朝寝坊弁慶のささやかな交湯録 -89ページ目

朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。

ちょっと疲れを感じながら、粟田神社の石段を下り祇園町方面へと歩いて行く。御朱印帳の残りページが少なくなり、あと2つ頂くと終わってしまうので、天台五門跡の残る二つのうちの一つ、青蓮院門跡に立ち寄り購入した。もうひと頑張りして二つ稼いで終わりにしないと日付が前後してしまう。
 
 
 
青蓮院で不動明王の御朱印帳をまずは購入。
 
 

御朱印は本尊の熾盛光如来。熾盛光如来は大日如来の仏頭尊であり、この仏様を本尊とするお寺は、唯一青蓮院門跡のみであるという。
 
尊勝院の御朱印はいつもらえるか確認すると、明日は担当の人がいるというが、それは無理だなあ。
 
 

 

辰己大明神は芸事の祈願に芸舞妓さんがお参りにくる小さな祠。

 

 

 

白川沿いの「かにかく碑」。昭和30年、吉井 勇、谷崎潤一郎らによって建立された。

 

「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」


この歌は、祇園の思いを詠んだ歌で、吉井勇の作である。石川啄木らと編集を担当した「スバル」にて他の祇園を詠んだ歌とともに発表された。 歌碑が建立された11月8日を記念して毎年かにかくに祭が行われるが、今年は中止かな。

 

鴨川を渡り三条河原町のホテルにチェックインする前にもう一件と、裏寺町通りへと向かう。

 

 

 

無量山 如輪院 宝蔵寺

 

弘法大師空海の創立と伝えられ、その後、文永6年(1269)如輪上人により元西壬生郷に開基されるとつたわる浄土宗西山深草派の寺院である。如輪上人は千本釈迦堂の第二世であり、徒然草に「千本の釈迦念仏は、文永の比、如輪上人、これを初められけり」とあるように現在まで続く千本の釈迦念佛は、この如林上人が始めたものとされた。

 

 

 

頂いた御朱印を観れば伊藤若冲との関係を伺えると思うが、今回ちょっと訪れてみたのは、ここが伊藤家の檀家であることに起因する。私が元三大師だけの御朱印を集めている御朱印帳は以前紹介したかと思うが足利の龍泉寺の購入した伊藤若冲の御朱印帳であり、その縁みたいな気持ちである。ただし、伊藤若冲本人の墓はここにはなく、本人の遺志により深草の石峰寺にある。

 

 

 

 

御朱印を頂けるのは16時まで厳守で、私は15時58分にぎりぎり到着。他に誰もいなかったので、普段はやらないことにしている2枚目も頂くことにした。本尊 阿弥陀如来である。これで三十三間堂の御朱印帳がきれいに埋まり、明日からは心置きなく青蓮院門跡の御朱印帳を使えるというわけである。

 

 

 
チェックイン後、しばし休息し夜の街を彷徨う。

 

 

 

ハイボールバー 京都1923

075-255-3444

京都府京都市下京区四条通小橋東入ル橋本町109 ビュッフェビル B1F

https://tabelog.com/kyoto/A2601/A260201/26019835/

 

こちらはインスタ友達とでもいうのだろうか。面識はないけれどインスタでは毎回いいね!と交換している方が経営する数ある飲食店の中のひとつ。

 

 

たしか鴨川ハイボールといったかな(爆)。

 

 

 

 エスプレッソ珈琲 吉田屋

075-211-8731

京都府京都市中京区木屋町三条下ル一筋目東入ル 

https://tabelog.com/kyoto/A2601/A260202/26001169/

 

酔い覚ましにエスプレッスをいただきに立ち寄る。

 

 

老舗なので有名人のサイン色紙がいっぱい。芸舞妓さんも休憩に来る喫茶店である。

 

 

 

先斗町はまだ閑散としていた(8月)。だけど、ちょっと小腹がすいたように感じたので、思い直して木屋町通りへと出てみた。

 

 

 

 麺房 美よし

075-211-7754

京都府京都市中京区西木屋町蛸薬師上ル角南車屋町288-2 

https://tabelog.com/kyoto/A2601/A260201/26003429/

 

京都風の山椒を振りかけて食べるうどん。

 

 

 

〆は芸妓の亜弥さんのところです。

 

ね。

 

11月になったのに、私はまだ8月について語っている。これはまずいので、この先、ちょっと飛ばす予定は未定。
 
さて、次は青蓮院方面に行きたかったのでとりあえず三条通りに出るまで適当に下ることにした。三条通りに出てみると東山駅の西側だったのでそのまま三条通りを渡って東方面にジグザグと進んで行くと
 
 

 

大将軍神社

 

大将軍神社は桓武天皇の平安京遷都の時のいくつかの魔物封じの一つとして、都の四方を囲うように造営された神社といわれている。去年訪れた大将軍八神社は西の守護、西加茂大将軍神社は北の守護、そしてこの東三条大将軍神社は東の守護であるとされるが、南の守護はどうしたのかな。妖怪堂氏がその痕跡を見たつけたようなことを書いていた記憶はあるんだけど、具体的なことは書いていなかったと思う。

 

 

 

 

主祭神は素戔嗚尊であり、八坂神社や今宮神社などの都を守る神社と同じである。

 

 

 

 荒熊稲荷社

 

他の社にくらべて、ずいぶん新しいと思ったら台風で倒壊して立て直されたばかりだという。

 

 

 

応仁の乱で荒廃した藤原兼家の東三條殿がこのあたりにあったことから、境内には藤原兼家が祀られる東三條社がある。

 

 

 

東三條社の隣は天満宮なので、おきまりの牛の石像があった。

 

 

 

隼社には立派な馬の石像。

 

 

 

白川沿いに出ると、いつものような観光客の姿がないかわりに近所の人が水辺で遊んでいた。

 

 

 

青蓮院門跡の裏山に登る。この道は京都トレイルの東山ルートの一部にもなっているはず。

 

 

 

尊勝院については以前書いたと思うが、元三大師を本尊とする天台宗の寺院で、もともとは比叡山横川に建立され、現在は青蓮院門跡の飛び地にあり、住職も兼務となっている。こちらの御朱印を頂きたくて以前も登ってきたが不在であったので、再挑戦の今回もまたもや不在だった。

 

京都の街を見下ろせる展望があるのだが、草木が元気なこの季節はそれもかなわない。

 

 

 

やはり元三大師の月命日である三日に来ないとダメかなと思い山を下る。このまま青蓮院門跡に行こうかと思ったが、まだ行ったことのない粟田神社がこの裏なので向かってみた。

 

 

 

粟田神社

 

こちらも長い石段を登った山の上にある。参拝者は私のほかに1組2名だけだった。

 

御祭神は素戔嗚尊、大己貴命ほか。

 

清和天皇の時代に、今年は戦、疫病の災いがあると占われたことから、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(現八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願した。すると満願の夜に一人の翁が枕元に立ち、「我は大己貴神なり。祇園の東北に清き処あり。其の地は昔、牛頭天王(ゴズテンノウ=スサノオノミコト)に縁ある地である。其処に我を祀れ。」と言って消えたことから、ここに創建された。

 

かつての名称は感神院新宮。つまり新たな八坂神社的な位置づけだったわけだが、明治になり粟田神社と改称された。

 

 

 

出世恵美寿神社は最澄作と云われるご神像が祀られている。家運隆盛、商売繁盛。

 

境内摂社はまだまだあるが、宣言の通りちょっと飛ばす。

 

 

 

御朱印は京粟田口とある。粟田口は京の七口と云われる都への入口の一つで、粟田神社は旅立ちの神として信仰された。

 

ね。

 

 

 

 

 

 

 

聖護院門跡を後にし、次は「走り坊さん」に行こうと歩いて行くと、なんだか隣近所がみんな寺みたいな街に入って行ってしまった。
 
たまたま町内の案内図みたいな物があったので、立ち止まって見ると、50以上の寺があることがわかった。
 
 
 

新洞学区寺院案内図

 
新洞仏教会と書いてあるけれど、学区って学校の区割のことではないのかな。他に意味あるのかな。(たぶんない。) などと独り言を言いながら地図を眺める。その全てが自由に入れたり参拝できるわけではないようだが、この数は圧巻である。目指す走り坊さんもどうやらその中に一つの寺のようだ。
 
 
 
顕本法華宗の本山 妙泉山 寂光寺
 
法華宗の僧 日淵が室町近衛に建立した久遠院が京極二条に移り空中山寂光寺となった。妙泉山と改称したのは近年である。
 
 
 
日淵は織田信長の斡旋により開催された安土宗論(浄土宗と法華宗の宗論)に参加するが敗れ、その後、弟子の教育に力を入れた名僧 日海を排出した。
 
 
 
第一世本因坊報恩塔
 
日海は塔頭 本因坊(ほんにんぼう)に住み、のちに本因坊算砂と号した。また日海は碁の達人で、織田信長から名人と称せられた。
 
これが本因坊の始まりで、囲碁の家元の地位として襲名継承されるようになった始まりである。
 
 
 
本因坊算砂墓所
 
本因坊は囲碁の普及とともに(ほんいんぼう)と読まれるようになり、現在に至っている。なお、本因坊の名跡は1938年に日本棋院に譲渡されており、1941年からは本因坊戦が行われ、勝者にその地位が与えられるようになった。
 
 
 
本堂横の寺務所兼住居にて御朱印を頂く。
 
 

南無妙法蓮華経
 
法華宗も日蓮が宗祖となる宗派なので、南無妙法蓮華経である。我が家はひい爺さんの代に日蓮宗の門前に店を構えたことで、日蓮宗に改宗したので、この南無妙法蓮華経という経文は子供のころから一番耳慣れたお経である。
 
 
寄り道したが、そこから徒歩数分で、走り坊さんの大蓮寺がある。
 
走り坊さんとは18世住職芳井教岸の直弟子籏玄教(はたげんきょう)のことで、明治から大正にかけての時代に京都の街中を走り回って動くことがたいへんでお参りに来られない妊婦や病人のもとを訪ね、祈願した。まるでお寺の出前である。その奇行や貧困層に対する施しは京都名物として有名で、新聞で「今一休」として取り上げられたほどだったという。
 
 
 
引接山 極楽院 大蓮寺
 
大蓮寺は八坂神社ととても縁の深いお寺である。明治維新により起こった神仏分離に伴い廃寺となった祇園社境内の観慶寺から現在は重要文化財となった薬師如来像ははじめとする多くの寺宝がこの寺に移されている。
 
 
 
大蓮寺というだけに鉢植えの蓮がいっぱいで美しい。なんでも花の寺としても人気があるようだ。
 
 
 
本尊は阿弥陀如来で、あんざん弥陀如来の石仏が示すように安産の御利益があるが、走り坊さんにちなんで足腰の健康についてもご利益がある。

 

 

御朱印はそのあんざん弥陀如来であった。左上に走り坊さんの印が押されている。


 
 
仁王門通りをさらに鴨川の川端通りに近づくと日蓮宗の本山 聞法山 頂妙寺がある。
 
境内に塔頭八院を構える大きなお寺で、奥に見える仁王門が、仁王門通りの由来だそうである。ただ境内に有料駐車場を有しており、ちょっと風情にはかけるような・・・あくまでも個人的な見解である。
 
そういえば日蓮宗の檀家なのに日蓮宗の寺院はあまり良く見ないで通りすぎるよね。
 
ね(ダメ押し)。
 
なんだかスマホからの編集がうまくいかない。
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さて、出町柳から京阪に乗り、思い立って一駅だけでおりた。
 
目指すはすごくマイナーな場所かもしれないが、聖護院門跡の塔頭である。
 
 
 

熊野神社

 
聖護院門跡に向かうと熊野神社という神社があった。和歌山の熊野をちょっと頭の中で思ったのだが、やはりそうだった。ではなぜ熊野なのだろう。どうやら聖護院は熊野三山の別当職を兼ねていたことから、その守護として勧進したものであろうということだった。
 
でも熊野といえば高野山が近い。なぜ真言宗系の修験道ではなく天台宗系の修験道である聖護院なのだろうか。
 
 
 
まあそれは置いておいて、これは八ツ橋発祥の地としての記念碑。左は八ツ橋の祖と言われる西尾為治像。
 
八ツ橋といえば、裁判にまでなった聖護院八ツ橋総本店と井筒八ツ橋本舗との争いは記憶に新しい。
 
 
 
熊野神社の末社。こちらには神倉大神、春日大神、宇賀大神の三神が合祀されている。
 
ちなみに神倉大神とは神倉神社の祭神を勧進したということで、神倉神社とは熊野大神が熊野三山として祀られる以前に一番最初に降臨された聖地で、熊野の天ノ磐盾という峻崖の上にある。
 
 
 
こちらも末社で、稲荷神社である。
 
 
 
コロナの影響なのか、御朱印所は無人で呼鈴で呼び出す。御守りも各種というより、色々あるし、御朱印も数種類ある。



緑の葉は梛の葉。嘗て熊野詣が盛んだった頃、参拝者は先達の山伏からこの梛の葉を手渡された。
 
 
そこから少し歩くと聖護院である。
 
 
 
本山修験宗総本山 聖護院門跡
 
本山修験宗とは耳慣れない宗派であるが、天台宗の流れをくむ宗派となる。いわゆる修験道であり、行者、山伏と呼ばれる修行者が山に籠り激しい修行をするわけだが、比叡山を総本山とする天台宗山門派は、円・密・禅・戒の四宗兼学を修行することになっているが、一方、三井寺を総本山とする天台宗寺門派は、さらに修験を加えて五法門とするとある。日本の古来からある山岳信仰が仏教に取り入れられた形態である。山岳信仰たる修験道を含む寺門派が山を下り、含まない山門派が比叡山に残っているというのも変な話ではあるが、山門派が比叡山を占拠し、僧兵が寺門派を攻撃したことで寺門派は山から逃れたというのが真相である。
 
 

 

特に観光寺院というわけでもないので、境内には人気がほとんど見えない。ただ立派な宿坊を有しており、聖護院での体験コースもあるが、一般的なホテルとして利用することが可能である。

 

順路に従い本堂(不動堂)に進み、不動明王に参拝をした。

 

 
 
中央に不動明王、右に智証大師円珍像も安置されている。円珍は第5代天台座主にして、まさに天台寺門派の宗祖である。

 

御朱印はこのご時世ゆえ、書置きであった。




不動明王の梵字と法法螺貝。

 
 
 
聖護院門跡塔頭 積善院 準提堂
 
 
 
本尊は準提観音と不動明王
 
本堂へは自由には入れるので参拝し、同僚の手術の成功を祈願して護摩木を納める。
 
 
 
たくさんの地蔵尊。その中のひとつ、左側に見えるのが人喰い地蔵。
 
崇徳院は平安時代の末期に、鳥羽上皇の第一皇子として生まれまが、鳥羽上皇は祖父である白河法皇と母・璋子との密通により生まれたと疑い、「叔父子」と呼ぶほどに崇徳を疎んじていたと言われている。五歳で天皇に即位するも時は院政時代である。自らが院となり権勢を振るう時がくるのを夢見るが、鳥羽上皇はそんな崇徳天皇を退位させ、近衛天皇を即位させる。その近衛天皇は若くして崩御したが、次に即位したのが後白河天皇であった。
 
その翌年、鳥羽上皇が崩御した。崇徳院はかつての夢であった院としての権勢を求めたが、ここに立ちふさがるのが実弟の後白河天皇であった。世に云う「保元の乱」である。
 
戦に敗れた崇徳院は讃岐に流されたが、悔い改めた証しとして3年をかけて写経を記し都に送り帰京を懇願したという。ところが、送った経文はあっさりと突き返され、失意の崇徳院は、送り返された経文に自らの舌を食いちぎり滴る血で言葉を残した。
 
われ魔界に堕ち、天魔となって人の世を呪わん。人の世の続く限り、人と人を争わせ、その血みどろを、魔界より喜ばん
 
そんな崇徳院のことを哀れんだ京の町衆が作ったというのが、この人喰い地蔵なのである。その怨念により人を喰うほどの魔力をもってしまったのかといえば、そんなことではなく、崇徳院地蔵が伝言ゲームのごとく変化して人喰い地蔵になったらしい。



 
以前は真ん中の地蔵尊のように祠の中にあったのだが、昨年の台風で祠が倒壊してしまい、ありがたくもその姿をはっきりとみられるようになっている。見ての通り、穏やかなお顔である。

 
 
旧積善院本堂は現在は行者堂となっている。



御朱印は準堤観音。
 
 
 

積善院から退出すると目の前に神社があって聖護院町氏神と書いた石碑が見えたのでお参りだけして次に向かったのであるが、あとでしげしげと見てみると、なんと昨年に客先の協力会部会を京都で実施するにあたり、そのネタとした「交通神社」が合祀されていた神社であった。
 
注意力が足らない。
 
ね。
 
下鴨神社の境内に入ると、それなりに人が多く感じられた。でもそれはプレコロナからすると、とんでもなく少ないに違いない。

楼門は人が切れずに写し辛かったので、境内に移動する。



舞殿と右奥が中門。左は神服殿。名前の通り神服を縫製する御殿で、天皇の行幸があると殿内の開かずの間が玉座となった。



中門を潜ると正面に本殿、その間に干支別の支社がある。画像は左側で弁慶氏は真中にお参りする。



振り向くと本殿の前にも支社がこのように配置されている。したがって、本殿は正面から撮ることが難しい。

その本殿だが、東本殿と西本殿が並んで配置されている。東本殿には玉依媛命、西本殿には賀茂建角身命が祀られている。



御朱印は本殿を出て左に進むと御朱印所がある。文字も判もまさに正式社名、賀茂御祖神社である。そして葵の判。



橋殿は御影祭の際に御神宝を奉安する御殿。御影祭は葵祭の為に八瀬の御陰神社から神霊を迎える神事である。


その奥にあるのが、御手洗祭が行われる御手洗池と井上社。



みたらし川は土用になると池や川の底から清水が湧き出ると言う。その湧き上がる水泡を団子に見立てたのが、みたらし団子の起源という。

そして、清水が湧き出る土用前後の5日間に行われるのが、御手洗祭である。土用の丑の日にこの池に足をつけ無病息災を願う。

この糺の森、御手洗池、御手洗祭との関連はどうなのだろうと思うのが木嶋坐天照御霊神社で、以前訪問している。非常に共通的がある。


また、今回知ったのだが、木嶋坐天照御霊神社の三柱鳥居は、元糺の池の中央にあって、中心に神座があるわけだが、御手洗池には、その中心に50本の斎串を立て、それを奪い合う祭りがあると言う。これは立秋の前夜に行われるそうで、斎串は安産、商売繁盛のお守りとなるという。

さて、本殿の左側に進むと社が隣接している。



三井神社は、下鴨神社よりも古くから祀られていたとされる社で、山城国風土記に賀茂建角身命、伊可古夜日女、玉依日女の三神を祀った蓼倉里三身社が三井社になったという記述がある。ただ、当時からこの地にあったわけではないようで、河川の変動などで、この地に移されたようだ。

同じ三井というわけで、旧三井家下鴨別邸も近いのでちょっと関連を想像したのだったが、三井家とはなんの関係もない。



三井神社の前方にあるのは、比良木社。本殿は奥まっていてよく見えないが、下鴨神社の中では最も古く、1561年の建造物である。もともとは下鴨神社の本殿を1629年の式年遷宮の時に移築したものでなのだそうだ。



帰りは鴨川デルタに降りて、この飛び石を通った。鴨川にはこのような飛び石が数箇所にあって、買物、散歩、通学に通ったりする。京都は水の都とも呼ばれるが、湧水だけではなく、このように生活が川と共にあって素晴らしい。

ね。