2024年4月19日

まだ4月の話ですチューアセアセ

残り少なくなってきた京都生活(職場)笑い泣きアセアセ


ココロは、ひとり「京都駅電車」に降り立ち「嵐山・大覚寺」方面へと向かうバスバスに乗り込んだ…………ランニングアセアセダッシュ


下車したのは【大覚寺】のバス停…………バスランニングアセアセダッシュ


最初の目的地は、約2年前にNさん、Fさんと目指したが、迷子になり到着出来なかった場所だ笑い泣きアセアセ


今回は、調べていた虫めがねので、すんなり参道入口まで到着ーーーーーっ!!!!ランニングアセアセダッシュ


ちょっと字が見えにくいな上差しカメラ笑い泣きアセアセ

目指すは【嵯峨天皇陵】だ!!!!

「京都にいる間に、可能な限り京都にある「天皇陵」を訪ねておきたい上差し

これが今回のテーマだ!!!!

『晴れ男太陽』の名に相応しい天気にも恵まれ、ココロの通算25回目の「ひとり京都勉強会鉛筆」……略して『京勉会鉛筆』シリーズの始まり始まり〜〜〜〜っ!!!!電車バスランニングアセアセダッシュ


はい!!!!

綺麗に整備された参道の石段を昇って行きます上差しカメラランニングアセアセダッシュ


ちょっと石段が大変そう笑い泣きアセアセやったんで、まだ体力のある午前中、かつひとつ目の目的地に設定したわけだ上差しウインク


ハアハア…………アセアセアセアセ

ハアハア…………アセアセアセアセ


このつづら折りの昇りの石段上差しカメラがしばらく続く…………ランニングアセアセダッシュ


ハアハア……………アセアセアセアセ

ハアハア……………アセアセアセアセ

ちょっとしんどくなってきたチューアセアセけど、こうして昇ってくれば、必ずご褒美がある上差しウインク


おおーーーーーーっ!!!!


良い眺望だ!!!!上差しカメララブ



手前に見える上差しカメラ目のが、【大覚寺】の「大沢池」と思われるチュー


さらに標高が上がり……………ランニングアセアセダッシュ

ハアハア……………アセアセアセアセ



ハアハア……………アセアセアセアセ



おおーーーーーーーーーっ!!!!

【拝所】が見えてきたぞーーーーっ!!!!

んっ!?!?目


参拝お願いされている女性ニコニコの姿が見えるびっくりアセアセ

非常に珍しい(ココロにとってですチュー)光景だびっくり


ようやく到着したのは、ココロ通算113陵目(124陵分の)の『天皇陵』となる………………ランニングアセアセダッシュ


【嵯峨天皇 嵯峨山上陵】
京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町

宮内庁上の形式は円丘。

場所は【大覚寺】の西北、嵯峨野の北にある御廟山の山頂に位置する。


【嵯峨天皇(さがてんのう)】
786年ー842年
日本日本の第52代天皇。


桓武天皇の第五皇子(諸説あり)。

母は皇后の藤原乙牟漏。異母弟に淳和天皇他。
皇后は橘嘉智子(壇林皇后)


延暦18年(799年)2月に元服。

聡明で読書を好み、君主としての器量を持ち、父の桓武天皇からも愛されたという。


大同4年(809年)4月1日、平城天皇の譲位を受け即位。

平城天皇の子で甥にあたる高岳親王を皇太子とした。


弘仁元年(810年)に平城上皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳親王は廃されるが、今度は異母弟の大伴親王(後の淳和天皇)を皇太子に立てた。

これが「承和の変」の遠因となる。なお、平城上皇はこれ以後も太上天皇の尊号と礼遇を受けている。

以後、約40年間にわたり平穏な治世を送り、宮廷の文化が盛んな時期を過ごす。


弘仁14年(823年)、大伴親王(淳和天皇)に譲位し太上天皇となり、実子の正良親王(後の仁明天皇)を皇太子とした。



承和9年(842年)、崩御。
宝算57。

自ら国葬を拒んだ天皇としても知られている。

皇子皇女が多数おり、財政圧迫を回避すべく皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。

源氏物語鉛筆』の光源氏でも知られる河原左大臣源融嵯峨天皇の皇子である上差しびっくり


漢詩・書をよくし、空海橘逸勢とともに三筆のひとりに数えられる。書作品としては【延暦寺】蔵の「光定戒牒(国宝)」が知られる。

また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっているチューリップ

この日、ひとつ目の「天皇陵」はとても清々しい場所にあった。

ココロは、御廟山を下山し、次なる目的地を目指した…………………ランニングアセアセダッシュ



続く…………………。