さてさて…………………


【嵯峨天皇陵】から徒歩10分程で、次の目的地が近づいてきた………………ランニングアセアセダッシュ


道中には、こんな無人野菜販売機にんじんきのこさくらんぼがありました上差しカメラ


見通しが良く目、気持ち良くてくてくと歩いて…………ランニングアセアセダッシュ


雰囲気あるなあおねがい


到着したのは………………ランニングアセアセダッシュ


【後宇多天皇 蓮華峯寺陵】
京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町


天気の良さ太陽ももちろんあるが、とても清々しい空気に身体が浄化されるウインク


ココロ通算114陵目(124陵分の)の『天皇陵』となるお願い



【後宇多天皇(ごうだてんのう)】
1267年ー1324年
日本日本の第91代天皇。


亀山天皇の第二皇子として誕生するにっこり
母は左大臣洞院実雄の娘、皇后佶子(京極院)。

祖父後嵯峨上皇の意思により、文永5年(1268年)生後8ヶ月で立太子。

文永11年(1274年)1月に亀山天皇から譲位を受けて8歳で践祚。亀山上皇による院政が行われた。


健治元年(1275年)、亀山上皇の血統(大覚寺統)に天皇が続くことを不満に思った後深草上皇(持明院統)が幕府に働きかけ、幕府の斡旋により、後深草上皇の皇子で2歳年上の熈仁親王(伏見天皇)を皇太子とする。

弘安9年(1286年)に第一皇子の邦治(後二条天皇)が親王宣下を受けるが、公安10年(1287年)、21歳で皇太子熈仁親王(伏見天皇)に譲位した。

以後、持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)による皇位の争奪に対し、調停策として出された幕府の両統迭立案に基づく皇統の分裂が続く。


後宇多天皇は、中世日本最高の賢帝のひとりと言われ、対立する持明院統の花園天皇からも『未代の英主』と称えられた。

第一次院政期には訴訟制度改革に取り組み、大きな業績を残した。

しかし、晩年は真言宗の修業への傾倒が過剰で政治を疎かにしたとも言われ、花園天皇は「晩年を汚したムキー」と批判する。一方、あえて政治の場を離れたのは、子の後醍醐天皇に親政をさせて天皇としての威信と経験を積ませ、大覚寺統体制を盤石にするための、意図的な判断だったとする説もある。


本郷和人は、後醍醐天皇の討幕の企てをやめさせるために、院政をやめたとしている。

いずれにせよ、賛否両論の晩年を入れても総合評価として英主という評は不動であり、その政治改革は後醍醐天皇の建武政権を通して室町幕府の政策にも影響を与えている。


元通る4年(1324年)6月25日、大覚寺御所にて崩御えーんアセアセ

宝算58。


後宇多天皇は、大覚寺殿にて崩御したその3日後に蓮華峰寺の傍山に葬られたというえーんアセアセ

宮内庁上の形式は方形堂・石造五輪塔。


大覚寺統(南朝)の天皇陵。

なんだか、空気が清々しく感じた理由が理解出来たような気がしたウインク

ココロは、次の目的地を目指して再びてくてくと歩き始めた………………ランニングアセアセダッシュ



続く…………………。