人間の子供は
親以外にも多くの人々の手で
育てられるように
生まれついている。




頭でっかちの成長の遅い人間の子供は、長い離乳期と心身のバランスが崩れる思春期に多くのおとなたちの支えが必要となる。

こうした子供たちの育児を通じて

人々は自己を犠牲にして
未来に託す共同の精神を育んできた。









 





再婚推奨論



私には、元ホストの友人がいる。

彼が熱弁した
「男の子には父親が必要論」

その少し前に、彼は自分の身の上話をしていた。

子どもの頃、私が彼の父親だと思っていた男性は生物学的にも彼の実父であるが、その頃にはすでに母親の夫ではなくなっていたのだそうだ。

やや深刻な事情があって
(彼はものすごく面白く話すのでつい書きたくなるけれども割愛する)

籍を抜いたあと、‘’彼の妹が結婚するまで‘’と期限を設けて一緒に暮らしていたのだそうだ。

十数年がたち、彼の成人に前後して実父は亡くなった。

その後帰省するたびに
「母親の名字が違う」
「自宅が変わる」
「知らない人の仏壇がある部屋に寝かされる」
という、成人した子どもとして珍奇な経験をしたという。

そして、何人目かの継父と実母の落ちついた関係が築かれた頃には、彼自身が結婚と離婚を繰り返していた。

その継父には私もお会いしたことがある。とても気さくな男性で、人助けを職としていた。

そんな話の流れの途中に
私の離婚の話が流れ入りつつ

「そういう職はリスクがあるっていわれているけど、保証もしっかりしているから大丈夫なんだよ。殉職したっていいんだよ。家族の生活は保証されるんだ。」

と彼は話して

家族のために 命を懸けて
他人を助けて 立派に死んでいく。  

そんな男としての
     人生だってあるんだ!

と言った。



浮気相手に対するメールを
本妻に誤送信してしまうような
人生をかけたエンターテイナー

3回めの結婚のとき
実母からは
                                   
これで 最後にしなさい
これで離婚したら
お前はもう二度と結婚するな

と言われたそうであるが
その後もまた、再婚している。



 
心底  不思議に思い聞いてみた。
「どうして   結婚するの?」


いつになく 
ちょっと間をおき   

考えながら 彼が答えた。

俺は本当は
結婚しなくてもいいんだけど

この年になって付き合うと
結婚する気があるかどうか
          って話になるんだよね

結婚する気がないなら
                       別れるのか

そうなると


結局 その時点では
別れたくない相手なわけだから
結婚するんだよね…

好きだから別れたくないから結婚するんだけど、好きな人ってまたできるわけで。

でも、だからって 俺は
離婚したいわけじゃないんだ。

子どもだってかわいいと思うしさ。
子どもには父親が必要だとも思うし。 

でもね、女の人は
付き合うと結婚したがるけど

結婚してから他の人と付き合うと、離婚したがるんだよ。


俺は
結婚したいわけじゃないし
離婚したいわけじゃない。

男の子には絶対父親が必要だと思う。
うちの親父って、あんなんだったからさ。

妹が結婚するまでのただの同居人って、母親が言っていたくらいだし。

俺が男として芯がないのも、そのせいかなって思っているから、余計にそう思うんだよね。



酒宴の戯言とはいえ
彼の言ったことは、とても重要なこと。

ほんとうは、この記事を書くときにはなんとなくわかっていた。


元ホストの
突飛な思考回路

そんな叙述をしながらも

               
 
高校受験の数学は15点で                        
                        高校時代の数学は2

歴史と地理は 得意だったらしい。

こんなことまでわざわざ書いたのは
彼が、地政学的なものの見方をする男性だからである。

 





〈地政学の基本概念〉
概念1:相手国を「コントロール」する
概念2:「バランス・オブ・パワー」戦略
概念3:「チョーク・ポイント」をおさえる
概念4:「ランドパワー」と「シーパワー」のせめぎ合い
概念5:領域を表す「ハートランド」と「リムランド」
概念6:「拠点」の重要性




戦争を肯定する気はないけれど

侵略 制裁 自衛
目的はいろいろある。


我が子が幼い頃、もしまた日本に徴兵令が発せられたら??と考えたことが何度かある。

そして、

「女の子だと言い張る」
「納戸に隠す」

という選択肢のうち、どちらが良いかと思案したのは若気の至り。

「人口問題」「少子対策」「男女平等」「ジェンダー」だけでなく「弱者男性」という四字熟語まで新聞に掲載される現代に、徴兵令が発せられるとしたら、そのときには年齢も性別も「平等」が盛り込まれるのかもしれない。

彼と話したとき、私はまだ「男子を育てている途中の母親」で

とくに男子には「父が必要」なのではなくて、「父が必要」なのだということにこだわっていた。

ただ、長男は3歳 次男は1歳にして 
父なき子になったことを踏まえれば




「父はなくても子は育つもの」だと思い違いをしたり、「男女同権」「男女平等」の意を都合よく勘違いした上で「女性は強いものだから」を言い訳にして自分は弱者に甘んじるような、浅知恵に振り回される人生を望んではいないようには思うが


そういう思考が育つリスクをはらんでいるということだと、私自身は自覚してきた。



結婚と離婚を繰り返す男性による「男子には父親必要論」を記事にしたときにも、私はまだ

子どもがいる母親のつもりだった。

だから
「彼の言ったとても重要なこと」
について、

「説得力があるのかないのか」
「太っている人が言う『痩せるのって大変だよ』と同じこと」

と書いた。


そういう、ちょっとマニアックなこだわりは「息子たちの無意識」に


俺が男として芯がないのも、そのせいかなって思っているから、余計にそう思うんだよね。

こういう地雷とか呪いのような感覚を植え付けてはならないという、(離婚を選んだ)私から(子育て中の)私への戒めであり自衛でもあった。



母子家庭の真っ只中にいた彼らがその境遇に因して自己憐憫に陥り、「自分を甘やかしてもいい理由」として自我に取り込まれてしまうことがあれば、彼らに対して忍びない、という思いがあった。


母子家庭や離婚に関する子どもへの影響をまとめたようなサイトは、育児や教育、受験や結婚と同じように、今やネット上に溢れている。


 

「サバルタン」という社会学の用語がある。サバルタンとは、思いきって単純化してしまうと「語ることを許されない弱者」のことだ。



「いまどきの若者」

「自己肯定感」

「男は」「女は」


それらと同じように出回る「母子家庭一般論」は、切り口や論調によるが酒宴の戯言のようなものも蔓延している。


その戯言が大事かどうかは、人によるしタイミングによるし、なによりも解釈の仕方による。


個人的には

「父はなくても子は育つもの」だと思い違いをするリスク以外の、その他いろんなこと(経済力や育児力、教育力の低下)については、不況下で共働きが標準とされる現代においては、とりたてて母子家庭に特異性の高い課題であるとは思わない。


それはもちろん、きわめて個人的な感想である。



サムネイル
 

人類を束ねて二つに割って、その二群がどう違うかという話は、本当はあまりしないほうがいい。


論理をそのまま自然にあてはめると、しばしば使いものにならない。


自然はじつは割り切れない。


だから、〇〇の差も、

生死と同様

絶対的なもの

ではないのである。



つまるところ


「親がひとりしかいない」

私達は、その現実を気にかけて思いやりのある目を向け手を貸してくれる人に、たくさん出会えたということである。


大変ありがたいものであったと今も昔も心から思い


当事者である息子たちは

それぞれに、育つ力をもっていたのだろうことにも間違いはなく、


私自身の自衛の措置はやや過剰だったように思う。



立派に命を懸けなくても

元気に楽しく生きてくれたら

それでいい。


バカでもいいから、

生きていてくれたら、それでいい。


それは、子どもの母親だった私の本音であるが



まこちゃんはやっぱり母親

その考え方は母親だよ。


家族のために 命を懸けて
他人を助けて 立派に死んでいく。  

そんな男としての
     人生だってあるんだ!

これが、とても大事な話であることを改めて書こうと発掘したにはわけがある。



 



 

実は息子たちに

母(祖母)と私は


災害緊急時

私達のことは一切気にせずに

逃げるべき時を見極めて一目散に逃げなさい。


と繰り返し伝えている。


彼らは既に大人であり

弱者ではないからである。


彼らと未来の家族の命

そして幸せを必ず守ってもらいたい。


我が子というのは授かりものでもあり、預かりものでもある。


いずれは社会に返すもの





男子を産み育て

まともな大人の男性に育てた

自負のある母親だからなのか。


このたびの災害関連ニュース報道のなかで、もっとも堪えたのは


妻子を亡くした男性のインタビュー

だった。


瓦礫の中で

「なにもいらないから、家族だけ返して欲しい」


遺影の前で
「生き残った自分が、
ここにいた家族の存在を伝えていく」

TVカメラの前で気丈にそう言う男性たちの強さに敬服しながら

ほんとうは
自分の命に変えて守りたかった。


そんな彼らの本音が見える気がして
そこに共感したときに

息子たちが、すでに

成人した男性であり、


私は

子どものいない母親であることを

痛感したのである。