大義があろうとなかろうと
自分の人生を生きたかっただろう


特権に胡坐をかき

決断しなかった


「ひ弱なエリート」

その親たち








当時、慶應義塾大学経済学部の1年生で出陣学徒壮行会で行進した渡辺槇夫さんは、スタンドを埋め尽くした女子学生の熱烈な声援を受けた当時をこう振り返っています。






「女子学生たちから送ってもらったこと、そして後につづく者がいたこと、しっかりやってきてください、帰ってきてください、がんばってください。そうやって励ましてくれる。

その声を聞いているうちに、
姿を見ているうちに、

これは、
彼女らを守らなければ
いけないんだ

ということを、再確認した」
NHKスペシャル「雨の神宮外苑 ~学徒出陣・56年目の証言~」2000年放送より)

壮行会のあと、学生たちはそれぞれの故郷の部隊に入隊。短期間の訓練を経て、激戦地へと送られていきました。

特攻隊員となったある学徒は、自分が乗ることになる古い偵察機を見てがく然としたと語っています。

「これで戦果なんか、
あがるわけないですからね。

国のためだとかね、兄弟、
親のために

捨て石になってやろうという気は十分に持っているわけですよ、ここまで来ればね。

だけどそれが、

捨て石になり切れない
わけですよ。
こんな扱いではね」
(NHKスペシャル「雨の神宮外苑 ~学徒出陣・56年目の証言~」2000年放送より)







増田 四郎(ますだ しろう、


1908年(明治41年 10月2日 - 1997年 平成9年6月22日)は、日本の歴史学者。一橋大学名誉教授。


専門は西洋史、西洋経済史。西洋社会・経済史の変遷を、実証研究と、比較社会史・地域史の方法論を用いて研究した。




記憶を遡れば

長男3歳 次男りくが1歳のときに

「普通のガキじゃないんだぞ。」 


そう言った私の父が、

小学校高学年〜遅くても中学1年生になったばかりのりくに、直接手渡したものだと思う。


なぜなら、父が亡くなったのは

りくが中学1年生の6月だからである。



書籍の日焼けの様子からは、 

父が購入したのは、それよりかなり前ではないかと推察しながら


どこかの段階で、少なくても

りくは読んでいるのではないかと思った。


私の父は、離婚後の私が、

彼らを連れて実家に出戻ってから

亡くなるまでの10年、


元夫はもとより、実母である私以上に長い時間を彼らと共に過ごしている。


突然の余命宣告のとおりに、3ヶ月で逝った父親がわりの祖父によって手渡された書籍への思い入れが、ないわけはないだろうと思うからである。




 

青春という思索と
苦悩の時代をどう生きるか。

ここには、歴史家として、教育者として 大きな足跡を印す著者の生きた経験が、青春への変らぬ共感とともに語られている。

学生生活における自由、
学問することの意味。

それらに触れながら、
著者が強調してやまないのは、

自ら考え、行動する人間へと
自己形成することの尊さである。


大きなダムも、蟻の穴で
くずれることがあります。

いままで金科玉条とされてきた
マルクス主義の
あの人類発展の段階説も
くずれるかもしれないのです。


過去の体型的な学説を
おかすべからざるものと考える必要もないし

ヨーロッパの偉い学者が考えたことは
不動の真理だと考える義理もない。

自分には、ここまでしかわからないが
そこまでについては、

動かない証拠をあげ論証ができる
というものをみつけていく。

それは
蟻の穴ほどの小さなことかもしれません。

しかし
その小さなことに
全力でぶつかって
できる限りのことをやって
次の人にバトンを渡す

という、いわば

捨て石になる勇気が
おおきな仕事につながってゆくのです。



教師もまた、
高校までは教科書を教えることが主でした。
教科書に書かれてあることの、
ことばは悪いですが、

いわば一種の押し売りです。

しかし、大学の教師は、
どんなばあいにも、
押し売りは許されません。

ただ、長いあいだ研究して、その教師が到達した立場から、自分の一貫した考え方を講義するだけです。それは、その教師が研究しているあることの、一つの考え方をすじみちをつけて述べるだけなのです。

つまり、自分の説とはちがった考え方が、ほかにいくらでもありうる

という前提のうえに立って
講義するわけです。

すぐれた教師というものは、自分の講義が丸暗記されることを望んでいません。

ある前提、あるいはある立場
というようなものを論理的に説明します。 

その講義は、その前提なり立場から、一貫した論理をもってなされます。

そのばあい、ある問題はこういうふうに考えなければならない、あるいは、こういう結果になるという立場の一貫性というものが、

一例として、そこで講義されているだけのものだ、という受け取り方をしなければならないのです。

講義されていることは、思考の一例が述べられているにすぎないのですから、

学生であるあなたがたは、

たとえ教師の説とちがっていても、自分で勉強して、自力でエンジンのかかった研究をする糸口を、自分でさがさねばなりません。 

そうすることが、
大学で勉強する、学問をする
いちばんたいせつなことだと思うのです。

このようにいうと、

それでは、なんでもかんでも、
教師にたてつく学生がほんものなのか、
とあなたはいいたくなるかもしれません。

しかし
それは良識のあるひとのいうことではありません。

それに、りっぱな教師であれば、そんな反抗のための作文など、たちどころに見破る力をもっております。ほんとうに学問をしている学生と、そうでない学生を見抜く力を備えています。

ですから、
教師の説くところがあなたに納得できるならば、それを自分の考えとして書くことは、いっこうかまわないし、

またそれがそのまま学問したことになるのです。 

要するに、あなた自身に納得できるかどうか、教師のいうとおりであるか、ほかにちがった、あるいは反対の考え方もあるのではないか──

そういうことを

 

たえず反省しながら講義を聞く。

このことが、あなたがたにとっていちばん重要な態度であることを重ねて強調したいと思います。

その練習をしないですむなら、別に講義に出席する必要はないでしょう。

講義録で勉強してもいいし、家にいて本を読むだけでもこと足りる。

しかし、じっさいに大学の生活をしてみると、つまり、そうした練習をしてみると、本や講義録では、どうしようもないことがあるのです。

とえば、民法なら民法で、いま問題になっているのはどういう点か、ということが一方にあり、他方に、経済学なら経済学で、いま問題になっているのはどういう点か、ということがあるとします。

この二つは別々の問題のようでありながら、
究極のところ

現代社会の動向を反映しているという意味で、同じ意味あいをもっている。
──こういうばあいがひじょうに多いのです。

政治のやり方、あるいは経済や文化などの理解のしかたにも、ヨーロッパがつくった体系が、

そのままものさしとなり、世界のどこにでもあてはまるという考え方を、

わたしたちは一応捨てなければならないのです。

かれらは
ベトナム人の心を理解せずに、
あるいはわかろうとしないで戦争をし、
どろ沼にはまりこんでいます。

わたしはここで政治的なことはいいたくありませんが、諸民族の心を知ることのたいせつさは、やはり政治の最大の要諦 ではないでしょうか。

もともと、わたしは、
世間で偉いひとといわれているひとたちの、

当たったところが的だったというふうな書きっぷりの自伝を読むのが、おそろしくきらいです。

わたしは、人間というものは、
そんな偉いひとになるように
きまっているものではないと思うのです。

どんなひとでも、みんな迷いに迷っているものだろう、という気がします。

ですから、
はっきりした方角もわからない道を、
手さぐりしながら、

あるいは先生・先輩・友だちなどの影響を直接・間接に受けながら、まがりなりにもようやく生きていく。

──それがほんとうの人間の姿にちがいないと思うのです。


百姓仕事を手伝っているうちに、

わたしは妙なことに気がつきました。


百姓は、自家でものをつくっている。

自分でものをつくっている。


それなのに、


そのつくったものの値段をきめるときは、自分の意志というものはぜんぜん働かないものだ。


苦労してマユをつくっても、


その値段は、できたときに買いにくる、別の機構と経済情勢できまってしまう。


マユばかりではない。

他のすべての農産物も同じことだ。


生産者の意志にぜんぜんかかわりのないところで値段がきまる。


いったい百姓というものはこれでいいのだろうか──。  




わたしに大きな影響を与えたのは、

岩波文庫の発刊でした。


あれは、たしか昭和二年でしたでしょうか。


それはもちろん、わたしだけではない。

当時の学生全部に対して、ひじょうに大きな役割を果たしたのです。


あれは、だいたい古典的な価値をもったもので、だれがいつ読んでも役に立つ、というのが発行のねらいといわれましたし、


ポケットに入れられる大きさ、当時、十銭で買えたのですから、貧乏学生にも、いわゆる 高嶺の花ではなかったわけです。

だんだん不景気になってくる時代でした。


やがて日本が、満州事変、二・二六事件などを経て日中戦争・太平洋戦争へと突入していく前夜に当たるころです。


三月に満州の建国宣言が行なわれ、五月十五日には右翼と軍人とによる犬養首相らの暗殺が行なわれた五・一五事件が起こります。


そうした激動の昭和七年、

わたしは大学を卒業します。


ですから、なかなか職がありません。

保険会社の外交員になって大いに威張っていたようなものもいる。そういうような時代でした。


まさに〝大学は出たけれど〟みんな失業者

といっていいありさまでした。


風船玉に重役らしい顔をかいて、それを踏みつけてパーンとやる漫画があった時代です。


学校の成績に優が多かろうと少なかろうと、どうせまともな就職はできない状況でしたから、


ある意味では、


自分の好きなことをやるのに、いい環境であったともいえます。


つまり、


学問でもしようかというばあい、

ひどく不景気か、


あるいはたいへん好景気のときがいいのです。


中途半端なときは、心にもないことをして、優をとりたいという気持ちを起こさせますから、どうもよくないようです。


勉強するときには、

むだな努力がいかに尊いか

ということを考えなければいけない。


すべてがすぐ目に見える効果的な勉強をねらっていたのでは、歴史の勉強はできない。


勉強というものは、まことに

むだの多いものだ。


自然科学でも、三年五年とやって成功しないばあいもあるし、否定的な結果しか出ないばあいもあるのだ。


だから、


むだのない勉強をするという

考えは捨てなさい──。


ひとの悪口や不平ばかりいっていたのでは、いい社会はできないし、


世の中は成り立ちません。


家庭においても、団体においても、

いい意味の刺激を受け合う状況をつくること

がだいじであり、


そういう状況のなかで、 

自分の心の糧となるものをハッと感じとる。


そうした気合いのかかった人間関係をつくることが、切実に求められます。


そうでなければ、


みんなで生きているこの世の中がつまらなくなります。


世の中をおもしろいと感じとるのは、

金持ちになったり、権力をにぎったりすることではなく、人間関係の妙味を感得することなのです。

どんな山村でも、全体の経営がうまくいっているところでは、青年団とか婦人会とかは余暇を読書会に当てています。


文庫本とか新書版などの、いい本が、そこでいくらでも読めます。老人は俳句の会などを開く。

そうすれば、苦難の世紀ではあるけれども、いまに、はじめて西洋とまったく対等の地位に立って東洋を主張できる時期が必ずくるにちがいありません。


いままでは植民地化され、東洋は、西洋を先生と仰ぎ見ていたけれども、もうそういう時代ではなくなりました。


このことを政治に反映すれば、日本の独立ということを、ほんとうに考えるときがくるのです。


精神史的にも、ワビ・サビ・禅ではなく、

学問的に

日本人の精神の自由を

かちとるときがきます。




▷▷▷▷▷▷▷▷

もし、彼らが彼らのまま
戦中に生きていたら…

知力、学力、進学の機会が
どうであろうとも

長男が招集されることはない。


歴史を紐解けば紐解くほどに、長男が
14歳以降に生存しているという説明をつけることができなくなるからである。

りくはどうか。と考えた時

今現在の彼が
「今、考えていること」さえも
ほとんどわからない母親としては

もしの世界に入っていけない
現実があった。

「考えていること」がわからないのは
母親と男子という性差や立場による必然的なものだろうと、深く考えようともしなかったが

もしかすると
トンビが鷹を産んだという
両者の生物性の違いによるものなのかもしれない。


つまるところ
「育て方」によってトンビが鷹になるのではなく、トンビが産もうと鷹が産もうと

最初から鷹は鷹なのだ。

仮に、このテーマで彼らの記憶を辿らせた場合にも
それはそう、と言うであろうから家庭内では満場一致である。
拠は過去記事にいくらでもある。
 
それを前提として深掘りしてしまうと

鷹を生むトンビというのは、普通のトンビとちがいがあるのか、あるとすればそれはどこか。

という疑問が生じたが、
それを解明する方法はわかってきた。

要するに


むだな努力がいかに尊いか

ということを考えなければいけない。


すべてがすぐ目に見える効果的な勉強をねらっていたのでは、歴史の勉強はできない。



そういうことを、


トンビがわかっているかどうかで

鷹自身から生まれる後付の能力が変わるということはあるだろうと思う。








我が子の育ちや教育に関して、コストパフォーマンスの良し悪しはそんなに重要なことではないと思っていたけれども
 
それは、お受験等が盛んではなく効率、いゃ公立主義とかいう以前に

多くが何の疑問もなく地域の公立小中学校にすすんでゆく地域性のためもあるだろうし

長男自身が「結構ケチ」だったからだと思う。




 
こういう『もし』を考えるときに
いつも思うことは

私達は、普段「もし」の話に
時間を割くことがあまりないということである。
 
というよりも、もしかしたら

母親である私は
「もし〇〇だったら」と彼らに 
問いかけたことがないのかもしれない。   



ではなぜ、私達は

仮定の話ができないのか。