朝礼スピーチのねた ブクロ -25ページ目

通信費の無駄を減らす!

今日は、霜降、電信電話記念日、津軽弁の日です。


【活用場面】

 無駄な通信が多い職場で!


電信電話記念日に因み、通信費のお話です。


総務省の家計消費状況調査によれば、通信費の内、固定電話の使用料はほぼ横ばいであるのに対して、携帯電話等の移動電話使用料が年々増加傾向にあるます。理由としては、スマートフォンの使用料が携帯電話よりもかさむことがあげられ、スマートフォンの普及により、今後、さらに通信費の増加が予想されます。


PCや携帯電話の普及が飽和状態にあるなか、スマートフォンの普及が日本だけでなく、世界規模で進んでいます。スマートフォンの利用率は、今のところ、世代によって格差があり、年齢が上がるにつれ利用率は低水準になっています。


実際にスマートフォンに乗り換えた人を対象にした調査では、その理由の1番は、「パソコンと同じ場面でネットの閲覧ができる」、2番に「画面が大きくて見やすい」になっており、パソコンと同等のWEB機能を重視している人が多い結果になっています。


また、携帯電話ユーザーとスマートフォンユーザーとで、家庭外での利用サービス内容の比較を行うと、HPページ閲覧やソーシャルメディア利用、電子取引(インターネットショッピング)と、地図情報の利用では、スマートフォンユーザーの方が多いという結果が出ています。


今後、スマートフォン向けコンテンツの充実等により、30代以上の世代でも、スマートフォンの普及拡大が十分見込めるといえ、さらに高齢者の利用を見据えたサービスの拡充、使用料の値下げ等が図られれば、情報通信キャリアはスマートフォンへ大きくシフトされることになりそうです。


あなたの利用状況はどうですか?益々利用料金が増大していませんか?

早速、通信費の節約手段を検討しましょう!IP電話の活用やLineなどの無料メール機能、不要な有料アプリの削除等身近なところから初めてみては如何でしょうか?

平安遷都のミステリー!

今日は、平安遷都の日に絹婚記念日です。


【活用場面】

 国の成り立ちを考える!


桓武天皇が平城京から、都を移そうと考えた理由としては、
・奈良では寺社勢力や古くからの豪族の勢いが強く、思ったような政治ができない。
・父の光仁天皇は、久々に復活した天智系の天皇で、桓武も天武系の勢力から離れたいと考えた。
・もっと、水陸の便が良いところに都を置きたいと思った。
など、が挙げられます。

最初に、新都の場所と定められたのは平安京ではなくて、現在の京都市南郊に位置する長岡京でした。建議を行ったのは、藤原式家の人で桓武からも信頼を集めていた、藤原種継でありました。

延暦3年(784年)の6月から新都の工事が進められ、建設途中の11月には、桓武天皇も長岡へ移ってきました。

しかし、ここで事件が起こります。
新都建設事業の中心であった種継が、建設状況の督励中に、何者かに暗殺されたのです。

すぐさま、犯人の捜索が行われ、やがて、大伴旅人・竹良ら数十人が捕らえられました。

そして、この事件は、桓武の新政やこの遷都を快く思わない一派が、妨害・叛乱を企てて行われたものであると判断され、その首謀者として、桓武の弟である早良(さわら)親王も捕らえられました。

捕らえられた早良親王は、廃太子の上、京の乙訓寺に幽閉され、その後、淡路へ流されることが決まりました。
早良は無実を訴えて食を絶ち、憤慨の中、絶命します。
しかし、それでもなお、早良の遺体はそのまま淡路へと送られていったといいます。

一方、長岡京の建設は、種継暗殺事件の後も続けられていましたが、長岡京の建設は、思ったようにはかどりませんでした。さらに、この頃から、桓武天皇の周囲で奇怪なできごとが相次ぎます。その一つは、桓武の長男で後継者でもあった安殿(あで)親王のノイローゼです。
夜中に早良の亡霊を見るのか、不眠症が続き、神経衰弱ですっかり体調を崩しました。

桓武の妃であった旅子が死亡、さらに桓武の皇后である乙牟漏(おとむろ)までも、相次いで2人が病死します。
続いて、安殿親王の妃である帯子(たらしこ)も病死。
さらに、長岡京は2度にわたって洪水に見舞われました。

そして、これらの相次ぐ災いは、早良親王の祟りであると考えられたのです。

桓武天皇は、これらの怪異を鎮めるため
早良親王に「祟道天皇」というおくり名を与え、種継暗殺事件で捕らえられたものたちの、罪を赦しました。
淡路にも寺を建てて、早良親王の霊を弔います。

そうした中、桓武天皇は、長岡の北方、当時、葛野(かどの)と呼ばれていた地への遷都を
突然発表しました。
これが平安京です。

この建議をしたのは、和気清麻呂であるとされ、その建議書によると、「長岡が10年経っても竣工せず、国費の費えがおびただしい」ためということだけで、遷都のはっきりした理由は記されていません。
和気清麻呂が薦めたためとあるだけで、この遷都は、確かに唐突な感じがします。

しかし、この時の状況からして、早良親王の祟りという意識が、遷都に至る大きな要因であったことは間違いないといえるのではないでしょうか。

現代の感覚では、そんなのは迷信であると馬鹿にされてしまうようなことですが、当時の人たちにとっては、深刻な問題だったのですね。

この後、平安京の整備が急ピッチで進められました。
やがて、この地が京都と呼ばれ、その後、長きにわたる日本の都となっていったのです。

エジソンの明かりと日本の意外な関係!

今日は、国際反戦デーにあかりのです。


【活用場面】

 あかりの大切さを思う!


トーマス・エジソンが京都産の竹の繊維を炭化させたフィラメントを用いて、白熱電球を完成させたことにちなんで、あかりの日だそうですが、なぜ京都産の竹だったのでしょうね?


エジソンが生まれる前から、抵抗の大きい素材に電流を流すと発光することは知られていました。これは電球のフィラメントのことです。フィラメントにはそれまで木綿を炭素化したものを使っていたりしていました。


エジソンはフィラメント材料を見つけるのに大変苦労したようです。最初は木綿糸や何と友人のヒゲまでも素材として使ったのだそうです。当然、これらはすぐ燃えつきてしまいました。 6000種類にも及ぶいろんな材料を炭にして実験をしていたエジソンですが、ある日エジソンが見つけたのは、彼の研究所で机の上に置いてあったお土産の日本扇子。扇子には竹が使われています。その竹の骨を加工しフィラメントに使ってみると200時間という飛躍的な灯火時間を実現したのです。


当時の金額で10万ドルをかけ、全世界へ材料を探すため20人の竹採りハンターたちが派遣されました。彼らは 1200種もの竹を全世界から集めたそうです。1880年、一人の竹採りハンターが来日。時の首相伊藤博文と会い、「竹なら京都へ」とのアドバイスを受けます。京都では、初代京都府知事から「竹なら八幡か嵯峨野がいい」と言われます。そして、八幡男山付近の竹が約2450時間も灯り、世界竹選手権(エジソン主催)で見事1位を獲得したのです。


こうして、八幡の竹は1894年までエジソン電灯会社に輸出され、何百万個の白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯しつづけたのです。

フィラメント型の「元祖電球」が進歩した過程に、日本の竹が関わったことを知ると、あらためて日本の持つ力と可能性を感じざせられます。