2024年4月19日
まだ4月の話です
残り少なくなってきた京都生活(職場)
ココロは、ひとり「京都駅」に降り立ち「嵐山・大覚寺」方面へと向かうバスに乗り込んだ…………
下車したのは【大覚寺】のバス停…………
最初の目的地は、約2年前にNさん、Fさんと目指したが、迷子になり到着出来なかった場所だ
今回は、調べていたので、すんなり参道入口まで到着ーーーーーっ
ちょっと字が見えにくいな
目指すは【嵯峨天皇陵】だ
「京都にいる間に、可能な限り京都にある「天皇陵」を訪ねておきたい」
これが今回のテーマだ
『晴れ男』の名に相応しい天気にも恵まれ、ココロの通算25回目の「ひとり京都勉強会」……略して『京勉会』シリーズの始まり始まり〜〜〜〜っ
はい
綺麗に整備された参道の石段を昇って行きます
ちょっと石段が大変そうやったんで、まだ体力のある午前中、かつひとつ目の目的地に設定したわけだ
ハアハア…………
ハアハア…………
このつづら折りの昇りの石段がしばらく続く…………
ハアハア……………
ハアハア……………
ちょっとしんどくなってきたけど、こうして昇ってくれば、必ずご褒美がある
おおーーーーーーっ
良い眺望だ
手前に見えるのが、【大覚寺】の「大沢池」と思われる
さらに標高が上がり……………
ハアハア……………
ハアハア……………
おおーーーーーーーーーっ
【拝所】が見えてきたぞーーーーっ
んっ
参拝されている女性の姿が見える
非常に珍しい(ココロにとってです)光景だ
ようやく到着したのは、ココロ通算113陵目(124陵分の)の『天皇陵』となる………………
786年ー842年
日本の第52代天皇。
母は皇后の藤原乙牟漏。異母弟に淳和天皇他。
皇后は橘嘉智子(壇林皇后)。
延暦18年(799年)2月に元服。
聡明で読書を好み、君主としての器量を持ち、父の桓武天皇からも愛されたという。
大同4年(809年)4月1日、平城天皇の譲位を受け即位。
平城天皇の子で甥にあたる高岳親王を皇太子とした。
弘仁元年(810年)に平城上皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳親王は廃されるが、今度は異母弟の大伴親王(後の淳和天皇)を皇太子に立てた。
これが「承和の変」の遠因となる。なお、平城上皇はこれ以後も太上天皇の尊号と礼遇を受けている。
以後、約40年間にわたり平穏な治世を送り、宮廷の文化が盛んな時期を過ごす。
弘仁14年(823年)、大伴親王(淳和天皇)に譲位し太上天皇となり、実子の正良親王(後の仁明天皇)を皇太子とした。
承和9年(842年)、崩御。
宝算57。
自ら国葬を拒んだ天皇としても知られている。
皇子皇女が多数おり、財政圧迫を回避すべく皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。
『源氏物語』の光源氏でも知られる河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子である
漢詩・書をよくし、空海・橘逸勢とともに三筆のひとりに数えられる。書作品としては【延暦寺】蔵の「光定戒牒(国宝)」が知られる。
また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている
この日、ひとつ目の「天皇陵」はとても清々しい場所にあった。
ココロは、御廟山を下山し、次なる目的地を目指した…………………