロ棋士や女流棋士)とアマチュアに分けられる。

プロ棋士は将棋連盟から給料のようなものを定期的に受け取っていると聞くし、将棋を職業としている者に対して三流や一流などといった格付けが行われるというのは分からなくもない。

ただ、将棋連盟から金銭を受け取っている訳でもない一般人に「あなたは何流?」などといった格付けを行うのは異常だと思う。

 

この文章をじっくり読んでいくと、「勝負の世界に身を投じた」や「研究会」や「日頃の鍛錬」や「精進を続ける」や「努力しているのは相手も同じ」などといったフレーズがあり、この方の将棋観が見えてくる。

恐らく、この方にとって将棋とは「膨大な時間や労力を注ぎ、日頃から上達のための努力を重ねなければならないもの」なのだろう。

「まじめに将棋」と題したホームページを運営し、将棋高段者(棋力がとても高い人)でようやく解けるレベルの「詰むや詰まざるや」問題を複数題つくり、それらの問題をホームページで発表するなど、この方が凄まじい熱量で将棋に取り組んでいるのは容易に推察できる。

だが、責任等が生じる仕事などと違って、趣味という営みは本来、自由度が高いものなのではないだろうか。

 

例えば、「割とゴルフや水彩画の腕前があって、その道のプロとも交流しているような熟練者」が、ゴルフや水彩画を趣味としている一般人に対して、「あなたは一流だ」や「あなたは三流だ」などと言いだしているのを見かけたら、多くの方は「こいつは何を言っているの?」とドン引きするだろう。

他の例を挙げるが、コーヒーを淹れるのが趣味な人と一概に言っても、「コーヒー豆に関心が湧きすぎて、エチオピアや中南米などに足を運んでコーヒー豆を採集し、コーヒー豆の焙煎方法についても研究しています」というレベルの人もいれば、「半年に数回ほど、近くのスーパーマーケットで買った焙煎済みのコーヒー豆をコーヒーミルで砕いてコーヒーを淹れています」というレベルの人もいる。

これに対して「前者は一流君であり、後者は三流君である」などと主張するのは冷静さを欠いている。

 

もっとも、この方にとって将棋は趣味なのかということを踏まえる必要はあるかもしれない。

中学高校の部活にはガチ勢とエンジョイ勢が存在するとされる。

ガチ勢にとって部活は自分の学校生活の全てに近いものだと言えるし、エンジョイ勢にとって部活は趣味のようなものだと言える。

ここで重要なのは、ガチ勢とエンジョイ勢の間に人としての優劣は無いということである。

部活を「自分の学校生活のほとんどを注ぎ込むような対象」と捉えている生徒がいてもいいし、部活を「楽しむためのもの」と捉えている生徒がいてもいい。

この方はどうやら弁護士の仕事をしてきた人物らしいのだが、仮に、この方が「司法の仕事が本業なのだとしても将棋こそが自分の人生なのだ」や「将棋は趣味などといったものではなく自分の全てだ」といった意識で将棋に取り組んできたのだとしても、それは非難されるようなことではない。

 

いずれにしても、将棋に限らず、趣味はどれぐらいの熱量で取り組むのかを各々の気分や価値観で自由に決めていい営みだと思うし、趣味の領域で三流や一流などといった格付けを行うのは基本的にすべきことではないのかなと筆者は感じている。

 

 

最近YouTubeで「けくしひ」という方を知った。

だが、その方のエックス垢に関して或ることに気づいた。

なんと、ログインしていれば普通にプロフィール欄を閲覧できるが、ログインせずにプロフィール欄にアクセスすると「@kekusihi45さんはポストしていません」と謎の表示がされるのだ。

 

この方を知ったのは、将棋系配信者の「しゃん将棋王」さんがきっかけなのだが、しゃん将棋王ライブのリスナーである涅槃さんもブラウザでプロフィール欄を覗くと「@brSakJi8yQ43031さんはポストしていません」と表示されているのが分かった。「もしや自分も?」と思い、試してみると私のアカウント(垢)も「@a6web0さんはポストしていません」と表示されることに気づいた。

 

いわゆるシャドウバンなのかなと思い、ネットで調べると、けくしひさんも、涅槃さんも、私もシャドウバンされている訳ではないらしいと分かった。

 

この現象について調べてみると、今年の夏ごろから「○○さんはポストしていません」「ポストを読み込めません」「やりなおしてください」などの異常を伝える声が多数あがっているという情報があった。詳しいことは分からないが、どうやらエックス側の不具合であるらしい。

 

それにしても、3000以上ポストをしているにも拘らずログインしていないというだけで「@a6web0さんはポストしていません」と表示されるのは単刀直入に言って矛盾そのものではないだろうか。

 

 

筆者が中高の頃、国語や日本史の教材を開くと、「現代の文学」というような項目があり、複数の小説家が紹介されていた。

どの小説家が載っているのかは教材によって異なってはいるが、大体は「吉本ばなな、村上春樹……」といった名前が掲載されていた。

この二人は現代日本の文学界を代表する作家として、しばしば並列されていた印象を受ける。

 

ところで、2020年代の今、吉本ばなな氏と村上春樹氏は同じぐらいの存在感だろうか。

両者とも知名度の高い作家であることは確かだが、吉本ばなな氏の最新作を知っている人と、村上春樹氏の最新作を知っている人であれば、明らかに後者の方が多いように見える。

ノーベル文学賞が発表される時期になるたびに、村上春樹氏の名前はマスメディアやSNSで頻繁に取り上げられるが、吉本ばなな氏の名前が挙がることは殆どない。

存在感に関していえば両者の間には大きな差が出来ている。

 

 

2020年代の初頭、二人のミュージシャンが話題となっていた。

一人は、瑛人氏というシンガーソングライターで、もう一人はAdo氏というヴォーカリストである。

元々は無名だったが、インターネットで大きな人気を得たという共通点があり、この二人はよく並列されていたように思う。

 

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ガキ「米津!髭男!Ado!瑛人」おっさん「負けてられん…ワイの青春をくらえ」

 

 

 

これらのウェブサイトのタイトルや本文を読むと、この二人がしばしば並列されていたということが確認できる。

では、2025年現在、両者の存在感はどうなっているだろうか。

まずAdo氏から述べていくと、筆者が最初にAdo氏を知ったのは「うっせぇわ」が流行し始めた頃である。

動画サイトで彼女の曲を聴き、「ヴォーカル上手いな」と感じたのを覚えている。

筆者が子供のころ、日本の音楽チャートは、秋元康関連のアイドルやジャニーズやEXILE等の曲ばかりが並んでいた。

これらのタレントの中には歌唱力が高い人もいただろうが、どちらかといえば演奏力や歌唱力よりもタレント人気に重点が置かれている印象を受けた。

だから「顔面非公開で、しかも歌唱力に重きを置いていて凄いな」と感じた。

「うっせぇわ」ブームのときは、余りにもこの曲ばかりが取り上げられており、「このままだと、Adoさんは一発屋みたいになってしまうのでは」と不安を感じることもあったが、その後も「唱」や「踊」や「新時代」などの話題作が現れ、今なお強い存在感を放っている。

 

次に瑛人氏について述べていくと、筆者が最初に瑛人氏を知ったのは2020年ごろだと思う。

「香水」という曲が流行しているらしいという噂を聞き、筆者は動画サイトでさっそく「香水」を聴いた記憶がある。

伴奏がシンプルな曲だなと感じた気がする。

それから4年ほどが経って、ふと筆者は或ることに気づく。

「そういえば最近、瑛人さんの名前を聞かないな」と思った筆者は、ネットで彼のことを調べた。

すると、彼は2023年ごろに結婚し、近頃は妻と一緒に育児を行っていることが分かった。

なお、彼は今も音楽活動を続けているという。

 

小説家やミュージシャンに限らず、コメのブランドに関しても同様の現象が指摘できるかもしれない。

平成のはじめごろ、日本のコメはササニシキとコシヒカリが二大巨頭とされていた。

「東の横綱ササニシキ、西の横綱コシヒカリ」と言われていたほど、この二つはジャポニカ米を代表する存在だった。

だが、令和の現在、ササニシキという品種の名前を聞くことは稀である。

 

以上の事例を踏まえると、「注目され、しばしば並列されていた両者のうち、一方は影が薄くなり、もう一方は高い存在感を保ち続けるという現象」は様々なジャンルで観測できるのが分かる。

もっとも、世間一般における存在感は複数ある評価基準の中の一つに過ぎないため、そのことを過度に意識するのは避けたほうが良いだろう。

童話「ウサギとカメ」はレース(race)を題材としたストーリーである。

レースの序盤、亀を引き離した兎は、まだゴールしていないにも拘らず眠ってしまう。

一方の亀は休むことなく進み続け、兎よりも早くゴールに到着し、兎に勝利する。

 

筆者は、この童話のメッセージ(教訓)は油断大敵だと考えている。

というのも、兎は油断して眠ってさえいなければ亀に余裕をもって勝てていたからである。

この童話が明治時代の国語の教科書に掲載されたときも、タイトルは「油断大敵」となっており、歴史的経緯に鑑みても油断大敵をこの童話の教訓と捉えるのが妥当である。

 

しかし、近頃この童話に対して「本当の教訓は油断大敵ではない」という俗説がしばしば見られるようになっている。

「兎は相手(亀)を見ていた。亀はゴールを見ていた。だから亀は兎に勝ったのだ。『相手ではなくゴールを見ろ』が、この童話の本当の教訓なのだ」というような俗説を見聞きしたことのある人は多いのではないだろうか。

 

個人的には、この解釈も間違いではないと思っている。

レースの序盤あっさりと自分を追い抜かしていく兎の姿を見て、亀が「これ、もう無理じゃん」と心おれてレースを棄権するという事態も普通にありえた訳だが、亀は自分が劣勢であることに絶望せずゴールへ進み続けた。

だからこそ、亀は兎に勝利したのである。

しかし、兎がレース中に対戦相手である亀を見ていたことは誤りだったのだろうか。

結論から言えば、それは誤りではない。

何故なら、レースの勝利条件は「相手よりも早くゴールに到着すること」だからである。

自分が全力を尽くして早くゴールに到着しても、自分より先に相手がゴールに到着していたなら、その相手に勝つことは出来ない。

一方で、凄く手を抜いて遅くゴールに到着しても、相手がまだゴールに到着していなければ勝つことが出来る。

 

NPBやMLBなどといったプロフェッショナル野球の試合では、終盤に継投がしばしば行われる。

このとき、例えば1点リードで9回裏を迎えているのか、それとも7点リードで9回裏を迎えているのかによって、起用されるリリーフ投手は変わってくる。

7点リードで9回裏を迎えているときに勝ちパターンや守護神(チームのリリーフ投手のなかで相対的に能力の高いリリーフ投手のこと)を登板させない監督は多いが、そのことを油断とは言わない。

 

野球の試合のゴール(目標)は基本的に「相手よりも1点でも多い状態でゲームセットを迎えること」である。

そのことに着目するならば、残り3つのアウトを稼ぐために7点リードの9回裏に勝ちパターンや守護神を登板させることは論理的には凄く正しい判断である。

しかし、プロフェッショナル野球が1年で膨大な数の試合をこなさなければならないことや、リリーフ投手の酷使の予防などといった事柄を知っている人であれば、「7点もリードしているからといって、チームで優れたリリーフ投手を登板させず、それよりも能力の劣るリリーフ投手を登板させるのは油断である」などとは主張しないだろう。

これと同様のことが「ウサギとカメ」にも言えるのではないだろうか。

レースでの勝利のみを目的とするならば、客観的に考えて、兎は全力疾走をする必要などなかった。

自分と亀の距離を確保しつつ、自分がゴールするまで「全力疾走ではないものの亀のスピードよりかは速いスピード」を維持したまま進み続けるだけで兎は勝てたのだ。

前述した俗説では「兎は自分がゴールするまで対戦相手を見ずゴールだけを見て全力疾走すべきだった」ということになってしまうが、これは合理的な考えではない。

 

結局のところ、この童話などから、レースすなわち競争で勝つためのノウハウを導き出すならば、それは「油断は絶対にするべきではないが、自分と競争相手のうち、どちらが優勢なのかや、自分と競争相手との差はいかほどなのかを十分に把握したうえでゴールまで着実に進み続けること」と要約できるように思う。

 

さきほどプロフェッショナル野球の事例を紹介したが、プロフェッショナル野球では毎年リーグ戦が行われている。

リーグで最も勝率の高いチームはリーグ優勝となり、優勝ペナント(リーグ優勝を示す優勝旗)を獲得できる。

そのため、各チームが公式戦でリーグ優勝を目指してゆく競争のことをペナントレースという。

 

プロフェッショナル野球の一つであるNPBのチーム(球団)は、例年、1シーズンすなわち1年で143試合を行っていく。

NPBは2リーグ制を採用しているが、1リーグには6チームがあり、大雑把にいうと6チームのなかで最も勝率の高いチームがそのリーグの優勝チームとなる。

「最も勝率の高いチームがリーグ優勝」というのが肝であり、「143試合のうち90試合以上に勝ったチームがリーグ優勝(そもそも、そのようなルールだと、1シーズンで勝率の異なる複数のチームがリーグ優勝することがありえてしまう)」という訳ではない。

それゆえ、「143試合で101勝42敗のチーム」がいたとしても、「143試合で102勝41敗のチーム」が同じリーグにいた場合、そのチームは「101勝42敗(勝率7割以上)」という非常に優秀な成績を残しているにも拘らず、リーグ優勝することが出来ないのだ。

逆に言えば、「143試合で73勝」のチーム(引き分けがないと仮定すれば勝率はなんと51.049%ほど)であっても、同じリーグに、そのチームよりも勝率の高いチームが存在しなかった場合は、そのチームがリーグ優勝できてしまう。

このように、或るチームがリーグ優勝を果たす難易度は、「そのチームが属しているリーグで、そのチームよりも強いチームがどのくらい存在するのか」によって大きく左右されてしまうということが分かる。

もしかすると、プロフェッショナル野球のペナントレースを俯瞰するにあたっては、この身も蓋もない現実を頭の片隅に入れておく必要があるのかもしれない。

 

 

小林秀雄は『ヒットラアと悪魔』でこう述べている。

 

ヒットラアの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかったところに現れたと言った方がよかろう。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼に問題ではなかった。

大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。

その点、個人の心理も群集の心理も変りはしない。

本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。

獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。

それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。

大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択に任すと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。

 

5年ほど前、筆者はこの文章を読み「小林はフロムが『自由からの逃走』で指摘していた現象を言いたいのだろうな」と感じた。

そして、「なんか腑に落ちない箇所もあるな」とも感じた。

「腑に落ちない箇所」は「人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変りはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」のところである。

「(本当を言えば、大衆は)支配されたがっている」は、『自由からの逃走』でも指摘されていた現象(市民が自由の重みから逃れるために独裁者に服従したくなってしまう現象)を知っていれば容易に理解できるし、筆者も当時この文に関しては違和感を抱かなかった。

だが、「本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」は、実態に即していないように感じられた。

例えば、ナチ政権は有権者に対してアーリア人としての誇りをアピールしていた。ユダヤ人などを侮辱することはあっても、自分らの支持基盤であるドイツ人を侮辱することは殆どなかった。

 

冷静に考えて、有権者に「お前らは惨めで愚かだ」と言い放つ政治家と、有権者に「あなたがたは何も悪くない!」と寄り添うような言葉を発する政治家であれば、多くの支持を集めるのは後者である。

「人間は侮蔑されたら怒る」というのは現実世界で頻繁に起こっていることであり、それを「浅薄な心理学」と捉えるのは不自然さが漂う。

「有権者は自分たちを侮辱する政治家を本心では求めているというのは果たして正しいのだろうか」と当時の筆者は思った。

 

時が流れ、5年ほどが経った。

或る日、筆者は一人の政治家のコメントを知った。

その政治家はYouTubeでこう述べたという。

 

真実や本意を伝えるのは難しいのよ。この仕事をして思うけど、自分の考えと党の考えを知ってもらうのは一番、難しくて、俺、正直、諦めた。そこはもうあまり知ってもらおうと思わない。馬鹿、相手にしてもしんどいもん。

そうじゃなくて、もっと賢い人だけで政治として引っ張れる方法ないかなと、もっと言い方、はっきり言うけれど、馬鹿な人たちをどうやって上手く利用するか。ホリエモンがそういうことを言っている。最近、俺もそうやなって思っててね。犬とか猫とかと一緒なん。

そういう人たちにも有権者として一票を託している制度が、今の民主主義のやりかた、一人一票で、やり方は全然違うと思っている。けれども、これ違うと言っても、それは批判しても、この状態で選挙に勝たなきゃいけない。
だから、馬鹿に入れてもらう方法を考えるのが本当の賢い人かなと思って。ガーシーとかと話しているのはね。本当にこの国の国民は政治の問題、ウクライナの戦争の問題とかよりも、芸能人の下ネタの方が好き。そうするとね。それを「ああ、そんなのくだらない人間だ」というような批判をするよりも、そこはやっぱり降りていく。そこに首をつっこむしかないのよ。

 

このコメントはSNSで物議を醸していたが、興味深いことに、この政治家の支持者の多くは、この政治家に怒りや失望感を抱いていなかった。

むしろ支持者の多くは「馬鹿であっても選挙権を持っているというのが今の日本の制度なんだから、この政治家の姿勢は現実的であり、妥当である」などと反応していた。

これらの様子を見て、筆者は「本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」というフレーズを思いだした。

そして、このフレーズの真意について察することが出来た。

 

思うに、「本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」は「大衆は本音では政治家に侮蔑されたがっている」という意味ではなく、「大衆は政治家に侮蔑されていても、侮辱されているということに気づかず、その政治家を支持し続ける」という意味なのではないだろうか。

事実、ヒットラーは『我が闘争』で「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」と述べている。

ナチスに投票したドイツ人の中には『我が闘争』を読んでいた者も多かったはずだが、彼らは自分が「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」の「大衆」に含まれているとは認識していなかったのだろう。

 

筆者はこのコメントの全てが間違っているとは思っていない。

例えば、2016年の事例だが、英のEU離脱の国民投票の結果が判明した後に「EU離脱は何を意味する?」というグーグル検索が英国で最多になったというニュースがあった。

このニュースは、「国民投票を行ったイギリス人の多くは、英国がEUを離脱すると何が起こるのかをあまり把握せずに票を投じていた可能性」を示唆している。

有権者の多くが重要度の高い政策についてよく分かっていない状態で投票しているという現象は世界中で起こっているし、残念ながら「候補者の掲げる政策や政治家としての実績よりも、候補者の容姿や知名度を基準にして、どの政治家に投票するのかを決めてしまっている有権者」は洋の東西を問わず存在する。

この政治家がヒットラーのようなファシストなのかと言われれば、必ずしもそうではないと思う。

だが、一部の有権者を「犬とか猫とかと一緒」と形容していたり、自身の考えと党の考えを知ってもらうことがとても難しいことを理由に有権者が自身の考えや政策を理解するのを諦めていたりするのは、政治家として問題があるのではないだろうか。

 

 

筆者は18歳になってから選挙があるたびに毎回、投票しているが、選挙日に投票することはあまりなく、大抵は期日前投票をしている。

期日前投票をするときに強く感じるのが「身分証とかが無くても投票できるのだな」ということだ。

自治体にもよるのかもしれないが、今の日本の選挙では郵送された投票所入場券を持って行かなくても、名前や住所などを手書きすれば投票できる仕組みになっている。

事実、筆者が期日前投票するときに身分証の提示を求められたことは現時点で一度もない。

「なりすましのリスクとかヤバくないか」という不安を感じるが、その一方で「今の日本は、そのことが大きな問題にならない国なのだろうな」とも感じられてくる。

手ぶらでも投票できる日本の選挙制度の背景には、治安の良さと投票率の低さがあるのだろう。

海外では選挙の際に軍隊が出動する国も存在するが、日本は治安が凄く悪い国であるという訳ではない。

また、近頃の日本は、選挙の投票率が悲しい数字となっている。

国政選挙で5割前後。地方自治体の選挙では4割前後ということも多い。

つまり日本では有権者の約半数が投票する権利を自ら捨てているのだ。

選挙を管理し運営している組織の関係者に「多少なりすましのリスクがあったとしても、気軽に投票できるようにすることで、投票しに行く人を何とか増やしたい」という思いを抱いている人がいたとしても、個人的には驚かない。

たった今、投票でのなりすまし事案についてニュースサイトで検索してみると、2023年4月の大阪府の選挙で他人になりすまして投票しようとした2名の男が逮捕されたという記事が見つかったが、数か月前の選挙で筆者が期日前投票したときも手ぶらで投票できたので、「手ぶらでも投票できる」という選挙制度は今後も続くのだろう。

 

最後になるが、選挙の結果が国や地方自治体の政治に影響を及ぼす事例は枚挙にいとまがない。良き政治のためにも選挙の時期は積極的に投票しに行くことが大事だと筆者は強く考える。

 

 

 

 

 

動詞は状態動詞と非状態動詞に大別される。

状態動詞は「主に状態を表す動詞」と説明され、動作動詞とも呼ばれる非状態動詞は「主に動作を表す動詞」と説明される。

例えば、英語だと、knowやbelongなどが状態動詞であり、runやeatなどが非状態動詞である。

動詞knowは「知っている」という状態を表し、動詞belongも「所属している」という状態を表している。

一方で、動詞runは「走る」という動作を表し、動詞eatも「食べる」という動作を表している。

英語にはliveという動詞がある。

この動詞は「生きている」や「住んでいる」と和訳され、一般に状態動詞とされる。

 

日本語にも「ある」や「いる」や「値する」などといった状態動詞がある。

では、「生きる」は状態動詞なのだろうか。それとも非状態動詞なのだろうか。

個人的には、「生きる」は状態動詞としても用いられるし非状態動詞としても用いられると考えている。

人類は未だに不老不死を実現できていないため、全ての人は「生きている状態」のあと「死んでいる状態」を迎える。

そのため、例えば「或る人物が、いま生きているのか、それとも死んでいるのか」に重点がある場合は、状態動詞として「生きる」が用いられることになる。

その一方で、生きるということを、「我々ひとりひとりが、いま生きているのは、呼吸を絶やしていないからであり、この一瞬も血が流れているからだ。呼吸が停止し、血液の循環が失われれば、あっという間に我々は死ぬことになる」などといった視点で捉える場合は非状態動詞としての側面が強くなる。

 

このように、動詞「生きる」は、「生きている状態」というニュアンスが強い場合は状態動詞として用いられ、「この瞬間を生きる」というニュアンスが強い場合は非状態動詞として用いられる。

 

現代の日本語には「(場所)に生きる」という表現と、「(場所)で生きる」という表現がある。

試しに蔵書検索が出来るサイトで「国に生きる」や「国で生きる」が含まれる書籍名を調べていくと、前者の例としては『ソ連と呼ばれた国に生きて』や『クリスチャニア 自由の国に生きるデンマークの奇跡』などがあり、後者の例としては『この国でそれでも生きていく人たちへ』や『私とあなたのあいだ いま、この国で生きるということ』や『日本列島回復論 この国で生き続けるために』などがあった。

助詞「に」と助詞「で」の違いを踏まえれば、状態動詞として「生きる」が用いられているときは「(場所)に生きる」となり、非状態動詞として「生きる」が用いられているときは「(場所)で生きる」となるのだろう。

 

状態動詞と非状態動詞の違いは英文法で重視される事柄だと認識している日本人は少なくないが、実は日本語においても状態動詞か否かの違いは軽視できるものではないと、筆者は考えている。

 

2025年4月中旬、新千歳空港にある映画館のほうを歩いていると、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』のポスターが視界に入ってきた。

その数日後、或る記事をネットで見かけた。

 

森川ジョージ氏、「ガンダム」最新作への「すごい違和感」投稿に反響 (ヤフコメ

 

筆者はガンダムに疎いのだが、このアニメの舞台設定は未来っぽさを余り感じさせないデザインとなっているらしく、『はじめの一歩』を連載中の漫画家である森川氏がそのことに違和感を表明したという。

これに対するSF作家の高千穂遙氏のコメントを紹介する。

 

ちょっと失礼します。SF作家をやってますから、その違和感は、すごくよくわかります。でも、いくら未来的にデザインしてもだめなんですよ。必ず外れます。いい例が衣装デザイン。むかしは21世紀等の未来を描くと、全身ぴちぴちタイツとかそういうのを着せていたんですが、まったくそうならなかった。

未来予想は的中することもあるが、外れることも多い。例えば1930年ごろにケインズは「2030年に人間の労働時間は週15時間になるだろう」と予想したが、そのような社会が来る気配はない。

 

 

結局、絵的には、いまの服装やテクノロジーをちょいとアレンジしたあたりがちょうどいいんです。作品の賞味期限も50年程度ですし。それ以上は、どんなに未来的に描いても、古びます。なので、いまはわざわざすごく未来的にはしません。いまの視聴者に馴染みのあるデザイン、テクノロジーを狙います。

真に優れた作品であれば何十年、何百年たっても愛され続けるように思うが、時の試練(test of time)を乗り越えられる作品は確かに多くない。「どんなに未来的に描いても古びてしまう」という言葉には重みがある。

 

 

ヤフコメを見ると、「はじめの一歩やガンダムが長寿コンテンツであることに言及したコメント」や「宇宙世紀は現代よりもはるか未来の話で、本来ならスマホなんてはるか昔の技術の世界というコメント」があった。

 

松本零士アニメもガンダムも詳しくないため、このコメントがどのくらい妥当なのかは分からないものの「松本零士アニメだと未来の都市は奇抜な形の大きなビルがたくさん並んでいる。ガンダムは同時期でありながらそういった事でなくニューヨーク市でもわりとシンプルなビルやドーム球場だったり現代と変わらない。ミハルやアムロが住んでいた地球での家も木造で未来にしてはクラシック。どういう意図なのか分からないけどガンダムが古びない名作である要因の一つかも知れない」という声もあった。

 

或るコメントに「SFものって映像や世界観的にはいまだにブレードランナー的なものから壮大に進歩してるかってそうでもないし、現実世界でもわかりやすく言えば70年の万博と今の万博で壮大な進歩を現実世界で行われているかと言えばそこまで?って感じ」という意見があった。

このコメントに限らず、本記事のヤフコメでは「世界観」という名詞を作品世界という意味で用いているものが多数ある。

たまに「世界観を作品世界という意味で用いるのは言葉の誤用だ」と主張する日本人を見かけるが、筆者は「或る言葉の意味が派生して新たな意味が生じることと、言葉の誤用は異なるものなのでは」と考えている。

世界観は元々「世界をどう観ているのか」を指す名詞である。

「或る作品の登場人物が作品内で、自分自身のいる作品世界をどう観ているのか」が「その作品世界がどのようなものなのか」を反映していることを踏まえれば、名詞「世界観」に作品世界という意味が現れていくのは自然なことだろう。

去年、筆者が日本科学未来館に行ったときもガンダムを解説する文章で世界観が「作品世界」という意味で用いられていた

世界観に関する私見はさておき、この意見のキーワードを考えるならば「壮大さ」が挙がるように思う。

筆者が小学生のころアポロ計画のことを知って或る疑問を抱いた。

「1970年ごろ人類は月に到達した。あれから何十年もたった今、人類は火星とかに到達していてもおかしくないはずだ。しかし、現在ためしに宇宙に関するニュースを調べても、スペースシャトルやSELENE(かぐや)など、有人の月面着陸に比べればスケールの小さい出来事ばかり報じられている。1970年ごろと今だったら、今の方が科学技術は発達しているはずなのに、宇宙開発がしょぼくなっているのは変だ」と本気で感じていたものだった。

1970年の大阪万博では月の石が展示されて全国的な話題となっていたが、現在おこなわれている大阪万博で全国的な話題を呼んでいる宇宙関連の展示物があるかと言われれば微妙なように思う。

結局のところ、ガンダム最新作の舞台設定がそこまで未来っぽくないのは、2020年代を生きる我々人類が未来に対して壮大なサイエンスやテクノロジーの成長を余り期待しなくなったことが大きいのではないだろうか。