なんだかスマホからの編集がうまくいかない。
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さて、出町柳から京阪に乗り、思い立って一駅だけでおりた。
目指すはすごくマイナーな場所かもしれないが、聖護院門跡の塔頭である。
熊野神社
聖護院門跡に向かうと熊野神社という神社があった。和歌山の熊野をちょっと頭の中で思ったのだが、やはりそうだった。ではなぜ熊野なのだろう。どうやら聖護院は熊野三山の別当職を兼ねていたことから、その守護として勧進したものであろうということだった。
でも熊野といえば高野山が近い。なぜ真言宗系の修験道ではなく天台宗系の修験道である聖護院なのだろうか。
八ツ橋といえば、裁判にまでなった聖護院八ツ橋総本店と井筒八ツ橋本舗との争いは記憶に新しい。
熊野神社の末社。こちらには神倉大神、春日大神、宇賀大神の三神が合祀されている。
ちなみに神倉大神とは神倉神社の祭神を勧進したということで、神倉神社とは熊野大神が熊野三山として祀られる以前に一番最初に降臨された聖地で、熊野の天ノ磐盾という峻崖の上にある。
コロナの影響なのか、御朱印所は無人で呼鈴で呼び出す。御守りも各種というより、色々あるし、御朱印も数種類ある。
そこから少し歩くと聖護院である。
本山修験宗とは耳慣れない宗派であるが、天台宗の流れをくむ宗派となる。いわゆる修験道であり、行者、山伏と呼ばれる修行者が山に籠り激しい修行をするわけだが、比叡山を総本山とする天台宗山門派は、円・密・禅・戒の四宗兼学を修行することになっているが、一方、三井寺を総本山とする天台宗寺門派は、さらに修験を加えて五法門とするとある。日本の古来からある山岳信仰が仏教に取り入れられた形態である。山岳信仰たる修験道を含む寺門派が山を下り、含まない山門派が比叡山に残っているというのも変な話ではあるが、山門派が比叡山を占拠し、僧兵が寺門派を攻撃したことで寺門派は山から逃れたというのが真相である。
特に観光寺院というわけでもないので、境内には人気がほとんど見えない。ただ立派な宿坊を有しており、聖護院での体験コースもあるが、一般的なホテルとして利用することが可能である。
順路に従い本堂(不動堂)に進み、不動明王に参拝をした。
聖護院門跡塔頭 積善院 準提堂
本尊は準提観音と不動明王
本堂へは自由には入れるので参拝し、同僚の手術の成功を祈願して護摩木を納める。
たくさんの地蔵尊。その中のひとつ、左側に見えるのが人喰い地蔵。
崇徳院は平安時代の末期に、鳥羽上皇の第一皇子として生まれまが、鳥羽上皇は祖父である白河法皇と母・璋子との密通により生まれたと疑い、「叔父子」と呼ぶほどに崇徳を疎んじていたと言われている。五歳で天皇に即位するも時は院政時代である。自らが院となり権勢を振るう時がくるのを夢見るが、鳥羽上皇はそんな崇徳天皇を退位させ、近衛天皇を即位させる。その近衛天皇は若くして崩御したが、次に即位したのが後白河天皇であった。
その翌年、鳥羽上皇が崩御した。崇徳院はかつての夢であった院としての権勢を求めたが、ここに立ちふさがるのが実弟の後白河天皇であった。世に云う「保元の乱」である。
戦に敗れた崇徳院は讃岐に流されたが、悔い改めた証しとして3年をかけて写経を記し都に送り帰京を懇願したという。ところが、送った経文はあっさりと突き返され、失意の崇徳院は、送り返された経文に自らの舌を食いちぎり滴る血で言葉を残した。
われ魔界に堕ち、天魔となって人の世を呪わん。人の世の続く限り、人と人を争わせ、その血みどろを、魔界より喜ばん
そんな崇徳院のことを哀れんだ京の町衆が作ったというのが、この人喰い地蔵なのである。その怨念により人を喰うほどの魔力をもってしまったのかといえば、そんなことではなく、崇徳院地蔵が伝言ゲームのごとく変化して人喰い地蔵になったらしい。
以前は真ん中の地蔵尊のように祠の中にあったのだが、昨年の台風で祠が倒壊してしまい、ありがたくもその姿をはっきりとみられるようになっている。見ての通り、穏やかなお顔である。
旧積善院本堂は現在は行者堂となっている。
積善院から退出すると目の前に神社があって聖護院町氏神と書いた石碑が見えたのでお参りだけして次に向かったのであるが、あとでしげしげと見てみると、なんと昨年に客先の協力会部会を京都で実施するにあたり、そのネタとした「交通神社」が合祀されていた神社であった。
注意力が足らない。
ね。