「囲炉裏」みすぼらしい自慢(未知の道№10)
我家に毎年泊まって合宿をしている岐阜大学のユースホステル同好会発行の「未知の道№10」1977年10月発刊に、父の書いた「民宿みすぼらしい自慢」という文章が掲載されました。
私の家には囲炉裏がある。15年前に学生村民宿を始めた。白馬の民宿といえば、もう旅館を通り越してホテル級の家が多く並ぶ中で、昔ながらの囲炉裏を残しているのはもう私の家だけとなった。
囲炉裏にまつわる思い出は尽きない。この家は、大正9年に私の祖父が21歳の息子、つまり私の父の意見で新築した家だが、今では無論のこと、当時でも珍しい茅葺き屋根の総2階である。2階は全部養蚕の蚕室となっている。現在の囲炉裏はその当時のままである。今年で58年目。田舎の家としては決して古いものではない。昭和38年、保健所の許可を得て民宿を始めた時、勝手場、便所、馬屋などの一部を改造したが、母屋の大部分はそのままである。
今では囲炉裏はお客さんが来た時でなければほとんど焚かない。私どもが小さい頃には、囲炉裏の火は朝から晩まで燃えつづけていた。「火の消えた家」とは良く言ったものだ。いろりが燃えていないのは、誰も居なくなった家か、うち中が留守にしている家だけだった。もっとも当時はほとんどの家が年寄りから子供までいて、囲炉裏の火が消えるようなことは殆ど無かったことだろう。そういう暖かいイメージをかきたてる思い出は、現代人の心からは薄れ、今の子供たちからは考えられない、遠い昔話となってしまった。何とも情けない悲しいことだ。
私はたった42日間、太平洋戦争に参加した。ほんとうに名前だけの軍隊生活だった。敗戦を迎え、鳥取の原隊から丸1昼夜かかって夜遅く家にたどり着いた。みんなが寝静まってからに玄関を開けて家に入った途端、祖父も祖母も母も部屋から飛び出してきて、すぐに囲炉裏の火を焚きつけてくれた。その時の囲炉裏の暖かさは一生忘れることはできない。
それから30年。あまりにも長い歳月だった。日本の変わり方も、この白馬の変わり方もあまりにも大きなものだ。終戦からしばらくの虚脱状態の間も、囲炉裏の火は燃えつづけた。現在のように観光地化するまでにはだいぶ時間を要した。それまでの長い間は、江戸時代以来そのままではなかったにせよ、あまり変わらない農家の生活が続いていた。私も近所の若い親父達と、毎日各戸を廻って囲炉裏端で藁仕事をしたものだ。どてらを着て、もんぺを履いて、ちゃんちゃんこを羽織って、綿頭巾をかぶって、それこそ今では時代劇にでも出るような仕度で囲炉裏端に陣取って、終日、藁草履や雪靴を作りつづけたものだ。今の子供達にそんな話をしても、到底信じてもらえない。
このように毎日燃えつづけた火も、観光開発という大きな波に、徐々に打ち砕かれていくようになってしまった。昭和30年頃を境にして白馬村は観光一色に一変してしまった。そして昔は全戸にあった囲炉裏も急速に消えていった。我が家も当時の太田村長さんの薦めもあって、夏季学生村を始めるようになり、白馬の中心地の発展とはだいぶ遅れたが、観光の恩恵を受けるようになった。いわば観光の後進部落である。
民宿を始めるのに囲炉裏はどうしても残しておきたかった。そして何百年も続いた囲炉裏の火は、今度は新しい使命を持つようになった。朝から晩まで一切の煮炊きをするという、食生活のすべてに貢献した「火」が、観光という思いがけない分野に、その使命を果たすようになろうとは、先人の誰が予測し得たであろうか。夏とはいえ、肌寒い夜あけがた、囲炉裏端で青春を徹夜で語り明かした学生さんに焚きつけてやった囲炉裏の「火」の暖かさは、いつまでも思い出として残っているであろう。
いろりにまつわる思い出はこのあとも沢山ある。思いで深いその一例を紹介しよう。3年ほど前、以前学生村へ来たことのあった女子学生さんが、突然、暫く滞在させてくれと電話をくれた。もうウマオイの透き通った声が宵の縁先に聞こえ、コウロギの声も夜毎に大きくなってくる夏の終りの頃だった。もう夏休みも終わり、勉強の学生さんも都会に帰り、村は以前の平静さを取り戻す頃だった。以前来た時から数年の間に結婚されて、乳飲み子をかかえての一人旅だった。ここに到着してから、何か落着かない、大きな悩みを秘めた挙動がみられた。夕方到着するなり、かつての友達か知人に、しきりと何やら電話で連絡している。夕食ものどを通らないらしく、せっかく遠来の客にと用意したご馳走にも手をつけない。
翌朝がまたおかしい。ことによったら殆ど一睡もしなかったのではないかと思う。まだ夜も明けやらぬ早朝から起きてきて、私達家族の靴を磨き、玄関をきれいに掃き、水を打つ。家中の掃除を済ませているのである。以前ゼミの合宿で来て、10日ほど勉強をしていたが、その時は友達と一緒で、そんな事はしなかった筈だ。いくら勝手知ったる我が家でもあまりにも落着かないしぐさである。
ところがそんな最中、突然タクシーが乗り込んできて、一人の男が降りて来た。それがまた何とも不思議なことに、白馬村中の民宿を数軒訪ね歩いて、運転手さんの勘でようやく我が家にたどり着いたとのこと。まったく的も無く、白馬村へ追いかけてきて、よくもまあ訪ねつけたものだ。呼び出された元女子学生さんは、乳飲み子を寝かせたままどこへやら行ってしまって1時間あまり。その間に子供は目を覚まし、泣き出してしまい、朝食の仕度で忙しい家内は、その子守りに一苦労。ひどい目にあっているところへ女性だけ帰ってきていわく、「台風のようで申し訳ありませんが、帰らせていただきます」と。昨夜は「当分滞在させて頂いてもよろしゅうございますか。」と言っておきながら、これはまた一体どうしたことだろうか。
まったく文字通りの台風一過であった。訪ねてきたのはまがいもなくご主人であった。夫婦喧嘩かそのへんのところは詳しく聞けない。いずれにせよ、我が家に泊まりに来てから数年を経て、一生の最大の悩みにぶつかって、行くあても無く、ふっと思いついたのがこの囲炉裏の「火」だったに相違なかろう。我が家のみすぼらしい自慢にしている囲炉裏が、何百人、いや何千人かの都会の学生さんの青春のどこかに、こびりついていることを信じ、また願って、今日もまた囲炉裏に「火」を入れている。