新しい独り言 3.=心が生まれる? | 陽秋の精神放浪記

陽秋の精神放浪記

目的を迂回するように、ここ1年ばかり徘徊します。

書きたいことがあり過ぎるのに、手がつけられない。あと5日もすれば、休日にもなり、

 

多少は進むと思うが・・。

 

論語を手掛かりに「心」という漢字の発生から、心の生れた時機をとらえようとした

 

本を読んで感心している。それについても書こうとは思っているのだが、まず、

 

心が生れるということを、どう捉えればいいのか、それを問題として捉えるべきなのか、

 

ただの空論なので無視すべきかを、考えようとしている、今。

 

心が生まれるという現象は、どう納得すればいいことなのか、それが最初の疑問

 

だった。それを心(精神・認識)で捉えるのは、自家撞着(言ったことの前後が矛盾

 

する)ではないか。それに近い感じで、赤ん坊が自分が生まれる時を思い出せるか、

 

という矛盾のような気もする。

 

心は見えもしないし、触れもしないが、僕らがその存在を疑うことができないもので、

 

それで考え、認識しているのだから。それ抜きにして思うことは、感覚の原始的な

 

ものを想像できるが、それを直に感じ取れる人は、まれだろう。

 

心が生まれる。

 

化学反応のように生れたのだろうか。

 

まとまらないことを知りながら(前予測の感覚)、ごろっとしたところを書いてみる。

 

脳が心を生んだとされている。僕らの思考によって、脳の神経が信号を発して

 

活動するからだ。でも、僕らが睡眠を採っている時には、まともな思考ができず、

 

起きる直前の夢は覚えていても、一晩の夢は覚えている様子ではない。

 

それで心が発生したり、消えたりするのは日常のことなので、特別なことではないと

 

知れる。これほどはっきりしているのに、僕らは一生を心がなにか知らずに亡くなる

 

らしい。

 

ここで心が人間が脳で産む(機能させる)仮想現実空間だと、仮説すると半分くらい

 

は理解しやすい。脳と心が別物なので、脳を調べて心を知ろうとするのは、僕には

 

無理があると思えている。僕らがうまく想像する概念は、現実のレプリカであり、

 

あいまいな近似物だ。意識が働いている時は、それをより現実に近いものに

 

することができるが、睡眠中の意識が働かない時間では、ろくな想像はできず

 

に終わる(夢)。ここで意識(自意識のこと)は心を目覚めさせたり、クリアーにする

 

スィッチだと知れる。

 

では、意識はどうやって突然、心を開かせることを発見したのだろうか?

 

これでは、もとにもどってしまう。それは心はどうして生れたかの問いと

 

なんら変わりない。まだ腰を落ち着けて考えたことはなかったので、そろそろ

 

その点を考えるのが有効だと思う。そういう根源の問いは、解けなくても

 

その思考過程で、いろいろと副産物をもたらすものだから。

 

その大きく大事な点は、「心」の漢字の成立から200年後くらいに、ブッダ、孔子、

 

ソクラテスという精神的な偉人が生まれたことだろう。孔子の時代にはまだ

 

「惑う」というしたごころ(漢字の部首)の漢字はまだ成立していなかったそうで、

 

後世の「四十にして惑わず」はあり得ないとか。誤った解釈の問題になるそうで

 

ある。

 

どちらにしても心を意識していない時代の人間を考えるには、子どもがどうやって

 

言葉を獲得するかということと、子どもの意識の表れをどう捉えるのか、という

 

ところにそのヒントが集約されているだろう、とは十分うかがえる。

 

現代ではそれを行動心理学の問題で捉えているが、ほんとうに心理の問題で

 

いいのか、それも気になるところだ。