地域文化誌"稜№1"学生とのふれあい二十年の思い出
昭和58年1月発行の地域文化誌"稜№1"に、父の書いた学生とのふれあい二十年の思い出が掲載されました。内容は下記のとおりです。
学生村を始めて二十年目になる。信州学生村という名前の民宿である。学生村の起こりは、現在の下伊那郡阿南町の新野高原で昭和三五年頃老人クラブが、半ば奉仕的に農家のお座敷を、都会の受験生に夏休みの間だけ提供した事に始まる。白馬村では、これより一・二年遅れて、林間学校という形式で、都会の学生を、この涼しい空気の澄んだ、緑と水の清い白馬山麓に避暑に迎え入れたのだった。この林間学校というのは、たいへん幅広い意味を持つのであって、勉強のみでなくスポーツの合宿の方向に発展し、全村的なものとなった。
ここでひとつ白馬村の特殊な家庭事情をお話しておかなければならない。村の中央を糸魚川静岡地質構造線というのが通っている。それが村の南端である佐野坂峠の麓に源を発して新潟県の糸魚川市で日本海に通じている姫川である。この姫川を境にして、西側と東側では地質地形を異にしているばかりでなく、総ての事情が全く違っているのである。生活様式は無論のこと、衣食住全般に異なっているのである。姫川の西側地帯の部落は、ほとんどが平坦で国道沿いとなっており、地続きがスキー場でもあり、あらゆる面で条件がよく、暮し向きが楽な訳だ。これは行政にもおおいに責任があり、白馬村政は西高東低であると、マスコミにたたかれることもしばしばだった。
とは言え、村でもこの東側をなんとかうるおうようにしようと、いろいろな面で努力している跡が伺える。そのひとつが、この学生村である。
ここで私の住む内山地区について語らなければならないが、内山は悲しきかなこの東側の、何もかもが後れた、恵まれない辺鄙な小さい部落である。それまでは、およそ観光の恩恵などほど遠いことだった。それが、当時若手でやり手だった太田新助村長が、全村を観光でうるおすために、東側の山間の辺地、三地区を信州学生村という事で、民宿をやるように進めたのだった。私もこの村長さんに強力な意見をいただき、再三の協議の末、二二戸のうち、4戸が、昭和三八年の夏から民宿を始めたのだった。
村で、都会の勉強学生はいくらでも紹介するから、受け入れ体制を整えるようにという事で、田植え挙句から急遽家の改造にかかった。まず、勝手場、便所、洗面所、お風呂というわけだが、これがまた家の中では一番お金のかかるところだ。いよいよ大工さんに頼んではみたが、次々と追加工事が増えて、仕事は手間取るし、お金は膨大にかかるし、学生が来ないうちにもううんざりしてしまい、へこたれてしまったのだった。事実、私はこの工事中に病みついてしまい、半年近くも寝込んでしまった。
今から考えてもどっとする事だらけだ。私が病床にあっての民宿開業である。昔から「憎いものには普請をさせろ」と言ったたとえがあるくらい、普請は大変な事である。そこへ持ってきて、一家の大黒柱である私が寝込んでしまったのだ。
当時は、今のように病気といえばすぐに入院するわけではなかった。かなり重い病気でも、毎日お医者さんの往診を頼んで寝ていた。私もそのくちで、数ヶ月間、病んで家にいたのであった。
普請、病人、学生の入村と多忙な日々が続いたため、ついに家内もシーズン中に倒れてしまって、何人かの勉強に来たいという学生さんを断ってしまった。
こんな日々の中で、ただひとつ私の心の支えとなり、生きがいになったのは学生さんとの文通であった。この当時の手紙の綴りを今でも時折読み返してはなつかしんでいる。ある女子学生などは、1カ月に3回も4回も、私の手紙が着けばすぐに、長文のなぐさめの手紙を書いてくれた。研究会の合宿に来たのだったが、私が病みついた当初だったので、お目にかかれなかった方だ。来泊された学生さん全員の寄せ書きに、学校のペナントを貼った大きな紙を送ってくれた。私はそれを病床に貼ったまま何年もそのままにしておいた。朝から晩までそれを見ながら元気付けられて回復したのだった。
これも生涯忘れられない恩人である。やはり開業当時に来られた女子学生だ。学生といってもあれから20年、今では航空会社の幹部クラスの高い地位についておられる方だ。大学を出られてまだほんの数年、特別の地位につかれているといった身分ではなかった頃である。ちょうどその頃、私の長女がアメリカへ高校留学する事になった。正直何もわからない私どもにとっては、わらをもつかむ思いで連絡をとり、唯一の頼みにしたのだった。
留学先が大都市ではなく、ロスアンゼルスからかなり内陸へ入った小都市だった。身の回り品を貨物で発送すると数日後に着いて、また空港まで取りに行かなければならない。何とか一緒の飛行機で送れて、本人が到着するのと同時に受け取って目的地へ持っていかなければ、翌日からの生活に支障をきたすのだった。それならば荷物だけ数日前に発送すれば良いではないかと言われるかもしれないが、白馬から東京までは約300km、今のように交通の便も良くなかったし、事実それは到底不可能な事だった。
何とかこの同じ航空会社に勤めている元女子学生の方にお願いして、一緒の便で送れる様にお骨折り頂くしかないと思い、出発前の数日間、何回も連絡をとった。最初に記さなかったが、この方は本社勤め、出発は羽田空港だから、いろいろな点でスムーズに連絡が取れないわけだ。再三の交渉の結果、空港の荷物受付係の主任さんに頼んでくれて、当人と一緒の便で送ることが出来、何もかもが順調にいって、無事1年間の留学生活を有意義にしかも楽しく過ごして来たのだった。この一緒の便で送っていただけるという結果がはっきり分かったのは、夜出発の当日の昼過ぎ、東京に着いてからだったのだから、こちらのやるせない気持ちも、充分ご想像頂けることと思う。
何としてもこの方のここまで持っていってくださった数日間のご努力には、どんなに感謝し、お礼を申し上げても足りないくらいだ。
学生村を始めてから20年、この間に私どもの民宿に来泊された学生さんは、実数で8000人は下らないと思う。その一人一人全員を思い出すことは、今となってこの老化した頭では到底出来ないことだが、その中の何人か忘れ得ない方々がいる。
ずっと以前からではなく、開業後にちょっとした縁で知り合った高校の先生の紹介で、同じ高校の同級生が、男女合わせて29人も来ている。この高校は、東京でも1、2を争う名門校とは聞いていたが、2年生の夏から勉強に来ていて、このうち現役、浪人を合わせて、東大へ7人、その他、慶応、早稲田、東工大、東北大と一人の落伍者も無く全員が入学した。このグループはあれから十数年、今でもそのほとんどが、毎年毎年かわるがわる訪ねてきて、学生当時の思い出に花を咲かせている。
最初学生の頃は、数人あるいは数十人で、夏休み期間中に来ているので、部屋も毎年決まった部屋を空けておいたものだった。長い間にはいろいろあった。私も若気の至りで、ひと夏に一度や2度は、目に余る行為に怒鳴りつけたのだった。またその紹介してくれた先生がふるっている。「伊藤さん、勉強しないで目に余る振る舞いがあったら、びしびしぶん殴ってください。一切私が責任を負いますから。」と言うのだ。そんな言葉に余計気をよくして、夜、他の学生にちょっとでも邪魔になるような話し声が聞こえると、飛び起きていって雷を落した。そうするとその後数日は静かになった。それがまた不思議なことに怒られても怒られても毎年また来てくれるのである。さすがに大学を卒業して一流企業に入ってからは、私も怒鳴るのをやめた。それだけ年老いたという事だろうか。
大変厚かましい事を申し上げるようだが、私は常々、うちの民宿へ来るお客さんたちはみんな客だねが良いと自慢して多くの人たちに話している。ともかく、学生村へ来るということ自体が、現代の学生を大分けして、優秀な者だけと思っている。
だが、たくさんの学生さんのなかには「あら」もあった。関西でも有数な高校として知られている受験生だった。友達と2人で来たのだったが、全く対照的で、これでも親友だろうかと思うほどだった。片方はそれこそ1日10時間以上も勉強しているというのに、もう一人の受験生は、数日の滞在中に、恐らく2時間とは机に向かわなかった。叱れば叱るほど気が散ってしまうというのだろうか、影にまわっていろんなことをしでかしていた。女子学生がくれば、すぐにその部屋へ行ってトランプを始める。日中から近所の子供を集めてはどかんどかんと花火をやる。断りなしにうちのバイクは乗り回す。でたらめな行動ばかりだったので、最初から注意はしていたが、今度は私の目を盗んで、隣の家から私の家の名を名乗ってバイクを借り出して、半日中乗り回していた。どうも遠くに見えるのがうちの学生のようだったので、帰宅するやこの時ばかりは玄関を入るなり怒鳴りつけて、まさにぶん殴らんばかりにこぶしを振り上げた。余りの私の大声に、他の学生たちがみんな、次はわが身かとお座敷から逃げ出していったと後から聞いた。
私もこの時ばかりは芯から悩んだ。学生村にいる価値が無いから、すぐに荷物をまとめて帰れとも言った。その夜、親に宛てた長文の手紙も書いた。しかし、学生村を追い出されたとなると一生の恥。今後の人生に大きな支障をきたすのではないかと、こんなことも考えて思いとどまった。それからもまだ数日居たのだったが、双方とも複雑な気持ちだった。連れと一緒に荷物を持ってバス停まで送ってやって別れ際、丁度視線があった。あの彼の顔が今でも忘れられない。
(昭和56年冬 家の庭での集合写真)
父のこと(未知の道№15)
我家に毎年泊まって合宿をしている岐阜大学のユースホステル同好会発行の「未知の道№15」1982年3月発刊に、父の書いた「父のこと」という文章が掲載されました。
私の父は厳しい人だった。私が12歳の時、支那事変で亡くなったのであったが、今でもその在りし日の姿が目の前に浮かんでくる。軍人だったためもあって、日常の一挙手一投足が規律正しく、いわゆる軍隊式だったように感じている。その一つの端的な例として、「物はすべて直角に置け」というのがあった。家の中のものは何一つ直角に置かない訳にはいかなかった。この通りにしておけばいつまでも整理整頓されていてすばらしかっただが、現在では箍がゆるんでしまい、直角どころか、家中散らかり放題である。
今とは時代が違って想像できないことだが、戦前までは兵隊さん至上主義の時代であった。軍人援護という標語が全国津々浦々にまで貼られていて、学校でも家庭でも、何もかもが「兵隊さんのおかげです。」という時代であった。父がある友人に話していたというには、「軍人援護とは、兵隊さんから手紙が来たら、その日のうちに返事を書くことだ。」と言っていたそうだが、軍人援護のみならず、現代でも胸を打つ言葉として、いつも忘れられない。
父が亡くなって43年経った先日、ふとした縁で支那で父と一緒に戦った戦友の皆さんの会に出る機会を得た。本当に父に会ったような気がして嬉しかった。もう殆どが70歳以上の方だったが、話は尽きず、夜中の2時3時まで実戦談をしていたようだった。その方々に聞いた話によると、拳銃だけしか持たない軽機関銃隊の一員が、闇夜に敵味方入り乱れて、かくれようとして入ったところが敵の陣地の中だった。そこには何十人となく敵兵が仮眠をとって寝ているではないか。拳銃で一人一人撃ち殺す訳にはいかず、すかさず敵兵の銃の先についている短剣をむしりとって、3人5人と突き殺していったが、それではまわりくどいので、今度は敵兵の銃を取り上げて殴り殺そうとしたら、後ろから上官に呼ばれて、大勢の敵兵に気付かれぬうちに引き返したと聞いた。父もこのような戦いを支那でちょうど1年していたのだと知らされた。
人生も半ばを過ぎた今、父の亡くなった年齢を20歳も過ぎて、父を知る多くの方々と一夜を過ごし得た感慨は筆舌に尽くしがたいものがあった。今後この戦友会が何十年続いていくか知れないが、私は一生出席させていただきたいと願っている。
「囲炉裏」みすぼらしい自慢(未知の道№10)
我家に毎年泊まって合宿をしている岐阜大学のユースホステル同好会発行の「未知の道№10」1977年10月発刊に、父の書いた「民宿みすぼらしい自慢」という文章が掲載されました。
私の家には囲炉裏がある。15年前に学生村民宿を始めた。白馬の民宿といえば、もう旅館を通り越してホテル級の家が多く並ぶ中で、昔ながらの囲炉裏を残しているのはもう私の家だけとなった。
囲炉裏にまつわる思い出は尽きない。この家は、大正9年に私の祖父が21歳の息子、つまり私の父の意見で新築した家だが、今では無論のこと、当時でも珍しい茅葺き屋根の総2階である。2階は全部養蚕の蚕室となっている。現在の囲炉裏はその当時のままである。今年で58年目。田舎の家としては決して古いものではない。昭和38年、保健所の許可を得て民宿を始めた時、勝手場、便所、馬屋などの一部を改造したが、母屋の大部分はそのままである。
今では囲炉裏はお客さんが来た時でなければほとんど焚かない。私どもが小さい頃には、囲炉裏の火は朝から晩まで燃えつづけていた。「火の消えた家」とは良く言ったものだ。いろりが燃えていないのは、誰も居なくなった家か、うち中が留守にしている家だけだった。もっとも当時はほとんどの家が年寄りから子供までいて、囲炉裏の火が消えるようなことは殆ど無かったことだろう。そういう暖かいイメージをかきたてる思い出は、現代人の心からは薄れ、今の子供たちからは考えられない、遠い昔話となってしまった。何とも情けない悲しいことだ。
私はたった42日間、太平洋戦争に参加した。ほんとうに名前だけの軍隊生活だった。敗戦を迎え、鳥取の原隊から丸1昼夜かかって夜遅く家にたどり着いた。みんなが寝静まってからに玄関を開けて家に入った途端、祖父も祖母も母も部屋から飛び出してきて、すぐに囲炉裏の火を焚きつけてくれた。その時の囲炉裏の暖かさは一生忘れることはできない。
それから30年。あまりにも長い歳月だった。日本の変わり方も、この白馬の変わり方もあまりにも大きなものだ。終戦からしばらくの虚脱状態の間も、囲炉裏の火は燃えつづけた。現在のように観光地化するまでにはだいぶ時間を要した。それまでの長い間は、江戸時代以来そのままではなかったにせよ、あまり変わらない農家の生活が続いていた。私も近所の若い親父達と、毎日各戸を廻って囲炉裏端で藁仕事をしたものだ。どてらを着て、もんぺを履いて、ちゃんちゃんこを羽織って、綿頭巾をかぶって、それこそ今では時代劇にでも出るような仕度で囲炉裏端に陣取って、終日、藁草履や雪靴を作りつづけたものだ。今の子供達にそんな話をしても、到底信じてもらえない。
このように毎日燃えつづけた火も、観光開発という大きな波に、徐々に打ち砕かれていくようになってしまった。昭和30年頃を境にして白馬村は観光一色に一変してしまった。そして昔は全戸にあった囲炉裏も急速に消えていった。我が家も当時の太田村長さんの薦めもあって、夏季学生村を始めるようになり、白馬の中心地の発展とはだいぶ遅れたが、観光の恩恵を受けるようになった。いわば観光の後進部落である。
民宿を始めるのに囲炉裏はどうしても残しておきたかった。そして何百年も続いた囲炉裏の火は、今度は新しい使命を持つようになった。朝から晩まで一切の煮炊きをするという、食生活のすべてに貢献した「火」が、観光という思いがけない分野に、その使命を果たすようになろうとは、先人の誰が予測し得たであろうか。夏とはいえ、肌寒い夜あけがた、囲炉裏端で青春を徹夜で語り明かした学生さんに焚きつけてやった囲炉裏の「火」の暖かさは、いつまでも思い出として残っているであろう。
いろりにまつわる思い出はこのあとも沢山ある。思いで深いその一例を紹介しよう。3年ほど前、以前学生村へ来たことのあった女子学生さんが、突然、暫く滞在させてくれと電話をくれた。もうウマオイの透き通った声が宵の縁先に聞こえ、コウロギの声も夜毎に大きくなってくる夏の終りの頃だった。もう夏休みも終わり、勉強の学生さんも都会に帰り、村は以前の平静さを取り戻す頃だった。以前来た時から数年の間に結婚されて、乳飲み子をかかえての一人旅だった。ここに到着してから、何か落着かない、大きな悩みを秘めた挙動がみられた。夕方到着するなり、かつての友達か知人に、しきりと何やら電話で連絡している。夕食ものどを通らないらしく、せっかく遠来の客にと用意したご馳走にも手をつけない。
翌朝がまたおかしい。ことによったら殆ど一睡もしなかったのではないかと思う。まだ夜も明けやらぬ早朝から起きてきて、私達家族の靴を磨き、玄関をきれいに掃き、水を打つ。家中の掃除を済ませているのである。以前ゼミの合宿で来て、10日ほど勉強をしていたが、その時は友達と一緒で、そんな事はしなかった筈だ。いくら勝手知ったる我が家でもあまりにも落着かないしぐさである。
ところがそんな最中、突然タクシーが乗り込んできて、一人の男が降りて来た。それがまた何とも不思議なことに、白馬村中の民宿を数軒訪ね歩いて、運転手さんの勘でようやく我が家にたどり着いたとのこと。まったく的も無く、白馬村へ追いかけてきて、よくもまあ訪ねつけたものだ。呼び出された元女子学生さんは、乳飲み子を寝かせたままどこへやら行ってしまって1時間あまり。その間に子供は目を覚まし、泣き出してしまい、朝食の仕度で忙しい家内は、その子守りに一苦労。ひどい目にあっているところへ女性だけ帰ってきていわく、「台風のようで申し訳ありませんが、帰らせていただきます」と。昨夜は「当分滞在させて頂いてもよろしゅうございますか。」と言っておきながら、これはまた一体どうしたことだろうか。
まったく文字通りの台風一過であった。訪ねてきたのはまがいもなくご主人であった。夫婦喧嘩かそのへんのところは詳しく聞けない。いずれにせよ、我が家に泊まりに来てから数年を経て、一生の最大の悩みにぶつかって、行くあても無く、ふっと思いついたのがこの囲炉裏の「火」だったに相違なかろう。我が家のみすぼらしい自慢にしている囲炉裏が、何百人、いや何千人かの都会の学生さんの青春のどこかに、こびりついていることを信じ、また願って、今日もまた囲炉裏に「火」を入れている。
NHKの「奥さんご一緒に」で我家が放映されました
NHKの「奥さんご一緒に」は、気くばりのすすめで有名な鈴木健二さんの番組で、毎週日曜日の朝8時から放映していた2時間番組です。1ヶ月に1回は地方局からの放映ということで、この時はNHK松本放送局が担当して我家を舞台に放映されました。ロケ日は昭和50年1月28日、放映日は昭和50年2月7日でした。
長野県は現在は長野放送局のみですが、当時は長野放送局と松本放送局の2局がありました。この時は、さらに甲府放送局との3局共同でロケが行われました。
我が家での司会進行は、平成16年に逝去された吉井俊弘アナウンサーで、レポートは地方リポーターの長野市の金丸登美子さんでした。当時、進取的な活動をしていた佐野地区の「さわらび会」6名と中央大学の山下良雄教授との座談会形式で進められ、山村の白馬村が、観光白馬として急激に発展してきた背景や、「さわらび会」の活動状況が紹介されました。
ロケの時にモニターに私が映ったところを父が写真を撮ってくれました。
















