平安遷都のミステリー!
今日は、平安遷都の日に絹婚記念日です。
【活用場面】
国の成り立ちを考える!
桓武天皇が平城京から、都を移そうと考えた理由としては、
・奈良では寺社勢力や古くからの豪族の勢いが強く、思ったような政治ができない。
・父の光仁天皇は、久々に復活した天智系の天皇で、桓武も天武系の勢力から離れたいと考えた。
・もっと、水陸の便が良いところに都を置きたいと思った。
など、が挙げられます。
最初に、新都の場所と定められたのは平安京ではなくて、現在の京都市南郊に位置する長岡京でした。建議を行ったのは、藤原式家の人で桓武からも信頼を集めていた、藤原種継でありました。
延暦3年(784年)の6月から新都の工事が進められ、建設途中の11月には、桓武天皇も長岡へ移ってきました。
しかし、ここで事件が起こります。
新都建設事業の中心であった種継が、建設状況の督励中に、何者かに暗殺されたのです。
すぐさま、犯人の捜索が行われ、やがて、大伴旅人・竹良ら数十人が捕らえられました。
そして、この事件は、桓武の新政やこの遷都を快く思わない一派が、妨害・叛乱を企てて行われたものであると判断され、その首謀者として、桓武の弟である早良(さわら)親王も捕らえられました。
捕らえられた早良親王は、廃太子の上、京の乙訓寺に幽閉され、その後、淡路へ流されることが決まりました。
早良は無実を訴えて食を絶ち、憤慨の中、絶命します。
しかし、それでもなお、早良の遺体はそのまま淡路へと送られていったといいます。
一方、長岡京の建設は、種継暗殺事件の後も続けられていましたが、長岡京の建設は、思ったようにはかどりませんでした。さらに、この頃から、桓武天皇の周囲で奇怪なできごとが相次ぎます。その一つは、桓武の長男で後継者でもあった安殿(あで)親王のノイローゼです。
夜中に早良の亡霊を見るのか、不眠症が続き、神経衰弱ですっかり体調を崩しました。
桓武の妃であった旅子が死亡、さらに桓武の皇后である乙牟漏(おとむろ)までも、相次いで2人が病死します。
続いて、安殿親王の妃である帯子(たらしこ)も病死。
さらに、長岡京は2度にわたって洪水に見舞われました。
そして、これらの相次ぐ災いは、早良親王の祟りであると考えられたのです。
桓武天皇は、これらの怪異を鎮めるため
早良親王に「祟道天皇」というおくり名を与え、種継暗殺事件で捕らえられたものたちの、罪を赦しました。
淡路にも寺を建てて、早良親王の霊を弔います。
そうした中、桓武天皇は、長岡の北方、当時、葛野(かどの)と呼ばれていた地への遷都を
突然発表しました。
これが平安京です。
この建議をしたのは、和気清麻呂であるとされ、その建議書によると、「長岡が10年経っても竣工せず、国費の費えがおびただしい」ためということだけで、遷都のはっきりした理由は記されていません。
和気清麻呂が薦めたためとあるだけで、この遷都は、確かに唐突な感じがします。
しかし、この時の状況からして、早良親王の祟りという意識が、遷都に至る大きな要因であったことは間違いないといえるのではないでしょうか。
現代の感覚では、そんなのは迷信であると馬鹿にされてしまうようなことですが、当時の人たちにとっては、深刻な問題だったのですね。
この後、平安京の整備が急ピッチで進められました。
やがて、この地が京都と呼ばれ、その後、長きにわたる日本の都となっていったのです。