カナディアンログビルディングスクール2日目
スクール2日目は見事に晴れ上がりました。まずは昨日の復習のラフノッチからです。けっこう肩の力が抜けてうまくできるようになりました。
続いて「スクライビング」です。スクライバーには水で濡らすとつく特殊な鉛筆を使います。水準器をきちんと合わせて、両手で両側から持って慎重に進めます。
スクーリングには実際のCLBが受注して造っている建物をそのまま使用しました。失敗は許されません。
ダン先生のVグルーブカットのデモです。スクライブの痕を忠実に切っていくテクニックはまさに神業です。
続いて皮剥きの講習です。三浦さんいわく、最初から皮むきを教えると嫌になっちゃう人がいるとの事ですが、根気と体力が必要な大変な作業です。自分でログハウスを造るためにはまずは皮剥きです。日本の建築は秋から冬にかけて水分が抜けた木を伐採して、さらに乾燥して使いますが、ログハウスは春から夏にかけて水分を吸った木を使います。その理由は、水分を吸った木でないと皮がうまく剥けないからだそうです。そのかわりに水分が抜けて収縮してからも建築物としての機能を維持していくように様々な工夫がしてあるとの事でした。
午後は1時半から講義でした。木材の収縮とスクライビングテクニックについて学びました。
今日は夕食時の宴会は無し。夜8時半からも講義が続きました。
カナディアンログビルディングスクール初日
㈱シーエルビー(代表取締役 三浦亮三郎)が主催する、「カナディアンログビルディングスクール’86」初日です。あいにくの雨でしたが、荷物をデイバックに詰めて喜び勇んで出かけました。
特別講師はカナダからお見えになったダン・ミルンさん。カナディアンログビルディングの教祖アラン・マッキーさんの弟子で、1983年の日本でのスクール開講以来、日本カナダ合わせて700人以上の生徒を教えているログビルディングの第一人者です。書籍「The Handbook of Canadian Log Building」の著者として世界中のログビルダー、ログファンに名を知られた方です。
ダンさんを日本に招いたのは、このスクールを主催するログハウス建築会社㈱シーエルビーの代表取締役 三浦亮三郎さんです。1982年、カナダのアランマッキーログビルディングスクールを日本人として初めて卒業後、日本での普及活動のためにログビルディングスクールを開講し、今年で4年目になります。三浦亮三郎さんは、あのプロスキーヤー三浦雄一郎さんの実弟で、スキービジネスに携わってきたのですが、怪我をされてスキー界を離れ、ログビルディングの世界に入り、今では日本のログハウス業界をリーダー的存在となっています。
カナディアンログビルディングスクールは、ゴールデンウィークコース、春季週末コース、夏季集中コース、アドバンストコース、秋季週末コース、一日体験コースなどがあり、私は夏休みを利用して夏季集中コース(6泊7日)を受講しました。
スクールの場所は、東京都秋川市(現在はあきるの市)の東京サマーランドの敷地内にある㈱シーエルビーのログヤードです。京王線の八王子駅から東京サマーランド行きのバスに乗って出かけました。八王子から40分ほどでサマーランドに到着し、宿泊は東京サマーランドのロッジでした。
昼食を食べて13時にロッジに集合し、開校式がありました。テキスト、図面、パンフレットなどが配布され、スクールの説明や注意事項の説明などがありました。続いて自己紹介です。今回の参加者は9名。建築会社の社長さん、新聞の配達員、盲導犬協会の方、森林組合の方、ホテル経営者、JRの方と色々でした。学生は私一人でした。
2時からログヤードに移動して実習が始まりました。2人でペアを組んでやるのですが、私のお相手は入間市から来たAさんでした。ダン先生のデモンストレーションを三浦さんが通訳して進められました。チェーンソーの扱い方を教わって、まずは「ラフノッチ」。体は動かさず、肘を固定して手首でチェーンソーを運ぶ感じでとの事でした。
続いて「フィニッシュノッチ」。チェーンソーのスロットルは全開近くして、ブラッシングする感覚でスムーズに仕上げます。
最後はノミで仕上げカットです。慣れてくればノミは使わなくて良いそうです。
私もやってみました。チェーンソーの使い方は薪造りで慣れていましたが、細かい動きはなかなか難しく、オーバーカットしないように気をつけながらやりました。
夜は当然宴会です。アシスタントのJさんと盛り上がって、スクール初日が終わりました。
山と渓谷"ウッディライフ№16"
昭和60年9月25日発行山と渓谷"ウッディライフ16"P54に我家が掲載されました。内容の一部を抜粋しました。
「マル七」の屋号で知られるここ白馬の伊藤家は、代々"七右衛門"の名を世襲してきた由緒ある家柄。現在の当主である八代目七右衛門こと伊藤馨さんは大正15年生まれだが、この家屋そのものは大正9年に新築されたものである。
1階が約80坪、2階が約56坪。とにかく堂々たる造りである。昭和38年、民宿を始めるのをきっかけに一部増改築したとはいえ、そのほとんどが当時のまま。むしろ年を重ねる事によって、木造建築ならではの重厚さがかもしだされている。しかもこの材木、すべて伊藤家の持ち山から調達されたものだというから驚きだ。
磨き込まれた木肌の感触のなつかしさ、囲炉裏を囲んで憩う茶の間の団らんの温かさ、一度「マル七」を訪れた人たちはきまって二度三度と再訪するというのも、なるほどとうなずける。馨さんをはじめとする伊藤家の皆さんの、文字通り家族的なもてなしも数々のエピソードを生み出してきたようだ。
「民宿を始めて23年。私どもに来泊したお客さんは8000人は下らないと思います。夜中に騒いだりしていると、飛び起きていって怒鳴りつけたり(笑)、いろいろなことがありました。でも、その怒鳴りつけられた人がまた翌年も来てくださるんですよね。」と馨さん。
信州の豊かな自然と心安まる日本家屋のぬくもり、それに親身な接待となればもういうことなし。「マル七」のファンはますます増えそうだ。
狭い都会のマンション暮らしから見たら、うらやましい限りののびやかな空間。すすで真っ黒になった梁が年代を感じさせる。囲炉裏の火の暖かさも、また格別だ。
2階の廊下。窓ガラスは大正9年のまま。ゆがんだガラスから見る外の景色が、情緒をかもしだしている。
今年もまたおなじみの顔が揃った。後列右端が伊藤馨さん、ふたりおいて息子さん、その前がお母さん。
こんな立派なふすまのある部屋で寝起きするなんて、ちょっとした大名気分。当時は珍しい吊り天井の座敷もある。
2階の長いつらら。毎日落とさないと重くなって茅を引き抜いてしまう。前日に落としても翌日にはご覧のとおりまた大きくなっている。
山について(未知の道 №16)
我家に毎年泊まって合宿をしている岐阜大学のユースホステル同好会発行の「未知の道№16」1983年3月発刊に、父の書いた「山について」という文章が掲載されました。
毎年毎年、岐阜大学ユースホステル同好会の秋合宿(年に1回の総会)を我が家で開催していただくようになって、今年で18年目になる。民宿開業以来21年目になるが、こんなに長く続いている学校は他には例が無い。誰かが「お客様は神様です。」と言っていたが、本当に岐阜大ユースの皆様には、最高の敬意と最大の感謝の気持ちで一杯である。ここ数年、「未知の道」には私のつたない文章を載せていただき、これまた私にとってこのうえない喜びある。
今回は私と山の関係―山のこと―について少し記してみたいと思う。我が家は元来農業が本業でしたが、近年はこの農業が下火になってきて、白馬村としても観光による収入が大分大きくなってきている。とりわけ私どもはいわゆる没落地主のはしくれで、先祖代々の血と汗の結晶であるたくさんあった田畑を戦後開放してしまい、それこそ1反部(約10アール)が、鶏卵1つほどの値段で、それも10年据え置きという手のつけられない証券で貰った記憶を今でもはっきり覚えており、忘れようとしても忘れることの出来ない事実である。今、1町2反ほどの水稲を耕作しているが、諸経費を差し引いた農業収入は、最盛期のお客さんを泊めた1日分にも満たないありさまで、凶作の年にはマイナスとなっている。
それでも幸い、先祖様から受け継いだ山林が唯一の望みとなっている。去る昭和35年、83歳で亡くなった私の祖父は、一生それこそ山に生きた人といっても過言ではない。雨の日も、風の日も、冬は積雪のため出向きませんでしたが、農業の傍ら、1年に200日以上も山林の手入れに一人で山へ行っていた。私の父は事業をやっておりやがて徴兵されその後戦死した関係で、父が農業や山へ行く姿はあまり見なかった。私も学校を出たての頃、ちょうど終戦で復員して精神的な虚脱状態がずっと続き、その後、青年団活動、文化団体活動、公民館活動に夢中になってしまい、家の農業や林業は顧みず、置き忘れて最近までいたことを、つくづく悔いている。私がもう20年、いや10年早く、山のことに勢力を傾けていたら、今のようなみじめな荒れ果てた山林にはなっていなかったとしみじみ思っている。1年間の家計の不足は、山の木を売って補い、売る一方で植えることを全くせず、山林は祖父まかせで、私は外に出歩いていたのだった。
近年になってようやく山のことに目覚めて、毎年多少の植林を始めているが、これがなかなか大変なことである。白馬のような雪国では植えただけでは全く育たず、毎年雪で倒れた木を雪溶けと同時にいち早く起こさなければならないし、夏になれば、雑木や雑草の下草刈を続けなければならないのである。これを1年休むとせっかく植林した木が育たず、無駄になってしまう。
このところずっと森林組合の作業班を頼んで、この作業をそれぞれの時期にやってもらっているのだが、これもまた自分でやるような気に入ったやり方ではないのである。例えば、木起こしは雪消え直後にやらなければ木が堅くなってしまい起きないので、田植え前までにはやってもらいたいのだが、人夫の都合でそれが出来ない。そうかといって、一斉に植えた木を私一人で木起こしをするとしたら、それこそ1年中かかってしまう。この辺では植えてから20年は木起こしをしなければならない。ところが一昨年のような大雪だと、20数年、いや30年を過ぎた木までみんな雪のため折れたり倒れたりしてしまい、1本起こすのも相当な労力で、数人で一日中に10数本しか起こせない日が何日も続いた。つらつら思うに、私が今木を植えても、これから20年以上も手入れをしなければならないし、現在のように木材が安価では、手入れ賃も山林収入では得られず、全く苦慮している。
20町歩ほど所有している山林には、まだ植林可能地もあるわけだが、今後どうしていったらよいかと悩んでいる。数年前、それこそ寸暇を惜しんで、秋日の短いのに、朝会議に出る前に2時間とか、夕方帰宅した後、たとえ1時間でもと20日あまりかかって、全く人に頼らずに、杉の苗木を500本植えた年があった。前後したが、私の植えている木はすべて過ぎの木だ。それから後も毎年100~200本植えているが、つい最近になって、後々の事を考えるとどうしたものかと迷ってしまう。テレビの報道によると、毎年世界中では日本の四国と九州を合わせた面積が砂漠になっていると聞き、恐ろしさを感じた。
しかしまた別の角度から、植林という事は、採算を抜きにして、自分が植えた木の成長を見るほど張り合い強く楽しみな事はない。前述した私の祖父は、若い頃から、芝居があっても、お祭りがあっても全く出ず、山へ行って自分の植えた木の成長だけが、最高の楽しみだと言っていた。私もこの年になって、その心境がはっきり分かってきた。何事も経済的な事を置き忘れてはいけないが、植林は私にとって精神的に大きな収穫となっている。









