さてさて………

【京都歩兵聯隊跡】の石碑からすぐ。
到着したのは…………ランニングランニングランニングアセアセ


【藤森神社(ふじのもりじんじゃ)神社
京都府京都市伏見区深草鳥居崎町609


今から約1800年前に神功皇后によって創建されたと伝わる由緒ある神社神社だ。


菖蒲の節句発祥の神社神社として知られ、菖蒲=勝負として、現在は勝運と馬馬の神様として競馬馬馬ファンからも厚い信仰を集めるという。

参道の両側にある石垣は、【伏見城】取り壊しの際に城壁の一部を奉納されたもので、伏見城城壁建造時に刻まれた大名の「しるし」が確認できるという。

今回は見逃した……えーんアセアセ次回リベンジだチュー


創建年代や祭神には諸説があり、【伏見稲荷大社神社】同様【藤森神社神社】も理解が難しい神社だチューアセアセ

社伝では、神功皇后摂政3年(203年)三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国深草の里の藤森に纛旗(とうき/いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが【藤森神社神社】の発祥であるとしている。


永享10年(1438年)に後花園天皇の勅により、室町幕府第6代将軍足利義教が稲荷山の山頂にあった稲荷神の社を麓の藤尾に遷座(現:伏見稲荷大社神社)したびっくり

そして、その地にあった【藤尾社神社】を藤森に遷座させて本殿の東殿として祀ったといわれているびっくり

そのため、【伏見稲荷大社神社】周辺の住人は現在でも【藤森神社神社】の氏子となっているというびっくり

その際、元々この地藤森にあった【真幡寸神社神社】は現在地に遷座(現:城南宮)させたというびっくり


東殿には、稲荷山の麓の地で崇道尽敬皇帝(舎人親王)を祀る神社として創建された【藤尾社神社】が遷座され合祀されているお願い

なるほど上差しそれで舎人親王がここに。


祭神
【本殿】素盞嗚命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇
【東殿】天武天皇、崇道尽敬皇帝(舎人親王)
【西殿】崇道天皇(早良親王)、伊予親王、井上内親王

いやっ!!びっくりアセアセ

これは覚えられないチュー

しかし、歴史を学ぶとなんとなく頭には入ってきたチュー

駆馬や菖蒲=勝負の連想、武神が多く祀られていること、また明治時代から第二次世界大戦終了まで周辺が軍用地であったことから、馬馬と武運の神社神社
として信仰を集めた。


また舎人親王を祀ることから学問鉛筆、特に受験での勝運をもたらす神社神社とされる。


参拝お願いした時は、やや頭が混乱していたがようやく【藤森神社神社】について整理すると、少〜し理解が深まったような気がしてきたチュー

 
【神鎧像】

【藤森神社神社】の氏子の居住範囲は神社周辺から鴨川の東側を北へ【伏見稲荷大社神社】周辺(深草郷)、【東福寺】周辺(東福寺上ノ郷)を含みJR琵琶湖線近くまで広がっている。このため【伏見稲荷大社神社】の氏子が多く居住するのは本体の【稲荷社神社】の周辺ではなく鴨川より西の京都駅の南北の区域となっており、これらの事から「もともと【藤森神社神社】」があった土地に後から伏見稲荷が来た」という内容の説が多数残っており、『神幸祭祭』では神輿が伏見稲荷境内まで巡幸するというびっくり


【不二の水】


【手水鉢台石の由来】
おっ!!びっくりアセアセ
石川五右衛門が持ち帰ってきたとなびっくり
【水無瀬神宮神社】でも石川五右衛門の名前が出てきたなあ。


【伏見稲荷大社神社】は、麓の本殿は室町時代以降に稲荷山の神様を遷座した。もともとあった【藤森神社神社】がこちらに遷座された。【伏見稲荷大社神社】は、稲荷山(お山めぐり)をしないと真の参拝お願いにはならない。

近くのエリアを歩くランニング事で、また違う角度で真相に近づく事が出来る口笛


社務所にて御朱印を頂きました。
もちろん初となるお祝い

社務所では、若い女性の姿がたくさんびっくりアセアセ
その理由は次回にウインクナイフ

『伏見満喫ウォーク』ランニングランニングランニングアセアセシリーズはまだまだ………


続く………。