一,共同体的秩序と部落会・町内会
(285)
隣組常会にかんする指導が積極的におこなわれるようになるのは,国民精神総動員運動をまってからであり,隣保組織が直接ファシズム体制の末端組織として制度化の道をすすんでいくのもこのときからである。
(285)
いかに部落会・町内会が,いわゆる下からの「合意」の基盤として利用され,そこに体制のもとめるモラルの注入が,擬似自発性的なかたちをとってなされていたかがわかるだろう。
(285)
そしてそれが,地域名望家層を頂点とするヒエラルヒー的構成をもって権力と住民とのあいだに媒体として介在し,地域権力構造の基盤としての位置をしめるとき,体制の基底はみごとに確保されることになる。
(286)
すでに日露戦争をはじめ非常時における住民組織として徐々に形成されはじめ,また衛生組合などから転化し,その実体を確立しつつあった町内会は,地域統合の母体として注目されはじめていた。
(287)
都市における地域住民統合の末端組織としての町内会の整備にさいしては,地方自治体を介した強硬的な行政指導がつよくもとめられ,伝統的な隣保共助原理の強調・確認による組織化よりも,行政上の要請を表面をうちだすことによって住民をとり込んでいったと考えられる面が多い。(288)
(288)
こうしてまがりなりにも全国的な規模で部落会・町内会の原型といわるべきものを,各自治体の下に形成しえたとき,それはファシズム体制の基底の編成として意味をもつことになるのである。
国民精神総動員運動の一環として一応の整備をみた部落会・町内会は,そうした準備段階をへてはじめて具体化されえたものであり,
その点,一九四〇年(昭和一五年)九月一一日付の内務大臣訓令をもって発表された「部落会町内会等整備要領」は,その最後のツメをしめすものであったということができる。
(289)
では一九四〇年の内務大臣訓令をもって整備される部落会・町内会は,いったいどのようなかたちで組織化されていくのだろうか。
これを国民精神総動員運動の過程からみていくことにしよう。
二,国民精神総動員運動と町内会の整備
(289)
一九三七年(昭和一二年)八月,閣議決定にもとづく「国民精神総動員運動実施要綱」にはじまるこの運動が,同年七月七日の日中戦争勃発後,戦時体制整備の一環としていわば上からの権力的国民統合を,下からの擬似自発的な運動というかたちで粉飾し,「銃後」における国民精神作興を目的としたものであったことはよくしられている。
(289)
この国民精神総動員運動は,きわめて官僚的色彩をつよくもつものであり,その主張するところも観念的・無内容な「つねにむなしく叫ばれる」といった性格のものでしかなかった。(290)
(290)
そして初期に企図されていたような国民の再組織化が,おもうようにおこなわれえなかったことは。はじめにあげた運動開始後二年をへた一九三九年六月の文部次官の地方長官宛通牒からも十分にうかがうことができる。
(290)
しかしそうした不徹底さ,無内容さにもかかわらず,この精神総動員運動が,ファシズム体制のもとでの国民統合の方式として,国民再組織を企図していたかぎり,まったく観念的な運動に終始したというわけではない。
すくなくとも部落会・町内会の再編成による戦時体制の整備という点からみるとき,その成果は予期されたほどのものではなかったにせよ,この運動は決定的な役割をはたしてきたといわなければならない。
(290)
たしかに一九三九年(昭和一四年)二月,その強化方策がうちだされた後,この国民精神総動員運動は,貯蓄奨励・廃物献納・買溜防止といったものに重点がおかれ,他方,精神運動としては「皇道主義」を謳歌し,「銃後奉公」を強調するといったものにおわっている。
しかしこのように一方で総動員運動が実質的な側面として,国民の実生活における経済協力と統制を強化していくにつれ,注目しなければならないことは,そこで行政との関係がいっそう密接となったことであり,その間,国民末端組織が,地方自治体単位で強行的におしすすめられていったことであろう。
(290)
その実践網の末端組織としての部落会・町内会の整備がおしすすめられることになる。(291)
(291)
ではこの間,部落会・町内会の整備は,どのような具体的な経緯をたどったのだろうか。大都市を例にみていくことにしよう。
(294)
これにたいし神戸市,横浜市のばあいは,いずれも明治期より「衛生組合」の設置をみており,これが町内会の設立と密接な関係をもつという背景をもっている。
これは両市がいずれも港湾都市として防疫のための地域組織をもとめられていたからだと考えられるが,横浜市のばあいを例にとると,一九二七年以降,町内会未組織の町では衛生組合が行政事務補助の仕事を代行し,新市部内の町内会未組織町では,「横浜市町総代規程」による町総代をおいてこれにかえている。
しかし町内会整備が,国民精神総動員運動下の一九三八年(昭和一三年)になって一斉におこなわれている点では,他の大都市とかわりはない。
神戸市における同年三月の「隣保組織要綱」の制定は,これにあたる。
(294)
こうしてみてくると一九三八年は,いわば大都市自治体によって,町内会の整備が促進された地固めという点で重要な意味をもつといえるが,この時期の町内会整備はつぎのような性格を持つ。
そのひとつは,いずれもそれが地方自治体の指導のもとにおこなわれ,強行的な官治的統合というかたちをとらず,そこに地域住民の擬似自発性の喚起による住民組織化という側面がうちだされていることであり,
第二は,そのかぎり,主眼はあくまでも町内会の「整備」にあり,その性格づけと運営にある程度の余地が残されていたということである。
(295)
強調されているのは自治への協力と旧来の慣行の遵守にあり,上からの統合という側面はまったく覆いかくされている。
(295)
しかし町内会整備の経緯をふりかえるとき,中央からの強権的な国民統合に先だち,まず地方自治体のレベルでこうした再組織の方策がとられたというのは,都市部での住民統合がいかに困難の現実にあったかをしめすと同時に,こうしたいわば微温的な方策をへなければ実現しえないことをしめしていたということができよう。
(296)
したがって困難を予想された大都市においても,ひとたびその整備が順調に進展すると,一転してその方針は強権的なものとなってあらわれることになる。
翌一九三九年(昭和一四年)九月一日発,内務省地方局長より地方長官宛のつぎの「市町村ニ於ケル部落会又ハ町内会等実践網ノ整備ニ関スル件」は,これを端的にあらわしたもkのとみることができる。
…
これにいたって国民統合の方式として町内会・部落会の再編成がどのような意味をもつかは,きわめて明確となる。
そして翌一九四〇年九月一一日,内務大臣訓令をもって「部落会町内会」の整備は完成段階にはいるが,そこではもはや旧慣的相扶連帯の醇風の確認も称揚もなく,ただ国民統合のための「地域統制単位」としての部落会・町内会だけが姿をあらわすことになる。