小林秀雄は『ヒットラアと悪魔』でこう述べている。

 

ヒットラアの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかったところに現れたと言った方がよかろう。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼に問題ではなかった。

大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。

その点、個人の心理も群集の心理も変りはしない。

本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。

獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。

それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。

大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択に任すと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。

 

5年ほど前、筆者はこの文章を読み「小林はフロムが『自由からの逃走』で指摘していた現象を言いたいのだろうな」と感じた。

そして、「なんか腑に落ちない箇所もあるな」とも感じた。

「腑に落ちない箇所」は「人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変りはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」のところである。

「(本当を言えば、大衆は)支配されたがっている」は、『自由からの逃走』でも指摘されていた現象(市民が自由の重みから逃れるために独裁者に服従したくなってしまう現象)を知っていれば容易に理解できるし、筆者も当時この文に関しては違和感を抱かなかった。

だが、「本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」は、実態に即していないように感じられた。

例えば、ナチ政権は有権者に対してアーリア人としての誇りをアピールしていた。ユダヤ人などを侮辱することはあっても、自分らの支持基盤であるドイツ人を侮辱することは殆どなかった。

 

冷静に考えて、有権者に「お前らは惨めで愚かだ」と言い放つ政治家と、有権者に「あなたがたは何も悪くない!」と寄り添うような言葉を発する政治家であれば、多くの支持を集めるのは後者である。

「人間は侮蔑されたら怒る」というのは現実世界で頻繁に起こっていることであり、それを「浅薄な心理学」と捉えるのは不自然さが漂う。

「有権者は自分たちを侮辱する政治家を本心では求めているというのは果たして正しいのだろうか」と当時の筆者は思った。

 

時が流れ、5年ほどが経った。

或る日、筆者は一人の政治家のコメントを知った。

その政治家はYouTubeでこう述べたという。

 

真実や本意を伝えるのは難しいのよ。この仕事をして思うけど、自分の考えと党の考えを知ってもらうのは一番、難しくて、俺、正直、諦めた。そこはもうあまり知ってもらおうと思わない。馬鹿、相手にしてもしんどいもん。

そうじゃなくて、もっと賢い人だけで政治として引っ張れる方法ないかなと、もっと言い方、はっきり言うけれど、馬鹿な人たちをどうやって上手く利用するか。ホリエモンがそういうことを言っている。最近、俺もそうやなって思っててね。犬とか猫とかと一緒なん。

そういう人たちにも有権者として一票を託している制度が、今の民主主義のやりかた、一人一票で、やり方は全然違うと思っている。けれども、これ違うと言っても、それは批判しても、この状態で選挙に勝たなきゃいけない。
だから、馬鹿に入れてもらう方法を考えるのが本当の賢い人かなと思って。ガーシーとかと話しているのはね。本当にこの国の国民は政治の問題、ウクライナの戦争の問題とかよりも、芸能人の下ネタの方が好き。そうするとね。それを「ああ、そんなのくだらない人間だ」というような批判をするよりも、そこはやっぱり降りていく。そこに首をつっこむしかないのよ。

 

このコメントはSNSで物議を醸していたが、興味深いことに、この政治家の支持者の多くは、この政治家に怒りや失望感を抱いていなかった。

むしろ支持者の多くは「馬鹿であっても選挙権を持っているというのが今の日本の制度なんだから、この政治家の姿勢は現実的であり、妥当である」などと反応していた。

これらの様子を見て、筆者は「本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」というフレーズを思いだした。

そして、このフレーズの真意について察することが出来た。

 

思うに、「本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている」は「大衆は本音では政治家に侮蔑されたがっている」という意味ではなく、「大衆は政治家に侮蔑されていても、侮辱されているということに気づかず、その政治家を支持し続ける」という意味なのではないだろうか。

事実、ヒットラーは『我が闘争』で「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」と述べている。

ナチスに投票したドイツ人の中には『我が闘争』を読んでいた者も多かったはずだが、彼らは自分が「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」の「大衆」に含まれているとは認識していなかったのだろう。

 

筆者はこのコメントの全てが間違っているとは思っていない。

例えば、2016年の事例だが、英のEU離脱の国民投票の結果が判明した後に「EU離脱は何を意味する?」というグーグル検索が英国で最多になったというニュースがあった。

このニュースは、「国民投票を行ったイギリス人の多くは、英国がEUを離脱すると何が起こるのかをあまり把握せずに票を投じていた可能性」を示唆している。

有権者の多くが重要度の高い政策についてよく分かっていない状態で投票しているという現象は世界中で起こっているし、残念ながら「候補者の掲げる政策や政治家としての実績よりも、候補者の容姿や知名度を基準にして、どの政治家に投票するのかを決めてしまっている有権者」は洋の東西を問わず存在する。

この政治家がヒットラーのようなファシストなのかと言われれば、必ずしもそうではないと思う。

だが、一部の有権者を「犬とか猫とかと一緒」と形容していたり、自身の考えと党の考えを知ってもらうことがとても難しいことを理由に有権者が自身の考えや政策を理解するのを諦めていたりするのは、政治家として問題があるのではないだろうか。