こんにちは。

今回は「人は打ち負かされた者の奴隷になる」と題しまして、記事を書いていこうと思います。表題は、聖書を読んだことがある方ならご存じでしょうが、ペテロの手紙二 二章十九節の聖句を基にしてあります。

今に始まったことではありませんが、ツイッター等のインターネット上やそれ以外でも、「人は信仰と恵みによって救われるのであり、救いに行いは一切必要がない」という言葉で溢れています。最近では個人的にも目に留まることが多かったです。勿論、わしも信仰と恵みによって人は救われるのだと認識していますが、それだけでは不十分であるとも認識しています。信仰には行いが伴うはずであり、行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。(ヤコブの手紙 二章十七節 参照)と聖書に書いてあるからです。また、「人は信仰と恵みによって救われるのであり、救いに行いは一切必要がない」という教義や、福音の三要素を信じさえすれば、人は救われるという教義は、人にすぎないパウロの書簡を根拠に作り出されたものです。しかし、唯一の神であられるイエス・キリストの御言葉からはそのような教義の根拠を一切見出すことはできません。もし、福音の三要素等の教義が真理ならば、主イエスは、公生涯でそれらことについて公に発言されたか、ご自身が直接選ばれた弟子たちに向けて発言されたことでしょう。そうでなければ、後の時代の人々は知る由もないからです。完全であられる神に落ち度などあるはずがありません。主イエスが語られていないこと、主イエスが直接選ばれた弟子である使徒たちや預言者が述べ伝えていないことは、真理ではないのです。しかし、主イエスは行いについては沢山の言葉を公生涯において残されています。このような事実から目を背けることはやめるべきです。何故なら、すべての人に訪れる最後の審判の時に、弁解の余地が無いからです。何故、人にすぎないパウロの言葉を大事にして、神であられるイエス・キリストの言葉を大事にしないのでしょうか。それは、表題の通り、人は打ち負かされた者の奴隷となるからだとわしは思っています。人によって権威付けられた、人にすぎないパウロの言葉を信じるのか、唯一の神であるイエス・キリストの言葉を信じるのか、今一度冷静に考えてみてください。そして、多くの方が賢明な選択をされることを願っております。アメブロで、真の聖書福音と預言というブログを書かれているミカエル氏は、パウロは偽使徒であることや、偽使徒パウロの反キリスト教義を次々と明らかにされておられます。世の常識をすべて捨て去り、素直な心でこれらの記事を是非読んでみてください。パウロは偽使徒(真の聖書福音と預言 ミカエル氏)偽使徒パウロの反キリスト教義一(真の聖書福音と預言 ミカエル氏)偽使徒パウロの反キリスト教義二(真の聖書福音と預言 ミカエル氏)偽使徒パウロの反キリスト教義三(真の聖書福音と預言 ミカエル氏)偽使徒パウロの反キリスト教義四(真の聖書福音と預言 ミカエル氏)

 

以前にも「行いについて」は記事にしたことがありましたが、聖書を何度か通読してみて確信している事柄でありますので、行いが不要だと思っている方の改心に繋がることを祈りつつ、今回は再度信仰における行いについて調べていきたいと思います。

行いとは、国語辞典で調べると、「物事をすること。行為。行動。」等の意味があります。また、行いと同義である行動という言葉には、「意思や目的をもって、なにかを行うこと。」という意味があります。行動という言葉を更に「コトバの意味辞典」から調べると次のように説明されています。“人が行動を起こすとき、ただ衝動的に、勝手に身体が動いているわけではありません。意識せず身体が動くのは、単なる生体反応です。「行動」には、必ずその前段として、なんらかの思いや意志が存在します。すなわち、「行動」は、感情・思考・行為の三つが合わさった結果であるとされています。”(コトバの意味辞典より引用)と書いてあります。この行動原理を、人を愛することを例に考えてみると、人を愛すると(感情)その人が何を望むのか常に考えて(思考)その人が望むことを行います。(行為)この行動原理に異を唱える人は恐らくいないのではないでしょうか。自身のブログで何度も引用している聖句になりますが、神を愛するとは、神の掟を守ることです。(ヨハネの手紙一 五章三節 参照)について上記の行動原理を基に考えてみたいと思います。神を愛することは(感情)であり、神の掟を守ることは(行為)であります。ではここでの(思考)は何になるのでしょうか。これは神の御心を行うこと以外あり得ません。しかし、我々人間が、神の望まれることを自分勝手に各々考えるのではなく、神が人間に望まれることを聖書から入念に調べる必要があります。聖書から調べる以外、人間には神の御心を知る由が無いからです。また、一部の聖句から結論付けることなく、聖書全体から御心を知る必要があることは言うまでもありません。ですから、聖書の複数回通読が必須となるのです。聖書全体から結論することができる神の御心を表す聖句を一つだけ挙げると次の通りです。我が法を行い、我が掟を守り、それに従って歩みなさい。我はあなたたちの神、主である。 我が掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。我は主である。(レビ記十八章四節~五節 参照)勿論この聖句以外にも沢山の根拠を示す聖句はありますが、今回はこの聖句を選んだに過ぎないです。これらの聖句は、神の法を行い、守ることを主である神は、人に求めておられ、二度同じような言葉を繰り返しておられます。非常に重要な御言葉であるから、二回も述べられ強調されておられるのだろうと考えます。そして、神の法を行う人は、それによって命を得ることができるとまで書かれています。この聖句をも踏まえて、先のヨハネの手紙一 五章三節の聖句を考えてみても、神を愛しているから(感情)、神の御心を聖書から求めて(思考)、神に従い神の掟を守る(行為)と説明できるかと思います。先に引用しました行動原理である、感情、思考、行為の三つが合わさった結果、人は神の掟を守るのです。すなわち、人は神を愛するが故に、聖書全体から神の御心を求めて、そして御心を行うのです。人は誰かを愛するならば、行いが必ず伴うはずです。人が人に対して口先だけで愛を語ろうとも、行いが伴わなければ、人にでさえ直ぐにその人の内には愛などないと見抜かれるではないですか。また、いくら人が口先と偽りの行いで騙し通そうとしても、本当の愛がなければ、少しの間しか騙し通すことが出来ず、行いを継続することなどできないはずです。ましてや創造主である神は、ご自身の創造された被造物にすぎない人の心の中など最初からお見通しであることは、聖書を読んだことがある人なら知っておられると思います。いくら人が主を愛していると公言して、「主よ、主よ」と呼び求めても、口先だけで行いが伴わなければ、神への愛はその人の内には決してないでしょう。もし、人に神を愛するという感情があるならば、何が御心であるかを思考して、神に喜ばれることを行おうとするはずだからです。人の行動原理からもこのように説明できるかと思います。冒頭でも書きましたが、人は信仰と恵みによって救われるのは間違いないですが、世の諸教会等で話される救いには行いは一切必要ないという言葉からは、神への愛を確認することはできません。神を愛するなら行いが伴うのです。

ここでわし自身が注意しなければいけないと感じたことは、先の行動原理として挙げた、感情、思考、行為の中の行為についてです。人は生まれながらの性質として程度の差こそあれ怠惰であり、臆病でもあります。そして、わし自身も未だこれらの性質が根強く残っており完全には克服できていません。ですから、この行為の段階でこれらの性質が邪魔をして躓いてしまうことが日常では多々あります。怠惰や臆病な性質が邪魔をして行動が思うようにできない根本を考えてみると、慈愛が完全でないから、行為で躓いてしまうことがわかります。怠惰であるのは、自分を捨てていないからであると思います。自分よりも神や兄弟姉妹や隣人を優先するならば、怠惰であり続けることはできないだろうからです。自分を捨てて、すべての僕として生きているならば、怠惰である暇などありません。また、臆病であるのは、ヨハネの手紙一 四章十八節に完全な慈愛は恐れを締め出すと書いてある通り、慈愛において完全でないから人は臆病であることがわかります。改めて自我を捨てるための自我との戦いが、様々な問題の根底にあることがわかりました。こちらの自我との戦い(真の聖書福音と預言 ミカエル氏)を何度も読んで実践することが非常に重要であると改めて思いました。

それでは、ここでイエス・キリストは行いについてどのように語られたのか、数多くある御言葉から以下の聖句を引用します。

 

我に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の御国に入るわけではない。我が天の父の御心を行う者だけが入るのである。(マタイによる福音書七章二十一節 参照)

 

聖書を読んだことがある方なら知っていると思われる有名な聖句です。この聖句だけでも「救いには一切行いは必要ない」という教義が嘘であることがわかります。何故なら、口先だけで主イエスは主であるといくら公言していても、天におられる父の御心(神の律法、掟、戒めを守り、行うこと)を行わないと天の御国に入ることができないと断言されているからです。ここで聖書全体から明らかなことですが、神の御心が、何故、神の律法、掟、戒めを守り、行うことであるのか、先程引用したレビ記十八章四節~五節と、ヨハネによる福音書六章四十節とを根拠にして考えてみたいと思います。

 

 我が法を行い、我が掟を守り、それに従って歩みなさい。我はあなたたちの神、主である。 我が掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。我は主である。(レビ記十八章四節~五節 参照) 

 

これが我をお遣わしになった方の 御意志である。御子を見て、彼を信じるすべての者が、永遠の命を得ることである そして、我はその人を最期の日によみがえらせるであろう。(ヨハネの福音書六章四十節 私訳)

 

上記の二聖句を読めば明らかですが、ヨハネの福音書六章四十節では、父の御心は子を見て信じる者が永遠の命を得ることであると書いてあります。そして、レビ記十八章四節~五節には、神の法と掟を守り、行うことによって、命を得ることができると書いてあります。よって、上記ヨハネの福音書の聖句より神の御心は、信じる者が永遠の命を得ることであるとわかるのですが、上記レビ記の聖句には、神の法と掟を守り、行う人が命を得ることができると書かれていることから、神の御心である、人が永遠の命を得るには、神の律法、掟、戒めを守り、行うことが最低限必要であることがわかります。ですから、神の御心は、神の律法、掟、戒めを守り、行うことでもあることがお分かりいただけると思います。しかし、これらを守り、行うことの動機が最も重要であります。主イエスは、マタイによる福音書二十二章三十四節~四十節等で、律法の中で最も重要な第一の掟と第二の掟を語られました。要約すると最も重要な掟は、神を全心で愛すこと、第二の掟は隣人を自分のように愛すことであります。ですから、神の律法、掟、戒めを守り、行う動機は、根底に愛がなければ無意味で虚しいことがわかります。命を得るためだけに、神の律法、掟、戒めを守り、行おうとしても動機が不純であるので、必ず失敗に終わることになり、これは律法主義と呼ばれるものです。話は変わりますが、未だに旧約聖書の律法は廃止されたと言っている人をみかけますが、聖書を読めばそれも嘘であることがわかります。沢山の根拠聖句がありますが、今回は次の聖句を引用いたします。 しかし、主の言葉は永遠に残る。これはあなたがたに福音としてもたらされた言葉です。(ペトロの手紙一 一章二十五節 私訳)この御言葉の通り、主の言葉は永遠に消滅しないのです。もし主の言葉である律法が廃止されたのなら、主の言葉は消滅したことになります。ですから、この聖句からもわかるように主の言葉が消滅することはあり得ません。勿論主イエスの十字架の贖い以降に廃止になった律法もありますが、それは律法を完成するために予め神が御計画されたことであります。また、この聖句には、主の言葉が消滅しないことは我々の福音であるとも書かれています。何故なら、主の言葉が、各時代によってころころと変わるのならば、裁きの時には、我々は確信を持つことができなくなるからです。人間は時と共に言動が変わりますが、主である神は決して変わらない方であるので、我々は主の言葉を信じることができ、裁きの時には、確信を持つことができるのです。まことに、主である我は変わることがない。(マラキ書三章六節 参照)イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ人への手紙十三章八節 参照)とある通り、永遠に変わることのない方であるので、我々は神に信頼することができるのです。

 

話を元に戻しますが、マタイによる福音書七章二十一節のイエス・キリストの御言葉よりもパウロの書簡を根拠にした教義を信じる人は、パウロ教の信仰者であると断言させていただきます。神の御言葉よりも人の言葉を信じる者は例外なく宗教者だからです。この世に蔓延している偽福音は例外なくパウロの書簡が根底にあります。何故、偽福音と言い切れるのかといえば、上記の聖句やそれ以外にも多くのイエス・キリストの御言葉を歪めているからです。先程ご紹介したミカエル氏の偽使徒パウロの反キリスト教義一(真の聖書福音と預言 ミカエル氏)偽使徒パウロの反キリスト教義二(真の聖書福音と預言 ミカエル氏)偽使徒パウロの反キリスト教義三(真の聖書福音と預言 ミカエル氏)偽使徒パウロの反キリスト教義四(真の聖書福音と預言 ミカエル氏)を読めばよくわかります。この世で、人によって権威付けられたものはことごとく疑う必要があります。聖書を編纂したのは人ですから、聖書をも疑わなければならないことに我々は気づかなければなりません。このことを頑なに拒む人の理屈は次のようではないかと推測します。それは聖書がすべて神の御言葉であるから、パウロの書簡もすべて神の霊感によって書かれたものであり、そのことを疑うこと自体神への冒涜だと考えている人がおられるのだろうと思っています。しかし、何度も言うように聖書に多くのパウロの書簡を推薦して編纂したのは、人でありますし、編纂に係わった人が悪しき意図を持ってそのようなことをすることもできますし、実際行われたのだろうと考えます。そして、何よりもパウロは父なる神や主イエスの御言葉と矛盾する言葉を多く残したし、誤解を招くような表現で伝道していること自体が惑わす者にあたり、悪い者であるのです。これらの事実を少しでも多くの人が気づかれることを切に願います。

今回は行いについて調べてきましたが、人にとって祈ることも重要な行いの一つであると考えます。イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(ルカによる福音書十八章一節 参照)と主イエスが語られた通りです。わしは、祈りの大切さを否定するキリスト者はあまり見たことがありません。しかし、自分が知る限りですが、祈りの重要性を理解されているであろう多くの人は、神の律法、掟、戒めを否定する人が多いように思います。律法を聞くことからその耳を避ける者は、その祈りでさえも嫌悪である。(箴言二十八章九節 私訳)主は悪しき者から遠いが、正しい者の祈りを聞かれる。(箴言十五章二十九節 私訳)と聖書にある通り、神は神に従わない者の祈りを聞かれないはずです。この世の神である悪魔が願いを聞き入れて、その祈りを実現させて騙していることも考えられます。サタンは嘘つきの父(アメブロ 真の聖書福音と預言 ミカエル氏訳)だからです。今回は祈りに関しては掘り下げませんが、何事も聖書全体から調べて結論することが、何よりも大事であると思います。聖書を通読されたことが無い方は、自由がある今のうちに、この世の何よりも優先させて学ばれることをお勧めします。最後までお読みいただきありがとうございました。あなたにイエス・キリストの恵みがありますように。