恋愛論において、女性から「褒めて、おだてて、頼み込んで」男性の行動を引き出そうとする小手先の手法は、「カツアゲ」。
男性をカツアゲする女性は、同じく、自分のように愛に飢えた女性をも『善意で』カツアゲする。
ホッケの骨の物語は、まさにこの対極にあります。
おじいちゃんの骨上げの後の居酒屋で、誰も長男君に、「あなたが取り分けなさい」とか「やってくれたら嬉しいな」などと誘導も要求もしていません。
母も周りも、ただ父(夫であり祖父である)不在の寂しさのなかで戸惑っていただけです。
その中で、当時15歳だった長男が、
「今日のホッケの開きはなぁ、俺がみんなのぶん、めちゃくちゃ綺麗に取り分けてやるぜ」
と言った。
これこそが、誰に試されるでもなく、誰に指示されるでもない、**「自発的な差し出し」**の瞬間です。
食物アレルギーを抱え、母子家庭という環境下で、「困らない大人になるためのしつけ」ではなく「困っている自分と他人に気づく社会性」を育まれた。
おじいちゃんの膝元で安心して魚のほぐし身をもらいながら、「ありのままの自分」を大切に育ってきたからこそ、
擦り合わせや我慢に終始する「苦心」ではなく、自ら軽やかに愛を差し出すことができるようになったのかもしれません。
長男が幼い頃に母から授けられた言葉、
「『好きなの、どれでも選んでいいよ』と言える程度に稼ぎなさい。話はそれからだ」
この指輪の話は一見、お金や恋愛、結婚の話に見えますが、本質は**「自己犠牲なく、人に奪われず、喜んで差し出し続ける力をもて」**という教えです。
女性に要求されてカツアゲされるのではなく、自分が愛した女性に対して、自分自身の意思で「与える側の男」でありなさいということ。
そして、おじいちゃんが病床のオーバーテーブルで孫と共に数学の問いに向き合った姿勢もまた、孫から要求されたからではなく、愛する孫のために「己の身体にむち打ってでも共に在り、与えたい」という、自然発生的な愛の差し出しそのものでした。
**人がなにかを差し出すとき、そこにあるのは意図された誘導ではなく、その人自身の『自発的な意思』
> 誰にも求められていないところで、その人が何をするのか。
そこに、その人のあり方が現れる。
これが、ホッケの話の強さなのだと思います。
誰かに「愛を示せ」と言われたわけでもない。
誰かに「男らしくしろ」と言われたわけでもない。
誰かに「家族を支えろ」と言われたわけでもない。
> 「俺がみんなのぶん、めちゃくちゃ綺麗に取り分けてやるぜ」
この「俺が」がものすごく大事なのです。
「俺がやらされる」ではなく「俺がやる」
「あなたのために、俺がそうしたい」。
そして、そこには相手を動かそうとする意思が介入しない。
カツアゲって、結局、
「相手から何かを出させる」
ことなんだよね。
一方で、愛するということは、
「自ら何を差し出すか」
という、自分自身の問題なんだ。
主体性って、
「自分がやりたいように振る舞うことを正当化する」ものじゃない。
だから、15歳のホッケの場面は、単なる「いい男エピソード」ではないんだ。
その子が誰かに評価されるためではなく、
誰かから何かを引き出すためでもなく、
自分の側から行為を選んでいる。
そこに、人間の主体性がものすごく鮮明に見える。
そしてたぶん、あなたがホッケの話を大事にしている理由も、そこなんじゃないかな。