わくわく海賊団

わくわく海賊団

Compass of Your WakuWaku

神社入口の鳥居と参道

 

 縁起でもない。

 

 命について、人生について、

 関係について、あるいは事業について、

 最悪の事態を想定しようとするとき、

「縁起でもない」のブレーキがかかります。

 

 それについては、

 考えないほうがいい。

 口にしないほうがいい。

 距離をとったほうがいい。

 

 日本人に染みついた

 禁忌(タブー)だと思います。

 

 人間がこれまで経験してきた

 危険なものを後世に警鐘する役割も、

 おそらくあるのだろうと思います。

 

 ただ、いっぽうで、

 それによって遠ざけられているものも、

 また、たくさんあるんでしょうね。

 

 このロックが解除できたら、

 ずいぶん自由になれるのかもしれません。

 

 そもそも、なぜ、

「縁起でもない」という感覚が

 ここまで強く残っているのでしょうか。

 

 おそらく過去に起きた出来事と、

 結びついているからなんだと思います。

 

 不幸な出来事があったときに、

 その前に起きていたことが意味づけられる。

 

「あのとき、あれをしたから…」

「あのことばを口にしたから…」

 

 そうやって、あとから

 因果関係がつくられていく。

 

 その積み重ねが、

「これには触れないほうがいい」という

 感覚として残ってきたのでしょう。

 

 結果として、

 危険を避けるための知恵として

 機能してきた部分もあるはずです。

 

 ただ、その仕組みは、

 現実を正確に捉えているとは限らない。

 

 避けているもののなかに、

 本来は検討してもいいものが、

 含めれていることもきっとあるはず。

 

 それがほんとうに

 避けるべきものなのか。

 

 禁忌(タブー)の枠組みを外してみると、

 まだ見ぬ選択肢が見つかるかもしれない。

 

 縁起でもないままにしてしまうと、

 そもそも選択肢として認識されません。

 

 知らないまま選ばないのと、

 知ったうえで選ばないのとでは、

 意味がまったくちがいます。

 

 もしかしたら、禁忌の向こうに、

 まだ見ぬ可能性が眠っているかもしれない。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 仏滅に結婚式を挙げた友だちは、

「縁起でもない」の呪縛から抜け出し、

 精神的にも、金銭的にも、

 自由になっていました。

雲間から見える富士山と空

 

「だれの期待に応えたいのか」が、

 その人の「できることの上限」を

 決めてしまうのだと思います。

 

 人はだれかの期待を意識すると、

 その人にどう見えるかを基準にして

 ものごとを考えるようになります。

 

 これくらいやれば褒めてもらえそう。

 ここまでやると怒られるかもしれない。

 これは評価されるけど、

 これは理解されないだろうな。

 

 まだ、なにも試していないうちから、

 アウトプットの出力を調整してしまう。

 見えない線を引くのだと思います。

 

 その線は、能力の限界ではなく、

 ただ、期待に応えたい人の

 反応を気にしてできた線です。

 

「だれの期待に応えたいのか」の

「だれ」がどんな人物なのかで、

 可能性を制限されてしまうこともあれば、

 逆に飛躍させてくれることもあります。

 

 だからこそ、その「だれ」は、

 もっと意図的に選ぶべきだと思うんです。

 

 まちがっても、近くにいたから、

 なんとなく関係があったからという理由で、

 決めてはいけないんじゃないかな。

 

 尊敬できない人の想像力に、

 じぶんの限界を決めさせてはいけない。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 反抗期とは、そういう意味で、

 殻を破る通過儀礼なんでしょうね。

サッカー観戦スタジアム、試合風景

 

 じぶんの言っていることが

 理解してもらえないと嘆くより、

 理解してもらえる人がいる場所まで

 移動するほうが大切なことも、

 ときにあると思います。

 

 伝わらないというのは、

 じぶんの努力不足ではなく、

 環境との相性の問題であることも、

 往々にしてあると思うんです。

 

 たとえば、サッカーのおもしろさについて、

 野球が好きな人たちの集まりのなかで、

 戦術の奥深さや選手の魅力について、

 分かりやすく順序立てて説明したとします。

 

 じぶんとしては十分に伝えたつもりでも、

 返ってくる反応はいまいち。

「おれたちやっぱ野球のほうが好きだな」と、

 会話もそれ以上広がりません。

 

 ところが、まったくおなじ話を、

 今度はサッカー好きが集まる場所ですると、

 リアクションはちがってくるでしょう。

 

 このちがいは、

 説明のうまさでも、

 ことば選びの巧拙でもなく、

「どこで話しているか」のちがいだけです。

 

 それにもかかわらず、

「どうすれば理解してもらえるんだろう」と、

 考え続けてしまうことがよくあります。

 

 でも、ここで整理しておきたいのは、

 理解されない原因が「説明不足」なのか、

「環境不一致」なのかという視点です。

 

 理解というのは、

 努力でねじ込むものではなく、

 前提が揃った場所で自然に起きるものです。

 

 だからこそ、

 ことばを磨き続けることも大切だけど、

 それ以上に理解が生まれる場所を選ぶことも

 欠かせないポイントだと思うんです。

 

 もしその環境が、そもそも

 異なる価値観を前提としているのであれば、

 いくら説明を重ねても理解されるには、

 かなり険しい道を行くことになる。

 

 理解してもらう努力は、

 消耗になるかもしれません。

 

 サッカーのおもしろさについて語る場所は、

 サッカー好きが集まる場所が最適です。

 

 もし、野球好きが集まる場所で、

 どうしてもサッカーの話をしたいなら、

 いろんな調整をする必要が生じます。

 

 できることを制限し、

 言いたいことを抑制して、

 周囲との摩擦を避ける必要がある。

 

 じぶんを「小さく」させて、

 環境に適応する必要があるわけです。

 

 でもこの方法は、続かないと思います。

 

 だったら、じぶんを小さくするより、

「大きく」するほうがいいんじゃないかなぁ。

 

「大きく」するというのは、

 単純に能力を上げるとか、

 すごい人になるということではなく、

 関わる人を増やしたり、

 知識や経験を広げたり、

 居場所の選択肢を増やすという

 意味での「大きさ」です。

 

 関わっている人が

 5人しかいないときは、

 そのなかの1人に理解されないだけで、

 すごく大きな問題になります。

 

 でも、関わる人が100人に増えたら、

 おなじ「1人に理解されない」状況でも、

 ほとんど気にならなくなるでしょう。

 

 悩みというのは、

 絶対的な大きさで決まるのではなく、

 じぶんとの相対関係で決まります。

 

 だから、じぶんが「大きく」なれば、

 悩みは自然と「小さく」なる。

 

「小さい」ままだと、

「ここで理解されない=終わり」だけど、

「大きく」なれば、

「ここで理解されない、じゃあ別の場所へ」

 という選択ができるようになる。

 

 これは逃げではなく、

 選べる状態ということです。

 

 人がしんどくなるのは、

 しがみつくしかないときです。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 愚痴が出るときというのは、

 変わりたくないときなんだろうなぁ。

 この場所のままで、この関係のままで、

 なんとかしたいと思っているときに、

 外に向けて出てくることばが愚痴。