『 痛風二十二年物語 』・『 桜 と 痛風 』

『 痛風二十二年物語 』・『 桜 と 痛風 』

春を待たず伐採された桜の木、あなたに代って私が”満開ブログの花”を咲かせます!!!

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『痛風二十二年物語』三十話
“ 嬉しいかな寂しいかな 2”

 

前もって知らされていた16時半を過ぎようとしていた。
「マスターそろそろ時間だったね・・・。」
マスターが頷いた。
その時、息子が低い声で絞るように言った。
「・・・来春、二人で住まいを探そうと思っている」と。
予期しない言葉だった。家内も息を潜めた。
だが、私は無意識に反応していた。
「二人の人生なんだから・・・」
そんなことを言ったように思う。
家内も「そうね・・。」と言っていたような気がする。
同時にそれは、住み慣れた我が家から
息子が居なくなることを意味していた。

 

この日、3時10分に私たち4人は、
さくらカフェに入った。
「いらっしゃい。ぴったしですね。」とマスターが言った。
私は、今日の礼と、息子と彼女をマスターに紹介した。
テーブルとイスは、私たちのためにセットされていた。
席につくと、彼女から沢山の御土産を頂き、
気遣いの良さが窺われた。
そして彼女はアイスティ、息子がアイスカフェオレ、
私と家内はブレンドを注文した。
二人を前に話はとても弾んだ。
息子の幼少時代や、家族の昔、愛犬に至るまで、
彼女はボランティア活動に富み、学生時代の杵や、
現在の仕事に対する姿勢、
息子へ向ける思いの丈など、積極的に聞かせてくれた。
彼女の“人となり”は、申しぶんなかった。
そして、束の間の1時間半が過ぎたのだ。

 

二人を見送った後、
私と家内は同じ気持ちに駆られていた。
それは、嬉しいかな寂しいかな・・・だっただろう。
この日の晩酌中、家内の携帯に息子からメールが入った。
それは彼女からのお礼だった。
「今日はありがとうございました!」
「・・・・さんの小さい頃の話しや、ゆりちゃんのお話し、」
「たくさんのことが聞けてとても楽しかったです。」
「隠れ家のようなカフェもとても居心地が良く、」
「ケーキもとても美味しかったです。」
「お休みの日にお店開けて頂きありがとうございました。」
「ご家族の皆様にも、よろしくお伝えください。」
「またお会いできるのを楽しみにしております。」
・・・・。
『こちらこそ、有難うございます。息子を支えて下さるのは
貴女です!!末長く宜しくお願いいたします!』

と家内が結んだ。

 

― 続きは今度。よかったらまた読んで下さい。―

  卒業送別花

 

『痛風二十二年物語』二十九話
“ 嬉しいかな寂しいかな 1”

 

2017年12月10日、日曜日午後3時。
さくらcaféのマスターは、私たちの来店を待っていた。
私たちとは、私と家内、息子とガールフレンドの4人だ。
さくらカフェは、上の公園の反対斜面にある隠れ屋的なお店だった。
カフェは土日休業日だったが、
無理を言って、この日の3時から4時半まで、
貸し切りさせてもらった。

それは、2週間ほど前の夕方のことだった・・・
税理士先生との話が済んで、外へ見送りに出たとき、
下の道端で息子の車が停車していることに気付いた。
息子が「只今!」と一言、足早に家の階段を上った。続いてドアが開き若い女性が、
徐に私と家内の前に近づいてきた。
すると、「私・・・さんとお付き合いさせて頂いてます・・・です」
と丁寧な挨拶があった。
かねて聞いてはいたが、息子のガールフレンドであることは
すぐに察しがついた。
「アー・・・初めまして、逢いたかったよ!」
なんとミョウチクリンな返事だが、こんな突然のご対面になろうとは、
いや、彼女はもっとそれを感じたに違いなかった。
『この子が息子の彼女かと・・・』妙に納得もできた。

身支度を済ませ息子が車に戻ってきた。
これから八景島の夜間水族館に行くとのことだった。
私はポケットに入れていたみかんを一個、
車の窓越しに座る彼女に差し出した。
彼女は半身の姿勢で、そのみかんを両手で優しく受け取った。
できた子だと思った。
それから何日かして、彼女が改めて挨拶をしたい旨、
息子から知らされたのだ。

 

― 続きは今度。よかったらまた読んで下さい。―

   あの日の夕暮れ時

『痛風二十二年物語』二十八話

“突発性難聴になった日”晴れ くもり 雨

 

2017年9月5日、妙な目覚めだった。

何故か物音が遠くに聞こえるような、

いやいや右側の耳がツーンというような、

経験はなかったが、これがおそらく耳鳴りかと思った。

妻にこのことを話すと、

耳鼻科へ行くようすすめられた。

私もこんな体調は初めてだったので、

素直にそれに従った。

 

国道沿いを歩いて駅前建物の3階で、

看板があるということだった。

この日天気は良く、言われた通り国道を歩いていると、

むしばむ暑さの中で、私の右耳の状況が分かってきた。

耳鳴りが続いているこの耳は、

電車や車や外を行きかう人々の声を

かき消しているのではなく、聞こえていなかったのだ。

そして聞こえているのは左耳で、

右耳はその反響音を感じていただけだと思った。

 

問診の後、聴力の検査室で両耳の検査を行い、

再び医師の前に座った。

検査結果を見ながら医師はさりげなく言った。

「小林さんの右耳は、突発性難聴と思われます」

「明後日は休診日ですから、

その次の金曜日9時に来てください」

今日処方する薬は、帰ってすぐに飲むよう、

金曜日改善の様子がなかったら、

紹介状を出すので病院へ行くように言われた。

 

この日は、折しも私の誕生日だった。

 

― 続きは今度。よかったらまた読んで下さい。―

 

  我が家のコーヒーの木の花が咲いた・・・やがて実が生る 晴れ

『痛風二十二年物語』二十七話

“ 家 族 葬 ”

 

2017年8月24日午後2時、

従姉妹からの電話が漸くつながり、

我が家の地元葬儀店へ、既に伯父を運んだ旨の、

連絡があった。

その晩の家族葬には、身内の他ごく親しい方に

焼香を頂いた。

この後のことは、語るに及ばないだろう。

 

むしろ、この前日のことが思い起こされた。

昼食時、私の腰に突然電気が走った。

「いたたた・・・!」

3年程前、痛めて以来、適度なストレッチや運動を行い

特に腰には注意をしていたが、またあの時の・・・。

幸いにして、深呼吸しながら状態を保っていると、

痛みが治まるようなので、

湿布し以前使っていた腰バンドを巻き、

その場を凌いだ。

 

これは、既に嚥下に障害があり喋ることが出来なかった伯父が、私を呼んだのかもしれない・・・と。

 

― 続きは今度。よかったらまた読んで下さい。―

 

                         懐かしの山道

 

『痛風二十二年物語』二十六話

“ 最愛の伯父が旅立った日 ”雨

 

2017年8月24日午前9時、

義母の定期検診で家内と三人、

関東労災病院の担当医の待合所で診察を待っていた。

病院へは、たまに私の運転で送迎していた。

診断は予定より大分遅れて始まったが、

10分ほどでいつものように終わった。

このあとは、処方箋薬の受取りと会計を済ませ、

ロビーの一角にあるドトールコーヒーで、

いつものように軽食をとった。

義母と家内はともかく、

私はここのミラノサンドが大好物だった。

 

病院をあとに、一路家内の実家である

義母の家に着いたのは、11時過ぎだった。

この日は、家内の和服や帯の収納スペースが不足し、

実家に預けるため立ち寄ることにしたのだ。

奥の座敷では、ガヤガヤ話しが始まっていた。

私は、仏壇に線香をあげ手を合わせた。

長押にある義理の祖父・祖母・岳父の遺影は、

いつもの微笑みだった。

この後、帰りがけ物価の安い商店街へ立ち寄り、

家内お得意のまとめ買いをし、

我が家へ戻ったのは12時半頃だった。

帰宅後は一番に、

取引先メールの内容確認が習慣だった。

と、そこに「さきほど・・・」

REメールの文字が目に入った。

 

『さきほど父が旅立ちました。眠るように、です。』

「また、色々とはっきりしましたら、

連絡いたします。」

「母がまたなにか言うかもしれませんが、

すべてお気になさらないように、」とあった。

12時19分、従姉妹(いとこ)からだった。

 

― 続きは今度。よかったらまた読んで下さい。―

 

卒業花

 

 

『痛風二十二年物語』

 「こ の 道」晴れ 晴れ 

                 

 この道はいつか来た道

 ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる

 

 あの丘はいつか見た丘

 ああ そうだよ ほら白い時計台だよ

 

 この道はいつか来た道

 ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよ

 

 あの雲はいつか見た雲

 ああ そうだよ

 山査子(さんざし)の枝も垂れてる

 

 北原白秋

― 続きは今度。よかったらまた読んで下さい。―

 

 都会慣れした蝶

 

『痛風二十二年物語』二十五話

 “リハビリテーション科”ヒマワリ

 

入院16日目の朝を迎えた。

身体の節々にあった痛みは、

処方されるステロイドの量に比例して

無くなっていった。

入院当初は、炎症による身体中の痛みをとるため、

一挙8ミリに増量したが、

現在はその半分だった。

ステロイドを使用した場合、

たとえ痛みがなくなっても、

これをすぐになくすわけにはいかなった。

そうそれは“リバウンド”があるからだ。

先生は、糖尿・リュウマチの専門医であり、

この処方を熟知していた。

ステロイドの減らし方は、

私の身体の状態をよく観察しつつ、

少しずつ慎重に行わないと、

再び痛みが起こりぶり返しがあるのだ。

それは入院前、

町医者からもらったステロイド錠2ミリを、

やぶから棒に服用していた頃、経験済みだった。

 

さてこの日、検温と血圧を終えた看護師が言った。

「小林さん、

明日からリハビリ室へ行ってください・・・」

「松葉づえで歩けてはいるようなので、

もっとしっかり出来るようにしましょう・・・」

「明日、昼食後2時にリハビリ室へ

行ってください・・・」

「入るとき、お名前と・・・」

 

そうか、いよいよ退院の準備かなと思った。

大腿部やふくらはぎの筋肉はすっかりなくなり、

足腰の衰えは顕著だった。

松葉ずえで病院内を出来るだけ歩くことを

最近の日課としていたが、

そう退院すれば、そこは他ならぬ“娑婆”である。

こんな状態ではどうにもならない。

もっと足腰をしっかりさせないと・・・・

我が家の石段が目に浮かんだ。

 

― 続きは今度。よかったらまた読んで下さい。―

 

  我が家のコーヒーの木の花が咲いた・・・やがて実が生る 晴れ

 

『痛風二十二年物語』二十四話

“ひさびさの風呂に入る”晴れヒマワリ晴れ

 

妙な言い方だが入院生活も慣れ、

自由にならない身体を除けば、特に文句はなかった。

今朝方の検温で、看護師が言った。

「小林さん、今日からお風呂に入ってもいいですよ

「風呂!あ・・・そうですか、何時頃・・・?」

空いている時間を知らせてくれるとのことだった。

2日前、車椅子で洗髪所へ行き洗髪はしてくれたが、

しばし忘れかけていた風呂だった。

 

この日も昼ごろ、家内が来てくれた。

風呂のことを伝えると、

「あら、良かったわね。」

「でも、大丈夫 ?」とほほ笑んだ。

「あら、隣の人 退院したの?」

整然としたベッドがそこにあった。

「ああ、足の方は問題なかったみたいだよ。」

「午前中、恋人だか姉さんだかが来てね・・・」

「そう、良かったわね。」

抗生剤の点滴で経過観察だった彼は、ひょっとして、

私たち夫婦共通の悲しい記憶を呼び起こすものだった。

家内の姪っ子が脛(すね)の痛みを訴え、

骨肉腫と診断され入院した。

数年の闘病後、わずか十五年余りの命だった。

 

さてその日の3時頃、私は小声で鼻歌を歌っていたよ。

実に身も心も洗われるとは、この事である。

たたみ四畳ほどのスペースの奥に広めのバスタブが

あり、トイレも付いていた。

手摺もあり湯船につかるのにさほど苦労はなかった。

入浴が終わったら、

ドア横のブザーを押してナースセンタへ

知らすのが決まりだった。

 

― 続きは今度。よかったらまた読んで下さい。―

 

                           ” あの日のゲレンデ ”

 

 

『痛風二十二年物語』二十三話

“二十二年前の回顧その2”汗

 

我が家が長年お世話になっている、

青木町の大先生の診断は、やはり痛風だった。

採血した血の検査結果は、

五日後だったが、ほぼ間違えないようだった。

その日、痛みをとるための錠剤と湿布薬を処方してくれた。

錠剤は、ステロイド系の鎮痛剤だった。

痛みが治まったらこれを止め、

痛風の治療に切り替えるとのことだった。

そしてこの日から、この錠剤と細く長い付き合いが、

始まるとは 知るはずもなかった。

 

発作から三日後、私は会社の喫煙場所にいった。

多少むくみと痛みがあるため、

社内ではスリッパを履いていた。

同僚との話題は、もっぱら痛風だった。

発作の日の事を、自慢げに話している自分が可笑しかった。

「それで、もう痛くないのか・・・」

私の足元を見て、同僚がけげんそうに聞いた。

「ああ、まだ少し痛みはあるが・・・・・」

実際、処方された錠剤を飲んで、

ほとんど痛みは消えていた。

一体あの時の悪夢は、何処へいった・・・。

 

ビルの谷間がオレンジ色に輝く頃、疲れも出てか、

薬指付け根の裏側当たりがしくしく疼いた。

それでも仕事が終われば、

その日の締めくくりに同僚と酒を飲んだ。

手羽先開きの塩焼きとイカ納豆で飲むビールは

最高の褒美だった。

酒が入れば、多少の痛みなど忘れてしまう。

まさに『 喉元過ぎれば・・・』であった。

また、はっきりとした痛みがあれば、

例の錠剤は 魔法のようによく効いた。

 

― 続きは今度。よかったらまた読んで下さい。―

 

                            我が街の風景

 

 

『痛風二十二年物語』二十二話

“二十二年前の回顧その1”ヒマワリ

 

入院前、夏休み恒例の家族旅行があった。

足の状態はすこぶる悪かったが、

長男に運転を任せ出かけた。

貸別荘は長野県上田市の武石村にあった。

横浜から高速を使って約3時間半のドライブだが、

案外見慣れた景色を眺めながら、わいわいがやがや、

途中一回だけサービスエリアで休憩を入れ、

目的地へ到着した。

 

だが、私にとってこの二泊三日の旅情は、

しみじみとした苦痛の日々となったのである。

 

家内や子供達にとって、歩けない私を別荘に残し、

後ろ髪を引かれながら、

出掛けることは、快いものではなかっただろう。

 

バルコニーの椅子に腰かけ、

すがすがしい木々の緑に囲まれ、

出かけ前、家内が淹れてくれたコヒーを味わう。

溢れんばかりの木漏れ日達を見つめていると、

何やら囁きが聞こえた。

おい、お前、・・・お前だよ。」

こんなになるまで、

一体 何をやってきたんだ・・・」

「えー!なに?・・・ 俺は、

ここまで家族のために一生懸命やってきた!・・・」

「悪いことなどなにもない・・・」

そうじゃない、そうじゃない、その身体・・・

その身体だよ・・・」

緑の木漏れ日の真ん中に吸い込まれるように、

遠い遠い二十二年前のその日を思い起こしていたんだ。

そう・・・あれは、ある日突然やってきた

 

現役サラリーマンバリバリの三十八歳だった。

毎日とても忙しかったが、公私とも充実していた。

そんなある日の明け方、

被った布団の足元が、異様に重重しく

指先が窮屈に感じた。

う・・・、う・・・、何だ痛いな・・・痛い。

眠りから覚めた瞬間、激痛が左足に走ったんだ。

「ぐあ・・・!」思わず金切り声で、呻いていた。

「いた・・・!」足がすごく痛い。

その痛みは薬指付け根当たりだった。

普通じゃないその痛みは、薬指が折れてると思った。

もんどり打つ私をみて、家内が飛び起きった。

? ・・どうしたの・・・パパ!」

「ね!どうしたのよ・・・」

もう大騒ぎである。

 

この朝、約4時間、氷嚢で患部を冷やし、我慢を続け、

家内の運転で、病院開門一番駆け込んだのである。

診療所の先生は、ピンク色に腫れあがった

私の患部を診て、うすら笑いを浮かべ、

痛む患部を触手したあと、こう告げた。

「小林さん、こりゃ・・・痛風だね。」「痛風。」

「は・・・?」

ぴんと来なかった。

どこかで聞いたことのあるような響きだった。

「でも先生、この指先、折れてます・・・

・・・すごく痛いし。」

「いや、折れてたらこんなに腫れないな・・・」

と言いながら、やおら患部を指先で突っ突くのだった。

「いた!・・いてて!」

そして再び「これは痛風。痛風です。」

私の抵抗にもめげず、先生はそうおっしゃったのだ。

「うちでは、痛風の治療はやっていないので、

最寄りの内科へ行って、検査と処方を受けて下さい。」

「・・・そうですか。」

看護師が、患部をシップで覆い、

軽く包帯を巻いてくれた。

 

家内を見ると、少し笑っているように見えた。

 

― 続きは今度。よかったらまた読んで下さい。―

 

         夏休みの草原  晴れ  晴れ  晴れ  しっぽフリフリ