2025年4月中旬、新千歳空港にある映画館のほうを歩いていると、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』のポスターが視界に入ってきた。
その数日後、或る記事をネットで見かけた。
森川ジョージ氏、「ガンダム」最新作への「すごい違和感」投稿に反響 (ヤフコメ)
筆者はガンダムに疎いのだが、このアニメの舞台設定は未来っぽさを余り感じさせないデザインとなっているらしく、『はじめの一歩』を連載中の漫画家である森川氏がそのことに違和感を表明したという。
これに対するSF作家の高千穂遙氏のコメントを紹介する。
ちょっと失礼します。SF作家をやってますから、その違和感は、すごくよくわかります。でも、いくら未来的にデザインしてもだめなんですよ。必ず外れます。いい例が衣装デザイン。むかしは21世紀等の未来を描くと、全身ぴちぴちタイツとかそういうのを着せていたんですが、まったくそうならなかった。
未来予想は的中することもあるが、外れることも多い。例えば1930年ごろにケインズは「2030年に人間の労働時間は週15時間になるだろう」と予想したが、そのような社会が来る気配はない。
結局、絵的には、いまの服装やテクノロジーをちょいとアレンジしたあたりがちょうどいいんです。作品の賞味期限も50年程度ですし。それ以上は、どんなに未来的に描いても、古びます。なので、いまはわざわざすごく未来的にはしません。いまの視聴者に馴染みのあるデザイン、テクノロジーを狙います。
真に優れた作品であれば何十年、何百年たっても愛され続けるように思うが、時の試練(test of time)を乗り越えられる作品は確かに多くない。「どんなに未来的に描いても古びてしまう」という言葉には重みがある。
ヤフコメを見ると、「はじめの一歩やガンダムが長寿コンテンツであることに言及したコメント」や「宇宙世紀は現代よりもはるか未来の話で、本来ならスマホなんてはるか昔の技術の世界というコメント」があった。
松本零士アニメもガンダムも詳しくないため、このコメントがどのくらい妥当なのかは分からないものの「松本零士アニメだと未来の都市は奇抜な形の大きなビルがたくさん並んでいる。ガンダムは同時期でありながらそういった事でなくニューヨーク市でもわりとシンプルなビルやドーム球場だったり現代と変わらない。ミハルやアムロが住んでいた地球での家も木造で未来にしてはクラシック。どういう意図なのか分からないけどガンダムが古びない名作である要因の一つかも知れない」という声もあった。
或るコメントに「SFものって映像や世界観的にはいまだにブレードランナー的なものから壮大に進歩してるかってそうでもないし、現実世界でもわかりやすく言えば70年の万博と今の万博で壮大な進歩を現実世界で行われているかと言えばそこまで?って感じ」という意見があった。
このコメントに限らず、本記事のヤフコメでは「世界観」という名詞を作品世界という意味で用いているものが多数ある。
たまに「世界観を作品世界という意味で用いるのは言葉の誤用だ」と主張する日本人を見かけるが、筆者は「或る言葉の意味が派生して新たな意味が生じることと、言葉の誤用は異なるものなのでは」と考えている。
世界観は元々「世界をどう観ているのか」を指す名詞である。
「或る作品の登場人物が作品内で、自分自身のいる作品世界をどう観ているのか」が「その作品世界がどのようなものなのか」を反映していることを踏まえれば、名詞「世界観」に作品世界という意味が現れていくのは自然なことだろう。
去年、筆者が日本科学未来館に行ったときもガンダムを解説する文章で世界観が「作品世界」という意味で用いられていた。
世界観に関する私見はさておき、この意見のキーワードを考えるならば「壮大さ」が挙がるように思う。
筆者が小学生のころアポロ計画のことを知って或る疑問を抱いた。
「1970年ごろ人類は月に到達した。あれから何十年もたった今、人類は火星とかに到達していてもおかしくないはずだ。しかし、現在ためしに宇宙に関するニュースを調べても、スペースシャトルやSELENE(かぐや)など、有人の月面着陸に比べればスケールの小さい出来事ばかり報じられている。1970年ごろと今だったら、今の方が科学技術は発達しているはずなのに、宇宙開発がしょぼくなっているのは変だ」と本気で感じていたものだった。
1970年の大阪万博では月の石が展示されて全国的な話題となっていたが、現在おこなわれている大阪万博で全国的な話題を呼んでいる宇宙関連の展示物があるかと言われれば微妙なように思う。
結局のところ、ガンダム最新作の舞台設定がそこまで未来っぽくないのは、2020年代を生きる我々人類が未来に対して壮大なサイエンスやテクノロジーの成長を余り期待しなくなったことが大きいのではないだろうか。