わくわく海賊団

わくわく海賊団

Compass of Your WakuWaku

緑豊かな木々と青い空

 

 アメリカの神学者、

 ラインホルド・ニーバーのことばに、

「ニーバーの祈り」というのがあります。

 

 神よ、願わくばわたしに

 変えることのできないものごとを

 受け入れる落ち着きと、

 変えることのできるものごとを

 変える勇気と、

 そのちがいを常に見分ける知恵とを

 さずけたまえ

 

 発酵という現象があります。

 

 この発酵における主役は、

 人間ではなく「微生物」です。

 

 人間の目には見えないところで、

 無数の微生物が働くことで、

 味噌や醤油、酒などがつくられていく。

 

 人間ができるのは、

 材料を用意し、温度・湿度を整え、

 微生物が働きやすい環境をつくることです。

 

 その先で実際になにが起こるのかは、

 人間以外の存在に委ねられている部分が

 とても大きいと思います。

 

 だから、味噌や酒をつくる人たちは、

「つくっているのはじぶんたちではなく、

 微生物なんです」という言い方をします。

 

 もちろん現代の酒造りでは、

 温度を管理し、さまざまな数値を計測して、

 昔よりずっと科学的に発酵を扱っています。

 

 それでも、すべてを数値で把握し、

 思いどおりにコントロールはできません。

 

 発酵というのは、

 じぶんでは完全に制御できないものと

 一緒になにかをつくる営みなんですよね。

 

 ここで大事なことは、発酵は、

「人間がつくるもの」でもないけれど、

「自然に任せるもの」でもないということ。

 

 思いどおりいかないものを受け入れながら、

 制御できるものには、徹底的に手を尽くす。

 

「自然が相手だから仕方がない」と

 できることを手放したりしないんです。

 

 受け入れることと、

 あきらめることは似て非なるものです。

 

 発酵を取り扱う職人さんたちは、

 変えることのできないものを受け入れ、

 変えることのできるものごとに尽くし、

 その境界を見極めることに繊細です。

 

 技術が進歩すると、

 人間が管理できる領域は広がります。

 温度も、湿度も、微生物の状態も、

 以前よりずっと詳細に知ることができる。

 

 でも、できることが増えるほど、

 なんでもコントロールできるような

 錯覚も生まれやすくなるんじゃないかな。

 

 ニーバーの祈りでいえば、

「そのちがいを見分ける知恵」こそが、

 いちばんむずかしいように思えてきます。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 変えることのできないものごとに、

 じぶんの力を使い果たしてしまうことが、

 さまざまな不幸のはじまりだと思う。

熱帯の植物の果実と葉

 

 心がとげとげしたときの

 対処法があります。

 

 だれだって、

 心がとげとげすることはあると思います。

 そんなときは「心の治安が悪いな」と

 考えるようにしています。

 

 じぶんの心そのものが

 凶暴になったわけじゃなくて、

 いま心を置いている場所の

 治安が悪くなっていると考える。

 

 そもそも「治安」というのは、

 ひとりでは成立しないことばです。

 

 無人島にひとりでいたら、

 怒ったり泣いたりすることはあっても、

 治安が悪くなることはありません。

 

 治安というのは、

 人と人とのあいだに生まれるもの。

 

 だとすれば、

 じぶんの心がどげとげしているとき、

 少し前に「治安の悪い場所」に

 立ち寄っていた可能性があります。

 

 だれかとの打ち合わせかもしれない。

 大勢が集まるミーティングかもしれない。

 お店でたまたま嫌な場面を目にした、

 ソーシャルメディアを眺めていて、

 だれかの怒りや悪意のなかに

 長く居すぎたかもしれない。

 

 物理的な場所だけではなく、

 心にも居場所があると考えると、

 ちょっと見え方が変わります。

 

 治安の悪い地域にいたら、

 ふつうはその場を離れますよね。

 

 だったら心だって

 逃してあげればいい。

 

 漫画を読む。

 おいしい料理を食べる。

 ゲームの世界に没頭する。

 好きなミュージシャンのライブ映像をみる。

 

 大切なのは、

 気分転換することよりも、

 心を別の場所に移動させることです。

 

 ところが、不思議なことに、

 心の治安が悪くなったときほど、

 人はその場所に居続けようとします。

 

 腹が立つ投稿をもう一度読み返す。

 相手の過去の投稿まで見にいく。

 さらに腹の立つ意見を探しにいく。

 嫌な会話が終わったあとも、

「あのとき、こう言えばよかった」と、

 頭のなかでもう一度やりなおす。

 

 治安の悪い場所から逃げるどころか、

 じぶんからさらに路地裏へ入っていく。

 

 みなさん、逃げましょう。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 じぶんの心に、

 裏社会ジャーナリストはいらない。

水車のある川、緑豊かな木々

 

 昭和のころ、

 新聞はいまよりずっと多くの家庭で

 あたりまえのように読まれていました。

 

 毎朝、各家庭に届き、

 社会でなにが起きているのか知るための

 重要な情報源だったのだと思います。

 

 新聞社は自ら読者を集めなくても、

 記事を書けばみんなに読んでもらえました。

 

 ここにひとつ、

 勘違いがあったんじゃないでしょうか。

 

 読まれていたのは、

 記事がおもしろかったからか。

 それとも、新聞そのものが

 社会の情報インフラだったからか。

 

 もちろん、優れた記事も

 たくさんあったと思います。

 

 でも、新聞そのものが

 社会のインフラだった時代には、

 読者との関係構築や記事を届ける導線まで、

 新聞という仕組みが担っていました。

 

 インターネットが普及し、

 その前提が崩れると、

 いい記事を書くだけでは、

 読んでもらえなくなった。

 

 でも、長い間、

 執筆だけで成立してきた人ほど、

 読者との関係をつくることを、

「記者の仕事ではない」と敬遠します。

 

 業界あるあるだそうですが、

 こういう態度に既視感をおぼえて、

 たぶん「昭和の頑固オヤジ」ですよね。

 

「おれは仕事して家族を食わせてきた」

 その間、家庭を支えてきた人がいるのに。

 

 "おれ"がやってこなかっただけで、

 ほかのだれかがやっているんですよね。

 

 ひとつの環境に長くいるほど、

 じぶんの能力と

 周囲が担っている役割との境界は、

 見えにくくなっていきます。

 

「そんなことまで、

 やらなきゃいけないの?」

 そんなふうに思うような役割が、

 突然じぶんの前にあらわれる。

 

 新しい仕事が増えたわけじゃない。

 それまでだれかがやってくれていたことが、

 じぶんの番になっただけなんですよね。

 

 環境が変わった途端に、

 うまくいかなくなることがあります。

 

 そんなとき、

「時代が変わった」

「昔とは環境がちがう」と、

 考えてしまうことがあるけれど、

 変化したからこそ、

 それまで見えなかったものが

 見えるということもある。

 

 じぶんの実力だと

 思っていたもののなかに、

 会社の信用、家族の支え、

 だれかが積み重ねてきた関係性まで

 含まれていたのかもしれない。

 

 環境を失うというのは、

 じぶんの実力が落ちることではなく、

 本来の実力がどこまでだったか

 把握することでもあると思う。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 時代が変わったと感じたら、

 じぶんが変わる時間(とき)が来たと考える。