長男が就職して2回目、次男りくが大学生になって3回めのお正月を迎えた。



 


昨年の記事である。


 

「今年の正月は

君が就職してから、最初の正月。」

「実家で過ごしなさい。」


社長からの、直々のお言葉なのだと言う。



最初の正月

「なるほど。」と、私は思った。


結婚してから、最初の正月

子どもが生まれて、最初の正月


子どもの「就職」はたしかに

家族という集団の、変化の局面である。


一年前、学生最後の年末は


りくが彼女からプレゼントされたトレーナーを一年近く借りパクした挙げ句に

「おまえが言ってたやつ、これだろ?」と、欲しがっていたものをお土産に買ってきたかのように差し出した長男であるが



社会人初の年末は


「柿の葉寿司」を差し出して、「社長から、ご家族みなさまでどうぞ、ということで。」と言った。



今年、長男が帰省しなかったのは年末年始の待機番ができるようになったということだと思うので、大変頼もしく喜ばしくありがたいと思う。


もしかしたら今後、一緒に年を越すことはないのかもしれない。


とも思うけれど


それが成人した息子を持つ母親として寂しいことなのかどうかは、まだわからない。


ただ、家族という認識をもちあう集団が同じ空間に揃い「おめでとう」を共有する。


その価値に改めて気づくのは皮肉にも、なにかの都合で誰かが欠けたり何かが起きた年の節目だったりする。




平成の終わり頃

長男が大学生になった

夏の帰省日


彼が一人暮らしを始めた地には、台風が吹き荒れていた。


空港に向かう途中、通り抜けた駅構内のガラス屋根は、その数時間後に崩落しその様子は瞬く間に全国に拡散された。


たどり着いた空港で

乗り込んだ予約便を最後に

すべての便が欠航となり 


長男が飛び立ったあとの空港は、高さ5メートルもの高波が護岸を越えたとのことで、滑走路やターミナルが浸水した。


その様子を

奇跡のタイミングでたどり着いた自宅のテレビを見て驚きながら



その翌々日

高校時代の友人との旅の最後、元夫側の祖母のところに向かうつもりだった早朝、大規模地震による全域停電に見舞われた。


信号機が機能しないところもあるなかで、道路陥没 ・断裂 、倒木のリスクと隣り合わせの道中


LINEやTwitterを駆使し、多くの友人たちとつながり支えられ、先の道路情報を得ながら夜遅くに帰ってきた。


21時 LINE

そろそろ  家に着きそうだよ。

飯はある?


心底ほっとした感覚を、過去記事を読んで思い出したが             


「飯はある?」この意味が

                                      

「俺の飯はある?」ではなくて

家族への心配と思いやりで


帰路  コンビニに残っていた食糧や

スーパーの前に並べられた非常食を買えたよ。 という連絡だったことを思い、改めて長男が


この頃にはすでに「大人」だったのだということを噛み締めた。


午前3時、私達が住む地域の最大震度は6で、直後に私は出勤要請に応じている。


そのとき、りくは高校生で

休校になることは

予測できたから

同居の私の実母を彼に託した。


実母がそのときにしきりに口にしていたのは


「おじいちゃんとおばあちゃんがいたら、不安な思いをしただろうね。」


とか


「もし今も(生きて)いたら、どうしていただろう」ということ。


私の祖父母のことであるが、このときにはすでにふたりとも亡くなっていた。





この数年前

長男とりくが小学生だった頃


私達は台風で送電線の鉄塔が倒れたことによる、一週間ほどの停電を経験していた。


季節は11月、暖房なしでは過ごし難くなっていたが、両親に休校の子どもたちを預けて私は出勤した。

 

翌日には、その翌日にはと期待しつつ周囲の復旧からやや取り残されながら数日が過ぎた頃に、少し離れた町のホテルになんとか部屋を確保することができた。


両親と子どもたちにはその部屋で過ごしてもらいながら、私はすこし遠距離になった通勤をした。


そのとき祖父母は、ちょうどというのか入院中だった。


12年前の被災時 

小学生であった彼らの面倒をみながら、自分の両親が入院していた偶然に安堵していた母は


昨年末から今現在にかけて

入院中である。


容態はそう悪くはないが、自宅で安心して過ごすまでには回復していない。



そういう事情で

令和6年1月1日


地震速報と津波警報が相次ぎ

やがてこの地域にも津波注意報が

出た時


自宅には

私と私の妹とりくがいて



スマホの通知音がなり

予想通りの通達がきた。

現在、第一種配備体制が発令中

第二種配備体制発令にて参集





通常の、今は母と二人きりになった私の生活の中でも、災害があればそれが大きければ大きいほどに、私には出動要請がきて


出動先では近くの保育園から、子どもたちの声が聞こえてくる。


両親が、出勤しなければならない家庭の子どもたちである。



そんなことを思いながら

実母が過去になんども口にしていた「入院中でよかった」が、脳裏をよぎった。



母をどうしようか。

どうしたら、母の安全が守られるのか。  


いくつかのシミュレーションをしながら、


子どもが大人になる

ということは


親が老いるということで


そういう時間の経過を共に過ごしてこられたことへの感謝とともに


今後の課題をどうにかうまく咀嚼しようとしているところである。



5年前の大地震


そのとき、りくの通う高校は

休校になることが予測できた。



と無難に書いたが


実は息子たちに

母(祖母)と私は


災害緊急時

私達のことは一切気にせずに

逃げるべき時を見極めて一目散に逃げなさい。


と繰り返し伝えている。


彼らは既に大人であり

弱者ではないからである。


親も祖母も伴わないほうが

確実に、逃げ切れるはずなのだ。




自分たちは

親のことを気にかけずには

いられないのに


彼らには

彼らと未来の家族の命

そして幸せを必ず守ってもらいたい。


自分勝手なのかもしれないが


我が子というのは授かりものでもあり、預かりものでもある。


いずれは返すもの




とはいえ

子どもを生んだ人間である私が死ぬ時は、できるだけ孤独ではないほうがいいのだろうと思っている。



つまるところ、


子どもを

生み育てることは

自分自身のため



であるが



孤独死をできるだけ避けるのは

自分自身のためではなく


親亡きあとの人生を

大人として生きて

いかなければならない

我が子のため


だと私は思う。



だから


子どもを生み

少なくてもまともに育てた

自負のある人間の一人として


できるだけ

孤独死は避けるべき事柄であり



なにかの都合で

そうなってしまったときのために



「それはそれでいいのよ。本望なのよ。私は」ということを


息子たちには、今後も

機会あるごとに言い伝えておこうと思う。



養老孟司先生の言う「死んで困るのは自分ではない」の意にそぐうのかどうかはわからないけれど


人の命は「あなただけのもの」ではないというのは確かだし


子育てに正しさを求めてもきりがないのと同じように、死生観に正しさを求めてもきりがなく


人命や人権は、人同士で奪ったり奪われたりしてはならないものであるという倫理観を失ったときは人ではない。



大人になった子どもの親と

後期高齢者になった親の子ども


そういう立場で

少なくてもいまは

そう思う。






私の住む地域は、現在とくに被害はなく落ち着いています。


被害の大きい地域から遠方ではありますが、それだけに微力ながらできることがあるかもしれません。


匿名ブログですので限界はありつつ、お役に立てることがありましたらぜひご連絡ください。


一人でも多くの命が守られ

一日も早く安全が確保され

日常が戻りますように。