山について(未知の道 №16)
我家に毎年泊まって合宿をしている岐阜大学のユースホステル同好会発行の「未知の道№16」1983年3月発刊に、父の書いた「山について」という文章が掲載されました。
毎年毎年、岐阜大学ユースホステル同好会の秋合宿(年に1回の総会)を我が家で開催していただくようになって、今年で18年目になる。民宿開業以来21年目になるが、こんなに長く続いている学校は他には例が無い。誰かが「お客様は神様です。」と言っていたが、本当に岐阜大ユースの皆様には、最高の敬意と最大の感謝の気持ちで一杯である。ここ数年、「未知の道」には私のつたない文章を載せていただき、これまた私にとってこのうえない喜びある。
今回は私と山の関係―山のこと―について少し記してみたいと思う。我が家は元来農業が本業でしたが、近年はこの農業が下火になってきて、白馬村としても観光による収入が大分大きくなってきている。とりわけ私どもはいわゆる没落地主のはしくれで、先祖代々の血と汗の結晶であるたくさんあった田畑を戦後開放してしまい、それこそ1反部(約10アール)が、鶏卵1つほどの値段で、それも10年据え置きという手のつけられない証券で貰った記憶を今でもはっきり覚えており、忘れようとしても忘れることの出来ない事実である。今、1町2反ほどの水稲を耕作しているが、諸経費を差し引いた農業収入は、最盛期のお客さんを泊めた1日分にも満たないありさまで、凶作の年にはマイナスとなっている。
それでも幸い、先祖様から受け継いだ山林が唯一の望みとなっている。去る昭和35年、83歳で亡くなった私の祖父は、一生それこそ山に生きた人といっても過言ではない。雨の日も、風の日も、冬は積雪のため出向きませんでしたが、農業の傍ら、1年に200日以上も山林の手入れに一人で山へ行っていた。私の父は事業をやっておりやがて徴兵されその後戦死した関係で、父が農業や山へ行く姿はあまり見なかった。私も学校を出たての頃、ちょうど終戦で復員して精神的な虚脱状態がずっと続き、その後、青年団活動、文化団体活動、公民館活動に夢中になってしまい、家の農業や林業は顧みず、置き忘れて最近までいたことを、つくづく悔いている。私がもう20年、いや10年早く、山のことに勢力を傾けていたら、今のようなみじめな荒れ果てた山林にはなっていなかったとしみじみ思っている。1年間の家計の不足は、山の木を売って補い、売る一方で植えることを全くせず、山林は祖父まかせで、私は外に出歩いていたのだった。
近年になってようやく山のことに目覚めて、毎年多少の植林を始めているが、これがなかなか大変なことである。白馬のような雪国では植えただけでは全く育たず、毎年雪で倒れた木を雪溶けと同時にいち早く起こさなければならないし、夏になれば、雑木や雑草の下草刈を続けなければならないのである。これを1年休むとせっかく植林した木が育たず、無駄になってしまう。
このところずっと森林組合の作業班を頼んで、この作業をそれぞれの時期にやってもらっているのだが、これもまた自分でやるような気に入ったやり方ではないのである。例えば、木起こしは雪消え直後にやらなければ木が堅くなってしまい起きないので、田植え前までにはやってもらいたいのだが、人夫の都合でそれが出来ない。そうかといって、一斉に植えた木を私一人で木起こしをするとしたら、それこそ1年中かかってしまう。この辺では植えてから20年は木起こしをしなければならない。ところが一昨年のような大雪だと、20数年、いや30年を過ぎた木までみんな雪のため折れたり倒れたりしてしまい、1本起こすのも相当な労力で、数人で一日中に10数本しか起こせない日が何日も続いた。つらつら思うに、私が今木を植えても、これから20年以上も手入れをしなければならないし、現在のように木材が安価では、手入れ賃も山林収入では得られず、全く苦慮している。
20町歩ほど所有している山林には、まだ植林可能地もあるわけだが、今後どうしていったらよいかと悩んでいる。数年前、それこそ寸暇を惜しんで、秋日の短いのに、朝会議に出る前に2時間とか、夕方帰宅した後、たとえ1時間でもと20日あまりかかって、全く人に頼らずに、杉の苗木を500本植えた年があった。前後したが、私の植えている木はすべて過ぎの木だ。それから後も毎年100~200本植えているが、つい最近になって、後々の事を考えるとどうしたものかと迷ってしまう。テレビの報道によると、毎年世界中では日本の四国と九州を合わせた面積が砂漠になっていると聞き、恐ろしさを感じた。
しかしまた別の角度から、植林という事は、採算を抜きにして、自分が植えた木の成長を見るほど張り合い強く楽しみな事はない。前述した私の祖父は、若い頃から、芝居があっても、お祭りがあっても全く出ず、山へ行って自分の植えた木の成長だけが、最高の楽しみだと言っていた。私もこの年になって、その心境がはっきり分かってきた。何事も経済的な事を置き忘れてはいけないが、植林は私にとって精神的に大きな収穫となっている。