社会人2年めが終わりに近づいた長男が帰省した。

卒論を出し終え、就職を4月に控えた彼女さんとの2人旅の途中である。

家族持ちの先輩社員らが休暇をとるべき年末年始や3連休

そこを避けての連休取得が、2月の上旬だったということらしい。


私達家族だけではなく
行く先々で旧友に会いながら
冬の北国を巡るのだという。


防滑靴は?
手袋は?
マフラーは?


関西育ちの彼女さんにとって、2月の北国は予想以上の厳しさであろう。
明日から巡る雪国イベントの数々を、楽しく安全に過ごすにあたってのいくつかの心配事を口にしたら

彼女さんが、橋本環奈さんを思わせる大きな瞳で私の目を見て笑顔で答えた。
「長男さんに、買っていただきました。」

雪国旅行初体験の彼女さんのための
暖かい配慮

15年前 小学生時代の長期休暇
電車を乗り継ぎ父親とそちら方の祖父母のもとへ、弟を連れていっていた頃の長男を思い出した。

私は、母子家庭で彼らを育てることに決めた時から長い間、父親不在の家庭で育つ男子たちにとっての「男性像」とか「父親像」がどう形成されていくのかということに、母親としてまた離婚を経験した一人の女性として極めて高い関心をもっていた。

〇〇像
個人的に関心を持ちながらもそれは、他人であり異性である私が形作ることができるものではないし、そうすべきでもない。

そう思っていながら
今も印象深く覚えているのは

長男が中学卒業時に学校で書いた親への手紙である。

その書き出しが「女手一つで男子を育てるということは」だったからである。

彼が4歳になる頃にはすでに
父親がいなかった。

そういう意味では、彼にとって日常的に親役割を担っているのはずっと私一人であったのにもかかわらず

彼自身が自分の15年間の生育歴を「女手一つ」という特殊な事情として捉えていたことを示したエピソードである。


母親一人家庭で育った
男子兄弟


彼ら自身は今どう感じているのだろう。

少なくても
「父はなくても子は育つもの」だと思い違いをしたり、「男女同権」「男女平等」の意を都合よく勘違いした上で「女性は強いものだから」を言い訳にして自分は弱者に甘んじるような、浅知恵に振り回される人生を望んではいないようには思うが



母子家庭で男子を育てる

ということは  

そういう思考が育つリスクをはらんでいるということだと、私自身は自覚してきた。



 

社会で生きている限り、リスクがゼロということはない。どんな問題でも、リスクとベネフィットのバランスでものを見ていく必要がある。しかし過剰にリスクを0にしないと気がすまない「ゼロリスク信仰」が根強いのはなぜなのか。



 

そこには、「安全」というものへの私たちの奇妙な感覚が見え隠れしているように私には思える。

わかりやすく言い換えれば、
「安全」を誰が決めるのかがはっきりしていない。

そこに明確な基準を日本社会は持てないでいるのではないかということだ。

「安全かどうか」は、それぞれの分野で信頼されている専門家による裏付けが必須である。

専門知にリスペクトし、専門知を学ぶことによってしか「安全かどうか」「どのぐらい安全で、リスクはどのぐらいあるのか」ということは判断できない。

しかし「ゼロリスク信仰」が蔓延する現代の日本社会では、そこが大きく揺らいでいる。原発事故でもコロナ禍でも、専門分野ではないような人がメディアにひんぱんに登場し、専門家の集団とはかけ離れた知見を披露して世論をミスリードするような光景が、たびたび見られた。

ではこのメディアの構図のなかで「安全かどうか」を決めているのは、いったい誰なのか。

それは「勝手に代弁された弱者」である。

なぜそういえるのか。それはゼロリスク信仰では、次のような言い回しが非常に多いからだ。

「あなたは弱者の前で、そのリスクがゼロではないと言えますか?」

この言い回しでは、リスクについての判断が「弱者」に ゆだねられてしまっている。

そもそも現代の社会において「弱者である」ということは、きわめて批判しにくい対象になるということである。


だからこのゼロリスクー弱者の構図では、ゼロリスクへの批判は弱者の批判になってしまい、それは許されないということになる。

つまり「弱者」を盾にすることによって、自分自身がリスクをマネジメントすることを負うのではなく、「リスクがゼロではないことを弱者は受け入れられない」と勝手に彼らが代弁し負わせるという構図をつくってしまっているのである。ゼロリスク信仰がいっこうになくならず、固定されてしまうのは、この「弱者への委託」という厄介で根深い問題がある。


振り返れば私は新聞記者の駆け出しだった1980年代末、上司や先輩から口を酸っぱくしてこう言われた。

「社会的弱者に光を当てよ。それによってわれわれの社会のゆがみが、逆照射されるのだ」

私たちの社会「そのもの」を描くのではなく、弱者を取材し、彼らに焦点をあてた原稿を書くことによって、私たちの社会のゆがみや問題のようなものが浮かび上がって見えてくる。そういう視点の取り方が、当時の新聞では王道的な手段だったのである。

経済的格差の広がった今でももちろん、実際に困難にある現状を取材し、警鐘を鳴らすことは重要で、それにより社会問題を明るみに出すことができる。それは否定しない。

しかしこの「弱者に光をあてる」手法は、ふたつの厄介な副作用を引き起こした。ひとつは、この構図ではマスメディアが弱者を常に「代弁」しているのであり、弱者自身が直接語る構図にはならなかったこと。そしてもうひとつは、そのように代弁された弱者が絶対化されてしまったことである。



「サバルタン」という社会学の用語がある。サバルタンとは、思いきって単純化してしまうと「語ることを許されない弱者」のことだ。

つまり自分たちを定義する権利そのものも奪われてしまうのがサバルタンなのである。

「自分たちはこうだ」と
自分で定義できない存在

元来は「下位の階級」を意味する軍隊用語だった。そこから無産階級を意味する言葉に転用され、現在の文脈で用いられるようになった。

ある弱者たちがいて「わたしたちは○○である」と主張する。しかし影響力の強い第三者が「彼らは△△である」と規定してしまうと、その弱者たちは○○とは認めてもらえず、△△と扱われてしまう。


たとえば今の日本の若年層は、典型的なサバルタンといえる。

「いまどきの若者は……」「若者のクルマ離れ」「若者の恋愛離れ」と勝手に決めつけられ「若者が恋愛もできないなんて」「クルマに興味がないなんて」と可哀想な人たち扱いされる。

しかしそうやってテレビで語られている若者のイメージは、本当の若者ではない。

実在の若者が自分たちが恋愛をしない理由やクルマを買わない理由を切々と説明しても、テレビ番組は耳を傾けない。テレビで語られる若者像は、テレビにとって都合が良い抽象的な「若者」でしかない。

このように実在の人びとのリアルな思いを無視して、都合のよい抽象的な存在へと変えてしまう。それがサバルタンの問題である。実際にはさまざまな矛盾もかかえ、いいところも悪いところもあり葛藤している生身の人間が、彼らを勝手に代弁するマスメディアによって別のモノへと変えられてしまうのだ。


このようなサバルタンこそが、実はゼロリスク信仰を生み出すひとつの大きな要因となっている。ゼロリスクを言う人は「あなたは弱者の前でリスクがないと言えるのか」とサバルタンを盾にすることで、自分の言説の絶対性を補強することができてしまう。

そういう構図がつくられてきたからだ。

ゼロリスク信仰の人たちは、自分自身がリスクをマネジメントする責任を負うのではなく、サバルタンにしてしまった弱者に「リスクがゼロでないことを彼らは受け入れられない」と勝手にリスクを負わせてしまっているのである。まさにさきに書いた「弱者への委託」である。


リーダーは「リスクを減らすようにしろ」ということは言えても、「リスクをゼロにしろ」という非現実的なことは言えない。

リスクマネジメントとは、弱者を盾にしてリスクをゼロにすることを声高に叫ぶことではなく、現状でどんなバランスを取れば最善なのかを考えることである。



人を、依存と無責任の地位においてはいけない。


それは、自分の選択以外のことに、生きにくさの原因を見て、本来の責任を見えなくするということだからである。


アルフレッド・アドラー