一面的な知的能力開発に 

力を入れる教育は


競争原理侵食とあいまって

子供の心への配慮と共感を

失わせている。




存在レベルの「自己肯定感」


それは、関係性の中で育まれるものである。


赤ん坊が泣く。そのとき,わたしたちは,「うるさいから黙れ!」とは言わない。


その「泣き」が何を意味しているのかを理解しようとし,また理解して「そうか,よし,よし,おしめが濡れたのか,よし,よし,いまおしめをかえてやるからな」という風に向き合う。  


その時,私たちは「小便などして,ほんまにダメなやつだ!」とは言わないし


「オシッコができるなんて、立派な子だ」という評価をしているわけでもない。



それは相手の訴えをしっかり受けとめ,理解したという「よし,よし」だし,それでいいのだよというしとやしの「よし,よし」である。


筆者(高垣氏)の言う「自分が自分であって大丈夫」の自己肯定感の「肯定」はこの理解と赦しの「よし,よし」であって,評価の「よし,よし」ではない。


理解と赦しの「よし,よし」は

存在そのものを肯定する。


迷惑をかけて

いいのだよと。


しかし,今日の社会では迷惑を掛ける存在は否定される。


教育とやら子育てとやらによって


受けとめ理解し,「よし,よし」と赦す関係はどんどん失われ


「よい子」でないと見捨てるぞという脅しのメッセージが、子どもばかりでなく親たちをも駆りたてている。

 


痛みと苦しみは

薬と医者にまかせるもの。



腹痛には「正露丸」

頭痛には「バッファリン」

「お腹も頭もいたいねん」と訴えるなら「病院に行け」と言われる。



痛みに寄り添い,手を当てる

そういう関係が失われている。


そのような関係のなかでは,痛みや苦しみは手っ取り早く取り去るべき「やっかいごと」のようにしか扱われない。


そういう扱いを受けるなかで、痛みや苦しみを訴えることは,相手に迷惑をかけることでしかない。だから,感じた痛みや苦しみを訴えることに、消極的になる。


「地雷」と平和の作法


今日の多くの人の内面に,「地雷」が埋め込まれている。


地雷というのは「見捨てられる不安」と「自尊心の傷つきやすさ」のことである。


「地雷」を抱えて生きている人たちの心は、「平和」からは遠いところにあり


その心には,現在の学校や社会が,「地雷原」のように映っているのではないかと思う。


地雷原とは、いつか,相互の「地雷」を踏みあい,加害者・被害者になるのだろうという場である。


それは、長年この問題に心理臨床の立場から向き合ってきた筆者(高垣氏)の比喩的・イメージ的な心象風景である。


筆者は自分の心理臨床実践を,

「地雷処理班」のような仕事に限定することを望んではいない。


そうではなく,

「『よい子』でないと見捨てるぞ」という脅しに支配された関係を,承認しあえる関係に組みかえていくことを援助し,


そういう関係のなかで,「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感が膨らんでくるように援助することをめざしている。


それを支えられるような「居場所」や人間のネットワークを形成し,それを広げていくことを通して,「地雷」を埋め込まない共同体や社会を構築していくことをめざしたい。


そのような心理臨床実践は,教師や親,精神保健福祉士やソーシャルワーカー,その他の関係領域の援助者・専門家とのつながりのなかで実現する取り組みに当然なるだろうし,


その援助の作法は,けっして

人間を「脅し」によって支配しない


という、平和と民主主義を貫くようなものでなければならないと強く思っている。





そうした状態から立ち直り,自らを解放していく主体は彼ら自身なのであり,


周囲の親や教師,カウンセラーや援助者はそれを手伝う脇役でしかない。


その援助の仕事は,


調子の悪くなったテレビを直すような仕事ではない。







 

周囲の期待に応えることによって,はじめて自分の存在が許されるかのような気持ちにとらわれ


なにか『役に立つこと』をしていなければ自分の『居場所』がないかのような強迫観念に駆られている。


自己肯定感と

  セルフ・エスティーム


文化的背景の異なる他国と、なぜかわざわざ比較した上、わざわざ「低い」と啓発し


高いことが良いことであると評価した上、なにかの方法で高くなるもののように錯覚させ、


低いことが不幸の根源であるかのような論調で、脅し脅され競争させる。




 


大丈夫だと思えない。

その心情は


人間が「人材」として商品化され,機会やモノのごとく性能・機能によって評価され,その評価の高低によって,人間の存在価値が測られるようなシステムと無関係ではない。








精神科外来の問診票の

主訴の欄に

「自己肯定感が低い」

と書いて

受診される方が後を絶たない。


自己肯定感ブームは

依然続いている。



自己肯定感が低いと人生終わり的な

商業広告を連発することで


消費者の不安を煽り

「自己肯定感をサクッと爆上げ」

的な本や商材を

買わせようという魂胆。


単純な不安ビジネスなのだが

ものすごくたくさんの人が

簡単に騙されている。


そもそも

自己肯定感を「サクッとあげる」方法など存在しない。


科学的根拠のある、学問的に正しいと裏付けされた方法などどこにもない。


あれば新聞や学術誌で公開されているはずだが、そんなものはないのだ。


そもそも自己肯定感なんてものは人間の成長発達の長い過程で、他の能力らと一緒に「まとまりをなして」成熟していくものだから、


数学や英語の成績みたいにそれぞれ単体でスキルを伸ばすということができない。


ここらへんの理屈(論理)がサクッと理解できる脳みそでないと簡単に騙されてしまうのだ。


 


 




なにか「いい方法」
を使って解決できないか

という発想にとらわれて
子どもと向き合う親は

子どもとの
共感的な関係を結ぶことが困難である。