日常的に「傷つき」「思い込み」「心のクセ」を探す人は、当然そこに感度が高くなる。


だから、それ自体は専門性でもある。


でも、そのレンズが強くなりすぎると、


傷つき → 不幸

苦しさ → 思い込み

選択 → 心のクセ

問題 → カウンセリングで外すもの

という変換が起きる。







母親と幼い子供たちの写真


二人の子供の写真




 

これって、子どもの側から見たら

「母は自分を捨てて、自分だけ幸せになった」

という話ではない。


持ち歩いていた写真を見て、

「母は僕らを見ててくれたんだ」

と受け止めた。


つまり、母親が自分を忘れていなかったこと、母親にも母親の人生があったことを知ったわけでしょう。


それって、

「母親の思い込みによって親子が不幸になった」

という、この人の商品説明に都合のいい物語とは、ずいぶん違う。


しかも、

『伝えてあげたらよかったのにね。』

って、ものすごく上からなんだよ。


「伝えられなかった母」と「伝えてあげるべきだった母」を、第三者が簡単に裁いている。





 


親の幸せを心から願う子どもの気持ちは、カウンセリングルームの「傷トラウマ物語」なんかよりもずっと広くて深いものです。


それを「不幸」という型に押し込めること自体が、その子の持ち得る誇りや愛を奪う最大の加害になってしまう。


​自分の体験や職能という小さな「箱」に閉じ込められた人ほど、その箱から溢れ出るような「他者を想う人間の温かい矛盾」を理解できず、安易な「〇〇説」に回収したがるのかもしれません。


​他者の内面を安易に決めつけず、「ただその人がどこにエネルギーを使っているのか」を静かに観察するその眼差しこそが、思考停止や感情論からもっとも遠い場所にある「本当の理解」なのだと感じます。


Gemini






「誰の味方なのか」というより、

「自分の商売が成立する物語の見方」をしているんだと思う。



「幸せになっていい」

「罪悪感」

「思い込み」



親から傷つけられた経験(を自覚している)って、子どもの側からものをみることが苦手になるのかもね。



他人のドキュメンタリーを『不幸な母子』に回収するのは


「自分のため???」は鋭いんだけど 


こういうケースの「自分のため」って私利私欲じゃなくて


自分が持っている『幸せになるためには思い込みを外す』という世界観に、他人の人生を当てはめている

というほうが正確かな。


その結果、子ども側の

> 「母が幸せに暮らしていて良かった」が、

なかったことになっちゃって


『不幸な母子の物語』として回収されちゃう。






『パートナー』 との関係が『中心テーマ』として位置付けられている 場合

彼は何を考えているんだろう。
どうしたら二人の関係がうまくいくんだろう。

どうしたらもっと私たちは安心して暮らせるんだろう。

どうしたら私たちは
いつまでももっと幸せに。。。。。


ということに、

何年もいつまでも
エネルギーを注ぐことになりかねない。

つまり、『安心するために膨大なエネルギーを注ぐ』ということ。

そこにいるはずの
子どもが出てこないのは


つまり、
エネルギーが向いている方向が違う、ということです。


ふたりの間の関係に、子どもの未来まで加えてしまっては、

そういう親は、永遠に安心することができなくなるからです。

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もう一つ考えられるのは、「関係から得たいもの」の違いです。

パートナーシップにそれだけのエネルギーを注ぐ意思をもてるのは、

なによりもその関係が、
自分自身の幸福感に直結するからです。



だから、その関係を良くするためには、相手を理解しようという動機が強く働きます。

一方、子どもはそのような親にとっては、自分の人生に充足を与えてくれる存在ではありません。

そのため、
子どもの内面を丁寧に理解することよりも、

ただ子どもが自分(親)に気苦労をかけさせないように育ってくれたらありがたいな、ということに関心が向いてしまいがちです。


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もっと根本的な問にすると

> 「なぜ、他者の内面に対してそれだけの執着力をみせるのに、自分の子どもにだけは向かわないのか?」

そこにとりたてて答えはありませんが
「 誰の内面を理解することにそのひとが価値を置いているか」、を道筋におくほうが思考停止や感情論は避けられるかもしれません。

「人の心を見る力がない」でもないし「子どもの心をみる意思がない」のでもない。

ただ単に
「その力をどこに使っているのか」が違う。



たぶん、それを説明するのに「愛情の有無」や「善悪」はあまり役に立たないんだよね。

なぜなら、本人たちの中では子どもを愛しているという自覚も、子どもを大事にしたいという意思も『ある』ことが少なくないから。


逆に言えば

事情があって
子どもを手放した人たちは

想像しがたい苦しみを背負っていることも多いということ。

それは、『離婚したんだから、子どもを脇においてでも幸せになってやる!』と対になる程度の

『わたしは幸せになってはいけない』なんていう浅はかな罪悪感の話なんかじゃない。

本当に子を思う人は
引き取れなかった子どもに、いつまでも愛情を失わないままパートナーと幸せに過ごすこともできるし

パートナーがいなくても
幸せに生きることができる。




自分を引き取らなかった側の親の幸せを、
心から願っている子どもだって珍しくはない。


そういう関係を『幸せじゃない』と簡単に括るのは、自分の経験に閉じ込められてる人たちなんだよね。


皮肉な話だけど、


この人たちのいう「○○説」って
職業的なレンズなんだよ。

日常的に『他人の傷つき』に目を光らせてるから
加害的な行動をみても、まず『理解』しようとする。


それは仕事として大切な力、なんだろうけど



『傷つき』や『寂しさ』『苦しさ』を恨みに変えていない行動をみても『不幸』として理解しようとする。



> 性善説って、「もっとまともな人間はたくさんいる」ってことでは?

という言葉を言い換えると、

「人間に悪意がないことと、その人と一緒に生きられることは別」だし

「悪意なく人を『不幸』に括ることが、一番人を傷つける」

ということだと思う。