わくわく海賊団

わくわく海賊団

Compass of Your WakuWaku

青空と海、信号機のある海岸道路

 

 信念ということばは、

 かなり能動的なものとして扱われます。

 

 信念を持つ。信念を貫く。

 

 どれもじぶんが信念を所有して、

 自ら選択していくニュアンスがあります。

 

 でも、実際に強い信念を持つと、

 逆に選択肢が少なくなるのがおもしろい。

 

 たとえば、相手から返信が来ないとき。

 

「相手にも事情がある」と

 頭では分かっていても不安になって、

 つい返事を急かしてしまうことがあります。

 

 あとから事情を知って、

「あんな言い方しなければよかった」と、

 後悔してしまったとします。

 

 次に似た場面が訪れたとき、

 その後悔がすぐに連絡しようとする

 じぶんの手を止めると思うんです。

 

 相手にも事情がある。

 

 このことば自体の解釈は、

 以前となにも変わっていません。

 それなのに、今度は逆らえなくなっている。

 

 葛藤というのは、ことばに

 重力を与える工程なのかもしれない。

 

 知っているだけなら、

 平気で素通りできたことばも、

 失敗や後悔と結びついた途端に、

 行動を拘束するようになる。

 

 失敗して、後悔して、悩んだ末に、

「もうあんなことしたくない」と思う。

 すると、その経験から学んだことばが、

 同じ状況に遭遇したじぶんを止める。

 

 以前なら選べた行動が、選べなくなる。

 

 信念を持つというのは、

 自由に生きるための軸を持つだけでなく、

 じぶん自身に制約を課すことでもある。

 

 そう考えると、

「経験を積む」ということの見方も

 少し変わってくる気がします。

 

 年齢を重ねたり、経験が増えると、

 できることの選択肢も増えていきますが、

 同時に「もうこれは選ばない」という

 選択肢も増えていくと思うんです。

 

 人を傷つけたから、もう言わない。

 失って気づいたから、今度は手放さない。

 後悔したから、次は立ち止まる。

 

 人は経験を重ねながら、

 選べないものも増やしている。

 

 そしてその「選べないもの」の蓄積が、

 その人の信念になっているのかもしれない。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 じぶんらしさって、

 なにを選ぶかよりも、

 なにを選ばないかのほうに

 よく表れる気がしますね。

夜の路地裏に並ぶ飲食店と看板

 

 欲望のままに突き進んだ末、

 すべてを失い破滅するという物語が

 世の中にはたくさんあります。

 

 本来なら教訓になりそうな話でも、

 そこに憧れる人も一定数いるみたいです。

 

 最後にすべてを失うとしても、

 一度くらい欲望に忠実に生きてみたい。

 なにも起こらないまま人生が終わるなら、

 最後に破滅したとしてもあんなふうに

 じぶんも生きてみたい、と。

 

 これ、別に破滅そのものに

 憧れているわけじゃないと思うんです。

 その破滅まで含めてじぶんの人生に

 充実感を求めているんだろうな。

 

 なにも持っていなかった人が、

 成功して、金も名声も手に入れて、

 そこから一気に転落していく。

 

 冷静に考えれば、

 失わないほうがいいに決まっています。

 

 それでも、その巨大な落差には、

「じぶんの人生を生き切った」という

 代え難い充実感があるのかもしれない。

 

 経済的に困らず、家族にも恵まれ、

 大きな失敗もなく健康に暮らした人生。

 

 幸福という意味では、

 こちらのほうが近いと思いますよね。

 

 それなのに、物語として考えると、

 波瀾万丈な人生に「濃さ」を感じる。

 

 ここには、幸福と充実を別々に感じる

 人間の悪い癖みたいなものがあるのかも。

 

「どれだけ快適だったか」だけでなく、

 感情の振り幅で充実感を測っている。

 

 だから、落差に惹かれる。

 

 多くの人が口にする

「濃い人生」というのは、

 幸福の総量ではなく、

 変化の総量なのかもしれません。

 

 ただ、ここで、

 本人が望んでもいない喪失や苦痛を、

「人生を豊かにする経験」と美化するのは、

 個人的にはちがうと思っています。

 

 充実感を得るために落差が必要だとして、

 それは人生そのものを大きく動かさなくても

 生まれるものなんだと思うんですよね。

 

 たとえば、都会の騒音を離れて、

 神社に入った瞬間の静寂に妙に癒される。

 あれもひとつの落差だと思うんです。

 

 抱えている問題が解決したわけでもなく、

 置かれている状況も変わっていないけれど、

 都会の騒音から静寂のなかに入っただけで、

 感情に振り幅が生まれます。

 

 人生を濃くするために、

 人生そのものを揺さぶる必要はない。

 

 仕事をして、旅に出る。

 人と話して、ひとりになる。

 街を歩いて、自然のなかに行く。

 

 暮らしのなかに異なる時間を持つだけでも、

 落差はつくれるんじゃないかな、と。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 大きな落差は、

 大事件だけがつくるものではなく、

 こころを置く場所を少し変えるだけで、

 感情に高低差は生まれると思う。

ビルの窓と空、枝

 

 会えない人を思い出すと苦しい。

 

 もし、忘れることができれば、

 その苦しみから解放されるかもしれません。

 

 でも、忘れることで消えるのは、

 苦しみだけなんでしょうか。

 

 たとえば、もう帰れない故郷がある人が、

 その土地で暮らした記憶を失ったとします。

 

 おそらくその人は、

「帰りたい」と思わなくなるでしょうし、

 帰れないことにも苦しまなくなる。

 

 ただ、それは、

「帰れなくても平気になった」とは、

 少しちがうと思うんですよね。

 

「帰りたい」という願いそのものが、

 存在できなくなったとも言えるからです。

 

 苦しい記憶について、

「忘れられたら楽なのに」と

 考えることがあります。

 

 でも記憶には、できごとだけでなく、

 じぶんがなにを大切にしてきたのかという

 履歴まで含まれていると思うんです。

 

 会いたい人がいるから、

 会えないことが苦しい。

 

 帰りたい場所があるから、

 帰れないことがつらい。

 

 取り戻したいものがあるから、

 失ったことを何度も思い出す。

 

 苦しみというのは、

 単なる不具合ではなく、

 願いが残した痕跡にも思えます。

 

 もちろん、だからといって、

「苦しい記憶も忘れてはいけない」という

 単純な話ではないですよね。

 

 忘れることで、

 救われる人だっています。

 

 だから、むずかしい。

 

 忘れたほうが幸せになれるとして、

 それは、忘れる前のじぶんが望んでいた

 幸せなんだろうか……。

 

 これは記憶だけの話じゃないです。

 

 人は時間とともに変わるし、昔ほど

 なにかを欲しがらなくなることもある。

 諦めることで楽になることもありますよね。

 

「もうどうでもいい」と思えた瞬間に、

 長く続いた苦しみから解放されることだって

 ほら、たくさんあると思うんです。

 

 そのとき、じぶんは楽になっている。

 

 でもそれは乗り越えたのか、

 それとも願わなくなったのか。

 その境界は驚くほど曖昧です。

 

 記憶というと、

 過去を保存しておくものと思いがちです。

 

 でも、実際には、

 過去だけを記憶しているわけじゃない。

 

「あの人たちとこれからも一緒に生きたい」

「いつかあの場所へ帰りたい」

 

 そんな未来への願いまで、

 記憶のなかには残っています。

 

 だとすれば、

 記憶を失うということは、

 過去を失うだけでなく、

 過去のじぶんが未来に託した想いまで

 失うことになるのかもしれない。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 忘れたじぶんが幸せならそれでいいのか。

 まだよく分かりません。